——「人手不足倒産」過去最多が告げる、賃上げの本当の正体
長編・2026年夏の労働。数字はすべて2026年8月時点の公表値・報道に基づく。
プロローグ:黒字なのに、店を閉めた
注文は途切れず入っている。取引先からの引き合いも、むしろ増えている。帳簿を見れば、赤字ではない。それなのに、会社をたたむ——。2026年の日本で、そんな「不思議な倒産」が、過去最多のペースで増えている。
理由は、たった一つ。人がいないからだ。 ベテランの職人が辞めた。募集をかけても、誰も応募してこない。残った社員に負担が集中し、その社員も限界を迎えて去っていく。受注はあるのに、それをこなす人手がない。だから、事業を続けられない。これを「人手不足倒産」と呼ぶ。
かつて、会社が潰れる理由といえば、「景気が悪い」「モノが売れない」「借金が返せない」だった。だが2026年、倒産の原因は、はっきりと「人がいない」へと軸足を移している。需要はある。仕事もある。足りないのは、それを担う人間だけ。 これは、日本経済がこれまで経験したことのない、新しいかたちの行き詰まりだ。
そして、この「人手不足」という現象は、単に一部の中小企業を苦しめているだけではない。それは、いま日本で起きている「歴史的な賃上げ」の、隠れた正体でもある。本稿では、人手不足倒産という痛ましいデータを入り口に、「なぜ日本の賃金は、いま上がっているのか」という問いに、これまでとは違う角度から答えてみたい。結論を先に言えば、こうだ。いまの賃上げは、企業の善意でも、好景気の果実でもない。人口構造がもたらす、逃れられない圧力の産物である。
この視点は、いまの日本経済を語るうえで、決定的に重要だと私は考えている。なぜなら、賃上げの「原因」をどう理解するかによって、その持続性の見通しも、打つべき政策も、まるで変わってくるからだ。もし賃上げが「好景気の果実」なら、景気を支え続ければ賃上げも続く。だが、もしそれが「人口減少による強制」なら、話はまったく違ってくる。景気が良かろうと悪かろうと、人が減り続ける限り、賃上げの圧力は続く——だが同時に、その賃上げに耐えられない企業の倒産も、続いていく。私たちは、賃上げという明るいニュースの本当の駆動力を、正しく見定める必要がある。 その作業を、倒産という最も暗いデータから始めるのは、逆説的だが、いちばん確かな道だ。
第1章:数字が語る「人手不足倒産」の深刻さ
まず、現実を数字で押さえよう。信用調査会社の帝国データバンク(TDB)の調査は、この問題の輪郭を、くっきりと描き出している。
2025年度(2025年4月〜2026年3月)の人手不足を理由とした倒産は、441件にのぼった。前年度の1.3倍で、統計を取り始めて以来の過去最多を更新した。とりわけ注目すべきは、その中身だ。従業員の退職が引き金となって事業が回らなくなる「従業員退職型」の倒産が、118件と、これも過去最多を記録した。**「人が辞めたから、会社が潰れた」**という事態が、もはや例外ではなくなっている。
業種を見ると、痛みの偏りがはっきりする。暦年ベースの2025年の集計では、建設業が113件と初めて100件を超え、物流業も52件と、いずれも過去最多となった。この二つの業種は、2024年4月から時間外労働の新たな上限規制が適用された、いわゆる「2024年問題」の当事者だ。残業に頼れなくなった分、より多くの人手が必要になったのに、その人手が確保できない——規制と人手不足の板挟みが、倒産を押し上げた。
さらに、老人福祉事業、飲食店、労働者派遣業、警備業、美容業といった、人の手が仕事の中心を占める「労働集約型」の業種で、軒並み倒産が増えている。そして、倒産した企業の圧倒的多数が、小規模事業者だ。ある集計では、全体の約77%が従業員10人未満だった。こうした企業では、たった一人の退職が、事業の存続を左右する。
