はじめに、この記事を書こうと思った理由
株式市場を長く見ていると、同じ「要請」に対して企業ごとにここまで反応が違うのか、と驚かされる瞬間があります。今回取り上げる東京証券取引所(以下、東証)による「PBR1倍割れ企業への改善要請」は、まさにその典型でした。
同じ紙一枚の要請文を受け取ったはずなのに、ある会社は資本コストの数字まで具体的に開示し、中期経営計画にPBR1倍超という目標を掲げました。一方で、別の会社はコーポレートガバナンス報告書の片隅に「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応(検討中)」という定型文を一行だけ書いて終わっていました。
私はこのテーマを継続的に追いかけてきました。東証が公表する開示企業一覧表を定期的にダウンロードし、気になった企業のコーポレートガバナンス報告書や決算短信、有価証券報告書の「経営方針、経営環境及び対処すべき課題等」の欄を読み比べる作業を続けています。もともとバリュー株や配当株に関心が強く、PBRが1倍を割れている会社の中に「本当は良い会社なのに市場から評価されていないだけ」のものがどれくらいあるのかを知りたかったというのが、そもそもの動機です。
この記事では、東証が要請を出した背景から、要請後およそ3年間で市場全体に何が起きたか、そして実際に複数の企業の開示を読み比べる中で見えてきた「本気で取り組んでいる会社」と「体裁だけを整えている会社」の違いを、できるだけ専門用語を使わずに解説していきます。数字や固有名詞は、東証や金融庁が公表した一次資料、日本経済新聞や日経ESGなどの報道、シンクタンクのレポートに基づいており、記事の最後に参考資料としてまとめて掲載します。なお、この記事は特定の銘柄への投資を推奨するものではありません。あくまで市場の構造と企業行動の違いを読み解くための記事としてお読みください。
そもそもPBRとは何か、なぜ1倍割れが問題なのか
本題に入る前に、PBRという指標について確認しておきます。
PBRとは株価純資産倍率のことで、株価を1株あたりの純資産(BPS)で割って計算します。純資産というのは、会社の資産から負債を差し引いた残りの部分で、大まかに言えば「もし今すぐ会社をたたんで、資産をすべて売り、借金をすべて返したときに、株主の手元に残る金額」を表しています。
PBRが1倍というのは、株価と1株あたり純資産がちょうど同じ水準にある状態です。これが1倍を下回るということは、株式市場が「この会社の株を、会社を清算したときの価値よりも安く評価している」ということを意味します。極端に言えば、会社を今すぐ解散して資産を売り払ったほうが、事業を続けるよりも株主にとって得だと市場が判断している状態です。
もちろん、実際に会社を解散することは現実的ではありませんし、PBRが1倍を割れているからといってすぐに問題があるとは限りません。景気敏感な業種や、資産を多く抱える業種では、一時的にPBRが下がることは珍しくありません。ただ、何年にもわたって1倍を下回り続けているとなると話は別です。それは、投資家が「この会社の経営陣は、預かった資本を使って、資本コストを上回るリターンを生み出せていない」と長期間にわたって判断し続けているということだからです。
東証が2023年3月31日に公表した資料によれば、当時プライム市場の上場会社の約半数、スタンダード市場の上場会社の約6割が、自己資本利益率(ROE)8%未満かつPBR1倍割れという状態にあり、資本収益性や成長性の観点で課題を抱えていると指摘されていました。この数字は、日本市場全体が抱える構造的な問題の大きさを物語っています。
東証はなぜ、異例の要請に踏み切ったのか
東証が2023年3月に出した要請は、証券取引所が個別の上場企業の経営内容にここまで踏み込んで注文を付けるという点で、かなり異例の対応でした。この背景を理解するには、少しさかのぼって歴史を追う必要があります。
話の起点は2015年6月です。東証は「コーポレートガバナンス・コード」を公表しました。これは、上場企業が実効的な企業統治を実現するための主要な原則をまとめたもので、2021年6月に改訂されています。会社が持続的な成長と中長期的な企業価値向上に向けて自律的に対応することを通じて、会社自身だけでなく投資家、ひいては経済全体の発展に寄与することを目指す枠組みです。
