最初に言っておくと、盛ってない
「100社落ちた」と言うと、たいてい二種類の反応が返ってくる。
ひとつは「えっ、マジで?」という純粋な驚き。もうひとつは「いやいや、盛ってるでしょ」という疑いの目。どちらの気持ちもわかる。自分だって他人から同じことを言われたら、心の中で「話半分だな」とそっとフィルターをかけるだろう。
だが残念ながら、盛っていない。むしろ正確に数えていたら、もう少し多かったかもしれない。途中から数えるのをやめたのだ。「100」というのは、最後にちゃんと記録していた時点での数字であり、つまりは下限値である。
2001年3月卒。いわゆる「就職氷河期」のど真ん中に大学を出た世代だ。バブルが弾けて10年。山一證券が潰れ、拓銀が消え、日本中が「失われた10年」という言葉をまだ現在進行形で使っていた時代。就職情報誌は分厚かったが、その厚さの半分は「未経験歓迎」のパチンコ店と消費者金融の求人広告だった。
今になって振り返れば、あの時代に社会に放り出されたこと自体がひとつの災害みたいなものだったとわかる。でも渦中にいる人間には、それが災害なのか、自分の実力不足なのか、区別がつかない。むしろ「自分がダメなんだ」と思ったほうが、世界の整合性が保たれて精神的に楽だったりする。不条理を受け入れるよりも、自己否定のほうが構造としてシンプルなのだ。
就活というゲームのルールがわからない
大学3年の秋、周囲がそわそわし始めた。「もうエントリーした?」「自己分析やった?」「OB訪問のアポ取った?」——聞き覚えのない単語が急に飛び交い始めるあの感じは、授業中に寝ていて起きたら全員が別の教科書を開いていたときの焦燥感に似ている。
自己分析。これがまず意味がわからなかった。
「あなたの強みは何ですか?」と聞かれても、22歳の人間に一体どんな「強み」があるというのか。バイト先の居酒屋で、酔客に絡まれても笑顔を保てること? 大学の図書館で一日中座っていられる持久力? そんなものが「強み」として通用するなら、日本中の大学生が全員即戦力である。
しかし就活本を開くと、「あなたの強みを具体的なエピソードとともに語りましょう」と真顔で書いてある。しかたなく、サークルでの経験を掘り起こし、それらしい物語に仕立て上げる。「文化祭の模擬店で売上を前年比120%にしました」——嘘ではないが、前年の売上がたこ焼き62パックだっただけの話だ。分母が小さければ、成長率はいくらでも盛れる。これが自己分析の最初の学びだった。
エントリーシートというものも、最初は律儀に一社一社丁寧に書いていた。「貴社の企業理念に深く共感し」と書くたびに、自分がどんどん空洞化していくのを感じた。共感なんてしていない。その会社の企業理念をエントリーシートを書く10分前に初めて読んだのだから。でも嘘を書かなければ通過しない。通過しなければ面接に呼ばれない。面接に呼ばれなければ就職できない。就職できなければ——その先を考えると、嘘の一つや二つは些細なことに思えた。
20社目あたりから、エントリーシートの「志望動機」欄がコピー&ペーストの作業と化した。「貴社」のところだけ社名を入れ替える。一度、入れ替え忘れて別の会社名のまま提出したことがある。当然落ちた。でも正しい社名で出しても落ちたので、結果は同じだった。
「お祈り」コレクション
不採用通知のことを、就活生は「お祈りメール」と呼ぶ。「今後のご活躍をお祈り申し上げます」で締めくくられるからだ。100社から祈られたということは、私はおそらく日本で最も多くの企業から活躍を祈られた人間の一人である。これだけ祈られれば何かひとつくらいご利益があってもいいものだが、特になかった。
お祈りメールにも格というものがある。
最上位は、手書きの手紙で届くタイプ。「誠に残念ではございますが」と万年筆のインクで書かれたそれは、落とされてもどこか品がある。「わざわざ手書きで落としてくれてありがとう」という不思議な感謝の念が湧く。
中位は、ワープロ打ちの定型文。人事部の名前が印刷されているが、おそらく差出人本人はこの手紙の存在すら認識していない。大量生産の不採用通知。効率的で合理的で、それゆえに何の感情も呼び起こさない。