2026年に入っても、勢いは衰えていない。TDBによれば、2026年上半期(1〜6月)の人手不足倒産は227件と、上半期として過去最多を更新した。同じ半期には、物価高を理由とした倒産、後継者難による倒産も、そろって過去最多を記録している。景気の波ではなく、「人がいない」「コストを転嫁できない」「継ぐ人がいない」という構造的な要因が、中小企業を追い詰めている。 これが、2026年の倒産の風景だ。
とりわけ「従業員退職型」の倒産が過去最多を更新した意味は、重い。これは、経営者が高齢で後継者がいない、という「引退型」とは違う。現役で回っていた会社が、働き手に去られて回らなくなるという、より能動的で、より突然の崩壊だ。長年会社を支えてきた熟練工が、より条件の良い同業へ移る。あるいは、過重な負担に耐えかねて辞める。その一人の穴が、次の一人の負担を増やし、連鎖的に人が抜けていく。「一人が辞めたら、ドミノのように崩れた」——現場で語られるこうした証言は、人手不足倒産が、じわじわと弱っていく倒産ではなく、ある日突然、屋台骨が折れるように起きる倒産であることを物語っている。だからこそ、経営者にとっても予測が難しく、対処が後手に回りやすい。
第2章:なぜ「人」がいないのか——需要の問題ではなく、供給の問題
ここで、視点を一段引き上げたい。人手不足倒産は、個々の企業の採用力の問題に見える。だが、これほど広範に、これほど同時に起きているのは、もっと根の深い、日本社会全体の構造変化があるからだ。その正体は、単純にして重い。働く人の絶対数が、減っているのだ。
日本の人口は減少局面に入って久しく、とりわけ「働き手」の中心である生産年齢人口(15〜64歳)は、長期的に細り続けている。団塊の世代が引退し、少子化で若い世代の流入が細る一方で、社会が必要とする労働の量は、そう簡単には減らない。介護の必要はむしろ増え、物流はネット通販で膨らみ、建設は災害復旧やインフラ更新で引く手あまただ。必要な仕事は減らないのに、それを担う人の数だけが減っていく。 この需給ギャップこそが、人手不足の正体だ。
ここで決定的に重要なのは、これが「需要(仕事)」の問題ではなく、「供給(働き手)」の問題だ、という点だ。従来の不況は、需要が縮んで仕事が減り、人が余る、という現象だった。だから対策は「需要を刺激する」ことだった。だが、いま起きているのは、その正反対だ。仕事はある。むしろありすぎる。足りないのは、それをこなす人間のほうだ。需要を増やす政策では、この問題は一ミリも解決しない。 むしろ、景気を刺激して仕事を増やせば増やすほど、人手不足は深刻になる。ここに、これまでの経済政策の常識が通用しない、この時代の難しさがある。
さらに、この構造的な人手不足に、制度が追い打ちをかけた。2024年4月から、建設業と運送業に、時間外労働の上限規制が本格適用された。長時間労働に頼って人手不足をしのいできた業界にとって、これは「一人あたりの労働時間を減らせ」という指示に等しい。同じ仕事量をこなすのに、より多くの人手が必要になった。ところが、その人手はどこにもいない。「働き方改革」という正しい理念が、人手不足という現実とぶつかり、皮肉にも倒産を押し上げるという事態が起きた。労働者を守るための規制が、その労働者の職場を消してしまう——この矛盾は、人手不足問題の複雑さを象徴している。良かれと思って導入した制度が、供給制約の下では、思わぬ副作用を生む。政策は、もはや「一つの正しさ」だけでは設計できない局面に入っている。
そして、この「供給不足」の構造こそが、次章で述べる「賃上げ」を、日本に強制しているのである。
第3章:独自の読み①——賃上げは、善意ではなく「奪い合い」の結果だ