これと並行して、経済産業省が設置した研究会からは、いわゆる「伊藤レポート」が公表されています。一橋大学の伊藤邦雄教授が座長を務めたこのプロジェクトでは、2014年公表の「伊藤レポート1.0」でROE8%以上という水準が、日本企業が最低限目指すべき目標として示されました。続く「伊藤レポート2.0」では、将来への期待を反映させる経営としてPBR1.0倍以上という基準が打ち出されています。
しかし、コーポレートガバナンス・コードの策定から約8年が経過してもなお、プライム市場の約半数、スタンダード市場の約6割がROE8%未満かつPBR1倍割れという状態から抜け出せずにいました。市場からは「日本企業はそもそも経済価値を達成できていない」という厳しい見方が続いていたのです。
こうした状況を受けて、東証は2023年3月31日、「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応について」と題した資料を公表しました。プライム市場およびスタンダード市場に上場するすべての会社を対象に、次のような一連の対応を継続的に実施するよう要請するという内容です。
まず、自社の資本コストや資本収益性を的確に把握すること。次に、その内容や市場評価について取締役会で現状を分析・評価すること。そのうえで、改善に向けた方針や具体的な取り組み、目標達成の時期などを取締役会で検討し、投資家にわかりやすく開示すること。そして、開示をベースに投資家との建設的な対話を進め、その中身をブラッシュアップしていくこと。この一連のサイクルを継続することが求められました。
ここで重要なのは、東証が単に自社株買いや増配をすればよいと言っているわけではない、という点です。東証の資料には、資本収益性の向上に向けてバランスシートが効果的に価値創造に寄与しているかを分析した結果、自社株買いや増配が有効な手段となる場合もあるが、それだけの対応や一過性の対応を期待しているわけではなく、継続して資本コストを上回る資本収益性を達成し、持続的な成長を果たすための抜本的な取り組みを期待する、という趣旨の記述があります。つまり、東証が本当に求めていたのは、株主還元という「結果」ではなく、資本コストを意識した経営という「プロセス」そのものだったわけです。この違いを理解しているかどうかが、後で見る「本気度の差」に直結してきます。
なお、東証は2023年4月1日付で有価証券上場規程等の一部を改正し、2025年3月1日以後に到来する上場維持基準の判定基準日から、本来の上場維持基準を適用することとしています。この流れを踏まえると、東証は各上場企業に対して、成果が出ない場合には上場廃止を含めた対応を取り得るという姿勢を示していると考えられます。単なるお願いではなく、上場を維持できるかどうかにも関わってくる話だという緊張感が、この要請の背景にはあります。
要請から3年、市場全体では何が起きたか
要請が出てから開示が実際にどう進んだのか、公表されている数字を時系列で追ってみます。
東証が2023年10月26日に公表した資料によれば、7月中旬時点で、3月期決算のプライム市場上場会社のうち31%が、要請を踏まえた開示を行っていました。この時点ではまだ3割程度にとどまっており、東証としては「国内外の株主・投資者から、各企業の取り組みの更なる進展を期待する声が多く寄せられている」として、対応を進めている企業の一覧表を公表することで、企業の取り組みを後押ししていく方針を示しています。
この開示企業一覧表の公表は2024年1月15日から始まりました。集計対象時点である2023年12月末で、コーポレートガバナンス報告書に「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」というキーワードを記載している場合は「開示済」、「(検討中)」の文言が付いている場合は「検討中」として分類し、該当する企業だけで1,115社が一覧表に掲載されました。一覧表は毎月更新され、翌月15日をめどに公表される運用になっています。
その後、開示は着実に広がっていきます。あるコンサルティング会社の分析によれば、プライム市場での開示率は31%から49%へ、スタンダード市場でも14%から19%へと上昇しました。さらに時間が経過した2024年12月末時点では、検討中も含めてプライム市場の企業の90%、スタンダード市場の企業の48%が何らかの開示を行うところまで進んでいます。
