ネットネット株のすべて ― グレアムが遺した「清算価値」投資の完全ガイド

この記事は約93分で読めます。
  1. プロローグ ― なぜ今、ネットネット株なのか
  2. 第1章 ネットネット株とは何か ― 定義と基本概念
    1. 1-1. 「会社を解体したら、いくらになるか」という発想
    2. 1-2. NCAV(正味流動資産価値)の定義
    3. 1-3. NNWC(ネットネット運転資本)というより厳しい指標
    4. 1-4. 「3分の2ルール」の意味
    5. 1-5. 簿価(BPS)との違い ― なぜNCAVのほうが「厳しい」のか
  3. 第2章 ベンジャミン・グレアムという人物と時代背景
    1. 2-1. 1929年大恐慌が生んだ思想
    2. 2-2. 『証券分析』(1934)と『賢明なる投資家』(1949)
    3. 2-3. グレアム自身のネットネット運用実績
    4. 2-4. グレアムが定めた具体的なルール
  4. 第3章 ネットネット株の計算方法 ― 実践ステップ
    1. 3-1. 貸借対照表のどこを見るか
    2. 3-2. NCAVの計算 ステップバイステップ
    3. 3-3. NNWCの計算 ― 資産の「掛け目」
    4. 3-4. 具体的な計算例(架空企業「日本部品工業」)
    5. 3-5. 1株あたりNCAVと株価の比較 ― 判定する
  5. 第4章 なぜネットネット株は儲かるのか ― 理論的背景
    1. 4-1. マージン・オブ・セーフティ(安全余裕度)
    2. 4-2. 清算価値というダウンサイドの「床」
    3. 4-3. 平均回帰(ミーン・リバージョン)
    4. 4-4. 市場の非効率性 ― なぜ放置されるのか
    5. 4-5. 行動経済学からの説明
  6. 第5章 学術研究が示す実績 ― エビデンスの蓄積
    1. 5-1. オッペンハイマー(1986)の記念碑的研究
    2. 5-2. トウィーディー・ブラウンの「What Has Worked In Investing」
    3. 5-3. グリーンブラットらの研究 ― 「P/Eを足す」改良
    4. 5-4. ロンドン市場での検証(Xiao & Arnold 2008)
    5. 5-5. 「75歳でなお現役」(Carlisle, Mohanty & Oxman 2010)
    6. 5-6. 日本市場での検証(Bildersee et al. 1993)、そして最新研究(Mohanty 2026)へ
    7. 5-7. 研究の総括 ― 何が分かったか
  7. 第6章 ウォーレン・バフェットと「シケモク投資」
    1. 6-1. 「シケモク(Cigar Butt)」という比喩
    2. 6-2. サンボーン・マップ事件
    3. 6-3. デンプスター・ミル ― 危機と再生
    4. 6-4. バークシャー・ハサウェイという「最悪のシケモク」
    5. 6-5. マンガーとの出会い、そして「卒業」
    6. 6-6. それでも、若きバフェットのリターンは最高だった
  8. 第7章 ネットネット株の「影」 ― リスクと限界
    1. 7-1. バリュートラップ(価値の罠)
    2. 7-2. 資産の「質」の問題 ― 在庫と売掛金
    3. 7-3. キャッシュ・バーン(現金燃焼)
    4. 7-4. 流動性の低さ ― 「買えない、売れない」問題
    5. 7-5. 分散の必要性 ― なぜ「グループ戦略」なのか
    6. 7-6. 「なぜ安いのか」を必ず問う
  9. 第8章 ネットネット株を実際に選ぶ ― スクリーニングと精査
    1. 8-1. スクリーニングの第一歩
    2. 8-2. グレアムの「2つの追加条件」を適用する
    3. 8-3. 除外すべき企業の特徴
    4. 8-4. 精査のチェックリスト
    5. 8-5. 買い方 ― 分散とポジションサイズ
    6. 8-6. 売り方 ― 出口戦略
  10. 第9章 現代日本市場とネットネット株
    1. 9-1. なぜ日本は「ネットネット株の宝庫」とされてきたか
    2. 9-2. 「PBR1倍割れ」問題と東証の改革
    3. 9-3. 日本特有の論点 ― 政策保有株、現預金の積み上がり
    4. 9-4. アクティビストの台頭
    5. 9-5. 日本でネットネット株を探す実践的視点
    6. 9-6. 日本市場特有の注意点
  11. 第10章 ネットネット投資の現代的意義と発展形
    1. 10-1. 「純粋ネットネット」は絶滅危惧種か
    2. 10-2. 「機会は移動する」 ― 暴落と、辺境の市場
    3. 10-3. 派生戦略 ― NNWC、清算価値、サム・オブ・パーツ
    4. 10-4. グレアム後期の「単純な基準」への回帰
    5. 10-5. クオリティとバリューの統合
    6. 10-6. 個人投資家にとっての意味
  12. 終章 ― グレアムが本当に遺したもの
  13. 参考資料
    1. 一次資料 ― グレアムの原典
    2. 学術研究 ― ネットネット株のパフォーマンス検証
    3. 実務家による調査・解説
    4. ウォーレン・バフェット関連 ― シケモク投資の実例
    5. 補助的な解説記事(本稿執筆時に参照)
    6. さらに学びたい人のための関連書
    7. 重要な免責事項

プロローグ ― なぜ今、ネットネット株なのか

投資の世界には、いくつか「魔法のように聞こえるが、実際に機能してしまう」戦略がある。ネットネット株投資は、その筆頭格だ。

ネットネット株とは、ごく単純に言えば、「会社を今すぐ解体して、流動資産だけを売り払い、借金を全部返したとしても、まだ手元に残る現金のほうが、その会社の時価総額より多い」という、奇妙な状態にある株式のことを指す。

普通に考えれば、これはおかしい。会社というのは、工場も、ブランドも、技術も、人材も、顧客基盤も持っている。それなのに、「流動資産から負債を引いた、たったそれだけの金額」よりも安く株が買えるというのは、論理的にはありえないように思える。土地や建物や機械設備や特許やのれんが、まるごと「タダ」でついてくるどころか、「マイナスの値段」がついているような状態だ。

ところが、株式市場では、こういう銘柄が、特定の時期に、特定の場所で、実際にゴロゴロ転がっている。1930年代の米国がそうだった。1970年代の米国がそうだった。バブル崩壊後の日本がそうだった。そして、市場が暴落した直後には、いつの時代でも、世界のどこかで、この種の銘柄が生まれる。

この「奇妙な状態の株」を、組織的に、規律をもって、分散して買い続けると何が起きるか。

過去90年にわたる無数の学術研究が、ほぼ一貫して同じ結論を出している。市場平均を大きく上回るリターンが得られる、と。

この戦略を最初に体系化したのが、「バリュー投資の父」と呼ばれるベンジャミン・グレアムである。彼は1930年代初頭、世界恐慌のどん底でこの手法を開発し、1934年の名著『証券分析(Security Analysis)』で初めて世に問うた。そして、彼の最も有名な弟子であるウォーレン・バフェットは、若き日にこの「ネットネット株=シケモク株」を拾い集めることで、自身のキャリアの中で最も高いリターンを叩き出した。

しかし――そして、これが重要なのだが――ネットネット株は決して「誰でも簡単に儲かる打ち出の小槌」ではない。むしろ、この戦略には深い落とし穴がいくつもある。バリュートラップ(価値の罠)、資産の質の問題、現金燃焼、流動性の枯渇。これらを理解せずに飛び込めば、「安物買いの銭失い」を地で行くことになる。

この記事では、ネットネット株という戦略を、できる限り分かりやすく、しかし手を抜かずに、徹底的に解説する。具体的には、

  • ネットネット株とは何か、その定義と計算方法
  • グレアムがこの手法を生み出した時代背景と思想
  • なぜこの戦略が機能するのか、その理論的な理由
  • 90年にわたる学術研究が何を明らかにしてきたか
  • バフェットがこの手法で何をやり、なぜ後に「卒業」したのか
  • この戦略の影の部分 ― リスクと限界
  • 実際にネットネット株を選ぶための実践的な手順
  • 現代の日本市場におけるネットネット株の意味

これらを順に見ていく。投資初心者にも理解できるように、専門用語は出てくるたびに噛み砕いて説明する。同時に、ある程度経験のある投資家にも「読んでよかった」と思ってもらえるだけの深さを保つことを目指す。

なお、最初に大事な前提を述べておく。この記事は特定の銘柄を推奨するものではないし、「これをやれば必ず儲かる」と保証するものでもない。投資判断は最終的に読者自身が、自分の責任で行うものだ。この記事が提供できるのは、判断のための「考え方の枠組み」と「歴史的な知識」だけである。それでも、その枠組みと知識は、90年の歳月を生き延びてきた、極めて強靭なものだ。

それでは、始めよう。


第1章 ネットネット株とは何か ― 定義と基本概念

1-1. 「会社を解体したら、いくらになるか」という発想

ネットネット株を理解する出発点は、「会社の価値をどう測るか」という根本的な問いにある。

会社の価値の測り方には、大きく分けて3つのアプローチがある。

第一が、「これからどれだけ稼ぐか」で測る方法。将来生み出すであろう利益やキャッシュフローを予測し、それを現在価値に割り引いて合計する。いわゆるDCF(ディスカウント・キャッシュフロー)法だ。これは理論的には最も正しいとされるが、未来の予測に依存するため、前提次第でいくらでも数字が変わる、という弱点がある。

第二が、「似たような会社といくらで取引されているか」で測る方法。PER(株価収益率)やPBR(株価純資産倍率)を同業他社と比較する。これは手軽だが、「市場全体が間違っていたらどうするのか」という問題がある。みんなが高値で取引していれば、その水準が「適正」に見えてしまう。

そして第三が、「今この瞬間に会社を解体したら、株主の手元にいくら残るか」で測る方法。これが「資産価値アプローチ」であり、ネットネット株の発想の核心である。

グレアムが注目したのは、この第三の方法だった。なぜなら、それが最も「確実」だからだ。未来の利益は予測にすぎない。同業他社の株価も移ろいやすい。だが、「今、貸借対照表に載っている資産」は、少なくとも今この瞬間には、確かにそこに存在している。現金は現金だ。売掛金は(回収できれば)現金になる。在庫は(売れれば)現金になる。

グレアムの問いは、極めてシンプルだった。「もしこの会社が明日倒産して、清算手続きに入ったとして、株主の手元に残る金額よりも、今の株価が安いとしたら、それは買いではないか?」と。

この「清算したら株主に残る金額」を、グレアムは精緻に定義した。それが次に説明する「正味流動資産価値(NCAV)」である。

1-2. NCAV(正味流動資産価値)の定義

NCAVは、英語で Net Current Asset Value の略である。日本語では「正味流動資産価値」あるいは「純流動資産価値」と訳される。

定義は、こうだ。

NCAV = 流動資産 ―(負債合計 + 優先株)

ひとつずつ分解しよう。

**流動資産(Current Assets)**とは、貸借対照表の「資産の部」のうち、「1年以内に現金化できる、あるいは現金そのものである資産」のことだ。具体的には、現金及び預金、売掛金、受取手形、有価証券、棚卸資産(在庫)などが含まれる。

ここで決定的に重要なのは、グレアムが固定資産を一切カウントしないことだ。土地、建物、工場、機械設備、車両、特許権、商標権、のれん――これらはすべて「ゼロ」として扱う。価値があるのは分かっている。だが、グレアムはあえてそれを「ないもの」とみなした。なぜか。それは後で詳しく述べるが、簡単に言えば「保守的に見積もるため」である。固定資産は、いざ清算となると、簿価通りには売れないことが多い。だから最初から計算に入れない。これがグレアムの徹底した保守主義である。

**負債合計(Total Liabilities)**とは、流動負債(買掛金、短期借入金、未払金など)と固定負債(長期借入金、社債、退職給付引当金など)の、すべての合計だ。会社が抱えている借金や支払い義務を、まるごと全部引く。

**優先株(Preferred Stock)**とは、普通株よりも配当や残余財産の分配で優先される株式のことだ。優先株主は、普通株主よりも先に資産の分配を受ける権利を持つ。だから、普通株主の取り分を計算するには、優先株の分も先に引いておく必要がある。なお、日本企業では優先株を発行しているケースは比較的少ないので、日本株を分析する場合はこの項目はゼロになることが多い。

つまりNCAVとは、「1年以内に現金化できる資産から、すべての借金と優先株主の取り分を引いた、純粋に普通株主のものとなる流動的な価値」である。

言い換えれば、「会社を解体し、固定資産は全部捨てて、流動資産だけを現金化し、借金を全部返した後に、普通株主の手元に残る金額」だ。

このNCAVを発行済株式数で割れば、「1株あたりNCAV」が出る。

1株あたりNCAV = NCAV ÷ 発行済株式数

そして、この「1株あたりNCAV」と「株価」を比べる。これがネットネット分析の出発点である。

1-3. NNWC(ネットネット運転資本)というより厳しい指標

NCAVは十分に保守的な指標だが、グレアムはさらに厳しいバージョンも用いた。それが「NNWC」、Net-Net Working Capital(ネットネット運転資本)である。

NCAVは流動資産を「額面通り」にカウントする。現金100万円は100万円、売掛金100万円は100万円、在庫100万円は100万円、というふうに。

だが、現実の清算場面では、これらが額面通りに現金化できるとは限らない。売掛金には貸し倒れがある。在庫は、投げ売りすれば額面の半分も回収できないかもしれない。特に、流行遅れの衣料品や、陳腐化した電子部品の在庫は、ほとんど値がつかないこともある。

そこでグレアムは、流動資産の項目ごとに「掛け目(ヘアカット)」をかけた、より厳しい計算を提案した。典型的にはこうだ。

NNWC = 現金及び現金同等物 ×100% + 売掛金 ×75% + 棚卸資産 ×50% ―(負債合計 + 優先株)

現金は、現金だから100%そのまま。売掛金は、貸し倒れを見込んで75%(つまり25%割り引く)。在庫は、投げ売りを見込んで50%(つまり半額にする)。有価証券は時価評価できるならその時価で、できないなら保守的に。

このNNWCは、NCAVよりもさらに低い数字になる。つまり、より厳しいハードルだ。NNWCを下回る株価で取引されている銘柄は、本当に「掘り出し物」である可能性が高い。

実務的には、「まずNCAVでスクリーニング(ふるい分け)し、候補が出てきたら、NNWCでさらに絞り込む」という二段構えがよく使われる。NCAVは「広く拾う網」、NNWCは「本当に良いものだけ残す目の細かいザル」というイメージだ。

掛け目の数字(75%、50%など)は絶対的なものではない。業種によって調整するのが望ましい。たとえば、生鮮食品を扱う会社の在庫は50%でも甘いかもしれないし、金やプラチナのような商品在庫を持つ会社なら、在庫をほぼ100%でカウントしてもいいかもしれない。重要なのは、「保守的に、現実的に見積もる」という精神だ。

1-4. 「3分の2ルール」の意味

ここまでで、「1株あたりNCAV」あるいは「1株あたりNNWC」という数字が出た。では、株価がこの数字を下回っていれば、すぐに「買い」なのだろうか。

グレアムの答えは「ノー」だった。彼はもう一段の安全余裕を求めた。それが有名な「3分の2ルール」である。

グレアムが「ネットネット株」と呼んだのは、単にNCAVを下回る株ではなく、株価がNCAVの3分の2(約67%)以下になっている株のことだ。

なぜ「3分の2」なのか。

それは、「マージン・オブ・セーフティ(安全余裕度)」をさらに厚くするためだ。NCAV自体がすでに保守的な数字だが、それでもなお、計算には誤差がありうる。決算書の数字が実態を正確に反映していないかもしれない。簿外債務があるかもしれない。だから、NCAVそのものではなく、その3分の2を「買っていい上限価格」とすることで、二重の安全網を張ったのである。

たとえば、ある会社の1株あたりNCAVが300円だったとする。グレアムの基準では、この株は株価が**200円以下(300円 × 2/3)**になって初めて、「ネットネット株」として買い検討の対象になる。株価が250円なら、NCAVは下回っているが、まだ「ネットネット」ではない。

