はじめに——「遺言書なんて金持ちが書くもの」は大間違い
「遺言書」。この言葉から連想するのは「資産家の老人がベッドの上で弁護士に口述する」シーン。映画やドラマの定番だ。手取り16万円の45歳独身男性にとって、遺言書は「自分とは無関係の世界」に思える。遺す資産なんてない。遺す相手もいない(配偶者も子どももいない)。遺言書を書く理由がない——と思っている。
だがこれは大間違いだ。「独身者こそ遺言書が必要」。なぜか。独身者が遺言書なしに死亡すると、法定相続の手続きが「極めて煩雑」になるからだ。配偶者も子どももいない場合、法定相続人は「親」。親がすでに亡くなっていれば「兄弟姉妹」。兄弟姉妹も亡くなっていれば「甥・姪」。甥姪もいなければ「相続人不存在」となり、財産は最終的に国庫に帰属する。
「自分の財産が国に取られる」のが嫌なら、遺言書で「誰に渡すか」を指定しておく。NISAの100万円を兄弟に渡したいなら、遺言書に書く。お世話になった人に少額でも渡したいなら、遺言書に書く。寄付したい団体があるなら、遺言書に書く。書かなければ「自分の意思とは関係なく」法律のルールで配分される。
「遺言書が必要な理由」——独身者特有の3つの問題
問題1は「法定相続人の特定が面倒」。独身・子なしの場合、法定相続人は「親→兄弟姉妹→甥姪」の順で決まる。親が高齢で認知症の場合、相続手続きに「成年後見人」の選任が必要になり、手続きが数ヶ月〜1年以上かかる。兄弟姉妹が複数いれば、全員の同意(遺産分割協議)が必要。連絡が取れない兄弟がいれば、手続きが止まる。遺言書があれば、これらの煩雑な手続きをすべてスキップできる。
問題2は「デジタル資産の処理」。ネット銀行の預金、証券口座のNISA、暗号資産。これらは遺言書がなければ「存在すら気づかれない」可能性がある。遺言書に「○○銀行のネット口座に預金がある」「楽天証券にNISA口座がある」と明記しておけば、遺族が見落とさない。
問題3は「遺品整理の負担」。独身者が亡くなると、遺品整理は遺族(兄弟姉妹等)が行う。だが「どの遺品を残して、どれを処分するか」の判断が難しい。遺言書に「遺品はすべて処分してよい。ただし○○だけは△△さんに渡してほしい」と書いておけば、遺族の負担が軽減される。
「自筆証書遺言」の書き方——紙とペンだけで法的に有効
遺言書には3種類あるが、独身の45歳男性が「今日書ける」のは「自筆証書遺言」だ。紙とペン(ボールペンまたは万年筆。鉛筆は不可)だけで作成でき、公証人も弁護士も不要。費用ゼロ。
自筆証書遺言の法的要件は4つだけ。要件1は「全文を自筆で書く」こと(パソコンで作成したものは無効。ただし財産目録のみパソコン可)。要件2は「日付を書く」こと(年月日を明記。「2025年5月吉日」は無効。「2025年5月1日」のように特定の日付を書く)。要件3は「氏名を書く」こと。要件4は「押印する」こと(認印でOK。実印でなくてもよい)。
この4つを満たしていれば、法的に有効な遺言書になる。便箋でもノートの切れ端でも、法的には有効(ただし紛失リスクがあるので、しっかりした紙に書くのが望ましい)。
遺言書の「文例」——45歳独身男性の場合
文例を示す。この文例を自分の状況に合わせて修正すれば、遺言書が完成する。
「遺言書。遺言者○○○○(生年月日:19○○年○月○日)は、以下の通り遺言する。第1条。遺言者の有する一切の財産(預貯金、有価証券、動産等)を、遺言者の兄(姉/弟/妹)である△△△△(生年月日:19○○年○月○日、住所:○○県○○市……)に相続させる。第2条。遺言者のデジタル資産(ネット銀行口座、証券口座、SNSアカウント等)の情報は、本遺言書と共に保管してあるノートに記載している。第3条。遺言者の遺品については、第1条の相続人の判断で処分して構わない。第4条。本遺言の執行者として、△△△△を指定する。令和○年○月○日。住所:○○県○○市○○町○丁目○番○号。氏名:○○○○(自筆で署名)。印(押印)」。
この文例はシンプルだが、法的要件を満たしている。「一切の財産を兄に相続させる」と書けば、個別の財産を列挙する必要がない。「遺品は処分して構わない」と書けば、遺族が「これは残すべきか」と悩まなくて済む。
遺言書の「保管方法」——法務局の保管制度を使う
自筆証書遺言の最大のリスクは「紛失」「改ざん」「発見されない」だ。自宅に保管していると、火事で焼失する可能性がある。遺族が見つけられない可能性がある。悪意のある人に改ざんされる可能性がある。
