友達がいない50代の話をしよう【就職氷河期世代の人間関係リセット・ゼロから作り直しの全記録】

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告白する。友達がいない。

「いない」というのは語弊があるかもしれない。正確には「連絡を取り合っている友人が、片手で足りるほどしかいない」だ。しかもそのうち定期的に会うのは2人。残りは年賀状か、LINEで年に1〜2度の近況報告程度。

50代でこの状況をどう感じるか。恥ずかしいか。孤独か。寂しいか。

答えは「時々、少し、そう感じる」だ。でも常時ではない。これについて書こうと思う。就職氷河期世代として、友人関係がどのように形成されて・なぜ薄くなって・今どういう状態にあるかを。同じ状況の人に「そうそう」と思ってほしいし、違う状況の人に「そういう50代もいるのか」と知ってほしい。

なぜ友達がいなくなったのか:氷河期世代の人間関係史

最初から少なかったわけではない。振り返ると、友人関係の「蒸発」が起きたのはいくつかの段階でだった。

第一の蒸発:就職時。大学を卒業した年、同期の多くが「新卒」として企業に入っていった。社会に接続されていく彼らと、「就職浪人」「フリーター」として留まった私の間に、最初の分岐が生まれた。話題が合わなくなる・生活リズムが違う・経済的な格差が広がる——これらが少しずつ関係を薄くした。

第二の蒸発:30代前半。同年代の友人たちが結婚・出産していく時期。「飲み会に誘っても子どもがいるから来られない」「話題が育児中心になっていく」——これは誰かの悪意ではなく、単に人生のフェーズが分岐した結果だ。でも独身・非正規の自分は、そのフェーズについていけなかった。

第三の蒸発:40代。仕事の変化・引っ越し・コロナ禍——これらが重なって、「ただ会っていた人」との関係が自然消滅した。コロナの3年間は特に決定的だった。「会わないでも生活できる」という実証実験が、薄くなっていた関係を完全に切った。

この3回の蒸発を経た50代の今、手元に残った友人関係は「少ないが、確かなもの」だけになっている。

「友達が少ない」ことの実際の不便さ

友人が少ないことで実際に困ることは何か、正直に書く。

病気になった時に心配してくれる人が少ない。これは具体的に困る。数年前に入院した時、「見舞いに来る人がいない」という状況が、思ったよりも精神的にきつかった。別に来てほしかったわけではないが、「誰も来ない」という事実が、自分の社会的なつながりの薄さを可視化した。

相談相手が少ない。悩んだ時・迷った時・誰かに話を聞いてほしい時、電話できる人間の数が少ない。ネットで調べれば情報は得られるが、「私の状況を知った上で話を聞いてくれる人」は情報とは違う何かを提供してくれる。その「何か」が少ない。

一方で、友人が少ないことで助かることもある。気を遣う必要がある相手が少ない・断らなければならない誘いが少ない・「あの人どうしてるかな」という漠然とした心配が少ない。これは負け惜しみではなく、本当にそう感じている。

「友達を作れ」という圧力への違和感

孤独についての議論の中で必ず出てくる言説がある。「友達を作ることが大切だ」「コミュニティに参加しよう」「趣味のサークルに入ろう」——これらだ。

これらの言説に対して、私は複雑な気持ちを持っている。

まず、「友達を作れ」は解決策ではなくて課題の言い換えだ。「友達がいない」から「友達を作れ」と言うのは、「お金がない」に対して「お金を稼げ」と言うのと同じ構造で、問題を何も解決していない。どうやって作るか・なぜ今まで作れなかったか・作れない状況に何があるか——これらを無視した「友達を作れ」は、ただの圧力だ。

次に、「友達の数」が「社会的成功の指標」であるかのような前提への違和感がある。友達が10人いる人と2人いる人を比べて、前者の方が豊かな人生を送っているとは限らない。関係の量より質が重要だという話は使い古されているが、だからといって間違ってはいない。

就職氷河期世代として長年、社会の「標準」から外れながら生きてきた経験がある。「友達の数が少ない」ことも、社会の「標準」からの逸脱として見られやすい。でも標準から外れることへの耐性は、この世代に蓄積されている。

50代からの人間関係:新しく作れるのか

「50代から友達を作ることはできるか」という問いに、正直に答えたい。

できる。ただし、20代・30代とは全く違う形でしか、できない。

20代の友人関係は「共に時間を過ごすことで自然に生まれた」ものが多い。毎日同じ教室にいる・同じ職場で働いている——この「強制的な接触」が友情の土台になった。50代にはこの強制的な接触がない。だから意識的に場を作る必要がある。

私が実際に「新しいつながり」を作ることができた場は、共通の「課題」や「テーマ」を持つ場だった。就職氷河期世代という共通の背景・副業という共通の課題・婚活という共通の状況——これらを起点に、オンラインで・または実際に会って話す機会が生まれた。

「趣味のサークルに入れ」というアドバイスに冷淡だった私だが、「趣味」ではなく「状況の共有」を起点にしたコミュニティなら、自分に合っていた。就職氷河期世代向けのオンラインコミュニティ・副業仲間のSlackグループ——これらは「友達」というより「仲間」に近いが、孤立を防ぐ機能としては有効だった。

孤独との付き合い方:敵ではなく住人として

「孤独は悪だ・解消すべきだ」という前提に、私は完全には同意していない。

孤独には種類がある。「望んでいないのに一人にされている孤独」と「自分が選んで一人でいる孤独」は、同じ「一人」という状態でも全く異なる体験だ。後者は、孤独というより「独居」とでも言うべきもので、創造性・思索・自己との対話の時間として機能する。

就職氷河期世代として長年、一人で問題に向き合ってきた経験が、「一人でいること」への耐性を高めてきた側面がある。「誰かがいないと生きられない」という依存から、「一人でいることもできるが、一人でないことも好きだ」という状態への移行。これは後退ではなく、ある種の成熟だと私は思っている。

ただし、孤独を「美化しすぎること」には危険がある。「一人が好き」という言葉が、「人と関わることへの諦め」の言い換えになっていないかを、時々点検することが必要だ。選択的な孤独と、構造的に強いられた孤独の違いは、自分の内側を正直に見なければ分からない。

「友達がいない50代」がこれからどうするか

結論を言う。友達の数を増やすことを「目標」にはしない。でも「つながりの機会」を閉じることもしない。

具体的には、今の2〜3人の深い関係を大切にする。年に1〜2回は実際に会う・困っている時は連絡する・連絡が来たら返す——これだけのことを、確実にやる。これだけでも、ゼロとは全く違う。

新しいつながりについては「作ろうとする」ではなく「開いていること」を心がける。副業で出会う人・ブログの読者・このサイトのコメント欄——どこに「仲間」がいるか分からない。扉を閉めないことが、50代からの人間関係の出発点だと思っている。

そして、このサイトで「就職氷河期世代の話」を書き続けることは、ある意味で「つながりを作る行為」だ。同じ世代・同じ状況の人が読んで「そうそう」と思う瞬間に、画面を介したつながりが生まれる。友達と呼べるかは分からない。でも孤立と呼べるほど孤立してもいない。

友達がいない50代の話は、悲しい話ではない。少なくとも私の場合は。人間関係を量で測ることをやめて・質を選んで・自分のペースで生きることを選んだ結果として、今ここにいる。それを「貧しい人生だ」とは思っていない。

ただ、時々、少し、寂しい。それも含めて正直に書いた。

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