別稿で見たように、日本の賃上げは、3年連続で5%台という、35年ぶりの歴史的な高水準にある。この事実は、しばしば「日本経済が復活し、企業に余裕が生まれ、その果実を従業員に還元している」という、明るい物語で語られる。だが、私はこの物語を、半分しか信じていない。
なぜなら、賃上げの本当の駆動力は、企業の懐の余裕ではなく、人手不足という切迫だからだ。働き手が減り、どの企業も人を欲しがる。すると、限られた働き手をめぐって、企業同士の「奪い合い」が起きる。「うちの給料を上げなければ、隣に人を取られる」「上げなければ、今いる社員も辞めてしまう」——この恐怖が、賃金を押し上げる。つまり、いまの賃上げの多くは、**「還元」ではなく「防衛」**なのだ。
その証拠は、前章で見た倒産データの中にある。別稿でも触れたが、赤字の中小企業ですら、賃上げに踏み切っている。利益が出たから上げるのではない。上げなければ人が採れず、事業が続けられないから、身を削って上げる。 これは、余裕の分配ではなく、生き残りをかけた出血だ。そして、その出血に耐えきれなかった企業が、「人手不足倒産」として市場から退出していく。賃上げと人手不足倒産は、コインの裏表なのだ。人を確保するために賃金を上げ、その負担に耐えられなければ潰れる。いまの労働市場は、賃上げできる企業だけが生き残る、という淘汰の局面に入っている。
この視点に立つと、「賃上げ」の風景は、ずいぶん違って見えてくる。それは、経済が力強く成長している証というより、働き手という希少資源をめぐる、企業間の消耗戦だ。勝者は人を確保し、敗者は人を失って倒れる。労働者にとっては朗報だが、その裏では、賃上げ競争についていけない企業が、静かに脱落し続けている。
この消耗戦には、独特の「止まらなさ」がある。一社が人を確保するために賃金を上げれば、人材を奪われそうになった別の会社も、対抗して上げざるを得ない。すると、最初に上げた会社も、優位を保つためにさらに上げる——こうして、賃金の水準がじりじりと切り上がっていく。誰も好きこのんで上げているわけではないのに、全体としては上がり続ける。これは、別稿で論じた「値上げのノルム(世間相場)」の転換と、うり二つの構造だ。値上げが「するのが当たり前」になったように、賃上げも「するのが当たり前」になった。そして、そのノルムに乗れない企業は、モノの値段でも、人の賃金でも、市場から振り落とされていく。物価のインフレと、賃金のインフレは、同じ『世間相場の反転』という地殻変動の、二つの現れなのである。
第4章:独自の読み②——人口減少は、デフレ脱却の「隠れたエンジン」だった
もう一歩、踏み込みたい。この「人手不足による賃上げ」は、実は、日本が30年ぶりに達成した「デフレからの脱却」の、隠れた原動力なのではないか。私はそう考えている。
思い出してほしい。日本は長い間、デフレに苦しんできた。その一因は、賃金が上がらなかったことにある。では、なぜ賃金は、あれほど長く上がらなかったのか。理由の一つは、**労働力が「余っていた」**からだ。かつての日本は、団塊世代という分厚い労働力を抱え、女性や高齢者の労働参加も進んだ。働き手が豊富にいれば、企業は賃金を上げなくても人を雇える。だから、賃金には上昇圧力がかからず、それがデフレを長引かせた。
ところが、その構造が、人口動態の反転によって、根底から覆った。団塊世代が引退し、少子化で若い労働力が細り、労働は「余剰」から「不足」へと転じた。すると、企業は人を確保するために、賃金を上げざるを得なくなる。労働力の余剰がデフレを生み、労働力の不足がインフレ(賃上げ)を生む。 この対称性に気づくと、いまの日本経済の景色が一変する。