業種別・規模別に見ると、対応の進み方にはかなりの差があることもわかっています。PBR1倍未満かつ時価総額1,000億円を超える企業では78%が対応済みという高い水準に達している一方、銀行業では94%という突出した開示率になっています。銀行はもともと自己資本比率規制などで資本の使い方を厳しく管理する文化があり、資本コストという概念そのものになじみが深い業種です。そうした背景が、開示の速さにも表れていると考えられます。
一方で、PBR1倍割れの企業数そのものがどう推移したかも見ておく必要があります。あるメディアの報道によれば、日経平均株価を構成する225銘柄を含む市場全体で見たとき、2022年7月時点でプライム市場上場企業の50%、922社がPBR1倍割れの状態にありました。これが2024年5月には43%、703社まで減少しています。約2年弱で、PBR1倍割れの企業が200社以上減ったという計算になります。
この数字だけを見ると、東証の要請は着実に成果を上げているように見えます。実際、この間に日経平均株価は2024年2月に史上最高値を更新し、自社株買いの金額も過去最高を記録しました。開示に積極的に取り組み、その内容を公表している企業ほど、株価のパフォーマンスが相対的に高い傾向にあるという分析も報告されています。
ただし、ここで立ち止まって考える必要があります。PBR1倍割れの企業が減ったことと、日本企業が本当に資本コストを意識した経営に転換したことは、必ずしも同じ意味ではありません。日本経済新聞が2025年3月に報じた記事のタイトルは「東証要請2年、PBR改善は踊り場に『稼ぐ力』物足りず」というものでした。要請から約2年が経過した時点で、PBR1倍割れ企業の減少という一定の成果は見られるものの、市場全体で見るとPBR上昇の勢いは失速気味である、という内容です。
第一生命経済研究所の河谷善夫氏がまとめたレポートでも、興味深い分析がされています。開示のアップデートまで行っている企業ほど株価の上昇幅が大きい一方で、「検討中」や「未開示」のまま対応が遅れている企業群では株価の伸びが鈍いという傾向が確認されています。ただし同時に、開示をアップデートしたこと自体が直接的に株価を押し上げたとまでは言えない、という慎重な留保も付けられています。つまり、開示の有無と株価の動きには相関があるものの、因果関係として「開示すれば株価が上がる」と単純に言い切れるわけではない、ということです。ここが、この問題の本質的な難しさだと私は感じています。
決算短信とコーポレートガバナンス報告書を読み比べてわかったこと
ここからが、この記事の核心部分です。私はこのテーマを追ううえで、東証が公表している開示企業一覧表から企業を抽出し、実際にコーポレートガバナンス報告書の該当欄や、決算短信・有価証券報告書の経営方針の記載を読み比べる作業を続けてきました。プライム市場の大型株から、スタンダード市場の中小型株まで、業種もできるだけ偏らないように意識しながら読み進めてきましたが、そこで気づいたのは、開示の「量」と「質」が必ずしも一致しないということでした。
読み比べていく中で、対応のパターンはおおむね次の三つに分類できると感じています。
パターン1、数字で語る会社
一つ目は、資本コストの水準や資本収益性の目標を、具体的な数字とともに開示している会社です。このタイプの会社に共通しているのは、単に「PBR1倍を目指します」と書くだけでなく、自社の株主資本コストを何%と見積もっているのか、それに対して現在のROEやROICがどの水準にあるのか、そのギャップをどのような施策で埋めていくのかまで、踏み込んで説明している点です。
具体的な事例として、いくつかの企業が中期経営計画にPBR1倍超という目標を明示的に掲げていることが報道でも確認できます。三井住友トラストグループ(当時の三井住友トラスト・ホールディングス)、大日本印刷、JVCケンウッドといった企業が、中期経営計画の中でPBR1倍超を経営目標として掲げ、投資家の注目を集めました。また、京セラ、帝人、双日といった企業も、中期経営計画の中でPBR向上をうたっています。
これらの企業に共通しているのは、PBRという指標を「開示すべき数字」としてではなく、「経営の意思決定に使う数字」として位置づけている点です。中期経営計画に数値目標として組み込むということは、その達成度合いが経営陣の評価や、場合によっては役員報酬にも連動してくる可能性があるということです。東証がフォローアップ会議で紹介した投資家の声の中にも、企業がキャピタルアロケーションの方針やROE目標を掲げるようになったところまでは前進として評価できるが、それを達成するための行動を引き出す鍵になるのは業績連動型の役員報酬だ、という指摘があります。目標を「掲げる」だけでなく、その達成に経営陣自身の利害を結びつけているかどうかが、本気度を測る一つの指標になると感じました。
