結婚相談所の入会金を見て帰ってきた日の話
最後の手段
マッチングアプリでマッチングしない。婚活パーティーでマッチングゼロ。友人の紹介を頼める友達がいない。残された手段が一つだけある。結婚相談所だ。
結婚相談所は、婚活のプロが仲介してくれるサービスだ。専任のアドバイザーがつき、相手を紹介してくれる。プロフィールのブラッシュアップ、お見合いのセッティング、デートのアドバイス。手厚いサポートが売りだ。
マッチングアプリや婚活パーティーとの最大の違いは、「相手も本気」であることだ。結婚相談所に入会している人は、それなりの費用を払っている。費用を払っている以上、冷やかしは少ない。本気で結婚したい人が集まっている。本気の人同士なら、マッチングの質が高いはずだ。
そう考えて、結婚相談所の無料カウンセリングに行ってみた。行ってみて、帰ってきた。入会せずに。
理由は一つ。入会金が高すぎた。
無料カウンセリングの日
平日の午後、有給を使って結婚相談所を訪ねた。駅前のビルのテナント。ドアを開けると、清潔感のあるオフィスが広がっている。受付の女性に名前を告げると、個室に通された。
しばらく待つと、カウンセラーが来た。40代くらいの女性。にこやかな笑顔。「本日はお忙しい中ありがとうございます。まずはお気軽にお話をお聞かせください」。
お気軽に。この「お気軽に」が、後々重くなることを、このときはまだ知らなかった。
現状を話した。45歳、独身、派遣社員、年収300万円弱。カウンセラーはメモを取りながら聞いている。表情は変わらない。プロだ。FPのときのような沈黙はなかった。さすが婚活のプロ、どんなスペックの客にも動揺しない。
「○○さんのご希望に合わせたプランをご提案いたしますね」。そう言って、カウンセラーがA4の紙を出した。料金表だ。
料金表を見た瞬間
料金表。そこに並んでいた数字を見て、呼吸が止まった。
入会金:○○万円。月会費:○万円。お見合い料:1回○千円。成婚料:○○万円。
具体的な金額はサービスによって異なるが、私が見た料金表のトータルコストは、入会時点で15万円から20万円程度。月会費を含めると、1年間で30万円から50万円になる計算だった。
30万円。50万円。
私の貯金は50万円だ。結婚相談所に1年間在籍すると、貯金が全部消える。全部消えた上で、結婚できる保証はない。結婚できなかったら、50万円を失って独身のまま。貯金ゼロの独身45歳。今より状況が悪化する。
カウンセラーは料金表の説明を続けている。「こちらのプランですと、月に○人のご紹介が保証されます」「成婚率は○%です」「平均活動期間は○ヶ月です」。数字が次々と出てくるが、頭に入ってこない。頭の中では、別の計算が回っている。
「50万円あれば、NISAを10年分積み立てられる」「50万円あれば、歯の治療を完了させて、健康診断のオプションを受けて、冬物のコートを買って、もやし以外の野菜を毎日食べて、半年は余裕を持って暮らせる」。
50万円の使い道を、結婚相談所と天秤にかけている。天秤は、結婚相談所のほうに傾かなかった。
「ちょっと考えさせてください」
カウンセラーの説明が終わった。「いかがでしょうか? ご入会のお手続きに進みますか?」
「ちょっと考えさせてください」。
この一言を絞り出すのに、数秒かかった。カウンセラーの笑顔が、ほんの少しだけ曇った。「考える」は、多くの場合「断る」の前段階であることを、プロは知っている。
「もちろんです、じっくりご検討ください。いつでもご連絡いただければ対応いたします」。笑顔が戻った。パンフレットと名刺を渡された。「何かご不明な点があれば、お電話でも」。
オフィスを出た。エレベーターに乗った。1階に降りて、ビルの外に出た。冬の空気が顔に当たった。パンフレットを鞄にしまった。
帰り道、電車の中で考えた。50万円。結婚相談所に50万円を投じて、結婚できる確率はどれくらいか。成婚率が仮に20%だとして、50万円×5人に1人=1人あたり250万円。250万円で1人の結婚。高い。ものすごく高い。
いやそうではない。私が50万円を払って、私自身が結婚できるかどうかだ。成婚率20%の中に、私が入れるかどうか。45歳、派遣社員、年収300万円弱。この条件で、結婚相談所の成婚率20%に入れる確率は、平均より低いだろう。平均が20%なら、私は10%以下かもしれない。
50万円を投じて、成功確率10%。期待値は50万円×10%=5万円。5万円分の価値しかない賭けに、50万円を投じる。投資として見れば、最悪の案件だ。