考えてみれば、日本の「失われた30年」は、ちょうど、豊富な労働力が労働市場に供給され続けた時期と重なっている。バブル崩壊後、企業は正社員を絞り、非正規雇用を増やした。それでも人は集まった。就職氷河期の若者たち、家計を助けるために働きに出た主婦層、定年後も働き続ける高齢者——彼らが、低賃金でも働く労働力の分厚い層を形成した。企業にとって、人はいくらでも採れる存在だった。だから、待遇を良くする必要がなかった。この「買い手市場」が、賃金を30年にわたって凍りつかせた、隠れた元凶の一つだった。日本の長期停滞は、人が余っていたからこそ続いたとも言える。そして、その前提が消えたいま、凍りついていた賃金が、ようやく溶け始めた。
つまり、日銀が20年以上、あらゆる金融緩和を動員しても起こせなかった「賃金と物価の好循環」を、最終的にお膳立てしたのは、皮肉にも少子高齢化という「人口の圧力」だったのではないか。金融政策が需要側からいくら働きかけても動かなかったものが、労働供給の物理的な減少という、後戻りできない構造変化によって、ようやく動き出した。デフレ脱却の主役は、中央銀行ではなく、人口ピラミッドの形そのものだったのかもしれない。
もしこの読みが正しければ、それは希望であると同時に、重い問いを突きつける。人口減少がもたらす賃上げは、確かに労働者を潤す。だが、それは経済が強くなった結果ではなく、経済が縮んでいく過程で生じる副産物だ。人が減るから賃金が上がる——この上昇は、はたして祝福なのか、それとも衰退の別名なのか。次章で、その問いに向き合う。
第5章:独自の読み③——「賃金は上がるのに、国は貧しくなる」逆説
人手不足による賃上げには、見過ごせない副作用がある。それは、一人ひとりの賃金は上がっても、国全体としては豊かにならない、という逆説だ。
なぜか。賃上げが「人を確保するための防衛」である場合、それは必ずしも「生産性の向上」を伴わないからだ。本来、持続的な賃上げの原資は、労働者一人あたりが生み出す価値、すなわち生産性の向上から来るべきものだ。より効率的に、より価値の高いものを作れるようになったから、その分、賃金を上げられる——これが健全な賃上げだ。
だが、人手不足の中で強いられる賃上げは、しばしばこの原資を欠いている。生産性は上がっていないのに、人を引き留めるために賃金だけを上げる。すると、その負担は企業の利益を圧迫し、価格に転嫁され、あるいは倒産という形で清算される。個々の労働者の賃金は上がるが、経済全体のパイが大きくなっているわけではない。 ただ、縮んでいくパイを、減っていく人数で分け合うから、一人あたりの取り分が増えているように見える——そういう側面すらある。
これは、別稿で論じた「間違ったドアから入ったインフレ」の、労働版だと言ってもいい。物価が上がるのも、賃金が上がるのも、需要が盛り上がって経済が拡大した結果ではなく、供給側の制約(輸入コスト、労働力不足)に押し出された結果だ。上がっているのに、豊かになった実感がない。 その正体は、いまの上昇が「成長」ではなく「制約」に由来していることにある。
だからこそ、人手不足を、賃上げをもたらす良い話として手放しで喜ぶわけにはいかない。それは同時に、日本経済の生産能力そのものが細っていく、という警告でもある。人が減り、企業が倒れ、供給力が失われていく。その過程で賃金が上がっても、それは沈みゆく船の中で、椅子の値段が上がるようなものかもしれない。
この逆説は、国全体の経済規模を測るGDPと、一人あたりの豊かさの関係にも表れる。働き手が減れば、国全体で生み出せる価値の総量、すなわちGDPは、伸び悩むか、縮んでいく。それでも一人あたりで割れば、分母である人口が減っている分、数字上は横ばいや微増に見えることがある。「一人あたりは悪くないが、国全体としては縮んでいる」——この状態は、豊かさの実感を伴わない。なぜなら、国全体のパイが縮めば、税収も、社会保障の支え手も、地域を維持する力も、すべて細っていくからだ。個人の賃金票の数字だけを見れば上向きでも、その人が暮らす社会のインフラや公共サービスが痩せていけば、生活の質はむしろ下がりうる。「賃金は上がるのに、暮らしは良くならない」という感覚の一部は、この国家規模の縮小から来ている。 一人ひとりの取り分が増えても、分け合う全体そのものが小さくなっていく——それが、人口減少下の賃上げの、冷厳な本質だ。