パターン2、株主還元だけで終わる会社
二つ目のパターンは、自社株買いや増配といった株主還元策は打ち出すものの、それがなぜ資本効率の改善につながるのかという説明が薄い会社です。
このパターンについては、東証自身が興味深い動きを見せています。2024年10月、東証は「投資者の目線とギャップのあるポイントと事例(案)」という資料を公表しました。これは、これまで優良事例を紹介する形で企業の取り組みを促してきたやり方から一歩踏み込み、「良くない開示」の具体例を10パターン、企業名を伏せた形で指摘するという内容です。
業界関係者の話として報じられているのは、企業名こそ伏せられているものの、開示内容の特徴を見れば、検索すればどの企業のものに近いかがある程度わかってしまう、というものでした。東証が指摘した問題点の中には、株主資本コストの見積もりが投資家の考える水準とかけ離れているという指摘や、PBRが1倍を超えていれば、それ以上向上を目指す必要がないという誤解に基づく開示への指摘が含まれています。
私自身、複数の企業のコーポレートガバナンス報告書を読み比べる中で、東証が指摘するのと似た傾向を感じることがありました。例えば、ある会社の開示では「株主還元の強化により資本効率の改善に努めます」という一文はあるものの、その株主還元によって具体的にROEやROICがどの程度改善する見込みなのか、資本コストの数字と比較した場合にどれだけギャップが埋まるのかという定量的な説明が見当たりませんでした。自社株買いや増配自体は、発行済み株式数の減少や利益配分を通じてROEを押し上げる効果を持ちますが、それはあくまで分母を小さくする対応であって、事業そのものが生み出す収益力を高める対応とは性質が異なります。東証の要請文にも、自社株買いや増配のみの対応や一過性の対応を期待しているわけではないと明記されているにもかかわらず、株主還元だけで完結してしまっている開示は、決して少なくないという印象を持ちました。
ある海外投資家がフォローアップ会議で語ったとされるコメントも、この点を的確に表しています。株主還元が資本効率向上に向けた検討の出発点になっている企業が多く、自社株買いが増えている印象があるが、余剰資金を払い出す手段として悪くはないものの、場当たり的な株主還元策は株価に対する意味合いを持たなくなってきている、目指すバランスシートの姿やキャッシュアロケーションの方針をしっかり考えるところから始めてほしい、という趣旨の指摘です。株主還元それ自体を否定しているわけではなく、それが場当たり的で、目指す資本構成の全体像から逆算されたものになっていない点が問題視されているわけです。
パターン3、「検討中」のまま止まっている会社
三つ目は、コーポレートガバナンス報告書に「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応(検討中)」という定型文だけを記載し、それ以上具体的な内容に踏み込んでいない会社です。
第一生命経済研究所のレポートによれば、東証の要請への対応が進んでいる企業ほど時価総額が大きい傾向にある一方、未開示のまま残っている企業群は時価総額が相対的に小さいということが分析されています。これは、開示や資本コストの分析には一定の実務的な負担が伴うため、人員や体制が限られる中小型株ほど後回しになりやすいという構造的な事情を示唆しています。
興味深いのは、「検討中」を申告した企業のうち、実際にその後開示をアップデートした企業を分析したレポートです。開示をアップデートした企業の時価総額は平均で1,752億円程度と、開示済みの企業全体の平均額と比べてかなり小さく、依然として「検討中」や「未開示」の企業群と同程度の規模にとどまっているという指摘があります。つまり、規模の小さい企業の中にも、東証の要請に対応しようと努力している会社は確かに存在するものの、その内容や水準に自信を持てず、機関投資家との対話を通じて開示の中身を充実させていこうとする姿勢がうかがえる、という分析です。ここは、単に「対応が遅い会社は本気度が低い」と切り捨てるのではなく、規模の制約の中で真摯に取り組もうとしている会社と、単に放置している会社を見分ける必要がある部分だと感じました。