この「3分の2」という数字は、別の角度から見ると「NCAVに対して33%以上のディスカウント(割引)がついている」ということでもある。研究者によっては「NCAV/時価総額 ≧ 1.5」という表現を使うこともある。これは「NCAVが時価総額の1.5倍以上ある」という意味で、株価がNCAVの3分の2以下、というのと同じことを言っている。

なお、現代の実務では「3分の2」を厳格に守る人もいれば、「NCAVを下回っていればとりあえず候補」とゆるく構える人もいる。ただ、グレアムのオリジナルの定義は「3分の2以下」であり、この記事でも基本的にはその定義に従う。

1-5. 簿価(BPS)との違い ― なぜNCAVのほうが「厳しい」のか

ネットネット株を理解するうえで、「簿価(BPS、1株あたり純資産)」との違いを押さえておくことは重要だ。

「PBR1倍割れ」という言葉を聞いたことがあるだろう。PBR(株価純資産倍率)は、株価を1株あたり純資産(BPS)で割ったものだ。PBRが1倍を下回るというのは、「株価が、会計上の純資産よりも安い」ということを意味する。

では、純資産とNCAVは何が違うのか。

純資産(BPS の元になる数字)= 総資産 ― 負債合計

NCAV = 流動資産 ―(負債合計 + 優先株)

決定的な違いは、純資産が「総資産」を使うのに対し、NCAVは「流動資産」しか使わない、という点だ。

総資産には、流動資産だけでなく、固定資産(土地、建物、機械、のれん、特許など)も含まれる。つまり、純資産は固定資産をフルカウントしている。

一方、NCAVは固定資産を完全にゼロとみなす。土地も建物も機械ものれんも、価値ゼロ扱い。

したがって、NCAVは必ず純資産より小さい数字になる(固定資産がプラスである限り)。場合によっては、はるかに小さい。

これが意味するのは、「NCAV基準は、PBR基準よりもはるかに厳しい」ということだ。

PBR1倍割れの銘柄は、日本市場には何百社もある。だが、「株価がNCAVの3分の2以下」という真のネットネット株は、平時にはずっと少ない。なぜなら、それは「固定資産をすべてタダとみなしてもなお割安」という、極端な状態だからだ。

AAII(全米個人投資家協会)の解説でも、「簿価と比較して、NCAVの手法はより厳格な基準である」と明記されている。グレアムは、保守的であることに徹底的にこだわった。「だいたい安い」では満足しなかった。「どう考えても、論理的にありえないほど安い」という水準を求めたのだ。

このため、ネットネット株は「ディープ・バリュー(深い割安)」と呼ばれるカテゴリーに属する。単なる「バリュー株」よりもさらに一段、二段、割安度が深い領域だ。

ここまでが、ネットネット株の「定義」である。次の章では、この奇妙な手法を生み出した人物――ベンジャミン・グレアムと、彼が生きた時代に目を向けよう。


第2章 ベンジャミン・グレアムという人物と時代背景

2-1. 1929年大恐慌が生んだ思想

ネットネット株という発想は、ある特定の歴史的経験から生まれた。それは、1929年に始まる世界恐慌である。

ベンジャミン・グレアム(Benjamin Graham、1894-1976)は、ロンドンで生まれ、幼い頃に米国に移住した。父親は早くに亡くなり、母親は株式投資で財産を失った。グレアム自身、苦学してコロンビア大学を卒業し、ウォール街でキャリアを積んだ。

1920年代、グレアムは順調に運用成績を上げていた。だが、1929年10月の株価大暴落、そしてそれに続く数年間の壊滅的な下げ相場で、彼の運用するファンドも甚大な打撃を受けた。1929年から1932年にかけて、彼のファンドは約70%もの損失を被ったとされる。

この経験が、グレアムの投資哲学を決定的に形作った。

彼が骨身に染みて学んだのは、「株式市場は、しばしば完全に狂気に陥る」という事実だった。1929年以前、人々は「株はこれからも永遠に上がり続ける」と信じていた。だが、その熱狂は一瞬で恐怖に変わり、今度は「株なんて紙くずだ」という極端な悲観に振れた。

そして、その極端な悲観のなかで、グレアムは奇妙なものを目にした。多くの会社の株価が、その会社が保有する現金や流動資産の価値よりも、はるかに安く取引されていたのだ。

優良な事業を営み、現金をたっぷり持ち、借金もそれほどない会社の株が、「その会社が持っている現金 ― 全負債」よりも安い。理屈で考えれば、その会社を買収して解体し、現金を山分けするだけで儲かる。それなのに、誰も買わない。みんな恐怖で麻痺していた。

グレアムは、ここに「投資の聖杯」を見出した。「市場が狂気で悲観に振れているとき、論理と算術だけを武器に、確実に儲けられる方法がある」と。

恐慌のどん底の1930年から1932年にかけて、グレアムはこの「正味流動資産価値(NCAV)」のアプローチを開発し、検証した。複数の資料が、「グレアムは1930年から1932年の間にNCAVアプローチを開発した」と記録している。それは、絶望の時代が生んだ、冷徹な知恵だった。

2-2. 『証券分析』(1934)と『賢明なる投資家』(1949)

グレアムは、自らの投資哲学を2冊の名著にまとめた。

第一が、『証券分析(Security Analysis)』。1934年、コロンビア大学の同僚デビッド・ドッドとの共著で出版された。これは、証券分析という専門職そのものを確立した、記念碑的な教科書である。グレアムは「証券アナリストという職業の生みの親」とも呼ばれる。

『証券分析』のなかで、グレアムは「正味流動資産価値」をこう定義した。原文では、「流動資産のみ ― すべての負債と、当該証券に先立つ請求権」(current assets alone, minus all liabilities and claims ahead of the issue)という表現が使われている。これがNCAVの原典である。

第二が、『賢明なる投資家(The Intelligent Investor)』。1949年に出版された、より一般読者向けの書物だ。ウォーレン・バフェットが「投資について書かれた最高の本」と繰り返し称賛してきた一冊である。この本でも、ネットネット株の考え方が、より平易な言葉で説明されている。

この2冊を通じて、グレアムは2つの中心概念を打ち立てた。

ひとつが「ミスター・マーケット」という寓話。市場を、毎日やってきて気まぐれな値段を提示してくる、躁鬱気質の相棒に喩えたものだ。彼が高揚しているときは高値を、絶望しているときは安値を提示してくる。賢明な投資家は、彼の気分に流されず、彼が絶望して安値を提示してきたときだけ買い、彼が高揚して高値を提示してきたら売る(あるいは無視する)。

もうひとつが「マージン・オブ・セーフティ(安全余裕度)」。これについては第4章で詳しく述べるが、要するに「自分の計算が多少間違っていても、損をしないだけの余裕をもって買え」という原則だ。ネットネット株の「3分の2ルール」は、このマージン・オブ・セーフティの最も具体的な実装である。

2-3. グレアム自身のネットネット運用実績

グレアムは、ネットネット株を「理論」として提唱しただけではない。彼自身が、長年にわたってこの手法で実際に運用し、結果を出した。

最も有名な記録は、AAIIの解説などにも引用されている、グレアム自身の言葉だ。彼は、「正味流動資産株の分散ポートフォリオの、30年間にわたる平均リターンは、年率約20%だった」と報告している。

年率20%を30年間。これがどれほど凄まじいかは、複利計算をすれば分かる。年率20%で30年運用すると、元本は約237倍になる。100万円が2億3700万円になる計算だ。

しかも、グレアムはこれを「個別銘柄で大当たりを狙って」達成したのではない。「分散ポートフォリオ」、つまり多数のネットネット株を機械的に買い集めることで達成した。一つひとつの銘柄は、地味で、誰も注目しない、しょぼい会社だったかもしれない。だが、それらを束ねると、市場平均を圧倒するリターンが生まれた。

グレアムは後年、自分の投資人生を振り返って、ネットネット株戦略についてこう語ったと伝えられている。「これはほとんど確実に儲かる、間違いのないシステムのように見える」と。彼ほどの冷静な人物が「ほとんど確実」とまで言ったのだ。その重みは大きい。

ただし、ここには重要な留保がつく。グレアムが運用していた時代――特に1930年代から1950年代――は、ネットネット株が「市場にあふれていた」時代だった。大恐慌の後遺症で、株式というもの自体が忌み嫌われていたため、優良企業ですら投げ売りされていた。だから、グレアムは「選び放題」だった。この点が、現代との大きな違いである。この問題については、第7章と第10章で改めて掘り下げる。

2-4. グレアムが定めた具体的なルール

ここで、しばしば誤解されている点を正しておきたい。

「ネットネット株投資」というと、多くの人は「株価がNCAVの3分の2以下の株を買えばいい」とだけ理解している。だが、グレアムが実際に定めたルールは、もう少し細かい。

GrahamValueなどの解説によれば、グレアムがNCAV株について定めたルールは、以下のようなものだった。

**ルール1:分散したグループとして買う。**個別銘柄ではなく、「適用可能な正味流動資産よりも安い価格の、分散した普通株のグループ」を買う。固定資産やその他の資産はゼロとカウントし、すべての優先的な請求権を差し引いたうえで。

**ルール2:直近12か月で純損失を出した企業を除外する。**つまり、「赤字の会社は買わない」。これは極めて重要なポイントだ。グレアムは、ただ安いだけの会社を無差別に買ったわけではない。「安くて、かつ、少なくとも黒字は維持している」会社に絞った。

このルール2は、現代のネットネット投資家にもしばしば見落とされている。「ネットネット株なら何でもいい」のではない。グレアム自身が、「赤字企業は除外せよ」と明示していたのだ。

なぜ赤字企業を除外するのか。理由は次章以降で詳しく述べるが、簡単に言えば「赤字企業は、せっかくの流動資産を毎年食いつぶしていくから」だ。今日NCAVが300円でも、毎年赤字でキャッシュを燃やしていれば、1年後には250円、2年後には200円……と、NCAV自体が縮んでいく。これでは「清算価値の床」という前提が崩れてしまう。

さらに、グレアムは別の文脈で「分散の数」についても言及している。彼の推奨は「最低でも20〜30銘柄程度に分散する」というものだった。一つひとつのネットネット株は、何が起きるか分からない。倒産するかもしれないし、不正会計が発覚するかもしれない。だが、30銘柄に分散しておけば、そのうち数銘柄がダメでも、残りの銘柄の値上がりがそれを補って余りある――これがグレアムの考え方だった。

つまり、グレアムのネットネット戦略を正確にまとめると、こうなる。

「直近12か月で黒字を確保している企業のうち、株価がNCAVの3分の2以下のものを、20〜30銘柄以上に分散して、グループとして機械的に買う」

これが、グレアムが実際に推奨し、自ら実践した戦略の正確な姿である。「安い株を1つ2つ買う」のとは、似て非なるものだ。

次の章では、このNCAVやNNWCを、実際にどう計算するのか――具体的な貸借対照表の読み方に踏み込んでいく。


第3章 ネットネット株の計算方法 ― 実践ステップ

3-1. 貸借対照表のどこを見るか

ネットネット分析に必要なのは、たった1つの財務諸表だ。**貸借対照表(バランスシート、B/S)**である。

損益計算書(P/L)は、グレアムのルール2(赤字企業の除外)を確認するために補助的に使うが、NCAVやNNWCの計算そのものには、貸借対照表があれば足りる。これがネットネット分析の手軽さの一つだ。将来予測も、複雑なモデルも要らない。「今の貸借対照表」という、確定した事実だけを使う。

貸借対照表は、大きく「資産の部」「負債の部」「純資産の部」の3つに分かれている。

「資産の部」は、さらに「流動資産」と「固定資産」に分かれる。 「負債の部」は、さらに「流動負債」と「固定負債」に分かれる。

ネットネット分析で見るのは、

  • 流動資産(資産の部の上半分):これは使う
  • 固定資産(資産の部の下半分):これは無視する(ゼロ扱い)
  • 流動負債 + 固定負債 = 負債合計(負債の部の全部):これは全部引く
  • 純資産の部:ここに優先株があれば、その分も引く

たったこれだけだ。

具体的に、流動資産のなかにどんな項目があるかを見ておこう。日本企業の典型的な貸借対照表では、流動資産はおおむね次のような順番で並んでいる(「流動性配列法」といって、現金に近いものから順に並ぶ)。

  • 現金及び預金
  • 受取手形及び売掛金(または「売掛金」「電子記録債権」など)
  • 有価証券(短期保有のもの)
  • 商品及び製品(在庫)
  • 仕掛品(製造途中のもの)
  • 原材料及び貯蔵品
  • 前払費用
  • その他の流動資産

固定資産は、その下に「有形固定資産」(建物、機械、土地など)、「無形固定資産」(のれん、ソフトウェア、特許権など)、「投資その他の資産」(投資有価証券=政策保有株など、長期貸付金、繰延税金資産など)として並ぶ。

ネットネット分析では、この「固定資産」のブロックは、丸ごと無視する。たとえそこに莫大な含み益のある土地があっても、価値のある特許があっても、計算上はゼロとして扱う。これがグレアムの保守主義だ。

ただし、ここで一つ、現代的な注意点がある。「投資その他の資産」のなかにある「投資有価証券」――日本企業でいう政策保有株(他社の株式を持ち合っているもの)――は、本来は固定資産扱いだが、実質的にはかなり流動性が高い(売ろうと思えばすぐ売れる)。だから、より精密な分析では、これを「修正版NCAV」として加味することもある。この論点は第9章(現代日本市場)で詳しく扱う。だが、グレアムの「純粋な」定義に従うなら、まずは固定資産は全部ゼロ、と考えるのが基本である。

3-2. NCAVの計算 ステップバイステップ

では、NCAVを実際に計算してみよう。手順は4ステップだ。

ステップ1:流動資産の合計を確認する。

貸借対照表の「流動資産合計」という行を見つける。この数字をそのまま使う。

ステップ2:負債の合計を確認する。

貸借対照表の「負債合計」(=流動負債合計 + 固定負債合計)という行を見つける。

ステップ3:優先株があれば、その額を確認する。

純資産の部に「優先株式」があれば、その額面または清算価値を確認する。なければゼロ。日本企業の大半はゼロでよい。

ステップ4:計算する。

NCAV = 流動資産合計 ―(負債合計 + 優先株)

これで、会社全体としてのNCAVが出る。

ステップ5:1株あたりに換算する。

1株あたりNCAV = NCAV ÷ 発行済株式数

ここで注意。発行済株式数は、できれば「自己株式(金庫株)を除いた数」を使うのが正確だ。自己株式は会社が自分で持っている株で、配当も議決権もない「眠っている株」なので、実質的な株主の数には含めない。多くの場合、「期末発行済株式数 ― 自己株式数」で計算する。

3-3. NNWCの計算 ― 資産の「掛け目」

NNWC(ネットネット運転資本)は、NCAVよりも一段厳しい。流動資産を額面通りではなく、「掛け目」をかけて評価する。

標準的な掛け目は、第1章でも触れたが、改めて整理するとこうなる。

  • 現金及び預金:100%(現金は現金。割り引く必要なし)
  • 有価証券(短期):時価で評価(市場性があれば時価。なければ保守的に)
  • 売掛金・受取手形:75%(回収不能=貸し倒れを25%見込む)
  • 棚卸資産(在庫):50%(投げ売り価格を想定。半額)
  • 前払費用・その他:0%〜保守的に(前払費用は現金化できないことが多いのでゼロとみなすことも)

そして、負債は割り引かない。負債は100%、額面通りに引く。借金をまけてもらうことは期待できないからだ。

NNWC = (現金 ×100%)+(有価証券 ×時価)+(売掛金 ×75%)+(在庫 ×50%)―(負債合計 + 優先株)

この掛け目は「グレアムが示した目安」であって、絶対の数字ではない。むしろ、業種や個別企業の実態に応じて調整すべきものだ。

たとえば――

  • アパレル企業の在庫:流行があるので、50%でも甘いかもしれない。30%程度に厳しくすることも
  • 商社が持つ金属在庫:商品市況で評価できるなら、70〜90%でもよいかもしれない
  • ソフトウェア企業の売掛金:大企業相手なら貸し倒れリスクが低いので、80〜90%でもよいかもしれない
  • 業績不振企業の売掛金:相手先も苦しいかもしれないので、60%程度に厳しく

重要なのは、数字を機械的に当てはめることではなく、「もし本当に明日この会社を清算するとしたら、この資産は実際いくらで売れるだろうか」と、現実的かつ保守的に想像することだ。

