同窓会に行くのをやめた理由

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最後の同窓会

最後に同窓会に行ったのは、40歳のときだ。それ以降、案内が来ても断っている。「仕事が入ってしまって」と嘘をつく。本当は仕事なんて入っていない。入っているのは、行きたくないという感情だけだ。

40歳の同窓会。大学の同期が20人ほど集まった。会場は都内のイタリアンレストラン。会費8000円。この8000円の重さは前にも書いた。一晩悩んで、結局行くことにした。「久しぶりに友達に会えるかもしれない」という期待が、8000円の重さに勝った。

結論から言えば、行かなければよかった。

行かなければよかった理由は複数あるが、まとめると「自分の現在地を突きつけられる場所」だったからだ。同窓会とは、過去の自分と現在の自分を、他者の視線を通して比較される場所だ。その比較結果が好ましいものであれば楽しいが、好ましくなければ拷問になる。

近況報告という名の序列確認

同窓会の定番プログラムが「近況報告」だ。一人ひとりが順番に、今何をしているかを話す。

「大手メーカーで部長をやっています」「独立してコンサルの会社を始めました」「子どもが二人いて、上の子が中学受験で」「去年マンションを買いまして」——華やかな近況が次々と披露される。

私の番が来る。「今は派遣で事務の仕事をしています」。

この一言のあとの空気の変化については、別のエッセイで詳しく書いた。ここでは省略する。ただ、あの空気の変化を、20人の前で経験するのは、一対一のときの20倍きつい。衆人環視の中での値踏み。

近況報告は、表面上は「お互いの今を知る」ための時間だが、実態は「社会的序列の確認」だ。誰が出世したか、誰が稼いでいるか、誰が家庭を持っているか。これらの情報が交換されることで、同期の中での序列が暗黙のうちに形成される。序列の上位にいる人間にとっては楽しいイベントだが、下位にいる人間にとっては苦行だ。

会話に入れない

近況報告が終わると、自由な歓談の時間になる。テーブルごとに小グループができ、話が弾む。

だが、話に入れない。入れない理由は明確だ。話題が合わないのだ。

子育ての話。「うちの子がさ」で始まる会話に、子どもがいない人間は参加できない。「わかる」と言えない。マンション購入の話。「ローンの金利が」「管理費が」という話題に、賃貸暮らしの人間は何も言えない。車の話。持っていない。海外旅行の話。行ったことがない。投資の話。始めたばかりで、人に語れる体験がない。

同窓会の会話は、「持っている人」のための会話だ。持ち家、配偶者、子ども、車、海外旅行、投資経験。これらの「持ち物」が会話の共通基盤になっている。何も持っていない人間は、共通基盤がない。基盤がないから会話に乗れない。乗れないから端っこで一人グラスを傾けることになる。

端っこで一人飲んでいると、気を遣った旧友が話しかけてくる。「最近どう?」。この質問への回答は準備済みだ。「ぼちぼちだよ」。「ぼちぼち」は便利な言葉だ。何も言っていないのに何か言った気になれる。相手も深入りしない。「そっか、まあお互い頑張ろう」と言って去っていく。その「お互い」に、本当の共通点はない。

「変わらないね」の意味

同窓会で必ず言われるフレーズがある。「○○、変わらないね」。

見た目の話なのか、中身の話なのかは曖昧だ。おそらく見た目だろう。20年ぶりに会って、見た目がそこまで変わっていなければ「変わらないね」と言う。社交辞令だ。

だが「変わらないね」を聞くたびに、複雑な気持ちになる。変わらない。確かに変わらない。20年前と同じように、正社員ではない。20年前と同じように、経済的に不安定だ。20年前と同じように、将来が見えない。

見た目は変わらなくても、中身は消耗している。20年分の消耗は、外からは見えない。顔は同じでも、心は擦り減っている。「変わらないね」は、もし私の内面が見えていたら、絶対に出てこない言葉だ。

二次会への誘い

一次会が終わると、二次会の話になる。「もう一軒行こうよ」。

二次会の予算は追加で3000円から5000円。一次会の8000円と合わせると、一晩で1万円超え。月の交際費の上限を、一晩で突破する。

「今日はちょっと早めに帰るよ」と言って辞退する。「えー、せっかくだから行こうよ」と引き止められるが、笑って断る。引き止める側に悪意はない。むしろ好意だ。だが好意で誘われても、財布の中身は変わらない。

二次会に行かないと、そこで話された内容を知らないまま次の日を迎える。二次会で盛り上がった話題が、後日のグループチャットに上がる。「あのあと盛り上がったよね」。知らない。行っていないから。

同窓会のたびに、「行けなかった場所」が増えていく。一次会には出席しても、二次会に行けない。二次会に行けないと、そこで生まれるつながりから排除される。お金がないことが、人間関係の断絶に直結する。

