長編・2026年夏の不動産。数字はすべて2026年8月時点の公表値・報道に基づく。本稿は分析であり、投資・法務の助言ではない。
プロローグ:同じ国で、正反対の不動産の悩みが、同時に起きている
都心で家を探す若い夫婦がいる。共働きで、それなりの年収もある。だが、目当てのエリアのマンションは、軒並み1億円を超えている。頭金を計算し、ローンの返済額を試算し、そして、ため息をつく。「一生かかっても、この街には手が届かない」。 家という、暮らしの土台のはずのものが、彼らにとっては、はるか高い壁になっている。
その一方で、地方に住むある人は、まったく逆の悩みを抱えている。亡くなった親から、実家を相続した。だが、その家は、買い手も借り手もつかない。売りに出しても、何年も動かない。それでいて、固定資産税は毎年かかり、放置すれば近所に迷惑がかかり、管理の手間も費用ものしかかる。「この家は、資産どころか、お荷物だ」。 家という、かつては財産だったはずのものが、彼にとっては、重い負債になっている。
同じ日本で、「家が高すぎて買えない」人と、「家が要らないのに手放せない」人が、同時に存在している。この、一見正反対の二つの現象を、多くの人は「不動産の二極化」と呼ぶ。都心は上がり、地方は下がる、と。だが、私はこの「二極化」という言葉に、少し物足りなさを感じている。空き家900万戸と、1億円のタワーマンションは、対立する二つの現象ではない。それは、『縮む国』という、同じ一つの力が生み出した、一枚のコインの、表と裏なのだ。 本稿では、その一枚のコインの正体を、じっくり見ていきたい。
不動産は、私たちの暮らしに、最も身近で、最も高額な「経済」だ。株価や為替は、多くの人にとって、どこか遠い数字かもしれない。だが、「家」は違う。それは、人生で最大の買い物であり、家族の暮らしの器であり、多くの人にとって、最大の資産だ。その家をめぐって、いま日本で起きていることは、単なる価格の上下ではない。それは、この国が縮んでいくとき、人々が、富が、そして暮らしそのものが、どこへ集まり、どこから去っていくのか——という、国土の再編の物語なのだ。空き家とタワマンは、その再編を映す、最も分かりやすい鏡である。
第1章:事実——余る家と、高すぎる家
まず、二つの現実を、数字で確認しよう。
一方に、「余る家」がある。総務省の住宅・土地統計調査によれば、全国の空き家は約900万戸に達し、総住宅数に占める空き家率は約14%と、過去最高を更新した。日本の家の、7戸に1戸が、空き家という計算だ。人口が減り、世帯が減り、地方や郊外を中心に、住む人のいない家が、静かに、しかし確実に、積み上がっている。相続はされたものの、誰も住まず、売れもせず、放置される家。管理されないまま朽ちていく家。空き家は、いまや、防災や治安、景観の面でも、地域社会の深刻な課題になっている。
他方に、「高すぎる家」がある。不動産経済研究所などの資料によれば、2026年も、首都圏の新築マンションの平均価格は、過去最高の水準で推移している。とりわけ、都心の超高層タワーマンションは、根強い人気を保ち、用地の取得競争は激化している。埼玉県さいたま市の浦和駅前の再開発エリアでは、平均価格が1億円を超えるタワーマンションの販売が確認された。都心だけの話ではない。LIFULL HOME’Sのレポートによれば、東京都下のファミリータイプの中古マンションですら、じわじわと値上がりを続け、4,000万円を超えて過去最高値を更新している。普通の家族が、普通に暮らすための家が、普通の年収では、どんどん手の届かないものになっている。
余る家と、高すぎる家。この二つが、同じ国で、同時に起きている。これを「都心は上がり、地方は下がる二極化」と要約するのは簡単だ。だが、その要約は、事の本質を、半分しか捉えていない。次章で、その奥にある「一つの力」を、明らかにしたい。