3-4. 具体的な計算例(架空企業「日本部品工業」)

抽象的な説明だけでは分かりにくいので、架空の企業を使って計算してみよう。

架空企業「日本部品工業株式会社」の貸借対照表(単位:百万円)

【資産の部】

  • 流動資産
    • 現金及び預金:3,000
    • 売掛金:2,000
    • 有価証券(短期・市場性あり):500
    • 棚卸資産:2,500
    • 前払費用:200
    • 流動資産合計:8,200
  • 固定資産
    • 有形固定資産(土地・建物・機械):6,000
    • 無形固定資産(のれん等):800
    • 投資その他の資産(政策保有株等):2,000
    • 固定資産合計:8,800
  • 資産合計:17,000

【負債の部】

  • 流動負債合計:2,500
  • 固定負債合計:1,500
  • 負債合計:4,000

【純資産の部】

  • 純資産合計:13,000(うち優先株:なし)

発行済株式数(自己株式控除後):10,000,000株(1,000万株)

現在の株価:300円

さて、計算しよう。

まず、NCAVを計算する。

NCAV = 流動資産合計 ― 負債合計 ― 優先株 NCAV = 8,200 ― 4,000 ― 0 = 4,200(百万円)

1株あたりNCAV = 4,200百万円 ÷ 1,000万株 = 420円

次に、NNWCを計算する。

  • 現金:3,000 ×100% = 3,000
  • 有価証券:500 ×100%(市場性ありなので時価100%とする)= 500
  • 売掛金:2,000 ×75% = 1,500
  • 棚卸資産:2,500 ×50% = 1,250
  • 前払費用:200 ×0% = 0
  • 割引後の流動資産合計 = 3,000 + 500 + 1,500 + 1,250 + 0 = 6,250

NNWC = 6,250 ― 負債合計4,000 ― 優先株0 = 2,250(百万円)

1株あたりNNWC = 2,250百万円 ÷ 1,000万株 = 225円

参考に、1株あたり純資産(BPS)も計算しておこう。

BPS = 純資産合計13,000百万円 ÷ 1,000万株 = 1,300円

3-5. 1株あたりNCAVと株価の比較 ― 判定する

さあ、これで判定材料がそろった。整理しよう。

  • 現在の株価:300円
  • 1株あたりNCAV:420円
  • 1株あたりNNWC:225円
  • 1株あたり純資産(BPS):1,300円

これを見てまず分かるのは、PBRが約0.23倍(株価300円 ÷ BPS 1,300円)であることだ。PBR1倍を大きく割り込んでいる。だが、PBR1倍割れ自体は、日本市場では珍しくない。

問題は、ネットネット基準でどうか、だ。

NCAV基準での判定: グレアムの「3分の2ルール」を適用する。買っていい上限価格は、1株あたりNCAV 420円 × 2/3 = 280円。 現在の株価は300円。280円より高い。 したがって、厳密なグレアム基準では、この株はまだ「ネットネット株」ではない。NCAV(420円)は下回っているが、その3分の2(280円)は下回っていない。「あと20円下がれば、ネットネット株になる」という状態だ。

NNWC基準での判定: 株価300円に対し、1株あたりNNWC 225円。 株価はNNWCを上回っている。NNWC基準では、まったく割安水準にない。

つまり、この「日本部品工業」は、PBRで見れば超割安(0.23倍)に見えるが、グレアムの厳格なネットネット基準で見ると、「惜しいけれど、まだ買い水準ではない」という判定になる。

この例が示しているのは、「PBR割安」と「ネットネット株」はまったく別物だ、ということだ。ネットネット基準のほうが、はるかに、はるかに厳しい。

仮に、この会社の株価が市場の悲観でさらに売られて、たとえば260円になったとしよう。すると――

  • NCAVの3分の2(280円)を下回る → NCAV基準でネットネット株成立
  • ただしNNWC(225円)はまだ上回っている → NNWC基準では未達

そして株価が220円まで売られたら――

  • NCAVの3分の2(280円)を大きく下回る
  • NNWC(225円)すら下回る → NNWC基準でもネットネット株成立

このように、株価が下がれば下がるほど、ネットネット度は深まる。そして、グレアムの教えでは、ネットネット度が深い(ディスカウントが大きい)銘柄ほど、その後のリターンが高い傾向がある――これはオッペンハイマーの研究でも確認されている。この点は第5章で詳述する。

ここまでで、「計算の仕方」は理解できたはずだ。だが、ここで誰もが抱く疑問がある。「そもそも、なぜそんな株が存在するのか? なぜ市場はそれを放置するのか? そして、なぜそれを買うと儲かるのか?」

その「なぜ」を、次の第4章で解き明かす。


第4章 なぜネットネット株は儲かるのか ― 理論的背景

4-1. マージン・オブ・セーフティ(安全余裕度)

ネットネット株がなぜ機能するのか。その答えの中心にあるのが、「マージン・オブ・セーフティ」という概念だ。

グレアムは、この言葉を投資哲学の中核に据えた。バフェットは「賢明なる投資家」のなかで、もし投資原則を3つの単語に凝縮するなら「margin of safety(安全余裕度)」だ、とまで言っている。

マージン・オブ・セーフティとは、土木工学の比喩で説明されることが多い。橋を設計するとき、技術者は「最大で1万トンの荷重がかかる」と計算したら、その橋を「3万トンまで耐えられる」ように作る。なぜか。計算には誤差があるかもしれない。想定外の事態が起きるかもしれない。材料に欠陥があるかもしれない。だから、計算上の必要強度の何倍もの余裕をもって設計する。この「余裕」がマージン・オブ・セーフティだ。

投資におけるマージン・オブ・セーフティとは、「自分の価値評価が多少間違っていても、損をしないだけの価格差」のことだ。

ネットネット株は、このマージン・オブ・セーフティを、二重三重に積み重ねた構造になっている。

第一の余裕:**固定資産をゼロとカウントしている。**実際には、土地も建物も特許も価値があるのに、それを全部「ないもの」とみなしている。これだけで、すでに膨大な余裕が生まれている。

第二の余裕:**3分の2ルール。**NCAVそのものではなく、その3分の2を上限価格とする。NCAVに対して33%以上の割引を要求している。

第三の余裕:**NNWCを使う場合、流動資産にも掛け目をかける。**売掛金は75%、在庫は50%。回収不能や投げ売りを織り込んでいる。

第四の余裕:**分散。**20〜30銘柄以上に分散することで、個別銘柄の事故(倒産、不正)の影響を薄める。

これだけの安全網を重ねれば、「買った価格を大きく下回って、しかも回復しない」という最悪のシナリオの確率は、相当に低くなる。グレアムが「ほとんど確実に儲かるシステムのようだ」と言った理由は、ここにある。

4-2. 清算価値というダウンサイドの「床」

ネットネット株のもう一つの本質は、「下値に床(フロア)がある」ということだ。

通常の株式投資では、株価がどこまで下がるか、理論上の下限がない。業績が悪化すれば、株価は際限なく下がりうる。最悪、ゼロになる。

だが、ネットネット株は違う。その株価の背後には、「清算価値」という、ある程度実体のある裏付けがある。

考えてみてほしい。ある会社の1株あたりNCAVが300円で、株価が200円だとする。この株を全部買い占めれば、理論上は、会社を清算するだけで1株あたり300円が手に入る。200円で買って300円が返ってくる。50%の利益だ。

もちろん、現実の清算はそう簡単ではない。時間もかかるし、コストもかかる。だが、重要なのは、「論理的には、清算という出口が存在する」ということだ。この「清算価値」が、株価の下落に対する一種のクッション、あるいは「床」として機能する。

実際、市場が極端にミスプライス(価格付けを誤る)した場合、それを是正する力が働く。たとえば――

  • 会社自身が、余剰資産で自社株買いをする(1株あたり価値が上がる)
  • 会社が増配や特別配当で、現金を株主に返す
  • アクティビスト投資家が現れて、経営陣に資産の有効活用を迫る
  • 同業他社や投資ファンドが、その会社を買収する(安く資産が手に入るから)
  • 経営陣自身がMBO(経営陣による買収)で会社を非公開化する

これらはすべて、「市場価格 < 清算価値」という歪みを、現実の力で是正する経路だ。バフェットがサンボーン・マップやデンプスター・ミルでやったのは、まさにこの「歪みを自分の手で是正する」ことだった(第6章で詳述)。

つまり、ネットネット株のリターンの源泉は、「市場がいつか正気に戻る」という受動的な期待だけではない。「歪みがあれば、それを是正しようとする現実の力が、いずれ働く」という、より能動的なメカニズムにも支えられている。

4-3. 平均回帰(ミーン・リバージョン)

ネットネット株が機能する、もう一つの理由が「平均回帰(ミーン・リバージョン)」だ。

平均回帰とは、「極端な状態は、いずれ平均的な状態に戻っていく傾向がある」という、統計的・経験的な法則である。

株式市場では、これがさまざまな形で観察される。極端に割高な株は、いずれ評価が下がる。極端に割安な株は、いずれ評価が上がる。極端に高い利益率の事業には競合が参入して利益率が下がる。極端に低い利益率の事業からは退出が起きて、生き残った企業の利益率が回復する。

ネットネット株は、「極端に割安」というカテゴリーの、さらに極端な端っこにいる。「固定資産をタダとみなしてもなお3分の2以下」という状態は、明らかに異常値だ。

そして、異常値は、平均回帰の力が最も強く働く場所でもある。

具体的に、ネットネット株に何が起きるか。多くの場合、その会社は「今は業績が悪い」か「市場から見放されている」かのどちらかだ。だが――

  • 業績が悪い会社の一部は、業績が回復する。景気循環、リストラ、新製品、経営陣交代などで。すると、「赤字だから安い」だった株が、「黒字なのに安い」になり、やがて適正評価に戻る。
  • 業績が回復しない会社でも、前述の通り、自社株買い・配当・買収・アクティビストといった力で、清算価値が顕在化する。

オッペンハイマーらの研究が示したのは、こうした平均回帰が、ネットネット株のグループ全体としては、かなり高い確率で、しかも比較的短期間(1〜2年程度)で起きる、ということだった。すべての銘柄が回復するわけではない。だが、グループとして見れば、回復組の値上がりが、ダメ組の損失を大きく上回る。

4-4. 市場の非効率性 ― なぜ放置されるのか

ここで、当然の疑問が湧く。「そんなに確実に儲かるなら、なぜみんなやらないのか? なぜそういう株が放置されているのか?」

これは「効率的市場仮説」への反論にあたる重要な問いだ。市場が完全に効率的なら、ネットネット株のような「無料のランチ」は存在しえない。だが、現実には存在してきた。なぜか。理由はいくつもある。

理由1:ネットネット株は、たいてい「気持ちの悪い」会社である。 ネットネット株になるような会社は、業績が低迷していたり、属する業界が斜陽だったり、何らかのスキャンダルがあったり、要するに「人気がない」。買うと、周囲から「なんでそんなダメな会社の株を?」と言われる。プロのファンドマネージャーにとっては、「有名な成長株を買って失敗する」よりも「無名のボロ株を買って失敗する」ほうが、キャリア上のダメージが大きい。だから、プロほどこの領域を避ける。

理由2:規模が小さすぎて、大きな資金が入れない。 ネットネット株の大半は、時価総額が極めて小さい(数億円〜数百億円)。運用資産が1兆円のファンドが、時価総額50億円の会社に投資しても、ポートフォリオ全体への影響はゼロに等しい。しかも、買おうとすれば自分の買いで株価が跳ね上がり、売ろうとすれば自分の売りで暴落する。だから、機関投資家は構造的にこの領域に入れない。これは個人投資家にとっては、むしろ「大口が来ない、自分たちの庭」ということでもある。

理由3:流動性が低く、取引しづらい。 出来高が極端に少ない銘柄が多い。1日に数百株しか売買が成立しないこともある。これでは、まとまった金額を機動的に動かせない。プロは敬遠する。

理由4:「退屈」で「時間がかかる」。 ネットネット株は、買ってから報われるまで、1年、2年、ときにそれ以上かかる。その間、株価は動かないか、むしろ下がるかもしれない。この「待つ」プロセスは、心理的に極めて退屈で、苦痛ですらある。多くの投資家は、待ちきれずに投げてしまう。

理由5:個別に見ると「怖い」。 ネットネット株を1銘柄だけ取り出して精査すると、たいてい「これは倒産するんじゃないか」という不安要素が見つかる。この戦略は「分散したグループ」として初めて機能するのに、人間心理は個別の恐怖に負けてしまう。

これらの理由が複合して、ネットネット株は「理屈では儲かると分かっていても、実際にやる人が少ない」という状態が、何十年も続いてきた。そして、「やる人が少ない」からこそ、歪みが解消されずに残り、やる人にリターンをもたらしてきた。

これは「裁定取引の限界(limits of arbitrage)」という、金融経済学の重要な概念とも結びついている。「儲かる歪み」が存在しても、それを是正しようとする行為自体に、コスト・リスク・制約があれば、歪みは完全には消えない。ネットネット株は、その典型例なのだ。

4-5. 行動経済学からの説明

近年では、行動経済学(行動ファイナンス)の知見が、ネットネット株の「なぜ」をさらに深く説明している。

損失回避と「サザエさん効果」的な過剰反応。 人間は、利益の喜びより損失の苦痛を、約2倍強く感じる(損失回避バイアス)。だから、悪材料が出た株は、合理的な水準を超えて売られる。「もうこれ以上損したくない」という感情が、投げ売りを生む。ネットネット株は、この「過剰に売られた」結果として生まれることが多い。

直近性バイアス(リーセンシー・バイアス)。 人間は、直近の出来事を過大評価する。ある会社が3年連続で減益だと、「この会社はもうダメだ、永遠にダメだ」と感じてしまう。だが、企業の業績は循環する。3年悪ければ、4年目に良くなることもある。市場は、この「循環」を忘れ、「直近の悪さ」を将来に延長してしまう。

代表性ヒューリスティック。 「ボロい業界の、ボロい会社」というカテゴリーに入れられた瞬間、その会社の個別の良い点(現金が潤沢、無借金、など)が見えなくなる。「斜陽産業の中小企業」というラベルが、すべてを覆い隠してしまう。

プロフェッショナルのアジェンシー問題。 ファンドマネージャーは、顧客や上司の目を気にする。四半期ごとに成績を報告しなければならない。ネットネット株のように「2年待たないと報われない」戦略は、彼らのキャリア上のインセンティブと噛み合わない。「みんなと一緒に有名株を持って、みんなと一緒に負ける」ほうが、彼らにとっては安全なのだ。これを「制度的な必須条件(institutional imperative)」とバフェットは呼んだ。

これらの行動バイアスは、人間の脳の構造に根ざしている。だから、何十年経っても、なくならない。情報技術がどれだけ進歩しても、人間が人間である限り、過剰な悲観も、直近性バイアスも、損失回避も、消えない。だからこそ、ネットネット株のような「人間の弱さが生む歪み」も、形を変えながら、これからも生まれ続けると考えられる。

ただし――ここは強調しておかなければならない――「歪みが生まれ続ける」ことと、「あなたがその歪みから利益を得られる」ことは、同じではない。歪みから利益を得るには、その歪みを生んでいるのと同じ「人間の弱さ」を、あなた自身が克服しなければならない。退屈に耐え、孤独に耐え、個別の恐怖に耐え、2年待てる規律。それを持てる人だけが、この戦略の果実を手にできる。

次の章では、「本当にネットネット株は儲かるのか?」を、感情論ではなく、90年にわたる学術研究の蓄積で検証していく。


第5章 学術研究が示す実績 ― エビデンスの蓄積

ネットネット株戦略の素晴らしいところは、それが「単なる伝説」ではなく、無数の学術研究によって繰り返し検証されてきた、という点だ。投資の世界には「儲かる」と言われる手法が無数にあるが、ここまで長期間、ここまで多くの市場で、独立した研究者によって検証され、しかもほぼ一貫してプラスの結果が出ている戦略は、それほど多くない。