東証は2025年1月分の一覧表から、「検討中」の掲載期間を6か月間に区切り、期限を過ぎた企業は「未開示」に分類し直すという運用も始めています。これは、いつまでも「検討中」を理由に開示を先延ばしにする企業に対して、一定の緊張感を持たせるための仕組みだと考えられます。
東証自身が「名指しで恥をかかせる」戦術に出た理由
先ほど触れた「投資者の目線とギャップのあるポイントと事例」の公表について、もう少し掘り下げておきたいと思います。この動きは、東証のスタンスの変化を象徴していると私は考えているからです。
これまで東証は、優良な取り組みを行っている企業の事例を紹介することで、他の企業に「うちも見習おう」と思わせるアプローチを取ってきました。しかし、それだけでは改善が不十分だと判断したのでしょう、2024年10月には一転して、良くない開示の具体例を指摘するという、いわば「反面教師」を示す手法に踏み込みました。
ある海外投資家のコメントとして報道されているのが、日本の経営者は名指しで褒められるよりも、名指しで恥をかかされるほうが行動を変えやすい、という趣旨の指摘です。この言葉の是非はさておき、東証が実際にこうした「ダメ出し」型の情報発信に踏み切ったこと自体が、それまでの促し方では変化のスピードが十分ではないと東証自身が判断したことの表れだと感じます。
さらに東証は2025年9月2日に開催されたフォローアップ会議で、開示企業一覧表そのものの改訂方針を明らかにしました。これまでは「開示済」か「検討中」かという有無だけを掲載していたものを、2026年の年明けからは、具体的な改善内容そのものを一覧表に掲載する形に変えるというものです。同一業種の企業同士でPBR改善策を比較できるようにすることで、経営者同士の競争意識をかき立てる狙いがあると報じられています。ROE8%やPBR1倍を一度達成した企業に対しても、そこで満足せず、持続的な企業価値向上を促す仕組みを作ろうとしていることがうかがえます。
そして2026年4月28日、東証はこれまでの要請内容をアップデートする形で、「経営資源の適切な配分」を中心とした新たな期待のポイントを取りまとめて公表しています。要請が始まった当初は「開示すること」自体に重点が置かれていましたが、開示が一定程度進んだ現在は、開示された内容がどれだけ実効性を持っているか、経営資源が本当に適切に配分されているかという、より踏み込んだ「質」の段階に軸足が移りつつあると言えます。あわせて2025年12月には「課題解決に向けた企業の取り組み事例」という資料も公表されており、実際に開示や対応を進める中で企業が直面した課題と、それをどう乗り越えたかという実践的な事例集も整備されてきています。
アクティビストの動きから見える「本気度」への圧力
東証からの要請という「制度的な圧力」に加えて、市場の側からも「本気度」を試す動きが強まっています。その代表例が、物言う株主と呼ばれるアクティビストファンドの活動です。
2024年4月、香港を拠点とするアクティビストファンドのオアシス・マネジメントが、化粧品・日用品大手の花王に対してアクティビズムを仕掛けたことが大きな話題になりました。企業と経営陣を名指しして問題点を指摘する声明を公表し、記者会見を開くという公開型のキャンペーンを展開したのです。こうした公開キャンペーン型の手法は、経営者に対して、水面下の対話だけでは動かない部分を動かそうとする狙いがあると指摘されています。
こうした動きに詳しい専門家のコメントとして、日本の経営者を追及するアクティビストの中には、企業を称賛するよりも名指しで批判するほうがインパクトを持つと考える人がいる、という趣旨の指摘も報道されています。東証による「ダメ開示」の公表と、アクティビストによる公開批判は、手法こそ違うものの、「名指しで問題点を指摘することで経営者の行動変容を促す」という発想の面では共通していると言えるかもしれません。
大和総研の専門家のコメントとして紹介されているのは、機関投資家との対話を希望すると一度手を挙げてしまうと、その後は簡単に対話を打ち切ることができなくなる、市場と向き合い、本気で投資家との対話を企業価値向上に生かすつもりがあるかどうか、経営者自身の覚悟が問われている、という趣旨の指摘です。目的意識のないまま投資家の要求を受け入れるだけの対話はかえって逆効果になりかねず、企業は自社の経営戦略に賛同してくれる投資家を見つけ、そうした投資家からヒントを引き出して企業価値向上に結びつける、いわば「攻めの対話」を実践すべきだという指摘もあります。単に対話の窓口を開けばよいという話ではなく、その対話をどう経営に生かすかという実効性が問われている段階に来ているということです。
