私には肩書きがない。
「肩書き」とは、「〇〇会社の〇〇部の〇〇」という職業的な肩書きではなく、「人として何者か」という意味での肩書きだ。「子どもを育てた親」「この街に長く住む地域の人」「この業界でこれだけの実績を持つ人」——人は様々な「肩書き」によって社会に位置づけられる。
50代になった今、私の「肩書き」は何か、と問われると答えに詰まる。親でも・地域の有力者でも・この業界の第一人者でも・特別な趣味の達人でもない。「就職氷河期世代として生きてきた」という経歴はあるが、それが「肩書き」になるかどうかは分からない。
「何者でもない」という状態について、今日は書いてみる。
「何者かでなければならない」という圧力の来歴
「何者かでなければならない」という感覚は、いつから来ているのか。
子どもの頃は「大きくなったら何になりたいか」と聞かれた。大人になっても「お仕事は何をされていますか」と聞かれ続けた。SNSが普及してからは「自分を何者として発信するか」が問われるようになった。「私は〇〇です」という定義なしに、現代社会で存在することは難しい。
就職氷河期世代として「正社員」という肩書きを持てなかった期間が長かった。その期間、「何をしているんですか」という質問に対して「アルバイトです」「派遣です」と答えることへの、微細な羞恥心があった。羞恥心というのは言い過ぎかもしれないが、「肩書きがない状態への説明の難しさ」は確かにあった。
50代で「何者でもない」ことの実際
50代で「何者でもない」状態の実際を書く。
まず、日常生活では特に困らない。仕事・食事・読書・散歩——これらは「何者かであること」とは独立して行える。「私は〇〇です」という肩書きがなくても、今日という一日は同じように過ぎていく。
困るのは「社会的な場面」だ。初対面の人との会話・名刺交換・自己紹介を求められる場面——これらで「この人は何者か」という情報が求められる。この時に「明確な肩書き」がないことは、コミュニケーションのショートカットを使えない状態に似ている。「〇〇会社の〇〇部長です」という肩書きは、その人の過去の実績・立場・影響力を瞬時に伝えるラベルとして機能する。そのラベルがないと、一から説明が必要になる。
これを「不利だ」と感じるか「ラベルに縛られなくて良い」と感じるかは、その場面と相手による。
「何者かになりたかった」という感情との向き合い
正直に言うと、「何者かになりたかった」という感情を持っていた時期が長かった。
30代後半まで、自分が「何者でもないこと」への不満のようなものがあった。「もっとキャリアを積んでいれば」「もし就職できていたら」——これらの「もし」を考える時間は、20代・30代に相当あった。
「何者かになれなかった」という感覚は、就職氷河期世代という文脈で生まれた部分がある。就職という「社会参加の入り口」から弾かれたことで、「社会的な何者か」になる機会が遅れた。その遅れが「肩書き」の蓄積を遅らせた。
でも40代になって、「何者かになりたかった」という感情が薄れてきた。理由は一つではないが、「肩書きなしに過ごしてきた経験」が積み上がることで、「肩書きなしでも生活できる」という実証が完成してきたからだと思う。
「何者でもない」から「自分である」へ
「何者でもない」という状態の代わりに、「自分であること」という状態があると、最近思うようになった。
「自分である」とは何か。就職氷河期世代として生きてきた経験・本を読むことが好きなこと・長く歩くことが好きなこと・静かな環境で考えることが好きなこと・人の話を聞くことが好きなこと——これらを持っている「自分」は確実に存在する。
これらは「肩書き」ではない。でも「自分を構成するもの」ではある。「〇〇会社の部長」という肩書きが変わっても消えない部分。「自分」という固有名詞が指示する対象の実質的な内容。
「何者でもない中年」というタイトルでこの文章を書いたが、正確には「肩書きのない中年」だ。肩書きはない。でも自分はある。この違いが、50歳になって少しずつ分かるようになってきた。
「何者でもない」まま老いることへの覚悟
「何者でもない」まま老いていく可能性が高い。
今から劇的に「〇〇として有名な人」になることは、確率として低い。このまま「特定の肩書きを持たない、ある一人の人間」として老いていくことの方が、現実的なシナリオだ。
これを「失敗」と呼ぶかどうかは、「成功」の定義による。「肩書きを持つことが成功だ」という定義をとれば、失敗かもしれない。でも「自分が大切にすることを大切にしながら生きること」を成功の定義とすれば、話は変わる。
就職氷河期世代として「標準的な成功の物語」から外れながら生きてきた。その経験が、「成功の定義を問い直す機会」を何度も作ってきた。50歳での結論は「成功の定義は自分で決める」というありきたりに聞こえる言葉だが、これを「経験として知っていること」と「言葉として知っていること」の間には、相当の距離がある。私は経験として知っているつもりだ。
「何者でもない中年の覚書」を書き終えて気づいた。「何者でもない」と書きながら、「就職氷河期世代として生きてきた人間」という肩書きに、結局、戻ってきている。これが私の肩書きなのかもしれない。望んで得たものではないが、確かに私のものだ。