この章では、主要な研究を時系列で見ていく。

5-1. オッペンハイマー(1986)の記念碑的研究

ネットネット株研究の金字塔とされるのが、ヘンリー・R・オッペンハイマー(Henry R. Oppenheimer)による論文だ。

タイトルは「Ben Graham’s Net Current Asset Values: A Performance Update(ベン・グレアムの正味流動資産価値:パフォーマンスの最新検証)」。1986年、権威ある学術誌『Financial Analysts Journal』(第42巻第6号、40〜47ページ)に掲載された。

オッペンハイマーが検証したのは、**1970年から1983年まで(13〜14年間)**の米国市場だ。

手法はシンプルだった。毎年12月31日に、「株価がNCAVの3分の2以下」という条件を満たす銘柄をすべて拾い出し、それらを均等に買ってポートフォリオを組む。そして1年後にすべて売却し、新たにその時点の条件を満たす銘柄でポートフォリオを組み直す。これを13年間繰り返す。

結果は、衝撃的だった。

複数の解説が、その年率リターンを「約29.4%」あるいは「約28.3%」「約30%」と報告している(計算方法・期間の取り方で若干の差がある)。同時期の市場平均(NYSE-AMEX指数や小型株指数)を、大幅に上回った。論文の要約自体が、「NAV(正味流動資産)証券から組成されたポートフォリオは、1970〜83年の期間を通じて、市場ベンチマークよりも高い平均リターンを示した」「13年間のリスク調整後リターンは、ベンチマークを有意に上回った」と述べている。

オッペンハイマーは、もう一つ重要な発見をした。「NCAVに対する割引が大きい銘柄ほど、その後のリターンが高い傾向がある」ということだ。つまり、株価がNCAVの60%の銘柄より、40%の銘柄のほうが、平均的にはよく上がった。これは、第3章の最後で触れた「ネットネット度が深いほどリターンが高い」という経験則の、学術的な裏付けである。

さらにオッペンハイマーは、12か月保有だけでなく、最長30か月の保有期間でも検証し、「保有期間を変えても、ネットネット・ポートフォリオは市場を上回った」ことを確認している。

この論文が「記念碑的」と呼ばれるのは、グレアムが「年率約20%」と語っていた主張を、独立した研究者が、厳密な学術的手法で、しかもグレアムの活動時期より後の期間で、追検証して「確かに本当だった」と示したからだ。「グレアムは本当のことを言っていたのか?」――オッペンハイマーは、それを確かめ、「イエス」と答えた。

5-2. トウィーディー・ブラウンの「What Has Worked In Investing」

オッペンハイマーが学術界の検証なら、実務界からの検証として有名なのが、米国の老舗バリュー運用会社**トウィーディー・ブラウン(Tweedy, Browne Company)**がまとめた調査資料「What Has Worked In Investing(投資において何が機能してきたか)」だ。

トウィーディー・ブラウンは、グレアムやバフェットとも縁の深い、伝統あるバリュー投資の実務家集団である。この資料のなかで、彼らはネットネット戦略についてこう述べている。「正味流動資産価値アプローチは、共通の選択基準を持つ証券のグループへの投資手法として、我々が知る限り最も古いものである」。

そして、彼ら自身を含む複数の調査をまとめ、「ネットネット株のグループは、市場平均を一貫して上回ってきた」という結論を支持している。オッペンハイマーの結果とも整合的だった。

実務家が、自分たちの実弾(顧客の資金)で長年運用してきた経験から「これは機能する」と述べている点に、この資料の重みがある。

5-3. グリーンブラットらの研究 ― 「P/Eを足す」改良

『株デブ』『魔法の公式』で知られる著名投資家ジョエル・グリーンブラット(Joel Greenblatt)も、若い頃にネットネット戦略の検証を行っている。

グリーンブラットらは、グレアムの伝統的なネットネット基準でまず銘柄を絞り込んだうえで、「悪い銘柄をさらに除外する」ために、PER(株価収益率)の条件を追加した。NCAV基準とPER基準を組み合わせて、1972年4月から1978年4月までの、極めてボラティリティ(変動)の激しかった期間で、4つの異なるポートフォリオを検証した。時価総額300万ドル未満の極小銘柄は除外し、「100%値上がりするか、2年経過するか、どちらか早いほうで売却」というルールを設けた。

結果は、やはり市場を上回るものだった。グリーンブラットらの研究が示唆したのは、「グレアムのネットネット基準は、それ単独でも機能するが、他の品質フィルター(PERなど)と組み合わせると、さらに改善する余地がある」ということだった。これは、第10章で触れる「クオリティとバリューの統合」という現代的なテーマの、先駆けとも言える。

5-4. ロンドン市場での検証(Xiao & Arnold 2008)

ネットネット株研究は、長らく米国市場が中心だった。「米国でしか機能しないのでは?」という疑問に答えたのが、英国市場での検証だ。

イン・シャオ(Ying Xiao)とグレン・アーノルド(Glen Arnold)による「Testing Benjamin Graham’s Net Current Asset Value Strategy in London(ロンドンにおけるベンジャミン・グレアムの正味流動資産価値戦略の検証)」は、『The Journal of Investing』(2008年)に掲載された。

彼らが検証したのは、**1980年から2005年まで(26年間)**のロンドン証券取引所だ。「株価がNCAVの3分の2以下」(=NCAV/時価総額 ≧ 1.5)の銘柄を対象とした。

結果は、米国と同様だった。ネットネット株のポートフォリオは、市場を有意に上回った。

この研究が特に重要なのは、「アウト・オブ・サンプル検証」だった点だ。つまり、グレアムやオッペンハイマーが研究した米国市場とは「別の市場」で、同じ戦略が機能するかを試した。もし米国だけの偶然なら、英国では機能しないはずだ。だが、機能した。これにより、「ネットネット効果は、特定の市場・特定の時代の偶然ではない」という確信が強まった。

さらにXiaoとArnoldは、この超過リターンが「リスクの対価」では説明できないことも示した。ファマ=フレンチの3ファクターモデル(市場リスク、サイズ、バリュー)を使っても、ネットネット株の超過リターンは説明しきれなかった。彼らは、この超過リターンが「不合理な価格付け(irrational pricing)」に由来する可能性を示唆した。つまり、「ネットネット株が儲かるのは、隠れたリスクを取っているからではなく、市場が単に間違っているからだ」という、グレアム的な解釈を支持したのである。

5-5. 「75歳でなお現役」(Carlisle, Mohanty & Oxman 2010)

オッペンハイマーの1986年研究の「続編」にあたるのが、トバイアス・カーライル(Tobias Carlisle)、スニル・モハンティ(Sunil Mohanty)、ジェフリー・オックスマン(Jeffrey Oxman)による2010年の研究だ。

タイトルがふるっている。「Ben Graham’s Net Nets: Seventy-Five Years Old and Outperforming(ベン・グレアムのネットネット:生誕75年、なお市場を上回る)」。

彼らは、オッペンハイマーの手法を引き継ぎ、**1983年12月31日から2008年12月31日まで(25年間)**の米国市場を検証した。これは、オッペンハイマーの研究期間(1970〜83年)の「直後」にあたる期間だ。つまり、2つの研究を合わせると、1970年から2008年まで、約40年間が連続してカバーされる。

結果は、タイトルの通りだった。グレアムがネットネット戦略を考案してから75年が経ってもなお、この戦略は市場を上回り続けていた。

トバイアス・カーライルは、この研究をきっかけに『Deep Value(ディープ・バリュー)』などの著書を出し、現代における「ディープ・バリュー投資」の代表的な論者の一人となった。

5-6. 日本市場での検証(Bildersee et al. 1993)、そして最新研究(Mohanty 2026)へ

日本市場についても、検証研究がある。ジョン・ビルダーシー(John Bildersee)らによる研究は、NCAVモデルを日本株に適用し、「正規化したNCAVがプラスの銘柄は、日本の株式市場においても、リスク調整後ベースで市場を上回る」こと、しかも「PER効果をコントロールしてもなお、その効果は残る」ことを示した。日本は、後の章で詳しく述べるように、長らく「ネットネット株の宝庫」と言われてきた市場であり、この検証結果はそれを学術的に裏付けるものだった。

そして、ネットネット株研究は今も続いている。ごく最近のものとして、モハンティらによる「Does Ben Graham’s net current asset value investing continue to generate excess returns?(ベン・グレアムの正味流動資産価値投資は、今なお超過リターンを生み続けているか?)」が、『Review of Financial Economics』誌(第44巻、2026年)に掲載された。

この研究は、**1969年から2019年まで(50年間)**という、極めて長期の米国市場データを使った。サンプルは648社のユニークな企業。結果として、価値加重(バリューウェイト)のNCAVポートフォリオは、月次平均リターン1.94%を記録し、市場ベンチマークを有意に上回った。さらに、ファマ=フレンチの5ファクター、パストール=スタンバウの流動性ファクター、そして1月効果(January effect)――これらすべてをコントロールしてもなお、月次1.09%(年率換算で約13.9%)という、統計的にも経済的にも有意な「アルファ」(超過リターン)が残った。

50年間のデータで、あらゆるリスク要因を調整してもなお、年率約14%の超過リターンが残る――これは、ネットネット効果が「リスクの隠れた対価」ではなく、本物の「ミスプライス(価格付けの誤り)」であることを、改めて強く示唆するものだ。

5-7. 研究の総括 ― 何が分かったか

90年にわたる研究の蓄積から、何が言えるのか。整理しよう。

**第一に、ネットネット株戦略は、長期的・分散的に実行すれば、市場平均を上回ってきた。**これは、米国(1970-83、1983-2008、1969-2019)、英国(1980-2005)、日本、その他の国々で、独立した研究者によって、繰り返し確認されている。これだけ頑健な結果が出ている投資戦略は、稀である。

**第二に、割引が深い銘柄ほど、リターンが高い傾向がある。**オッペンハイマーが示したこの発見は、その後の研究でも概ね支持されている。

**第三に、超過リターンは「隠れたリスクの対価」では説明しきれない。**複数の研究が、標準的なリスクモデル(CAPM、ファマ=フレンチ3ファクター、5ファクターなど)を使っても、ネットネット株の超過リターンを説明できないことを示した。これは「市場の非合理性」「ミスプライス」を示唆する。

**第四に、しかし、リターンの「ばらつき」は大きい。**オッペンハイマーも指摘したように、個別のポートフォリオ・個別の期間で見ると、結果は「広く変動する(widely variable)」。良い年もあれば、悪い年もある。長期的・平均的には勝つが、短期的には負ける期間が必ずある。だから、この戦略には「長期間、規律を守って続ける忍耐」が不可欠だ。

**第五に、そして最も重要な留保。研究の多くは「理論上のポートフォリオ」を扱っている。**現実には、取引コスト、税金、流動性の制約、そして「極小銘柄を本当に買えるのか」という問題がある。研究が示す「グロスのリターン」と、個人投資家が実際に手にできる「ネットのリターン」の間には、無視できない差がありうる。また、「生存者バイアス」「上場廃止バイアス(delisting bias)」といった、データ上の落とし穴も指摘されている。研究結果は強力だが、それを鵜呑みにして「年率29%儲かる」と期待するのは危険だ。

要するに、学術研究が示すのは、「ネットネット株戦略には、本物の、頑健な、超過リターンの源泉がある。ただし、それを実際に収穫するには、規律と忍耐と、現実的な制約への対処が必要だ」ということである。

次の章では、この戦略を実際に使って巨万の富を築いた、最も有名な実践者――ウォーレン・バフェットの「シケモク時代」を見ていく。


第6章 ウォーレン・バフェットと「シケモク投資」

6-1. 「シケモク(Cigar Butt)」という比喩

ネットネット株投資を語るうえで、ウォーレン・バフェットの若き日の話は欠かせない。なぜなら、バフェットは「ネットネット株でキャリア最高のリターンを上げ」、そして「ネットネット株から卒業した」――その両方を、最も鮮やかに体現した人物だからだ。

バフェットは、グレアムから直接学んだ。コロンビア大学でグレアムの講義を受け、卒業後はグレアムの運用会社グレアム=ニューマンで働いた。彼の初期の投資スタイルは、グレアム流のネットネット投資そのものだった。

バフェットは、この手法を後年、独特の比喩で呼んだ。「シケモク投資(cigar butt investing)」である。

その比喩はこうだ。「道端に、誰かが吸い捨てたシケモク(吸いさし)が落ちている。みすぼらしくて、湿っていて、誰も拾わない。だが、まだ一服分だけ、煙が残っている。その一服は――タダだ」。

バフェット自身の言葉を借りれば、「もし、ある株を十分に安い価格で買えれば、たいていの場合、その事業の運命に何らかの一時的な好転(hiccup)が起きて、そこそこの利益で売り抜ける機会が訪れる。たとえその事業の長期的な業績がひどいものだったとしても」。

つまり、シケモク投資とは、「事業としては最低だが、株価が資産価値より異常に安いから、その差額(=最後の一服)だけを、タダでいただく」という戦略だ。これはネットネット投資の、バフェット流の表現にほかならない。

そして、若きバフェットは、このシケモクを拾うのが、天才的にうまかった。

6-2. サンボーン・マップ事件

バフェットのシケモク投資のなかで、最も有名な「教科書的事例」が、サンボーン・マップ・カンパニー(Sanborn Map Company)である。

サンボーン・マップは、もともと極めて優良な独占企業だった。同社は、米国中の都市の、建物一棟一棟まで詳細に描き込んだ地図を作成し、保険会社に販売していた。保険会社は、その地図を「火災リスクの評価」に使った。どの建物が燃えやすいか、隣の建物との距離はどうか――こうした情報が、保険料率の算定に不可欠だったのだ。米国全土を地図化するのは労働集約的な大事業だったが、ひとたび作り上げてしまえば、極めて収益性が高かった。

ところが1950年代、「カーディング(carding)」と呼ばれる、より技術的・効率的な火災リスク評価手法が登場し、サンボーンの地図ビジネスを少しずつ侵食し始めた。1930年代から1950年代にかけて、サンボーンの年間利益は約50万ドルから約10万ドルへと、じわじわと縮小していった。1950年から1958年にかけて、純利益は年率約10%のペースで減少した。株価も、1938年の110ドルから、1958年には45ドルまで下落していた。

ここで若きバフェットが目をつけた。

彼が見たのは、こうだった。サンボーンは、地図ビジネスの長年の利益を、株式や債券に投資して積み上げていた。その投資ポートフォリオの価値が、1株あたり約65ドルもあった。一方、当時のサンボーンの株価は45ドル。会社全体の時価総額は約475万ドルなのに、保有する株式・債券のポートフォリオだけで約700万ドルの価値があった。

つまり――地図ビジネスを「タダ」、いや「マイナスの値段」で、しかも投資ポートフォリオすら市場価値より安く、買える状態だったのだ。これは清算価値に基づく、絵に描いたようなグレアム流の投資機会だった。

バフェットは行動した。株を買えるだけ買い集め、最終的に発行済株式の2割超(資料によっては約43.8%)を取得し、会社の支配権を握った。

そして、ここからがバフェットの「シケモク投資」の本質だ。彼は、ただ「市場が正気に戻る」のを待たなかった。自ら**アクティビスト(物言う株主)**となって、歪みを是正しにいった。

彼は取締役会に対し、「投資ポートフォリオを分離し、その価値を株主に還元せよ」と提案した。当初、取締役会はこれを「とんでもない」と一蹴した。実は、サンボーンの取締役会は、ほとんどが顧客である保険会社の代表者で占められていた。彼らはサンボーンの株をほとんど持っておらず、「株主価値の最大化」には関心がなかった。むしろ「自分たちに地図を安く売ってくれればいい」と考えていた。

バフェットは、自身の保有株を背景に取締役に選任され、内部から改革を迫った。粘り強い交渉の末、最終的に取締役会は折れ、投資ポートフォリオの一部を、それと引き換えに会社の株式と交換する形で、株主に価値が還元された。バフェットのパートナーシップは保有株を拠出し、この投資から約50%のリターンを得たとされる。

サンボーン・マップ事件が教えてくれるのは、ネットネット投資の重要な真実だ。「清算価値があるだけでは、不十分なことがある」。その価値を顕在化させる「触媒(カタリスト)」――この場合はバフェット自身のアクティビズム――が必要なのだ。後年、ある投資家はこう総括している。「企業活動(コーポレートアクション)を伴わなければ、資産の価値そのものは、株を買う十分な理由にはなりにくい」。