業種・規模によってこれほど違う対応スピード
読み比べを続ける中で強く感じたのは、業種や企業規模によって対応のスピードにかなりの差があるということです。
先ほど触れたとおり、銀行業は94%という高い開示率を示しています。銀行は自己資本比率規制などを通じて、もともと資本の効率的な活用について規制当局とのやり取りに慣れている業種です。資本コストという概念そのものへの理解が、他業種に比べて進んでいたことが、対応の速さにつながったのではないかと考えられます。
一方で、PBR1倍未満かつ時価総額1,000億円を超える企業では78%という高い開示率である一方、時価総額の小さい企業ほど開示が遅れる傾向がはっきりと出ています。第一生命経済研究所の分析では、未開示の企業群は時価総額が小さく、開示のための人員や体制が整っていない可能性が指摘されています。また、未開示の企業群はPBRが比較的高い水準にあることも示されており、「PBRがそこまで低くないのだから、優先度は高くない」と経営陣が判断している可能性がうかがえます。
ここで注意しなければならないのは、東証の要請はPBRの水準にかかわらず、プライム市場・スタンダード市場のすべての上場会社を対象にしているという点です。東証自身も、上場会社に対して「PBR1倍超」の会社を含めて、引き続き積極的な取り組みの実施をお願いすると繰り返し呼びかけています。PBRが1倍を超えているからといって安心してよいわけではなく、ROEやPBRを少し改善させただけで終わりにしてはいけないという投資家の声も、フォローアップ会議で紹介されています。PBRが高いIT企業などの経営者の中には、PBR向上への意識が薄く、PBRが1倍を超えているうちに現金をため込み、成長投資を抑えようと考えている経営者もいる、という国内機関投資家の指摘も報じられています。PBR1倍という水準は、あくまで最低限のラインであって、そこを超えたら終わりというゴールではない、というのが東証の一貫した立場です。
記者として実践している、開示の「本気度」を見分けるための読み方
ここまで読んでいただいた方の中には、では実際に一つの企業の開示を読むとき、どこに注目すればよいのかと思われた方もいるかもしれません。私がこのテーマを追ううえで実践している読み方を、いくつか共有しておきます。
一つ目は、コーポレートガバナンス報告書の該当欄だけでなく、決算短信や有価証券報告書の「経営方針、経営環境及び対処すべき課題等」の欄、さらには中期経営計画の説明資料まで、複数の資料を横断して読むことです。コーポレートガバナンス報告書には定型文だけを記載し、実際の具体的な数字や施策は決算説明資料の別のページに書いてある、というケースは珍しくありません。一つの資料だけを見て「開示が薄い」と判断するのは早計な場合があります。
二つ目は、資本コストの数字が具体的に書かれているかどうかを確認することです。株主資本コストを何%と見積もっているのか、その根拠は何か、という記載があるかどうかは、経営陣が本当に自社の資本コストを分析したかどうかを判断する材料になります。数字を書かずに「資本コストを意識します」とだけ書いてある場合、その裏付けとなる分析が本当に行われているのか、慎重に見る必要があります。
三つ目は、目標に期限が設定されているかどうかです。「PBR1倍を目指します」という記載だけでなく、「何年度までに」という期限が明示されているかどうかで、その目標がどれだけ実行計画に落とし込まれているかが変わってきます。期限のない目標は、極端に言えばいつまでも「検討中」のままで済ませられてしまいます。
四つ目は、その目標が経営陣の評価や役員報酬とどう結びついているかです。有価証券報告書の役員報酬に関する記載を確認すると、業績連動報酬の指標としてROEやROIC、株価関連の指標が組み込まれているかどうかがわかる場合があります。目標を掲げるだけでなく、その達成が経営陣自身の利害に結びついているかどうかは、本気度を測るうえで見落とせないポイントです。