最下位は、メール一行。「選考の結果、今回は見送らせていただきます」——これだけ。お祈りすらしてくれない。見送るという言葉の素っ気なさよ。駅のホームで電車を見送るように、私という人間は通過していったのだ。
そしてそのさらに下に、最悪のパターンがある。「サイレントお祈り」——つまり、何の連絡も来ない。落ちたことすら通知されない。こちらは合否の連絡を待って日々メールボックスを確認しているのに、先方はもうこちらの存在を忘れている。これは恋愛でいうところの「自然消滅」であり、就活における最も残酷な仕打ちのひとつだ。
40社目あたりで、不採用通知を段ボール箱に入れて保存し始めた。別に記念にしたかったわけではない。ただ、捨てるタイミングがわからなかっただけだ。引っ越しのときにその箱が出てきて、中身を見て少し笑った。不採用通知を100通集めると、なんだか勲章のように見えてくるから不思議だ。
面接という名の演劇
書類選考を通過すると、面接が待っている。
面接室というのは、小さな舞台である。面接官が観客で、就活生が役者。台本は自己PR。だが客席の観客は、最初から「この芝居はつまらないだろう」という顔をしている。
一次面接は集団面接が多かった。5人くらいの学生が横一列に座り、順番に同じ質問に答える。隣の学生が「体育会系サッカー部で主将を務め、チームを全国大会に導きました」と話しているとき、私は「図書館で本を読むのが好きです」という自分の回答の貧弱さに目眩がした。
「あなたを動物に例えると何ですか?」——この質問を初めて受けたとき、本気で「は?」と思った。しかし面接官は至って真剣な顔をしている。「猫です。マイペースに見えて、実は周囲をよく観察しています」と答えた。面接官は無表情でメモを取った。あの人は結局、何をメモしたのだろう。「猫。マイペース。不採用」とでも書いたのだろうか。
圧迫面接というものも経験した。いわゆる「あなたのその性格で、うちでやっていけると思いますか?」系の面接だ。面接官が露骨に不機嫌な顔をして、回答のたびに首を傾げたり、ため息をついたりする。これが「ストレス耐性を見るため」の演出だと就活本には書いてあったが、普通に嫌な気分になった。ストレス耐性を測るために人にストレスを与えるというのは、泳げるかどうかを確認するためにプールに突き落とすようなもので、たとえ合理的であっても品がない。
あるメーカーの最終面接で、役員が開口一番こう言った。「君の大学からうちに入った人、過去にいないんだけど」。これは質問ではなく、事実の通告である。私に何を答えろというのか。「はい、だから私が第一号になりたいと思います」とか、そういう前向きな回答を期待しているのだろうか。期待通りにそう答えた。落ちた。
内定という名の都市伝説
50社を超えたあたりから、「内定」という言葉が現実感を失い始めた。就活情報サイトには「内定をもらった先輩の体験記」が載っていたが、あれはフィクションではないかと疑い始めた。UFOの目撃談と同じカテゴリに分類したくなる衝動を抑えるのに苦労した。
周囲では、ぽつぽつと内定者が出始めていた。ゼミの友人が大手銀行の内定をもらったと報告してきたとき、「おめでとう」と言いながら、心の中では三日間くらい曇天だった。嫉妬、ではなかった。もっと正確に言えば、「ああ、やっぱり自分は何かが決定的に足りないのだ」という確信だった。友人との間に超えられない壁があるとしたら、それは学歴でも能力でもなく、単純に「運」だったのかもしれないが、当時の私にはそう思える余裕がなかった。
内定を持っている人間と持っていない人間の間には、透明な隔壁がある。内定を持っている人間は就活の話を「思い出」として語り始める。「大変だったよね〜」と言いながら、もう次のフェーズ、つまり社会人としての準備に意識が向いている。一方、内定のない人間はまだ戦場にいる。同じキャンパスにいるのに、住んでいる時間が違う。