6-3. デンプスター・ミル ― 危機と再生

サンボーンが「うまくいったシケモク」なら、デンプスター・ミル・マニュファクチャリング(Dempster Mill Manufacturing Company)は、「危うく大失敗になりかけたシケモク」である。

デンプスター・ミルは、ネブラスカ州ビアトリスにあった、風車や農業用の灌漑(かんがい)システムを作る会社だった。創業は1878年。米国中西部や大平原が開拓されていた時代、入植した農民たちは、農業のために水をくみ上げる風車や灌漑設備を必要としていた。デンプスターは、その需要に応える会社として始まった。

だが、バフェットが目をつけた1950年代後半、デンプスターはサンボーンと同じく「ゆっくりと、しかし確実に死につつある」会社だった。バフェット自身がパートナー宛ての手紙にこう書いている。「過去10年間の(デンプスターの)事業は、横ばいの売上、低い在庫回転率、そして投下資本に対してほとんど無いに等しい利益、によって特徴づけられる」。

つまり、デンプスターは「ひどい事業」だった。儲かっていない。だが――株価は異常に安かった。

複数の資料によれば、バフェットは、デンプスターの簿価が1株あたり約72ドル(資料によっては70ドル)、1株あたりの正味運転資本が約50ドルだったときに、株価約18ドルで買い始めた。簿価の約25%、つまり4分の1の値段である。これは典型的なネットネット株であり、シケモク株だった。

バフェットは買い増しを続け、1961年8月までに発行済株式の約70%を握った。1961年末には、デンプスター・ミルは、バフェットのパートナーシップ全体の20%超を占める、最大級のポジションになっていた。

ところが、ここで問題が起きた。デンプスターの事業状況は、バフェットが保有している間も悪化し続け、現金を流出させ続けたのだ。「シケモクの一服」を吸おうとしたら、シケモクそのものが、手の中で燃え尽きそうになっていた。

バフェットは追い詰められた。そして、相棒のチャーリー・マンガーに助けを求めた。マンガーは、デンプスターのような「ボロい事業」を、もともと好まなかった。だが、彼は解決策を提示した。「ハリー・ボトル(Harry Bottle)という男を、経営者として送り込め」と。

このハリー・ボトルが、見事だった。彼はコストを削減し、不採算の支店を閉鎖し、従業員を整理し、そして何より、ダブついた在庫を投げ売って現金化した。バフェットは、その現金を使って、デンプスターの勘定で株式投資を行った。ボトルは、業務の効率化によって、わずかながら売上の成長すら実現し、徹底したコスト管理で、デンプスターを黒字化させた。

最終的に、この投資はバフェットのパートナーシップにとって大きな成功となった。デンプスターの株価は、当初の購入価格から約3倍に上昇した。

だが、バフェットは後年、この投資を冷や汗とともに振り返っている。「もしデンプスターがダメになっていたら、私の人生と財産は、あの時点から、まったく違ったものになっていただろう」。

デンプスター・ミルの教訓は、サンボーンよりもさらに重い。「シケモク株は、触媒がなければ、清算価値そのものが燃え尽きていく」。バフェットを救ったのは、ハリー・ボトルという有能な経営者を見つけ、送り込めたことだった。もしボトルがいなければ、デンプスターは「平凡な、いや最悪の投資」になっていた可能性が高い。バフェット自身がそう認めている。

つまり、デンプスターの成功は、「安く買ったこと」だけが理由ではない。「安く買い」、「支配権を握り」、「有能な経営者を送り込んで」、「資産を能動的に現金化した」――この一連の能動的な行動の結果だったのだ。受け身で「市場が気づくのを待つ」だけでは、デンプスターは救えなかった。

6-4. バークシャー・ハサウェイという「最悪のシケモク」

そして、バフェットのシケモク投資の歴史で、最も象徴的で、最も皮肉な事例が――バークシャー・ハサウェイそのものである。

そう。今や時価総額で世界トップクラスの巨大複合企業バークシャー・ハサウェイは、その出発点において、バフェットが拾った「シケモク」だった。

1960年代、バークシャー・ハサウェイは、ニューイングランドの斜陽産業――繊維(織物)業――を営む、死につつある会社だった。米国の繊維産業は、安価な海外製品に押されて、構造的に衰退していた。バークシャーの株価は、その運転資本(working capital)すら下回る水準で取引されていた。絵に描いたようなネットネット株、絵に描いたようなシケモクだった。

バフェットは、このシケモクを拾った。そして――よく知られているように――これがきっかけで、彼はバークシャーの経営に深く関わることになり、繊維事業を再建しようと長年苦闘し、最終的には繊維事業を諦め、バークシャーを「投資の母体」として作り変えていった。

バフェットは後に、バークシャー・ハサウェイ(の繊維事業を買って固執したこと)を「自分の人生最大の投資の過ち」と公言している。シケモクを拾ったら、そのシケモクに何十年も縛られることになった、というわけだ。もし最初から優良企業を買っていれば、はるかに効率的に富を築けただろう、と。

ただし、歴史の皮肉として、その「最悪のシケモク」が、結果的に「世界で最も有名な投資会社の名前」になった。バフェット自身は「バークシャーという名前を使い続けているのは、自分の過ちを忘れないためだ」という趣旨のことを語っている。

6-5. マンガーとの出会い、そして「卒業」

バークシャーやデンプスターの苦い経験、そして何より、相棒チャーリー・マンガーの影響が、バフェットを「シケモク投資」から「卒業」させた。

マンガーは、バフェットにこう説いた。「並の事業を素晴らしい値段で買うよりも、素晴らしい事業を並の値段で買うほうが、はるかに良い」(It’s far better to buy a wonderful company at a fair price than a fair company at a wonderful price)。

これは、グレアム=ネットネット流の発想とは、根本的に異なる考え方だ。グレアム流は「事業の質は問わない。とにかく資産に対して異常に安ければ買う」。マンガー流は「多少高くても、長期にわたって複利で価値を生み続ける、質の高い事業を買え」。

この転換を決定づけたのが、1972年のシーズ・キャンディーズ(See’s Candies)の買収だった。シーズは、ネットネット株ではなかった。簿価を大きく超える価格で買った。だが、シーズには強力なブランド力があり、毎年のように値上げをしても客が離れない「価格決定力」があった。シーズは、買収後何十年にもわたって、投じた資金の何十倍ものキャッシュをバークシャーにもたらし続けた。

バフェットは、シケモク投資の限界を、こう総括している。「時は、素晴らしい事業の友であり、平凡な事業の敵である」(Time is the friend of the wonderful business, the enemy of the mediocre business)。

シケモク株(=平凡な、あるいはひどい事業)は、保有期間が長引くほど、価値が損なわれていく。デンプスターがまさにそうだった。一方、素晴らしい事業は、保有期間が長引くほど、複利で価値が増えていく。シーズがそうだった。

だから、運用資産が大きくなり、長期投資が前提になったバフェットにとって、シケモク投資は「卒業すべきもの」になった。シケモク投資は、「素早く拾って、素早く価値を顕在化させて、素早く売り抜ける」のが本来の姿だが、それは大きな資金では実行が難しい。前章で述べた「規模の問題」である。

6-6. それでも、若きバフェットのリターンは最高だった

ここで、極めて重要な事実を強調しておかなければならない。

バフェットは「シケモク投資から卒業した」。だが、それは「シケモク投資が儲からなかったから」ではない。むしろ、だ。

バフェット自身が、繰り返し認めている。「私のキャリアで最も高いリターン(率)を上げたのは、若い頃、小さな資金で、グレアム流のシケモク株を拾っていた時代だ」と。1950年代、彼の個人資産やパートナーシップは、年率50%を超えるような、とてつもないリターンを記録した年もあった。

なぜ卒業したのか。それは「資金が大きくなりすぎたから」だ。前章の「市場の非効率性」で述べた通り、ネットネット株は極小銘柄が中心であり、大きな資金では物理的に投資できない。バフェットの運用資産が数億ドル、数十億ドル、数千億ドルと膨らむにつれて、彼は「小さくて非効率な池」(=シケモク株の世界)から、「大きくて、ある程度効率的な湖」(=優良大型株の世界)へと、否応なく移らざるをえなかった。

バフェット自身、しばしばこう語っている。「もし今、私が小さな資金(100万ドル程度)を運用していたら、まったく違うやり方をするだろう。年率50%を狙えるだろう」。その「まったく違うやり方」とは、おそらく、若い頃にやっていたグレアム流のディープ・バリュー投資、つまりネットネット株を中心とした投資のことだ。

これは、個人投資家にとって、極めて勇気づけられる事実である。

世界最高の投資家が、「自分のキャリアで最も高いリターンを上げた手法」であり、「もし今、小さな資金を運用するなら、またその手法に戻る」と言っている。そして、その手法――ネットネット株投資――こそが、「資金が小さいこと」を、不利ではなく有利に変えてくれる、数少ない戦略なのだ。

機関投資家が構造的に入れない、小さくて、退屈で、人気のない、ネットネット株の世界。そこは、規律と忍耐を持った個人投資家にとっては、まだ「歪み」が残されている、数少ないフロンティアなのである。

ただし――バフェットの「卒業」が示すもう一つの教訓も、忘れてはならない。シケモク投資は、「拾ったら、燃え尽きる前に、一服を吸い切る」必要がある。デンプスターのように、放置すれば手の中で燃え尽きる。だから、ネットネット投資には「出口」の規律が、買うとき以上に重要になる。この点は、第8章の「売り方」で詳しく扱う。

ここまで、ネットネット株の「光」――定義、理論、実績、そして偉大な実践者――を見てきた。だが、この戦略には、同じくらい深い「影」がある。次の第7章では、その影の部分、つまりリスクと限界に、正面から向き合う。


第7章 ネットネット株の「影」 ― リスクと限界

ここまで読んできて、「ネットネット株、最高じゃないか」と思った読者もいるかもしれない。90年の研究が機能を裏付け、世界最高の投資家がキャリア最高のリターンを上げた手法――。

だが、ここで冷や水を浴びせなければならない。ネットネット株投資には、深刻な落とし穴がいくつもある。これらを理解せずに飛び込めば、「安物買いの銭失い」を地で行くことになる。グレアム自身が「分散」と「黒字企業に限定」という条件を課したのも、これらの落とし穴を知り抜いていたからだ。

この章は、おそらくこの記事の中で最も重要な章である。光を見たあとは、必ず影を見なければならない。

7-1. バリュートラップ(価値の罠)

ネットネット投資の最大の敵が、「バリュートラップ(value trap、価値の罠)」である。

バリュートラップとは、「割安に見えるが、実は割安なだけの理由があり、いつまで経っても株価が上がらない(あるいは下がり続ける)株」のことだ。

「株価がNCAVの半分だ! 割安だ!」と思って買う。だが、1年経っても株価は上がらない。2年経っても上がらない。3年経つと、むしろ業績悪化でNCAV自体が縮んでいて、気づけば「NCAVの半分」だったはずが「縮んだNCAVの、また半分」になっている。塩漬けである。

なぜバリュートラップが生まれるのか。市場は、たしかにしばしば間違える。だが、市場が「ある株を異常に安く放置している」とき、そこには「市場が知っていて、あなたが見落としている理由」が、本当に存在することもある。たとえば――

  • 構造的に衰退する産業で、清算価値が今後も縮み続けることが、ほぼ確実
  • 経営陣が株主価値にまったく関心がなく、現金を死蔵し続ける(あるいは無駄遣いする)
  • 創業家やオーナーが株式の大半を握っていて、外部株主の声が一切届かない
  • 簿外債務や訴訟リスクなど、貸借対照表に表れない「隠れ負債」がある
  • 会計が信頼できない(粉飾、あるいは過度に楽観的な資産評価)

これらの場合、「安い」のは市場の間違いではなく、市場の「正しい警告」かもしれない。

バリュートラップを完全に避ける方法はない。だが、ダメージを抑える方法はある。それが、グレアムの言う「分散」だ。1銘柄に集中すれば、それがバリュートラップだったとき、致命傷になる。だが、30銘柄に分散しておけば、そのうち5つ10つがバリュートラップでも、残りの「ちゃんと報われる銘柄」が、全体を救ってくれる。ネットネット投資が「グループ戦略」であるべき最大の理由が、ここにある。

7-2. 資産の「質」の問題 ― 在庫と売掛金

NCAVの計算は、流動資産を「額面通り」にカウントする。だが、第1章でNNWCを説明したときに触れたように、現実の流動資産は、額面通りの価値があるとは限らない。

特に問題になるのが、棚卸資産(在庫)と売掛金だ。

**在庫の罠。**貸借対照表に「在庫1,000百万円」と書いてあっても、それが本当に1,000百万円で売れるとは限らない。

  • アパレル企業の、2シーズン前の流行遅れの服
  • 電子部品メーカーの、世代交代した旧型チップ
  • 機械メーカーの、もう誰も買わない旧式モデル

これらは、簿価通りには絶対に売れない。投げ売りしても、額面の2〜3割しか回収できないこともある。最悪、廃棄処分(=価値ゼロ)になる。「在庫が多い会社」のネットネット株は、特に慎重に見る必要がある。在庫の中身、在庫回転率、そして「在庫がいつから滞留しているか」を確認しなければならない。

売掛金の罠。「売掛金500百万円」も、全額回収できる保証はない。取引先が倒産すれば、その分は貸し倒れになる。特に、業績不振企業の取引先もまた業績不振であることが多く、連鎖的に貸し倒れが発生しうる。また、「売掛金が異常に増えている」会社は要注意だ。それは「無理な押し込み販売をしている」「回収が滞っている」「最悪、架空売上」のサインかもしれない。

NNWC(在庫50%、売掛金75%の掛け目)を使うのは、まさにこの「資産の質」の問題に対処するためだ。だが、掛け目すら、機械的に当てはめれば安全、というものではない。「この会社の在庫は、本当に50%で売れるのか? もっと悪いのではないか?」と、個別に、具体的に、保守的に考える必要がある。

逆に言えば、ネットネット株のなかでも「資産の中身が現金と市場性のある有価証券ばかり」という会社は、相対的に安全度が高い。現金は嘘をつかない。在庫や売掛金が嘘をつくのだ。

7-3. キャッシュ・バーン(現金燃焼)

これが、おそらくネットネット投資で最も見落とされがちな、そして最も致命的なリスクだ。

ネットネット株の前提は、「清算価値(NCAV)という床がある」ことだった。だが、その床は、固定されていない。赤字の会社は、毎年、その床を自分で削っていく

具体的に考えよう。ある会社のNCAVが1株300円、株価200円でネットネット株として買ったとする。だが、この会社が毎年、1株あたり40円のペースで赤字(現金流出)を垂れ流していたとしたら――

  • 1年後:NCAVは260円に縮む
  • 2年後:NCAVは220円に縮む
  • 3年後:NCAVは180円に縮む。もう、買値の200円すら下回った
  • 4年後:NCAVは140円……

これが「キャッシュ・バーン(現金燃焼)」だ。せっかくの「マージン・オブ・セーフティ」が、時間とともに溶けていく。「時は平凡な事業の敵」というバフェットの言葉は、まさにこれを指している。

だからこそ、グレアムは「直近12か月で純損失を出した企業を除外する」というルールを課した。これは「お行儀の良い追加条件」ではなく、ネットネット戦略の生死を分ける、本質的な防衛線なのだ。

現代の実務では、グレアムのルールをさらに発展させて、

  • 直近期だけでなく、過去3〜5年の利益動向を見る
  • 損益計算書上の「利益」だけでなく、キャッシュフロー計算書の「営業キャッシュフロー」を見る(利益は黒字でも、現金は流出していることがある)
  • フリーキャッシュフロー(営業CF ― 設備投資)がプラスか確認する

といったチェックが推奨される。「安い」かどうかの前に、「現金の床が、削られていないか」を確認する。これが鉄則だ。

7-4. 流動性の低さ ― 「買えない、売れない」問題

第4章で「市場の非効率性」の理由として触れたが、改めてリスクとして整理する。

ネットネット株の大半は、時価総額が極めて小さい。そして、出来高(売買が成立する株数)も極めて少ない。1日に数百株、ときには数十株しか取引が成立しない銘柄もある。

これが、3つの実務的な問題を生む。

**問題1:買いたい量を買えない。**まとまった金額を投資しようとすると、自分の買い注文だけで株価が跳ね上がってしまう。「200円で買いたい」と思っても、買い進むうちに220円、240円と上がってしまい、「ネットネット株」でなくなってしまう。