五つ目は、株主還元と成長投資のバランスがどう説明されているかです。自社株買いや増配の発表だけがニュースになりがちですが、東証が求めているのは株主還元だけではありません。むしろ東証の資料には、上場会社に現金をため込むのではなく、積極的に成長に向けた投資をしてほしいというメッセージが込められています。株主還元の説明と並んで、どのような成長投資に、どれだけの規模で、どのような時間軸で取り組むのかが具体的に説明されているかどうかも、重要な確認ポイントです。
これから何が起きるのか
東証の要請は、今後さらに「質」を問う方向に進んでいくと考えられます。2026年1月からは開示企業一覧表に具体的な改善内容そのものが掲載されるようになる予定であり、同業他社との比較がこれまで以上にしやすくなります。また、2026年4月に公表された要請のアップデートでは、「経営資源の適切な配分」という、より本質的な経営課題に焦点が当てられるようになってきています。
この流れの中で、単に「開示している」ことだけをもって評価される時代は終わりつつあると感じます。むしろこれからは、開示された内容が本当に実行されているか、投資家との対話を経てどれだけブラッシュアップされているか、そして最終的にROEやROIC、株価にどれだけ反映されているかという、結果までを含めた評価が強まっていくはずです。
生命保険協会が2025年4月に公表したアンケート調査結果からは、企業側と投資家側の間で、資本コストなどに関する認識にまだギャップが残っていることが指摘されています。制度としての要請は3年間で一定の成果を上げましたが、経営者の意識改革という、本来の目的そのものが達成されたと言い切るには、まだ時間がかかりそうです。
まとめ
東証によるPBR1倍割れ企業への改善要請は、2023年3月の発表から3年ほどが経過し、開示という「入り口」の部分では大きな進展が見られました。プライム市場では9割前後の企業が何らかの開示に至り、PBR1倍割れの企業数も着実に減少しています。
しかし、実際に個々の企業の開示を読み比べてみると、数字の裏付けを持って具体的な目標を語る会社と、株主還元の発表だけで済ませてしまう会社、そしていまだに「検討中」のまま足踏みしている会社との間には、はっきりとした温度差があります。東証自身がこの温度差に気づき、優良事例の紹介だけでなく「良くない開示」の指摘にまで踏み込んだこと、そして開示内容そのものを比較可能な形で公開する方向に舵を切ったことは、この問題が「開示するかどうか」から「どう実行するか」というステージに移りつつあることを示していると思います。
バリュー株や配当株に関心のある投資家にとって、この一連の動きは、企業の姿勢を見極めるうえで貴重な材料を提供してくれています。PBRが低いからといって割安とは限りませんし、逆に開示が丁寧だからといって株価が必ず上がるわけでもありません。ただ、経営陣が自社の資本コストをどれだけ真剣に見つめ、その改善に向けてどれだけ具体的な行動を取っているかを読み解く手がかりは、決算短信やコーポレートガバナンス報告書といった、誰でもアクセスできる一次資料の中に確かに存在しています。この記事が、そうした資料を自分の目で読んでみようと思うきっかけになれば嬉しく思います。
参考資料
東京証券取引所「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応について」2023年3月31日 https://www.jpx.co.jp/news/1020/cg27su000000427f-att/cg27su00000042a2.pdf
日本取引所グループ「『資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応』に関する開示企業一覧表の公表等について」2023年10月26日 https://www.jpx.co.jp/news/1020/20231026-01.html
日本取引所グループ「『資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応』に関する開示企業一覧表の公表について」2024年1月15日 https://www.jpx.co.jp/news/1020/20240115-01.html
日本取引所グループ「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応(プライム・スタンダード市場)」市場区分の見直しに関するフォローアップ特設ページ https://www.jpx.co.jp/equities/follow-up/02.html
