「また氷河期世代の話か」と思ったあなたへ【この世代の怒りと笑いと誇りについて、少しだけ真剣に書く】

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分かっている。またこの話かと思っているだろう。

就職氷河期世代の話は、日本のメディアで繰り返し語られてきた。「かわいそうな世代」「支援が必要な世代」「政策の被害者」——これらのフレームで語られるたびに、当事者の私は複雑な気持ちになる。同情されることへの抵抗感と、でも実際に苦労してきたという事実の間で。

この記事は、就職氷河期世代について「外側から分析した記事」ではない。内側から書く。1974年生まれ、就職氷河期世代のど真ん中。就職活動で何十社も落ち続け・非正規で働き続け・今も老後資金の計算をしながら副業を模索している、その当事者として書く。

感情的にならないよう努力する。でも少しは感情的になるかもしれない。それも含めてリアルだ。

まず「氷河期世代」という言葉を問い直す

「就職氷河期世代」という呼称自体に、実は少しひっかかりがある。

「氷河期」とは、寒くて何も生きられない時代という意味だ。でも私たちは生きていた。寒い中で凍えながらも、何とかして生きていた。「氷河期」という言葉は、その時代の過酷さを象徴してはいるが、同時に「その時代を生き延びた人々の逞しさ」を消去している側面がある。

サバイバーバイアスという言葉がある。生き残った人だけが語るため、生き残れた理由が過大評価されるという認知のゆがみだ。就職氷河期世代にもサバイバーバイアスはある。今こうして語れる私は「生き残れた側」だ。そうでない人——非正規雇用が続いて精神的に追い詰められた人・孤立して誰にも声が届かなかった人——その人たちの声は、この記事には現れない。

だから「就職氷河期世代とはどういう世代か」を語る時、私は常に「これは生き残れた人間の視点だ」という注釈を自分に対してつけておく必要がある。

怒りについて:正当な怒りを怒りとして認める

正直に書く。怒っている。

バブルが崩壊して、企業が一斉に採用を絞った。それが「たまたまその時期に就職活動をした世代」を直撃した。誰かの意図ではなかったかもしれない。でも結果として、特定の世代が不利な状況に放り込まれた。そして長い間、その世代への体系的な支援は薄かった。

「自己責任論」という言葉が嫌いだ。いや、正確に言えば、状況の構造的な問題を「個人の努力不足」に帰着させる時に使われる「自己責任論」が嫌いだ。就職できなかったのは頑張りが足りなかったからだ・非正規になったのは選択が悪かったからだ——これらの言説は、一面では真実を含みながら、より大きな構造的な問題を隠している。

怒りを持ち続けることのコストは高い。エネルギーを消耗する・前に進む力が削がれる・精神的に消耗する。だから多くの氷河期世代が怒りを手放して・または内側に溜め込んできた。でも怒りを持つことの「正当性」は、手放すこととは別の問題だ。正当な怒りを「なかったこと」にするのは、自分への不誠実だと思っている。

だから私は時々、怒る。静かに、だが確かに。

笑いについて:この世代のユーモアセンスはどこから来るか

就職氷河期世代には独特のユーモアセンスがあると、私は思っている。

「就活で100社落ちた話」を笑い話として語れる・「非正規10年間」をネタにできる・老後資金の不足を「まあ、そのうちどうにかなるだろう(ならないかもしれないが)」と言えるユーモア——これらは苦労なしには生まれない種類の笑いだ。

笑いには種類がある。知識や技巧から生まれる笑い・観察から生まれる笑い・そして「苦しい経験を自分で距離を置いて見ることができるようになった時」に生まれる笑い。就職氷河期世代のユーモアの多くは最後の種類だと私は感じている。

「自虐」という言葉で片付けてしまうのは違う。自虐は「自分を傷つける笑い」だが、氷河期世代のユーモアは「経験を咀嚼して・消化して・それを他者と共有できる形にする笑い」だ。傷を見せるのではなく、傷から学んだ知恵を笑いに変える。

このサイトのタイトルが「ニートのサバイバル」というのも、その精神の表れだと思っている。「かわいそうな就職氷河期世代」ではなく「サバイバーとしての就職氷河期世代」。笑いながら、しかし確かに前に進む。

誇りについて:誇れるものが何もない、は本当か

「就職氷河期世代に誇りなんてない」と思っている人がいるかもしれない。この世代に属する本人も含めて。

反論したい。

まず、「不利な状況を生き延びたこと」そのものが誇れることだ。何も大げさに言っているのではなく、文字通りの意味で。精神的に追い詰められるような状況を・経済的に困窮しながら・それでも今日まで生き続けてきた。これは、「誇り」と呼んでいい。

次に、「少ない資源で工夫して生きる技術」を持っていることが誇れる。バブルを享受した世代のように「あればあるだけ使う」ではなく・「なければないなりに豊かに生きる」技術を、この世代は身につけている。節約・DIY・最低限での満足・「お金より時間・時間より経験・経験より関係性」という価値観の組み換え——これらはこれからの社会において、非常に重要なスキルだ。

そして「問いを立てる力」がある。「普通の人生とは何か」「正社員であることの価値とは何か」「結婚しないことは不幸なのか」——就職氷河期世代はこれらの「社会の前提」を、その社会から弾かれることによって、否応なく問い直してきた世代だ。問いを立てる力は、答えを持っているふりをする力より、長い目で見て価値がある。

「また氷河期世代の話か」という声に対して

他の世代から「また氷河期世代の話か」という疲労感が聞こえることがある。分かる。聞かされる側は疲れるだろう。

でもこう考えてほしい。就職氷河期世代が「また」自分たちの話をせざるを得ないのは、この話が「まだ終わっていないから」だ。就職難は終わった。でもその影響——非正規雇用・少ない年金・遅れた老後準備・形成できなかったキャリア——これらはまだ現在進行形だ。

「かわいそうな話」として聞いてほしいのではない。「これが日本社会の構造的な問題の記録だ」として聞いてほしい。同じことが再び起きないための、生きた証言として。

そして——これは少し大げさに聞こえるかもしれないが——就職氷河期世代が「普通の人生」から弾かれながらも生き続けた記録は、「普通の人生」というものを再定義するヒントになりえる。正社員でなくても・結婚していなくても・老後資金が十分でなくても・人生は続けられる。それを身をもって示しているのがこの世代だ。

最後に:この世代の話を「面白い」と思ってほしい

かわいそうだと思わなくていい。すごいとも思わなくていい。ただ、「面白い」と思ってほしい。

バブルを経験せずに・高度成長期の恩恵も受けずに・それでも生きてきた人間の話は、面白い。普通でない人生を歩んだ人間が「じゃあ普通ってなんだ」と問い続けた記録は、面白い。怒りと笑いと誇りを全部持ちながら生きている人間の話は、面白い。

少なくとも私は、自分の人生を面白いと思っている。苦労が多かったという事実は変わらないが、つまらなかったということはない。

就職氷河期世代の話はまだ続く。なぜなら私たちはまだ生きているからだ。

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