**問題2:売りたいときに売れない。**いざ売却したいとき(値上がりして利益確定したいとき、あるいは何か悪材料が出て損切りしたいとき)、買い手がいない。自分の売り注文だけで株価が暴落する。「出口」が極めて狭い。

**問題3:価格のブレが激しい。**流動性が低いと、ちょっとした注文で株価が大きく動く。本質的な価値は何も変わっていないのに、株価だけが乱高下する。精神的に消耗する。

この流動性リスクは、「個人投資家には不利」と思われがちだが、実は逆の側面もある。個人投資家は、運用額が小さいぶん、この「狭い池」でも泳げる。100万円、500万円、1,000万円といった規模なら、流動性の低い銘柄でも、時間をかけて少しずつ買い集めれば、なんとかなる。これは、数千億円を運用するファンドには絶対にできない芸当だ。「流動性の低さ」は、個人にとっては「障壁」であると同時に「参入者を絞ってくれる堀」でもある。

ただし、「時間をかけて少しずつ」「成行注文ではなく指値注文で」「焦らない」という規律は絶対だ。流動性の低い銘柄を、焦って成行で売買するのは、自分で自分の首を絞める行為である。

7-5. 分散の必要性 ― なぜ「グループ戦略」なのか

ここまでのリスク――バリュートラップ、資産の質、キャッシュ・バーン、流動性――を踏まえると、一つの結論が浮かび上がる。

ネットネット投資は、個別銘柄への「賭け」としてやってはいけない。「分散したグループ」としてやらなければならない。

これはグレアムが最初から強調していたことであり、オッペンハイマー以下すべての学術研究も「ポートフォリオ」を前提にしている。バフェットがやった「1銘柄に集中して支配権を握る」やり方は、例外的だ。あれは、バフェットほどの能力と、アクティビズムを実行できる立場があって、初めて成立する。普通の個人投資家が真似すべきは、グレアムの「分散グループ戦略」のほうだ。

なぜ分散が本質的に重要なのか。理由を整理する。

第一に、個別の事故を吸収するため。ネットネット株は、一つひとつを取れば「倒産するかもしれない」「不正があるかもしれない」「バリュートラップかもしれない」というリスクを抱えている。だが、30銘柄に分散すれば、3つ4つが事故っても、残り26、27銘柄でカバーできる。

第二に、リターンの分布が「偏っている」から。ネットネット株のリターンは、平均すれば市場を上回るが、その内訳は均一ではない。「多くが小さく報われ、一部が大きく報われ、一部が損失を出す」という、偏った分布になる。この「一部の大きく報われる銘柄」を取り逃さないためには、グループ全体を持つしかない。どれが大化けするかは、事前には分からないからだ。

第三に、精神的な安定のため。個別銘柄に集中していると、その1銘柄の値動きに一喜一憂し、悪材料が出るたびにパニックになる。だが、分散していれば、「ポートフォリオ全体」で考えられる。1銘柄が悪くても、「想定の範囲内」と冷静でいられる。この精神的安定が、「2年待つ」規律を支える。

具体的な分散の数は、グレアムは「20〜30銘柄以上」を推奨した。現代の論者のなかには「最低でも20、できれば30以上」と言う人が多い。資金が限られていて30銘柄も買えない、という場合は、「銘柄数を絞る」のではなく、「ネットネット投資に回す資金自体を、無理のない範囲に抑える」のが正しい対処だ。「10万円ずつ30銘柄」が無理なら、「ネットネット投資はやらない」または「資金が貯まるまで待つ」。中途半端に5銘柄だけ買う、というのは、グレアムの戦略とは別物になってしまう。

7-6. 「なぜ安いのか」を必ず問う

最後に、ネットネット投資の心構えとして、最も重要な問いを挙げておく。

ある銘柄がネットネット株として画面に出てきたとき、「安い! 買おう!」と飛びつく前に、必ずこう問わなければならない。

「なぜ、この株は、こんなに安いのか?」

市場は愚かだが、完全な馬鹿ではない。「固定資産をタダとみなしてもなお3分の2以下」という極端な価格には、たいてい「市場なりの理由」がある。その理由が――

  • 一時的・循環的な悲観」(景気後退、業界の一時的不振、過剰反応、無関心)なら、それは「買い」の好機かもしれない。平均回帰が働く。
  • 構造的・恒久的な問題」(産業の不可逆的な衰退、経営陣の背信、隠れ負債、会計不信)なら、それは「罠」かもしれない。避けるべきだ。

この見極めは、機械的なスクリーニングだけではできない。一つひとつの銘柄について、「なぜ安いのか」を調べ、「その理由は、一時的か、構造的か」を判断する。この一手間こそが、バリュートラップを避ける、最大の防御である。

もちろん、分散戦略の前提に立てば、「すべての銘柄を完璧に見極める」必要はない。だが、「明らかに構造的な問題を抱えた銘柄」「明らかに会計が怪しい銘柄」「明らかに現金を燃やし続けている銘柄」は、スクリーニングを通過しても、人間の目で除外する。この「除外のプロセス」が、グレアムの言うルール2(赤字企業の除外)の、現代的な拡張版なのだ。

光と影。第1章から第6章までが「光」、この第7章が「影」だった。次の第8章では、その光と影を両方踏まえたうえで、「では、実際にどうやってネットネット株を選び、買い、売るのか」という、具体的な実践プロセスに入っていく。


第8章 ネットネット株を実際に選ぶ ― スクリーニングと精査

理論と歴史と、光と影。ここまでで土台は固まった。この章では、いよいよ「実践編」だ。実際にネットネット株投資を行うとしたら、どういう手順を踏むのか。スクリーニング(ふるい分け)から、精査、買い方、売り方まで、順を追って見ていく。

なお、繰り返し断っておくが、これは「こうやれば儲かる」というレシピではない。「グレアムと、その後の研究者・実務家が、おおむね妥当としてきた、考え方の枠組み」である。実際の運用は、読者自身の判断と責任で行うべきものだ。

8-1. スクリーニングの第一歩

最初のステップは、膨大な上場銘柄のなかから、「ネットネット株の候補」を機械的に絞り込むこと――スクリーニングだ。

現代では、これは比較的簡単にできる。証券会社のスクリーニングツール、各種の株式情報サイト、有価証券報告書のデータベース(日本ならEDINET)などを使えば、財務データを一括で取得・比較できる。

スクリーニングの基本条件は、グレアムの定義に従えば、こうなる。

条件A(必須):株価 ≦ 1株あたりNCAV × 2/3 これがネットネット株の定義そのもの。NCAV = 流動資産 ―(負債合計 + 優先株)。

ただし、市販のスクリーナーには「NCAV」を直接の項目として持っていないものも多い。その場合は、

  • 「流動資産」「負債合計」「発行済株式数」「株価(時価総額)」

の4つのデータを取得して、自分で計算するか、近似指標を使う。近似指標としては、

  • 時価総額 ≦ 流動資産 ― 負債合計(=時価総額がNCAV以下。3分の2ルールを使わない、ゆるめのスクリーニング)
  • そこから、3分の2ルールを適用するなら 時価総額 ≦ (流動資産 ― 負債合計)× 2/3

まず広めに「時価総額 ≦ NCAV」で拾い、そこから「3分の2以下」のものに絞る、という二段階がやりやすい。

このスクリーニングをかけると、平時の日本市場では、おそらく数十社程度がヒットする(市場環境によって大きく変動する。暴落直後には数百社、好況の天井圏では数社、ということもある)。米国市場では、近年は純粋なネットネット株は非常に少ない。

8-2. グレアムの「2つの追加条件」を適用する

スクリーニングで出てきた「ネットネット候補」を、次に、グレアムの追加条件でふるいにかける。第2章で述べた、グレアムの正式なルールだ。

条件B:直近12か月で純損失を出していないこと(=黒字であること)。 損益計算書を確認し、直近の通期(あるいは直近12か月)が最終赤字の企業を、候補から外す。第7章で述べた「キャッシュ・バーン」のリスクを避けるための、本質的なフィルターだ。

現代的な拡張として、ここをさらに厳しくする論者も多い:

  • 直近期だけでなく、過去3〜5年のうち大半が黒字であること
  • 営業キャッシュフローがプラスであること
  • できればフリーキャッシュフローもプラスであること

条件C:分散を前提とすること。 これは個別銘柄の条件ではなく、ポートフォリオ全体の条件。「最終的に20〜30銘柄以上に分散できる見込みがあるか」を確認する。候補が5社しかないなら、そもそもこの戦略を実行する時期ではない、と判断する勇気も必要だ。

8-3. 除外すべき企業の特徴

条件Bを通過した銘柄でも、人間の目で見て「これは外したほうがいい」というものがある。第7章のリスク論を踏まえた、除外リストだ。

除外候補1:資産の中身が「在庫だらけ」の企業。 NCAVを構成する流動資産の大半が棚卸資産で、しかもその在庫が流行性の高いもの(アパレル、家電、旧型機械など)である場合。在庫の質を確認できないなら、避けるのが無難。

除外候補2:売掛金が異常に多い、あるいは急増している企業。 押し込み販売、回収難、最悪は架空売上の可能性。

除外候補3:現金を燃やし続けている企業。 たとえ直近1期が黒字でも、営業キャッシュフローがマイナスだったり、過去数年で現金が大きく減り続けていたりする企業。

除外候補4:会計が信頼できない企業。 監査法人が頻繁に交代している、過去に決算修正の履歴がある、注記が異常に多い、関連当事者取引が多い――こうした「会計の臭い」がする企業。

除外候補5:経営陣・支配株主が株主価値に無関心な企業。 創業家やオーナーが株式の大半を握り、外部株主の声が届かない。長年、現金を死蔵したまま、配当も自社株買いもしない。IRがほぼ存在しない。こうした企業は、「清算価値」が永遠に顕在化しないバリュートラップになりやすい。

除外候補6:構造的衰退産業の、衰退の渦中にある企業。 産業そのものが不可逆的に縮小しており、その企業に「次の柱」がまったく見えない場合。清算価値が今後も縮み続ける可能性が高い。

除外候補7:簿外債務・訴訟リスクを抱える企業。 貸借対照表に表れない、偶発債務、保証債務、係争中の大型訴訟など。注記をよく読む。

これらの「除外フィルター」を通すと、最初の数十社の候補は、おそらく十数社〜数十社に絞られる。

8-4. 精査のチェックリスト

除外フィルターを生き残った銘柄について、最後に、より丁寧な「精査」を行う。チェックリスト形式で挙げる。

【資産の質】

  • 流動資産の内訳は? 現金・有価証券の比率が高いほど安全
  • 在庫の中身、在庫回転率、滞留期間は?
  • 売掛金の回収サイト、貸し倒れ実績は?
  • 「投資その他の資産」に、換金しやすい有価証券(政策保有株など)はあるか?(修正NCAVの加点要素)

【負債の質】

  • 有利子負債はどれくらいか? 借金が少ない、または無借金が望ましい
  • 簿外債務、偶発債務、保証債務は?(注記を確認)
  • 退職給付債務は十分に手当てされているか?

【収益性・キャッシュフロー】

  • 直近および過去数年の純利益の推移は?
  • 営業キャッシュフローはプラスか?
  • フリーキャッシュフローはプラスか?
  • 現金残高は、増えているか、減っているか?

【なぜ安いのか】

  • この株が安い理由は何か?
  • その理由は「一時的・循環的」か「構造的・恒久的」か?
  • 業界全体の問題か、この企業固有の問題か?

【触媒(カタリスト)の有無】

  • 価値が顕在化する「きっかけ」はありそうか?
  • 自社株買い、増配、特別配当の実績や方針は?
  • アクティビストが入っている、または入りそうな兆候は?
  • 経営陣交代、事業再編、MBOの可能性は?
  • 同業他社やファンドによる買収の対象になりうるか?

【株主構成・ガバナンス】

  • 大株主は誰か? 創業家の保有比率は?
  • 経営陣は自社株を持っているか?
  • 過去の株主還元の姿勢は?
  • IRの質、情報開示の姿勢は?

このチェックリストのすべてに「満点」をつけられる銘柄は、まずない。ネットネット株は、もともと「何か問題がある」から安いのだ。重要なのは、「致命的な欠陥(キャッシュ・バーン、会計不信、構造的衰退、ガバナンス崩壊)がないか」を確認し、「致命的でない問題」については、分散でカバーする、という割り切りである。

8-5. 買い方 ― 分散とポジションサイズ

精査を通過した銘柄を、実際に買う。買い方にも規律がある。

規律1:分散する。 繰り返しになるが、20〜30銘柄以上。1銘柄あたりのポジションは、ネットネット・ポートフォリオ全体の3〜5%程度に抑える。「これは特に良さそうだ」と思っても、1銘柄に10%、20%と張るのは、グレアム流ではない。

規律2:資産配分を決める。 そもそも、自分の総金融資産のうち、何%をネットネット投資(=ディープ・バリューという、ボラティリティの高い戦略)に振り向けるのか。これは各人のリスク許容度次第だが、「全資産をネットネット株に」というのは、まず推奨されない。コア(インデックスや優良株)とサテライト(ネットネット株)に分け、サテライトの一部としてやる、というのが現実的な多くの個人投資家の選択だ。

規律3:指値で、ゆっくり買う。 流動性が低いので、成行注文は厳禁。指値注文で、株価を吊り上げないよう、時間をかけて少しずつ買い集める。「今日中に全部買わなければ」という焦りは、最大の敵。

規律4:買値の規律を守る。 「3分の2ルール」で買えるはずだった株が、自分の買いも含めた市場の動きで値上がりして、3分の2を超えてしまったら、追うのをやめる。「ネットネット株だから買う」のであって、「この会社が好きだから、いくらでも買う」のではない。

8-6. 売り方 ― 出口戦略

そして、ネットネット投資で、買い方と同じか、それ以上に重要なのが「売り方」だ。第6章で見たデンプスター・ミルの教訓――「シケモクは、燃え尽きる前に吸い切れ」――を思い出してほしい。

ネットネット投資の出口には、主に3つのパターンがある。

出口1:目標株価への到達。 最も基本的な出口。一般的な規律は、「株価がNCAV(の100%、つまり3分の2ではなく満額)に達したら売る」というものだ。グレアムも、おおむねこの考え方だった。3分の2以下で買って、満額(あるいはそれに近い水準)で売れば、それだけで約50%のリターンになる。欲張って「もっと上がるかも」と粘らない。ネットネット株は「割安が解消されたら卒業」が鉄則。割安が解消された後の値動きは、もはやネットネット投資の領分ではない。

なお、グリーンブラットの研究などでは「100%値上がりするか、2年経過するか、早いほうで売却」というルールも使われた。これも一つの規律のあり方だ。

出口2:時間切れ(タイムストップ)。 買ってから一定期間――よく使われるのは2〜3年――が経っても、株価が目標に達せず、かつ状況に改善が見られない場合、「これはバリュートラップだった」と判断して、損益にかかわらず売却し、より有望なネットネット株に乗り換える。これは「機会費用」の観点からの規律だ。塩漬けにして無限に待つのは、その資金で他のネットネット株を買えたはずの機会を失っている。

出口3:前提の崩壊(ファンダメンタル・ストップ)。 保有期間中に、「買ったときの前提」が崩れた場合。具体的には――

  • 黒字だったはずが、赤字に転落した(キャッシュ・バーンの始まり)
  • 重大な簿外債務や不正会計が発覚した
  • NCAV自体が、想定を超えるスピードで縮小し始めた こうした場合は、目標株価に達していなくても、時間が経っていなくても、即座に売却を検討する。これは損切りだが、「マージン・オブ・セーフティの前提が崩れた」以上、保有を続ける論理的根拠がない。

この3つの出口を、あらかじめルールとして決めておくこと。そして、そのルールを、感情を交えずに実行すること。これが、ネットネット投資を「規律ある戦略」として成立させる、最後のピースである。

買うときの規律(分散、指値、買値の上限)と、売るときの規律(目標到達、時間切れ、前提崩壊)。この両方がそろって初めて、第5章で見た学術研究が示す「市場を上回るリターン」に、近づくことができる。逆に言えば、規律のないネットネット投資は、研究が示すリターンとは、まったく別物の結果を生む。