東京証券取引所 フォローアップ会議資料 2025年6月2日 https://www.fsa.go.jp/singi/follow-up/siryou/20250602/07.pdf
金融庁 コーポレートガバナンス改革の実質化に向けたフォローアップ会議資料 2025年10月21日 https://www.fsa.go.jp/singi/revision_corporategovernance/siryo/20251021/05.pdf
日経ESG「強まる東証のPBR改善要請、見せかけ開示や現状維持は許さない」 https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00024/010600099/
日経ESG「東証、PBR改善『ダメ開示』公表」2024年12月 https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00005/120900487/
日経ESG「東証、企業のPBR改善を比較」2025年10月 https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00005/093000534/
日経ビジネス「東証、PBR改善『ダメ開示』公表 褒めるより恥をかかせる方が効果的」 https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00159/120500295/
日経ビジネス「東証、企業のPBR改善内容を一覧開示 『1倍超で一安心してる企業いる』」2025年10月 https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00159/093000343/
日本経済新聞「東証要請2年、PBR改善は踊り場に『稼ぐ力』物足りず」2025年3月 https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFL2384KTT20C25A3000000/
モニクル総研「PBR1倍割れ改善の『次の一手』とは?」2025年9月 https://mir.monicle.co.jp/report/kimura-202509-03
第一生命経済研究所 河谷善夫「資本コストや株価に関する東証要請の現在地①~要請への対応は開示の質が問われるステージへ~」2025年6月 https://www.dlri.co.jp/report/ld/465802.html
第一生命経済研究所 河谷善夫「東証の要請への対応の現在地②~株価の推移などからみた、今後の対応の改善余地と注目点~」2025年7月 https://www.dlri.co.jp/report/ld/477251.html
レイヤーズ・コンサルティング「東証がPBR1倍割れ対応策開示企業一覧を開示」 https://www.layers.co.jp/solution/toshopbr1list/
レイヤーズ・コンサルティング「東証が求める『資本コストと株価を意識した経営』とは(前編)」 https://www.layers.co.jp/solution/new_pbr_request/
PwC Japanグループ「資本コストや株価を意識した経営(2023年度)―東証PBR1倍割れ改善要請への考察―」 https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/thoughtleadership/capital-costs-stock-prices.html
PwC Japanグループ「資本政策の必要性―東証PBR1倍割れ問題対応の先に求められるもの―」2024年7月 https://www.pwc.com/jp/ja/knowledge/column/capital-policy/pbr1.html
日本M&Aセンター「今さら聞けない『PBR1倍割れ』とは?日本企業がとるべき対策は?」 https://www.nihon-ma.co.jp/columns/2023/x20231120/
野村総合研究所「知的資産創造2023年8月号 特集 企業価値向上のための経営改革:『PBR1倍問題』を乗り越える処方箋」 https://www.nri.com/content/900034746.pdf