帰ってきた理由の整理
帰ってきた理由を整理する。
理由1。金がない。最も直接的な理由。貯金50万円のうち、30万円から50万円を結婚相談所に使うのは、リスクが高すぎる。失敗した場合、生活防衛資金がゼロになる。生活防衛資金がゼロの状態で、派遣契約が切れたら。考えただけで胃が痛い。
理由2。費用対効果が読めない。結婚できる保証がない。何ヶ月かかるかもわからない。月会費が毎月引き落とされていく中で、成果が出ない月が続いたら、精神的に持たない。マッチングアプリのマッチングゼロの繰り返しとは比較にならない出費が、毎月発生する。出費に見合う成果が出なかったときのダメージは、金額的にも精神的にも、アプリの比ではない。
理由3。結婚相談所でも年齢と年収のフィルターは機能する。プロの仲介があっても、相手が「45歳以上の派遣社員は対象外」と条件を設定していれば、紹介されない。結婚相談所はフィルターをなくすのではなく、フィルターの中でマッチングを最適化するサービスだ。フィルターに引っかかる人間は、結婚相談所でもフィルターに引っかかる。
理由4。50万円の使い道として、他の選択肢のほうが合理的。NISAに回す。健康のための投資に回す。生活防衛資金として確保する。これらのほうが、確実にリターンがある。結婚のリターンは不確実だが、NISAのリターンは長期で見ればほぼ確実にプラスだ。
パンフレットの行方
帰宅後、鞄からパンフレットを取り出した。光沢のある表紙に、幸せそうなカップルの写真。「あなたの人生のパートナーを、見つけませんか」。キャッチコピーが目に入る。
パンフレットをテーブルに置いた。しばらく眺めた。中を開いた。成功事例が載っている。「40代で入会し、3ヶ月で成婚」「50代同士のカップルが誕生」。素敵な話だ。実際に成功した人がいる。いるが、それは「私」ではない。成功した人の話は、私の人生を保証しない。
パンフレットを閉じた。テーブルの端に置いた。翌日も置いたまま。翌週も。1ヶ月後、引き出しにしまった。健康診断のD判定の封筒と同じ引き出しに。引き出しの中には、「向き合えなかったもの」が溜まっていく。
カウンセラーの名刺は、財布に入れたままだ。いつか電話するかもしれない。しないかもしれない。名刺は可能性の残骸だ。捨てれば可能性がゼロになる。捨てないことで、0.1%の可能性を維持する。0.1%は限りなくゼロに近いが、ゼロではない。
結婚相談所に行ける人と行けない人
結婚相談所に入会できる人は、ある程度の経済力がある人だ。入会金と月会費を、生活費とは別に捻出できる人。つまり「余裕がある人」だ。
余裕がある人は、結婚相談所という手厚いサポートを受けられる。余裕がない人は、マッチングアプリやハローワーク的な無料サービスに頼るしかない。
この構造は、転職市場と似ている。転職エージェントは無料だが(企業側が費用を負担する)、結婚相談所は自己負担だ。婚活市場における「プロのサポート」は有料であり、有料サービスを利用できる人とできない人で、出会いの質と量に差がつく。
金がある人はプロのサポートで効率よく出会い、金がない人は自力で非効率に出会いを探す。格差が格差を拡大する構造は、婚活の世界にもある。
50万円の選択
50万円。この金額を結婚相談所に使うか、NISAに使うか。この選択は、「結婚」と「老後」のどちらを優先するか、という人生の根本的な選択だ。
結婚を優先すれば、パートナーを得られるかもしれない。パートナーがいれば、老後の孤独は解消される。二人で支え合いながら生きていける。長期的には、結婚のほうがリターンが大きいかもしれない。
老後を優先すれば、50万円は確実に手元に残る。NISAで運用すれば増える可能性もある。だが一人の老後に備えるだけだ。一人の老後は、金があっても寂しい。金と孤独のトレードオフ。
私は老後を選んだ。選んだというより、結婚に50万円を賭けるリスクを取れなかった。リスクを取れなかったのは、失敗したときの代償が大きすぎるからだ。50万円を失って独身のまま。この最悪のシナリオが、頭から離れなかった。
この選択が正しかったかどうかは、死ぬまでわからない。わからないまま、引き出しの中のパンフレットは色褪せていく。色褪せたパンフレットが、「あのとき行かなかった自分」の記録として残り続ける。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。結婚相談所の費用に驚いた経験がある人は、きっと少なくないはずです。