第9章 現代日本市場とネットネット株

ネットネット株という戦略は、米国で生まれた。だが、その戦略が「最もよく当てはまる市場」として、長年、世界の投資家から注目されてきたのが――日本である。

この章では、日本市場とネットネット株の、特別な関係を見ていく。

9-1. なぜ日本は「ネットネット株の宝庫」とされてきたか

「日本株は、ネットネット株の宝庫だ」――これは、海外のディープ・バリュー投資家の間で、長年語られてきた言葉だ。実際、第5章で触れたビルダーシーらの研究をはじめ、日本市場を対象にしたネットネット株の検証研究は複数あり、いずれも「日本でもこの戦略は機能する」という結果を出している。

なぜ、日本にはネットネット株が多かったのか。理由は複合的だ。

理由1:バブル崩壊後の長期低迷。 1990年代初頭のバブル崩壊以降、日本株は長期にわたって低迷した。「失われた20年」「失われた30年」とも言われる。市場全体が長く悲観に覆われていたため、優良な資産を持つ企業ですら、株価が放置されがちだった。これは、グレアムが活動した1930〜50年代の米国と、構造的によく似た状況だった。

理由2:現預金を異常に積み上げる企業文化。 日本企業、特に中堅・中小の製造業には、「とにかく現金を貯め込む」という強い傾向があった。バブル崩壊と金融危機の記憶から、「借金は怖い」「現金が一番」という意識が染みついた。結果として、貸借対照表に巨額の現金・預金を抱えたまま、それを事業投資にも株主還元にも回さない企業が、大量に生まれた。現金が潤沢で負債が少ない――これは、まさにNCAVが高くなる条件そのものだ。

理由3:政策保有株(株式持ち合い)。 日本企業は、取引先や金融機関の株式を「政策保有株」として大量に持ち合ってきた。これらの株式は、貸借対照表上は「投資有価証券」(固定資産)に分類されるが、実質的には換金可能な資産だ。純粋なNCAVの計算では固定資産はゼロ扱いだが、この政策保有株を加味した「修正NCAV」で見ると、日本企業の「隠れた資産価値」はさらに大きくなる。

理由4:低いROEと、株主軽視の経営文化。 長年、日本企業は「ROE(自己資本利益率)が低い」と批判されてきた。資本を効率的に使っていない、株主への意識が低い、と。この「非効率」こそが、株価が資産価値を下回って放置される、根本的な原因だった。

これらの理由が重なって、日本は「資産はあるのに、株価が安い企業」――つまりネットネット株の候補――が、構造的に生まれやすい市場だった。

9-2. 「PBR1倍割れ」問題と東証の改革

ところが、ここ数年、日本市場には大きな構造変化が起きている。

2023年、東京証券取引所は、上場企業に対して、「資本コストや株価を意識した経営」を強く要請した。とりわけ焦点となったのが、「PBR(株価純資産倍率)1倍割れ」企業の問題だ。

PBR1倍割れとは、「株価が、会計上の純資産すら下回っている」状態。第1章で説明した通り、これはネットネット株(NCAV基準)よりはずっとゆるい基準だが、それでも「市場が、その企業の価値を、解散価値以下にしか評価していない」ことを意味する。

東証は、PBR1倍割れの企業に対して、「なぜ1倍を割っているのか、どう改善するのか」を開示・実行するよう促した。これは、事実上の「資産を有効活用せよ、さもなくば株主に返せ」という圧力だった。

この東証の改革は、ネットネット投資の観点からは、両刃の剣である。

ポジティブな側面: 「触媒(カタリスト)」が市場全体に広がった。今まで現金を死蔵していた企業が、自社株買い、増配、政策保有株の売却、事業再編に動き始めた。これは、放置されていた「清算価値」が顕在化する、強力な追い風だ。実際、2023年以降、日本株全体が大きく上昇した一因は、この「資本効率改革」への期待だった。

ネガティブな側面: 改革が進めば進むほど、「放置されたネットネット株」は減っていく。市場が歪みを是正していけば、歪みから利益を得る機会も減る。「日本はネットネット株の宝庫」という時代は、少なくとも以前ほどではなくなりつつある、という見方もできる。

つまり、現代の日本市場は、「ネットネット株が、価値を顕在化させやすくなった(良いこと)」と同時に、「純粋なネットネット株の数自体は減りつつある(機会の縮小)」という、過渡期にある。

9-3. 日本特有の論点 ― 政策保有株、現預金の積み上がり

現代日本でネットネット投資を考えるうえで、特に重要な「日本特有の論点」を2つ、深掘りする。

論点1:政策保有株をどう扱うか。 前述の通り、日本企業の「投資有価証券」(固定資産)に計上されている政策保有株は、実質的に換金性が高い。グレアムの純粋な定義では固定資産はゼロだが、日本株を分析する場合、「現金 + 売掛金等 + 棚卸資産 + 市場性のある投資有価証券 ― 負債合計」という「修正NCAV」を計算するのは、合理的なアプローチだ。むしろ、これを無視すると、日本企業の資産価値を大幅に過小評価してしまう。

ただし注意点もある。政策保有株は、株式市場の変動とともに価値が動く。市場が暴落すれば、政策保有株の価値も下がる。だから、「現金」ほど確実な資産ではない。修正NCAVに加える際は、ある程度の掛け目(たとえば時価の70〜80%)をかける、あるいは「純粋NCAV」と「修正NCAV」の両方を見て判断する、といった保守性が望ましい。

論点2:現預金の「死蔵」と、それを動かす力。 日本企業の積み上がった現預金は、長らく「死んだ資産」だった。あっても、株主には還元されない。だが、前述の東証改革、そして次項で述べるアクティビストの台頭によって、この「死んだ現金」を「生きた価値」に変える力が、かつてなく強まっている。ネットネット投資家にとって、「現預金をたっぷり持っているのに放置されている企業」は、依然として魅力的な候補だ。ただし、「その現金が、本当に株主に向かって動き出すか」――その触媒の有無を、より注意深く見る必要がある。

9-4. アクティビストの台頭

現代日本市場のもう一つの大きな変化が、「アクティビスト(物言う株主)」の急増だ。

アクティビストとは、企業の株式を取得したうえで、経営陣に対して「資産を有効活用せよ」「株主還元を増やせ」「不採算事業を売却せよ」「政策保有株を解消せよ」などと、積極的に要求する投資家のことだ。第6章で見た、若きバフェットのサンボーン・マップでの行動が、まさにアクティビズムの原型である。

かつての日本では、アクティビズムは「和を乱す行為」として嫌われ、根付かなかった。だが、2010年代後半以降、国内外のアクティビストが日本市場で急速に活動を活発化させている。コーポレートガバナンス・コードの整備、東証の改革、そして「資産はあるのに割安な日本企業」という豊富な標的――これらが、アクティビストを日本に呼び込んだ。

ネットネット投資家にとって、アクティビストの存在は重要だ。なぜなら、アクティビストは「触媒(カタリスト)」そのものだからだ。自分が買ったネットネット株に、有力なアクティビストが入ってくれば、「死蔵された清算価値」が顕在化する可能性が、大きく高まる。

実務的には、「アクティビストが大株主に入っている、または入りそうなネットネット株」は、「触媒のない、ただ安いだけのネットネット株」よりも、価値が顕在化しやすい。大量保有報告書(5%ルール)などで、著名アクティビストの動向をチェックするのは、現代日本のネットネット投資の、有効な一手である。

9-5. 日本でネットネット株を探す実践的視点

以上を踏まえ、現代の日本市場でネットネット株を探す際の、実践的な視点を整理する。

視点1:純粋NCAVと修正NCAVの両方を見る。 グレアム流の厳格な純粋NCAV(固定資産ゼロ)でまず絞り、そのうえで、政策保有株を加味した修正NCAVも計算して、「隠れた資産価値」の厚みを把握する。

視点2:現預金比率の高い企業を重視する。 ネットネット株のなかでも、流動資産の中身が「現預金・有価証券」中心の企業は、在庫・売掛金中心の企業より、はるかに安全度が高い。日本には、この「現金リッチなネットネット株」が、相対的に多い。

視点3:触媒の有無を最重視する。 純粋に安いだけでは、日本でも長年バリュートラップだった。重要なのは「価値が動き出すきっかけ」だ。具体的には――自社株買い・増配の実績や方針、政策保有株削減の方針、東証への「PBR改善計画」の開示内容、アクティビストの保有、創業家の世代交代やMBOの可能性、など。

視点4:小型株中心に探す。 大型株は、すでに多くの投資家・アクティビストの目が入っており、純粋なネットネット水準まで放置されることは稀。歪みが残っているのは、依然として、機関投資家の網にかかりにくい小型株の領域だ。

視点5:黒字・無借金を厳守する。 第7章・第8章で繰り返した通り。日本には「黒字で、ほぼ無借金で、現金をたっぷり持っているのに、株価が安い」企業が、まだ存在する。グレアムのルール2(赤字除外)を、日本でも厳格に守る。

9-6. 日本市場特有の注意点

一方で、日本市場でネットネット投資をする際の、固有の「注意点」もある。

注意点1:バリュートラップの長期化。 日本企業のなかには、「現金をたっぷり持っているのに、何十年も株主還元をせず、株価も上がらない」という、筋金入りのバリュートラップが存在してきた。創業家の保有比率が高く、外部の声がまったく届かない企業などだ。東証改革とアクティビズムで状況は変わりつつあるが、それでも「動かない企業は、本当に動かない」。触媒の有無の見極めは、米国以上に重要だ。

注意点2:流動性の問題が深刻。 日本の小型ネットネット株は、出来高が極端に少ないものが多い。第7章で述べた流動性リスクが、より深刻に当てはまる。

注意点3:情報開示の限界。 日本の小型株は、英文開示がない、決算説明会を開かない、IR情報が乏しい、というケースが多い。精査に必要な情報を集めるのに、手間がかかる。

注意点4:「割安」が常態化している可能性。 日本市場全体が長年「割安」だったため、「PBR0.5倍」程度では誰も驚かない。本当に「異常な割安」――純粋NCAVの3分の2以下――を求めるなら、スクリーニングの基準を緩めず、厳格に保つ必要がある。

総じて、現代日本市場は、ネットネット投資にとって「依然として有望だが、過渡期にあり、触媒の見極めがこれまで以上に重要になっている市場」と言える。「日本はネットネット株の宝庫」という古い常識を、「日本には、触媒さえあれば化けるネットネット株が、まだ残っている」という、より精密な認識にアップデートする必要がある。


第10章 ネットネット投資の現代的意義と発展形

ここまで、ネットネット株の定義、歴史、理論、実績、リスク、実践、そして日本市場での位置づけを見てきた。最後にこの章では、「では、21世紀の今、ネットネット投資にはどんな意義があるのか」「この戦略は、どう発展してきたのか」を考える。

10-1. 「純粋ネットネット」は絶滅危惧種か

率直に認めなければならない事実がある。グレアムが活動した時代に比べて、純粋なネットネット株は、はるかに少なくなった。

理由は、第6章でバフェットの「卒業」を語ったときにも触れた通りだ。

理由1:戦略が有名になりすぎた。 グレアムの本は世界中で読まれ、ネットネット戦略は広く知られた。第6章で引用した解説の通り、「より多くの投資家がこの高収益な戦略に気づくにつれて人気が高まり、市場参加者の増加によって、この戦略の利益は裁定取引で消されていった」。

理由2:情報技術の進歩。 かつては、ネットネット株を見つけるには、分厚い『ムーディーズ・マニュアル』を一ページずつめくる、という地道な作業が必要だった。若きバフェットは、まさにそれをやっていた。だが今は、誰でも数秒でスクリーニングできる。「見つけにくさ」という参入障壁が、消えた。

理由3:市場全体の上昇。 戦後、特に1980年代以降、世界の株式市場は長期的に上昇してきた。市場全体が高くなれば、「資産価値以下」という極端な銘柄は、自然と減る。

特に米国市場では、近年、グレアムの厳密な定義を満たす純粋なネットネット株は、ごくわずかしか存在しない時期が続いている。あったとしても、それは「誰もが避ける、本物の地雷」であることが多い。

では、ネットネット投資は「終わった戦略」なのか。

答えは「ノー、ただし形を変えて」だ。

10-2. 「機会は移動する」 ― 暴落と、辺境の市場

純粋ネットネット株は、平時の主要市場からは、ほぼ消えた。だが、それは「永遠に消えた」わけではない。機会は、移動する。

移動先1:暴落の直後。 市場が暴落すると、ネットネット株は一時的に「復活」する。2008年のリーマンショック後、2020年のコロナショック直後など、市場がパニックに陥った局面では、純粋なネットネット株が、世界中で一時的に大量発生した。グレアムやオッペンハイマーの研究が示す通り、こうした「全面安」の局面でネットネット株を仕込むのは、歴史的には極めて有効だった。つまり、ネットネット投資は「常時実行する戦略」というより、「暴落局面で威力を発揮する、出番を待つ戦略」という性格を、現代では強めている。

移動先2:辺境の市場、見られていない市場。 米国のような「見られすぎた」市場では機会が少ないが、世界には、まだ機関投資家の目が十分に入っていない市場がある。新興国市場、フロンティア市場、あるいは先進国でも超小型株の領域。「日本がネットネット株の宝庫」と言われたのも、かつて日本が「世界の投資家から相対的に見られていなかった」時期があったからだ。歪みは、「人の目が届かない場所」に移動する。

移動先3:小型株・超小型株。 同じ市場のなかでも、機関投資家が構造的に入れない超小型株の領域には、依然として歪みが残りやすい。第6章でバフェットが「もし今、小さな資金を運用するなら、年率50%を狙える」と言ったのは、この領域のことだ。

10-3. 派生戦略 ― NNWC、清算価値、サム・オブ・パーツ

ネットネット投資の「精神」――「資産価値に対して、市場が大幅にミスプライスしている対象を、安全余裕度をもって買う」――は、純粋なNCAV以外の形にも、発展・応用されてきた。

発展形1:NNWC(より厳格な清算価値)。 第1章で説明した、流動資産に掛け目をかける手法。純粋ネットネット株が減った現代では、「NCAV基準では候補が出ないが、NNWC基準で見ても十分安い」という、より厳しい掘り出し物を探す、という使い方もある。

発展形2:清算価値分析(リクイデーション・バリュー)。 NCAVは「流動資産だけ」を見るが、より踏み込んで、固定資産も含めた「本当に清算したらいくらになるか」を、資産ごとに精査する手法。土地の含み益、売却可能な事業、回収可能な投資有価証券などを、個別に評価する。手間はかかるが、純粋ネットネット株が枯渇した市場では有効な発展形だ。

発展形3:サム・オブ・ザ・パーツ(SOTP)分析。 複数の事業や資産を持つ企業について、「各部分を別々に評価して、足し合わせたら、時価総額よりずっと大きい」という歪みを探す手法。コングロマリット・ディスカウント(複合企業の割安)を突く。これもネットネット精神の応用形だ。

発展形4:ネット・キャッシュ株。 NCAVよりさらに厳しく、「現金・有価証券などの金融資産 ― 全負債」だけで時価総額を上回る企業を探す。在庫も売掛金も一切カウントしない、究極に保守的なバージョン。資産の質の問題を、ほぼ完全に回避できる。日本市場では、この「ネット・キャッシュ株」を狙う投資家も多い。

10-4. グレアム後期の「単純な基準」への回帰

ここで、ネットネット投資を考えるうえで、興味深い歴史的事実を紹介したい。

グレアム自身が、晩年、自らの投資哲学を「単純化」していった、という事実だ。

グレアムは、若い頃には『証券分析』に代表される、極めて緻密で詳細な分析を重視した。だが、晩年(1970年代半ば、亡くなる少し前)のインタビューや論考では、「もはや、複雑で詳細な証券分析は、必ずしも必要ない」「ごく単純な、機械的な基準――たとえば、低PERと健全な財務――で銘柄を分散して買うだけで、十分に良い結果が得られる」という趣旨のことを述べている。

これは、ネットネット投資の本質とも通じる。ネットネット投資は、もともと「複雑な将来予測を一切せず、貸借対照表という確定した事実だけを、機械的な基準で使う」戦略だった。グレアムは晩年、その「機械的・単純・分散」という原点の価値を、改めて強調したのだ。