なお、この二極の間で、もう一つの動きも生まれている。都心のマンションが高くなりすぎたため、子育て世代を中心に、価格が比較的落ち着き、広さも確保できる郊外の一戸建てへと、需要がシフトし始めているのだ。LIFULL HOME’Sは、この動きを「都心部で高額マンションの需要が増える一方、郊外は一戸建て住宅の需要が増える、消費者ニーズの二極化」だと分析している。つまり、二極化は「都心 対 地方」という単純な図式では終わらず、価格に押し出された人々が、より手頃な場所を求めて移動する、複雑な玉突きを生んでいる。加えて、資材費や人件費の高騰で、家を建てるコスト自体が上がっており、これも住宅価格を押し上げる一因になっている。別稿で論じた「値上げの常態化」は、家という最も高価な買い物の値段にも、確実に及んでいる。
第2章:独自の読み①——「二極化」ではなく、「一極集中の裏表」
「二極化」という言葉は、二つの独立した現象が、それぞれ逆方向に動いている、というイメージを与える。都心の値上がりと、地方の値下がり。まるで、別々の場所で、別々のことが起きているかのように。だが、私は、この二つは、まったく別々の現象ではなく、同じ一つの力が生み出した、表裏一体の結果だと考えている。
その力とは、人口減少と、それに伴う『集約』だ。
考えてみてほしい。国全体の人口が減っていくとき、人々は、どこに残り、どこから去るのか。当然、仕事があり、便利で、暮らしやすい場所——つまり、都市の中心部——に、人と、お金が集まっていく。そして、そうでない場所——地方や、利便性の低い郊外——からは、人が抜けていく。縮む国では、限られた人と富が、少数の『勝ち残る場所』へと集中し、残りの多くの場所が、見捨てられていく。 この「大いなる選別」こそが、いま日本の国土で起きていることの、本質だ。
そう捉えると、空き家とタワマンの関係が、まるで違って見えてくる。地方の空き家は、人と富が「抜けていった」場所に残された、選別の敗者の姿だ。都心のタワマンは、人と富が「集まってきた」場所で起きる、選別の勝者の姿だ。両者は、対立しているのではない。同じ『集約』という一つの流れの、出口と入口なのだ。 人が都心のタワマンに吸い寄せられるからこそ、地方に空き家が残る。地方から人が抜けるからこそ、都心の需要が過熱する。二つは、深いところで、つながっている。
この集約が厄介なのは、それが「自己強化的」に進むことだ。人が集まる場所には、店ができ、仕事が増え、交通が便利になり、それがまた人を呼ぶ。逆に、人が抜ける場所は、店が閉じ、仕事が減り、バスの本数が減り、それがまた人を遠ざける。勝つ場所はますます勝ち、負ける場所はますます負ける。 一度回り始めたこの循環は、放っておけば、自然に止まることはない。むしろ、時間とともに、都心と地方の差は、加速度的に開いていく。これは、別稿で論じた「K字経済」が、賃金や資産だけでなく、私たちが立つ「土地」そのものにまで、及んでいるということでもある。K字の分断線は、いまや、日本の地図の上にも、くっきりと引かれつつあるのだ。
だから、これを「二極化」と呼ぶのは、正確ではない。より正確には、「一極集中の、裏表」だ。コインを表から見れば、きらびやかなタワマンの高騰。裏から見れば、朽ちていく空き家の山。だが、それは一枚のコインなのだ。この認識が、なぜ重要か。それは、片方だけを見て対策を打っても——たとえば「空き家を減らそう」「都心の価格を抑えよう」と個別に動いても——根っこにある「集約」という力に手をつけない限り、問題は解けない、ということを意味するからだ。
第3章:独自の読み②——家が「住むもの」から「資産の器」に変わった
なぜ、都心のマンション価格は、普通の人の年収から、これほどかけ離れて上がっていくのか。ここに、もう一つの、重要な変化がある。家というものの役割が、『住むもの』から『資産を保管する器』へと、変わってしまったのだ。