2020年7月から「法務局における自筆証書遺言書保管制度」が始まった。法務局に遺言書を預けることで、「紛失・改ざん・未発見」のリスクをゼロにできる。保管手数料は1件3900円。一度だけの支払い。死亡後、遺族が法務局に問い合わせれば、遺言書の存在を確認できる。
法務局に預ける手順。ステップ1。自筆証書遺言を作成する。ステップ2。最寄りの法務局(遺言書保管所)に予約する。ステップ3。遺言書、本人確認書類(運転免許証等)、手数料3900円を持参して法務局に行く。ステップ4。法務局の担当者が形式的な確認を行い、保管する。所要時間30分〜1時間。
3900円で「遺言書の安全な保管」が完了する。3900円は発泡酒29本分。29本の発泡酒か、遺言書の安全か。答えは明白だ。
「遺す資産がない」場合でも遺言書は必要か
「手取り16万円で資産なんてない。遺言書は不要では?」。だが「資産ゼロ」の人は少ない。銀行口座に数万円〜数十万円の預金がある。NISAに数万円〜数百万円の資産がある。生命保険に加入していれば死亡保険金がある。これらは「資産」であり、遺言書で「誰に渡すか」を指定する対象になる。
また、遺言書は「資産の配分」だけでなく「遺族への伝言」にも使える。遺言書の末尾に「付言事項」として、感謝の言葉や希望を書くことができる。「兄には長年お世話になりました。感謝しています」「葬儀は不要です。直葬で構いません」「遺品は全部処分してください」。これらの「伝言」が、遺族の心理的負担を軽減する。
遺言書を書いた後に「やるべきこと」
やること1は「遺言書の存在を信頼できる人に伝える」。遺言書を書いても、死後に「発見されない」と意味がない。兄弟姉妹、親、信頼できる友人に「遺言書を書いた。法務局に預けてある(または自宅の○○に保管してある)」と伝えておく。
やること2は「定期的に見直す」。遺言書は「書いたら終わり」ではない。状況が変わったら(相続人が変わった、資産が増えた、希望が変わった等)、新しい遺言書を書く。新しい遺言書が古い遺言書に優先する。年に1回、誕生日や年末に「遺言書を見直す日」を設ける。
やること3は「エンディングノートも併せて用意する」。遺言書は「法的な文書」であり、書ける内容に制限がある。エンディングノートは「法的な効力はないが、自由に書ける文書」。葬儀の希望、連絡してほしい人のリスト、デジタル遺品の情報、感謝の言葉。エンディングノートと遺言書を「セット」で用意しておく。
「45歳で遺言書は早すぎるか」——答えは「NO」
「遺言書は老人が書くもの。45歳は早すぎる」。この考えは危険だ。人間は「いつ死ぬかわからない」。交通事故、急病、災害。45歳でも突然死する可能性はゼロではない。「45歳で死ぬ確率」は低いが「ゼロ」ではない。ゼロでない以上、備えておく価値がある。
しかも遺言書を書くコストは「紙とペンと30分」(法務局に預ける場合は+3900円)。このコストで「万が一のときに遺族が困らない」保険が得られる。「保険料」としては破格の安さだ。
遺言書を書くことは「死を覚悟すること」ではなく「死後の整理を済ませておくこと」だ。整理が済んでいれば、安心して「今を生きる」ことに集中できる。「遺言書を書いたから、あとは生きることだけ考えればいい」。この安心感は、遺言書を書いた人だけが得られる。
まとめ——「30分と紙1枚」で遺族の負担をゼロにする
遺言書。紙1枚。ボールペン1本。30分。これだけで「自分が死んだとき、遺族が困らない」状態を作れる。法務局に預ければ3900円で「安全な保管」も完了。
「資産がないから不要」ではない。「独身だから不要」でもない。独身だからこそ必要。資産が少ないからこそ、少ない資産を「自分の意思で」渡したい相手に渡す。渡す相手がいなければ、寄付する団体を指定する。何も指定しなければ、国庫に入る。「自分のお金が国に取られる」のは、もやし炒め3000回分の努力が消えるのと同じだ。
今日、ボールペンと便箋を用意しよう。遺言書を書く。30分で終わる。書き終わったら封筒に入れて、クローゼットにしまう。しまったら、発泡酒を開ける。「遺言書を書いた自分」に乾杯。「これで安心して、明日もやし炒めを食べられる」。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。なお、遺言書の作成に関して不明点がある場合は、法テラス(0570-078374)の無料法律相談を利用することをおすすめする。