第6章:では、どうするか——三つの処方箋と、それぞれの限界
人手不足という構造問題に、特効薬はない。だが、打つべき手は、大きく三つに整理できる。それぞれの可能性と限界を、公平に見ておきたい。
第一に、省人化(生産性の向上)だ。 少ない人手でも回るように、機械やデジタル技術で人の手を代替する。飲食店の配膳ロボット、建設現場の重機の自動化、物流倉庫の自動搬送、事務作業のデジタル化——。これは、人口減少という制約への、最も王道の答えだ。ただし、導入には資金と時間がかかり、体力のない中小企業ほど遅れがちだ。省人化に投資できる企業と、できない企業の間で、新たな格差が生まれる懸念もある。
第二に、外国人労働者の受け入れだ。 国内の働き手が減るなら、海外から補う。実際、多くの現場が、すでに外国人材なしでは回らなくなっている。だが、これにも限界がある。円安が進んだ日本は、外国人労働者にとって、以前ほど「稼げる国」ではなくなりつつある。賃金の高い他国と、日本は人材を奪い合う立場にある。かつて「選ぶ側」だった日本が、「選ばれる側」になったという現実を、直視しなければならない。母国に仕送りする外国人労働者にとって、円で受け取った給料の価値は、円安のぶんだけ目減りする。同じ働くなら、通貨の強い国、賃金の高い国へ——そう考えるのは自然だ。日本が「安いニッポン」であることは、輸出企業には追い風でも、人材の獲得においては、はっきりとした逆風になる。別稿で論じた円安の影が、ここにも落ちている。
第三に、賃上げと価格転嫁の循環を回すことだ。 賃金を上げ、その分を適正に価格へ転嫁し、企業が利益を確保して、また賃上げする。この循環が回れば、人手不足は「賃金の上がる健全な経済」への入り口になりうる。だが、別稿で見たように、中小企業の価格転嫁は、下請け構造の壁に阻まれている。転嫁できなければ、賃上げは企業の体力を削るだけで終わる。
三つの処方箋は、どれも部分的な答えにすぎず、万能ではない。共通して言えるのは、「人が減る」という前提そのものは、もはや動かせないということだ。だとすれば、勝負は「減った人手で、いかに社会を回すか」に絞られる。人口減少を嘆くのではなく、それを前提に経済の仕組みを組み替えられるか。そこに、この国の次の10年がかかっている。
第7章:ただし——人手不足は、労働者にとっては「追い風」でもある
ここまで、人手不足のマイナス面を中心に描いてきた。だが、公平を期すために、この構造が持つ「明るい側面」も、しっかり置いておきたい。
長い間、日本の労働者は「買い手市場」の中で、弱い立場に置かれてきた。働き手が余っていたから、企業は「嫌なら辞めればいい、代わりはいくらでもいる」という態度を取れた。低賃金でも、長時間労働でも、我慢するしかなかった。非正規雇用が広がり、賃金が上がらず、労働者の交渉力は削がれ続けた。
その力関係が、人手不足によって、劇的に反転した。いまや働き手のほうが希少で、企業のほうが「選ばれる」立場にある。「辞める」と言えば賃金が上がり、労働条件が改善される時代が来た。これは、労働者にとって、間違いなく朗報だ。賃上げも、待遇改善も、働き方の柔軟化も、突き詰めれば、この力関係の反転がもたらしたものだ。長年、企業に対して弱かった労働者が、ようやく正当な交渉力を取り戻しつつある。
さらに、人手不足は、これまで労働市場の隅に置かれてきた人々に、機会を開く。高齢者、女性、育児や介護と両立したい人、障害のある人——働き手が足りなければ、企業はこうした人々を積極的に受け入れ、働きやすい環境を整えるインセンティブを持つ。人が足りないという制約が、多様な人が働ける社会への、思わぬ推進力になるという側面もある。