この「単純さ」こそ、ネットネット投資が現代の個人投資家にとって持つ、大きな意義の一つだ。複雑な企業分析、業界分析、マクロ経済分析――これらは、専門知識と膨大な時間を要求する。プロでも難しい。だが、ネットネット投資の中核は、「貸借対照表を読んで、引き算をして、3分の2と比べる」という、誰にでもできる単純作業だ。もちろん、第7章・第8章で見たように、その上に「除外フィルター」と「精査」と「規律」が必要だが、戦略の骨格そのものは、驚くほどシンプルである。

10-5. クオリティとバリューの統合

現代のバリュー投資の主流は、純粋なネットネット(=資産だけ、質を問わない)から、「クオリティとバリューの統合」へと進化してきた。

第6章で見た、バフェットの「シケモクからの卒業」――「並の事業を素晴らしい値段で買うより、素晴らしい事業を並の値段で買え」――は、その象徴だ。また、第5章で触れたグリーンブラットの「NCAVにPERを足す」改良も、この方向性の先駆けだった。

現代の多くのバリュー投資家は、「安さ(バリュー)」だけでなく、「事業の質(クオリティ)」――高いROE、安定したキャッシュフロー、競争優位、健全な財務、誠実な経営――も同時に求める。「安かろう悪かろう」ではなく、「そこそこ良いものが、安く買えるとき」を狙う。

では、純粋なネットネット投資は、もう時代遅れなのか。

そうとも言い切れない。むしろ、両者は「使い分け」の関係にある。

  • 平時の主要市場で、腰を据えた長期投資をするなら → クオリティ重視のバリュー投資が主流
  • 暴落局面、辺境の市場、超小型株の領域で、規律ある分散投資をするなら → 純粋ネットネット投資が、依然として有効

そして、何より、純粋ネットネット投資を学ぶことには、「バリュー投資の原理を、最も純粋な形で理解できる」という、教育的な価値がある。ネットネット投資は、「マージン・オブ・セーフティ」「市場の非効率性」「清算価値」「平均回帰」「分散」「規律」――バリュー投資のすべての中核概念が、最も剥き出しの形で詰まった、いわば「バリュー投資の原器」なのだ。

10-6. 個人投資家にとっての意味

最後に、この長い記事を、個人投資家にとっての意味、という観点でまとめておきたい。

ネットネット投資が、現代の個人投資家に提供してくれるものは、3つある。

第一に、「小さいこと」を強みに変える戦略であること。 第6章で繰り返し述べた通り、ネットネット株の世界は、機関投資家が構造的に入れない領域だ。運用額が小さい個人投資家は、ここでなら、巨大資本と競争せずに済む。バフェット自身が「小さな資金なら、またこの手法に戻る」と言っている。「自分は資金が少ないから不利だ」と思っている個人投資家にとって、これは発想の転換をもたらす。

第二に、「単純で、検証可能で、規律化できる」戦略であること。 将来予測も、複雑なモデルも要らない。貸借対照表という確定事実を使う。90年の研究で検証されている。買い方・売り方をルール化できる。感情ではなく、規律で実行できる。これは、時間も専門知識も限られた個人投資家にとって、極めて現実的な戦略だ。

第三に、そして最も重要なのは、「投資の原理そのものを教えてくれる」こと。 たとえあなたが、最終的にネットネット投資を実践しないとしても――その代わりにインデックス投資をするとしても、優良成長株の長期投資をするとしても――ネットネット投資の論理を理解することには、計り知れない価値がある。なぜなら、それは「価格と価値は違う」「市場はしばしば間違える」「安全余裕度をもって買え」「分散せよ」「規律を持て」「忍耐せよ」という、あらゆる健全な投資に共通する原理を、最も明快な形で教えてくれるからだ。

グレアムが1930年代の絶望のなかで見出したこの戦略は、90年を経て、形を変えながら、今も生きている。それは「打ち出の小槌」ではない。バリュートラップがあり、キャッシュ・バーンがあり、流動性の罠があり、退屈と孤独に耐える忍耐を要求する。だが、その規律に耐えられる者にとって、ネットネット投資は、市場という気まぐれな相棒――ミスター・マーケット――の狂気から、冷静な算術だけを武器に、利益を引き出す、確かな方法の一つであり続けている。


終章 ― グレアムが本当に遺したもの

この長い記事を、ベンジャミン・グレアムその人に立ち返って、締めくくりたい。

グレアムは、ネットネット株という「儲かる手法」を遺した。年率20%、研究によっては30%近いリターン。世界最高の投資家バフェットを育て、彼にキャリア最高のリターンをもたらした手法。それは確かに、偉大な遺産だ。

だが、グレアムが本当に遺したものは、「手法」ではない。「ものの考え方」だ。

グレアムがネットネット株という発想にたどり着いたのは、1929年の大暴落で、自分のファンドが70%もの損失を被った、その絶望の底だった。普通の人間なら、その経験から「株式市場は恐ろしい、もう関わるまい」と学ぶ。あるいは「次は暴落の前に逃げ切ろう」と、市場のタイミングを読もうとする。

グレアムは、違った。彼は、絶望のなかで、こう考えた。「市場が狂気に陥っているなら、その狂気を、冷静な算術で、逆に利用できないか」と。「感情ではなく、論理。予測ではなく、事実。希望的観測ではなく、安全余裕度」。

ネットネット株は、その思考の、一つの結晶にすぎない。本質は、ネットネット株という個別の手法ではなく、その背後にある「市場の狂気と、自分の規律を、はっきり分けて考える」という、知的態度のほうにある。

バフェットは、グレアムから、ネットネット株という「手法」を学んだ。そして、後にその手法からは「卒業」した。だが、グレアムから学んだ「ものの考え方」――マージン・オブ・セーフティ、ミスター・マーケット、価格と価値の区別――これらからは、生涯、一度も卒業しなかった。70年後、アップルに巨額投資をしているときも、彼の頭の中にあったのは、グレアムが教えた、あの考え方だった。

だから、この記事を読んだあなたに、最後に伝えたいのは、こういうことだ。

ネットネット株を実際に買うかどうかは、あなた次第だ。買ってもいいし、買わなくてもいい。それは、あなたの資金規模、リスク許容度、使える時間、性格による。

だが、ネットネット株の「考え方」――会社の価値を「解体したらいくらか」という地に足のついた基準で測ること、市場の提示する価格を鵜呑みにしないこと、自分の計算が間違っていても損をしない余裕をもって買うこと、一つの賭けに集中せず分散すること、そして何より、退屈と孤独と不確実性のなかで、規律を保ち続けること――この考え方は、ぜひ、持ち帰ってほしい。

それは、ネットネット株だけでなく、あなたが将来行う、あらゆる投資判断の、静かで、しかし強靭な、土台になる。

90年前、絶望のどん底で、一人の男が見出した、冷徹で、しかし希望に満ちた知恵。それを、形を変えながら受け継いでいくこと――それこそが、ベンジャミン・グレアムが本当に遺したもの、なのだと思う。

長い記事に、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


参考資料

一次資料 ― グレアムの原典

  1. Benjamin Graham & David Dodd, Security Analysis (1934, McGraw-Hill). ネットネット株(正味流動資産価値)の概念が初めて体系的に提示された原典。「証券分析」という専門職を確立した記念碑的著作。以後、版を重ねている。邦訳『証券分析』(パンローリング)。
  2. Benjamin Graham, The Intelligent Investor (1949, Harper & Brothers). 一般投資家向けに書かれた、グレアムのもう一つの代表作。ネットネット株の考え方が平易に説明されている。バフェットが「投資について書かれた最高の本」と繰り返し称賛。邦訳『賢明なる投資家』(パンローリング)。
  3. Benjamin Graham, 晩年のインタビュー・論考(1976年前後). 晩年のグレアムが、複雑な証券分析から「単純・機械的・分散」の基準へと回帰していった思想が読み取れる。『Financial Analysts Journal』等に関連論考。

学術研究 ― ネットネット株のパフォーマンス検証

  1. Henry R. Oppenheimer, “Ben Graham’s Net Current Asset Values: A Performance Update,” Financial Analysts Journal, Vol. 42, No. 6 (Nov.–Dec. 1986), pp. 40–47. ネットネット株研究の金字塔。1970〜1983年の米国市場を検証し、年率約29%のリターンを報告。「割引が大きい銘柄ほどリターンが高い」ことも示した。
  2. Henry R. Oppenheimer, Common Stock Selection: An Analysis of Benjamin Graham’s “Intelligent Investor” Approach (1981, UMI Research Press). オッペンハイマーによる、グレアム流戦略の先行研究。
  3. Joseph D. Vu, “An Empirical Analysis of Ben Graham’s Net Current Asset Value Rule,” Financial Review, Vol. 23 (1988), pp. 215–225. 米国市場における、ネットネット・ルールの実証分析。
  4. John S. Bildersee, John J. Cheh & Ajay Zutshi, ネットネット株の日本市場における検証研究 (1993). 正規化したNCAVが、日本の株式市場でもリスク調整後ベースで市場を上回ること、PER効果をコントロールしてもその効果が残ることを示した。
  5. Ying Xiao & Glen Arnold, “Testing Benjamin Graham’s Net Current Asset Value Strategy in London,” The Journal of Investing, Vol. 17 (2008), pp. 11–19. 1980〜2005年のロンドン市場を検証した、重要な「アウト・オブ・サンプル」研究。超過リターンが標準的なリスクモデルでは説明できないことを示した。
  6. Tobias Carlisle, Sunil Mohanty & Jeffrey Oxman, “Ben Graham’s Net Nets: Seventy-Five Years Old and Outperforming” (2010). オッペンハイマー研究の続編。1983〜2008年の米国市場を検証し、グレアムの戦略が考案75年後もなお市場を上回ることを確認。
  7. James Montier, “Graham’s Net-Nets: Outdated or Outstanding?” (2008, ソシエテ・ジェネラル/GMO レポート). 著名な行動派バリュー投資家モンティエによる、ネットネット株のグローバルな検証。
  8. An et al., “Testing Benjamin Graham’s Net Current Asset Value Model,” Journal of Economic and Financial Studies, Vol. 3, No. 1 (2015), pp. 63–74. 1999〜2012年のデータを用い、個人投資家向けの実践的枠組みを提示。
  9. Singh & Kaur, インド市場におけるネットネット株の検証研究 (2013). インド市場でも戦略が機能すること、保有期間を12か月から24か月に延ばすと市場調整後リターンが向上することを示した。
  10. Sunil Mohanty et al., “Does Ben Graham’s Net Current Asset Value Investing Continue to Generate Excess Returns?” Review of Financial Economics, Vol. 44 (2026), pp. 1–18. 1969〜2019年の米国市場(648社)を検証した最新研究。ファマ=フレンチ5ファクター、流動性ファクター、1月効果をコントロールしてもなお、年率約13.9%のアルファが残ることを示した。

実務家による調査・解説

  1. Tweedy, Browne Company, What Has Worked In Investing. 老舗バリュー運用会社による、各種バリュー戦略の実証調査資料。「正味流動資産価値アプローチは、我々が知る限り最も古い、グループ投資の手法」と評価。
  2. Tobias Carlisle, Deep Value: Why Activist Investors and Other Contrarians Battle for Control of Losing Corporations (2014, Wiley). ネットネット投資を含む「ディープ・バリュー投資」の現代的な解説書。
  3. AAII (American Association of Individual Investors), “Benjamin Graham’s Net Current Asset Value Approach.” 全米個人投資家協会による、NCAVアプローチの実践的解説。グレアムが「30年間で年率約20%」と報告したこと等を紹介。

ウォーレン・バフェット関連 ― シケモク投資の実例

  1. Berkshire Hathaway, Shareholder Letters / Buffett Partnership Letters. バフェットの株主・パートナー向け書簡。特に1961〜1963年のパートナーシップ書簡には、デンプスター・ミル投資の経緯が詳述されている。バークシャー公式サイトで閲覧可能。
  2. Lawrence A. Cunningham (ed.), The Essays of Warren Buffett: Lessons for Corporate America. バフェットの書簡を編集した書。「シケモク投資(cigar-butt investing)」に関する記述を含む。邦訳『バフェットからの手紙』(パンローリング)。
  3. Yefei Lu, Inside the Investments of Warren Buffett: Twenty Cases (2016, Columbia Business School Publishing). バフェットの実際の投資案件20件を分析した書。サンボーン・マップ、デンプスター・ミルなど、初期のシケモク投資の詳細を含む。
  4. Alice Schroeder, The Snowball: Warren Buffett and the Business of Life (2008, Bantam Books). バフェットの公認伝記。サンボーン・マップ事件(取締役会で葉巻が回された逸話など)、ナショナル・アメリカン社の株を農家から買い集めた逸話など、初期のグレアム流投資が活写されている。邦訳『スノーボール』(日経BP)。

補助的な解説記事(本稿執筆時に参照)

  1. StableBread, “How to Apply Benjamin Graham’s Net-Net Stock Valuation Strategy” (2025年). NCAVとNNWCの計算方法、研究のレビュー、限界の解説。
  2. AlphaArchitect, “An Analysis of ‘Benjamin Graham’s Net Current Asset Values: A Performance Update'” / “…Strategy in London” (2022年). オッペンハイマー研究、Xiao & Arnold研究の詳細な分析。
  3. Nasdaq / GuruFocus, “Testing Graham’s Net Current Asset Value Strategy” (2017年). NCAVの定義と各国の研究のまとめ。
  4. GrahamValue, “Applying The NCAV Strategy Correctly” (2025年). グレアムが定めた「分散」「赤字企業の除外」という正式ルールの解説。
  5. Old School Value, “How to Time the Market With Net Net Stocks” (2020年). オッペンハイマー研究の実務的な解説。
  6. NetNetHunter, “Graham’s Net Net Mechanical Strategy for Small Investors” (2024年). 小型投資家向けの機械的ネットネット戦略の解説。
  7. The Investor’s Podcast, “Cigar Butt Investing: Buffett’s Strategy Until Munger Came Along” (2026年). シケモク投資の解説と、現代における有効性の議論。
  8. Jeff Towson, “Warren Buffett’s Investments in ‘Slowly Dying’ Businesses — Sanborn Map, Dempster Mills, and Berkshire Hathaway” (2024年). バフェットの「ゆっくり死につつある企業」への投資パターンの分析。
  9. Saber Capital Management, “Buffett’s Investment in Dempster Mill — A Cigar Butt” (2016年). デンプスター・ミル投資の詳細な経緯。
  10. GuruFocus, “Four Timeless Lessons from Young Buffett” (2014年). サンボーン・マップ、デンプスター・ミル、ナショナル・アメリカン等、若きバフェットの投資の教訓。

さらに学びたい人のための関連書

  1. セス・クラーマン『Margin of Safety』(1991). 「マージン・オブ・セーフティ」を書名に冠した、ディープ・バリュー投資の名著(現在は絶版で稀覯本)。
  2. クリストファー・ブラウン『The Little Book of Value Investing』. トウィーディー・ブラウンのパートナーによる、バリュー投資の入門書。邦訳あり。
  3. ジョエル・グリーンブラット『You Can Be a Stock Market Genius』『The Little Book That Beats the Market』. NCAVにPERを足す研究を行ったグリーンブラットによる、特殊状況投資・クオリティ&バリュー統合の解説書。邦訳あり。

重要な免責事項

本記事は、ネットネット株という投資戦略について、その歴史・理論・実証研究・実例・リスク・実践方法を、教育・情報提供の目的で解説したものである。特定の銘柄の売買を推奨するものではなく、また、本記事の手法に従って投資すれば利益が得られることを保証するものでもない。

本文中で繰り返し述べた通り、ネットネット投資には、バリュートラップ、資産の質の問題、キャッシュ・バーン、流動性の枯渇など、深刻なリスクが伴う。学術研究が示す「市場を上回るリターン」は、長期・分散・規律ある実行を前提とした、グループ全体の平均値であり、個別銘柄・短期間の結果を保証するものではない。また、研究が示すグロスのリターンと、取引コスト・税金・流動性制約を考慮した実際のリターンの間には、差がありうる。

投資判断は、最終的に、読者自身が、自らの財務状況・リスク許容度・投資目的を踏まえ、必要に応じて専門家に相談したうえで、自己の責任において行うべきものである。


(本記事 了)

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