人は平等ではない

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人の世は、とかく不平等です。

容姿、性別、家柄等人は生まれながらにして不平等です。人はみんな平等だという人がいたら、その人は現実を見ない空想家か嘘つきです。発展途上国のストリートチルドレンと、先進国の富裕層を比較するまでもなく、人は理不尽なほど不平等なのです。念のため申し上げますが、生まれながらに不平等だからと言って、現代の日本において法的にも倫理的にも差別は許容されません。

平等には、機会平等と結果平等があります。

機会平等とは、人生において成功する機会は平等に与えるが、その結果として不平等が生じることはやむを得ないという考え方です。例えば、教育の機会は平等に与えるがその結果、人生において失敗しようが成功しようが機会は平等に与えたのだから、本人の能力や努力に帰する問題であるという考え方です。当然、失敗や落伍する人は出ますが、社会全体は活性化しますが社会は不安定化します。

結果平等とは、どんなに本人が努力をしようが、結果はみんな同じにするという考え方です。共産主義や社会主義のような考え方であり、結果平等は“皆等しく貧しくなる”という考え方につながります。本人の努力が成功につながらないなら、努力に意味はないですから、みな怠け者になり、社会全体が停滞しますが安定感は出ます。

現代日本はどうでしょうか。

戦後日本では機会平等を建前としてきました。結果として高い識字率や教育水準、企業への忠誠心が日本社会を支え、今日の繁栄を生み出しました。しかし、バブル崩壊後の経済衰退や、企業の人件費カットにより、正社員や派遣社員、パートなど雇用形態が違うだけで給与が違う“身分制”が経済格差を生み出し、社会を不安定化させています。教育を満足に受けられない人や、採用状況により企業に就職すらままならない人も増加しました。機会平等は、形骸化しつつあると言えます。

建前上は資本主義社会ですから、結果平等ではありません。しかし、第二次世界大戦前からバブル期あたりまでは、大企業や公務員のような“エリート”は年功序列や終身雇用といった結果平等的な要素がありました。“一億総中流”と呼ばれた中堅層の厚さが日本の強みでした。

機会平等を標榜しつつ、相矛盾するかに見える、結果平等もうまく取り入れるという巧みな構造が日本社会の強みだったのです。しかし、経済環境の変化によりこうした繊細な構造は破壊されたのです。

これまでは、日本で真面目に働けばある程度の経済的成功が約束されていましたが、もはやそれは夢物語になろうとしています。貧しい人はより貧しく、富める人はますます富めるようになっています。落伍者は落伍者のまま、失敗者は失敗者のままです。そんな閉鎖的社会に日本は成り果てました。

人間は生まれる場所も家庭も選ぶことはできません。恵まれない境遇の家に生まれた人と恵まれない家に生まれた人は、スタートラインが違うのです。では、スタートラインが違うからと言って、最初から人生をあきらめていいものでしょうか。幸い、日本は資本主義社会ですから、お金を持っている人が強いのです。人とは違ってもいいから、正しい手段でお金を稼げばいいのです。

人生の成功者の定義は各人において違いますが、一番わかりやすいものはお金でしょう。

お金は皆に平等です。恵まれた家庭に生まれた人が持つ1万円と恵まれない家庭に生まれた人が持つ1万円とでは、価値が違うということはあり得ません。同じように蓄えることができますし、使うことができます。お金を成功者の基準の一つとして考えることは十分に可能といえます。お金を稼ぐこと、お金について語ることは、これまでの日本では卑しいこととされてきました。しかし、世の中は着実に変わりつつあります。お金がなければ結局何もできないのです。

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