だから、公平な結論はこうだ。人手不足は、企業と国にとっては厳しい制約だが、労働者と社会の包摂にとっては、追い風にもなりうる。問題は、この追い風を、生産性の向上という「実力」に結びつけられるかどうかだ。ただ人が減って賃金が上がるだけなら、それは衰退の中の分配にすぎない。人が減っても一人あたりの生み出す価値が上がるなら、それは真の豊かさへの転換になる。その分岐点に、いまの日本は立っている。
歴史を振り返れば、人手不足が国を強くした例は、実はある。中世末期のヨーロッパでは、疫病で人口が激減した結果、労働者の立場が強まり、賃金が上がり、それが省力化の技術革新や、封建的な束縛からの解放を促した、という見方がある。人が希少になれば、その一人ひとりを大切にし、その労働を最大限に活かそうとする力が働く。人余りの時代には安く使い捨てられていた「人」が、人不足の時代には、経済の中心に据え直される。 日本が、この人手不足を、単なる衰退の症状で終わらせるのか、それとも「人を活かす経済」への転換点にするのか。それは、悲観と楽観のどちらが正しいかという問題ではなく、私たちがこの制約にどう向き合うかという、選択の問題である。
エピローグ:「人がいない」が、すべての根っこにある
2026年の日本経済を貫く問題を、一つだけ挙げよと言われたら、私は迷わず「人手不足」を挙げる。それは、賃上げの正体であり、中小企業倒産の主因であり、物価やサービスのあり方まで規定する、すべての根っこにある構造だ。
これから注目すべき点を、三つ挙げておく。
- 人手不足倒産のペースが、鈍化するか加速するか。 賃上げについていけない企業の淘汰が、どこまで進むのか。それは、労働市場の「新陳代謝」でもあるが、地域の雇用や暮らしを支えてきた中小の消滅でもある。痛みの総量を、注視しなければならない。とりわけ、その担い手が地方の建設・物流・介護に集中していることは重い。これらは、地域のインフラや高齢者の暮らしを支える、代わりのきかない仕事だ。その担い手が倒れれば、失われるのは一企業ではなく、地域社会の機能そのものになる。人手不足倒産は、経済統計の一項目である以上に、地方が静かに機能を失っていくプロセスの、最前線の指標でもある。
- 省人化投資が、間に合うか。 人が減るスピードに、生産性を上げるスピードが追いつけるか。追いつければ、日本は「少ない人数で豊かに回る国」へ移行できる。追いつけなければ、供給力の低下が、じわじわと生活の質を削っていく。
- 「選ばれる国」であり続けられるか。 円安と国際的な人材獲得競争のなかで、日本が外国人材にとって魅力的な働き先であり続けられるか。ここでも、通貨の弱さが、静かに重くのしかかる。
「人さえいれば、潰れなかった」——この、2026年に繰り返された痛切な言葉は、日本経済が新しい時代に入ったことを告げている。かつて、経済の主役は「お金」だった。金利を動かし、需要を刺激し、投資を促す。だが、これからの主役は「人」だ。人をどう確保し、どう活かし、減っていく人手でどう社会を支えるか。 その問いに答えられるかどうかが、この国の未来を決める。賃金が上がって喜ぶだけでなく、その上昇が「成長」なのか「衰退の分配」なのかを、冷静に見極めること。それが、いま私たちに求められている視点である。
※本稿の数値は、帝国データバンク「人手不足倒産の動向調査」「全国企業倒産集計」等の公表資料、および2026年の各報道に基づく。「賃上げは奪い合いの結果」「人口減少はデフレ脱却の隠れたエンジン」「賃金は上がるのに国は貧しくなる」といった読み解きは、筆者の分析である。統計は更新されるため、利用時点の最新情報を確認されたい。