大学4年の夏。周囲の9割が就活を終えた頃、私はまだリクルートスーツを着て面接に向かっていた。真夏のスーツは拷問だ。汗だくで面接会場に到着し、ハンカチで額を拭いて、涼しい顔で「御社が第一志望です」と言う。すでに30社くらいに「第一志望です」と言ったあとだったが、もはや罪悪感すらなかった。就活の長期化は、人間から倫理観を少しずつ削り取っていく。
100社目の記憶
100社目の不採用通知がどの会社からのものだったか、実は正確には覚えていない。
それ自体が、100社落ちるということの本質を物語っている。最初の数社は、一社一社の結果に一喜一憂した。10社目で少し麻痺し始め、30社目で感覚が鈍くなり、50社目で感情の節約を覚え、80社目でもはや無の境地に近づいた。100社目は、日常の一部だった。朝起きて、歯を磨いて、不採用通知を確認する。ルーティン。
しかし、数に麻痺することと、傷つかなくなることは別だ。一発一発のダメージは小さくなっても、蓄積される。ボディブローのように効いてくる。鏡を見て「こいつは社会に必要とされていない人間だ」と思う瞬間が、一日に何度かあった。それを打ち消すのが日々の作業だった。
親には心配をかけたくなかったから、実際より少ない数を報告していた。「30社くらい受けたけど、まだ決まらなくて」と言っていた頃、実際は70社を超えていた。親は何も言わなかったが、食卓の空気が微妙に変わっていくのは感じていた。夕食時に「そういえば、隣の田中さんの息子さん、銀行に受かったんだって」と母が言ったとき、あれは悪意ではなく単なる世間話だったと思いたい。思いたいが、刺さった。
就職氷河期という災害の特殊性
地震や台風なら、誰もが被災者を「かわいそう」と言ってくれる。自己責任だと責める人は少ない。しかし就職氷河期は違った。「就職できないのは本人の努力不足」「選り好みしなければ仕事はある」「甘えるな」——そういう声が、社会の至るところから聞こえてきた。
就職氷河期の残酷さは、天災のように見た目にわかりやすい破壊がないところにある。街は壊れない。電気も水道も止まらない。スーツを着た若者が、きちんと髪を整えて、面接会場に向かう。見た目は平穏だ。しかしその内側では、何万人という若者の自己肯定感が静かに削られていた。
そして、この災害には「復興」がなかった。被災したまま放置された世代。やがて景気が回復しても、一度新卒のレールから外れた人間を拾い上げるシステムは、日本社会にはほとんど用意されていなかった。「新卒一括採用」という制度は、レールの上にいる人間には効率的だが、一度そこから外れると二度と戻れない片道切符だった。
氷河期世代の多くがその後、非正規雇用やフリーターとして長い時間を過ごすことになった。「就職できなかったのは時代のせいだ」と言えるようになるまでに、何年もかかった。自己責任論は、無意識のうちに自分自身にまで浸透していたからだ。「時代が悪かった」と言うことが、「言い訳」に聞こえてしまう。でも実際、時代は悪かった。あのとき新卒だった人間は、何も悪くなかった。
そして「101社目」
結局、私が就職先を見つけたのは大学4年の秋だった。内定ではなく、正確には「採用」だった。新卒一括採用の枠ではなく、中途採用に近い形で小さな会社に拾ってもらった。
その会社は、社員30人の中小企業だった。業界でいえばニッチも良いところで、親に社名を言っても「何をやっている会社なの?」と聞かれた。就活の最初に思い描いていた「大手企業のオフィスで働く自分」とはかなり違ったが、そこで働き始めたとき、不思議なほどの安堵感があった。ようやく社会の一員として認められた——そんな大袈裟な感覚が、冗談ではなく本当にあったのだ。
面接は驚くほどカジュアルだった。社長が直接出てきて、「何ができる?」と聞かれた。今まで100社以上で繰り返してきた「自己PR」でも「志望動機」でもない、シンプルな質問。私は正直に答えた。「特に何もできません。でも言われたことはやります」。社長は笑って、「じゃあ来週から来て」と言った。
あっけなかった。100社分の面接対策、自己分析、企業研究、OB訪問——その全てが吹き飛ぶような「じゃあ来週から来て」だった。就活とは何だったのか。あの膨大な時間とエネルギーは何だったのか。答えは出なかったし、今でも出ていない。
あれから20年以上が経って