帰り道の感情

同窓会の帰り道は、いつも感情が荒れる。

楽しかった——とは言えない。苦しかった——というほどでもない。いちばん近い表現は「空虚」だ。何時間もかけて、8000円を払って、得たものは何か。旧友との再会。それは確かにあった。だが再会の喜びよりも、現在地の差を突きつけられた痛みのほうが大きい。

駅のホームで電車を待ちながら考える。なぜ自分はこんな気持ちになっているのか。別に誰にも意地悪をされたわけではない。みんな親切だったし、楽しそうだった。問題は、みんなの「楽しさ」に自分が含まれていなかったことだ。物理的にはそこにいたが、精神的にはどこか別の場所にいた。

この感覚は、教室の隅に座っている生徒の感覚に似ている。みんなが盛り上がっているのは見えるし、聞こえる。だが自分はその輪の中にいない。いないことに、自分だけが気づいている。

この感覚を何度も味わって、やがて「行かない」という選択が最善だと悟った。行って傷つくくらいなら、行かないほうがいい。行かなければ、比較されない。比較されなければ、傷つかない。防衛的な選択だが、合理的だ。

行かなくなってからのこと

同窓会に行かなくなって、何年かが経った。

案内が来ると、「ああ、今年もか」と思う。LINEグループに出欠の連絡が回る。「参加します!」「楽しみ!」という返信の中に、「すみません、仕事で」と打ち込む。

行かなくなった結果、同窓会のグループから緩やかに疎遠になっていった。会話の文脈がわからなくなる。「前回の同窓会で」という話題についていけない。次第にグループチャット自体を見なくなった。通知を切った。通知が来なくなると、そのグループの存在自体を忘れる時間が増えた。

これは「友達が減った」ということなのだろうか。友達だったのだろうか。大学時代は確かに友達だった。だが20年の歳月と、そのあいだに開いた格差が、友達関係の基盤を侵食した。共通の過去はあるが、共通の現在がない。過去だけでつながっている関係は、たまに会えば懐かしいが、頻繁に会うと現在の差異が際立つ。

同窓会に行かなくなったことを後悔しているか。していない。少し寂しいが、後悔はしていない。寂しさと後悔は別物だ。あの場所に行くことで受けるダメージと、行かないことで受ける寂しさを天秤にかけたとき、寂しさのほうが軽い。だから行かない。

同窓会に行ける人と行けない人

同窓会に気軽に行ける人は、「見せられる現在」を持っている人だ。

安定した仕事、配偶者、子ども、持ち家。これらのうちいくつかを持っていれば、近況報告で困らない。「見せられるもの」がある。見せられるものがある人間にとって、同窓会は「成果の発表会」であり、楽しいイベントだ。

「見せられる現在」を持っていない人間にとって、同窓会は「欠落の確認会」だ。持っていないものが、他者との比較によって可視化される。持っていないこと自体は普段の生活では意識しないが、同窓会に行くと嫌でも意識させられる。

だから、同窓会に来ない人間のことを、少しだけ気にかけてほしい。「最近来ないね、忙しいのかな」ではなく、「来られない理由があるのかもしれない」と想像してほしい。来ないのは忙しいからではない。来ると辛いからだ。

もちろん、来ない理由は人それぞれだ。本当に忙しい人もいれば、興味がない人もいるだろう。全員が私と同じ理由ではない。だが、「来ると辛い」人が一定数いることは、同窓会の幹事には知っておいてほしい。知ったからといって何ができるわけでもないが、知っているのと知らないのでは、案内の文面が少し変わるかもしれない。「近況報告は任意です」と一言添えるだけで、参加のハードルはかなり下がる。

いつか行ける日が来るか

同窓会に、いつか行ける日が来るだろうか。

「見せられる現在」を手に入れれば、行けるかもしれない。だが45歳を過ぎて、「見せられる現在」を新たに手に入れるのは容易ではない。正社員になる。結婚する。家を買う。どれも不可能ではないが、確率は低い。

もうひとつの可能性は、「見せられるものがなくても平気になる」ことだ。他人との比較をやめ、自分の現在地をそのまま受け入れられるようになれば、同窓会で傷つくこともなくなるだろう。

この「受け入れ」ができるようになる日が、いつか来るかもしれない。来ないかもしれない。わからない。ただ、今の自分にはまだできない。できないから、今年も「仕事で行けません」と打つ。嘘をつくたびに、少しだけ心が痛む。痛むが、同窓会に行ったときの痛みよりは小さい。小さい痛みを選ぶ。それが今の最善だ。

 

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。同窓会に行くのをやめた人は、きっと少なくないはずです。

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