あのとき22歳だった私は、もう40代の半ばを過ぎた。あの小さな会社では数年働いて転職し、その後も何度か職を変え、今はそれなりに落ち着いた場所にいる。
100社落ちた経験は、消えない。消えないが、時間が経つと意味が変わってくる。
20代の頃、この経験は「恥」だった。「100社落ちた」と言えば、「そんなに落ちるって、何か問題があるんじゃ」と思われる。だから黙っていた。
30代になると、「ネタ」になった。飲み会で「実は俺、就活で100社落ちたんだよね」と言うと、「マジで? ウケる」と笑ってもらえる。笑い話にできるようになったのは、ある意味での回復だった。
そして40代。この経験は「勲章」でも「傷跡」でもなく、ただの「事実」になった。あのとき100社落ちた。そういうことがあった。それだけ。恥でもネタでもなく、自分の歴史の一部としてフラットにそこにある。
ただ、この「フラットにそこにある」状態に到達するまでに20年以上かかったという事実は、あの経験のダメージの深さを物語っている。
今、就活をしている人へ
偉そうなことを言うつもりはない。100社落ちた人間に就活のアドバイスなどできるわけがない。打率ゼロのバッターにバッティングを教わりたい人はいない。
だから、アドバイスではなく、ただの感想を述べる。
就活とは、人間を商品にする作業だ。自分を棚に並べ、値札をつけ、買い手が現れるのを待つ。買い手がつかなければ、値引きして再出品する。この過程で、自分の価値が「市場」によって決まるような錯覚に陥る。
でも、それは錯覚だ。就活の結果は、あなたの価値を測っていない。あなたの価値は、企業の採用枠とか、その年の景気とか、面接官のその日の体調とか、そういう「あなたとは無関係なもの」によって左右される。100社落ちた私が言うのだから、少しは説得力があるだろう。私の何かが100回分ダメだったのではなく、「たまたま」が100回積み重なっただけだ。——と、今なら思える。当時は思えなかったが。
聞いてほしかっただけ
このエッセイのタイトルに「聞いてほしい」と書いた。
同情してほしいわけではない。「大変だったね」と言われたいわけでもない。ただ、「そういうことがあったんだ」と知ってほしかっただけだ。
就職氷河期世代は、よく「失われた世代」と呼ばれる。私たちは何かを「失った」のではなく、最初から「与えられなかった」のだと思う。チャンスが、機会が、タイミングが。それらが構造的に不足していた時代に、たまたま22歳だった。それだけのことだ。
でも「それだけのこと」が、人生を大きく左右する。最初の一歩でつまずくと、その後の道のりがずっと長くなる。給料、キャリア、結婚、老後の蓄え——最初のボタンのかけ違いが、全てに波及する。その「かけ違い」の原因が自分の努力不足ではなく、時代のせいだったとしたら。それを知ってほしかった。
100社落ちた。それでも生きている。なんだかんだで、仕事を見つけ、生活を組み立て、ここまで来た。それは「強さ」ではなく、単に「しぶとさ」であり、もっと言えば「他に選択肢がなかっただけ」だ。でもまあ、それでいい。しぶとく生きるのも、悪くない。
エピローグ——あの段ボール箱のゆくえ
冒頭で触れた、不採用通知を詰め込んだ段ボール箱。あれは結局、30代のときの引っ越しで処分した。
捨てる前に、一通だけ中身を読んだ。どこかの食品メーカーからの不採用通知で、「今後のご活躍をお祈り申し上げます」と書いてあった。あの頃はこの定型文に何も感じなくなっていたが、20年越しに読むと、少しだけ泣きそうになった。泣きそうになった理由は自分でもよくわからない。あの頃の自分への同情かもしれないし、結局なんとかなったことへの安堵かもしれないし、あるいは単に、年を取ると涙腺が緩むというだけのことかもしれない。
100社に祈られた結果、特にご利益はなかった。でも不思議と、今ここにいる。それで十分だ。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。すべての氷河期世代が同じ経験をしたわけではありません。でも、似たような景色を見た人は、きっと少なくないはずです。