かつて、家の値段は、そこに「住みたい人」の需要で決まっていた。その街に暮らしたい人が、自分の年収に見合った価格で、家を買う。だから、家の値段は、人々の所得と、そう大きくはかけ離れなかった。ところが、いまの都心のタワーマンションは、違う。それは、そこに「住みたい人」だけでなく、そこに「資産を置きたいお金」の需要で、値段が決まっている。
資産保全のために現物を持ちたい富裕層。相続税の負担を軽くするために不動産を買う人。値上がり益を狙う投資家。そして、円安で割安になった日本の不動産を買う海外のマネー。都心のタワマンは、いまや『住むための家』ではなく、株や金と同じ、『資産を保管し、増やすための器』になった。 その価格は、そこに住みたい人の給料ではなく、そこに資産を置きたいお金の量で決まる。だから、庶民の年収がどれだけ上がろうと、追いつけないほど、値上がりしていく。
この「資産の器」化を象徴するのが、実際には人が住んでいない住戸の存在だ。投資目的で買われ、貸しにも出されず、ただ資産として保有される高額な住戸。あるいは、年に数回しか使われないセカンドハウス。都心の一等地に、明かりの灯らない部屋が、資産として静かに眠っている。住宅が足りないと言われる都心のど真ん中で、人の住まない『資産としての家』が積み上がる——これは、地方の空き家とは別種の、しかし根は同じ「家の空洞化」だ。片や資産価値ゼロで放置される地方の空き家、片や資産価値の塊として保有される都心の空き住戸。両極で、「家」から「暮らし」が抜け落ちていく。
これは、別稿で論じた「K字経済」の、不動産版だ。K字経済では、資産を持つ層と、労働で稼ぐ層の間に、分断の線が引かれていた。不動産の世界では、その線が、こう引かれる。都心のタワマンは、資産を持つ人が、その資産をさらに増やすための『住める株券』になった。一方、労働で稼ぎ、実際に住む家を必要とする人は、その株券を買えず、締め出されていく。 ここに、いまの不動産市場の、いちばん残酷な構図がある。皮肉なことに、こうして「資産としての家(都心タワマン)」が足りずに高騰する一方で、「住むための家(地方の空き家)」は、余って朽ちている。必要とされる場所で家が足りず、必要とされない場所で家が余る。 家という同じモノが、住居と資産という、二つのまったく違う役割に、引き裂かれてしまったのだ。
第4章:独自の読み③——「持ち家=安心」という、戦後の神話の崩壊
この変化は、日本人が長く信じてきた、一つの神話を、静かに崩している。「マイホームを持つことこそ、人生の目標であり、安心の証だ」という、戦後日本の神話だ。
高度成長期以来、日本人にとって、自分の家を持つことは、勤勉に働いた人生の、いわば「あがり」だった。家は、住む場所であると同時に、次の世代に受け継ぐ、確かな財産だった。「家を持てば、安心」——この信念が、多くの人を働かせ、ローンを組ませ、郊外にマイホームを建てさせた。
だが、いま、この神話は、立地によって、真っ二つに割れている。
都心では、家は高すぎて、そもそも持てない。「マイホームを持って安心する」という人生設計そのものが、普通の年収の人々にとって、手の届かない夢になりつつある。「家を持てば安心」ではなく、「家が持てない」不安が、現役世代を覆っている。
そして、地方や郊外では、もっと皮肉なことが起きている。せっかく持った家、あるいは相続した家が、資産価値を失い、逆に「負動産」——負の不動産——になっている。売れず、貸せず、それでいて、固定資産税がかかり、管理の手間がかかり、放置すれば「特定空家」に指定されて、行政から指導や、重い税負担を課されかねない。解体するにも、多額の費用がかかる。「家を持てば安心」だったはずが、「家を持ったことが、重荷になる」時代が来た。財産だったはずの持ち家が、子や孫に押し付ける、厄介な負債へと変わる。
とりわけ、相続の場面で、この負動産問題は牙をむく。遠く離れた親の家を相続しても、そこに住む予定はない。売ろうにも買い手がつかず、貸そうにも借り手がいない。それでも、所有している限り、固定資産税と管理責任からは逃れられない。近隣から「庭木が越境している」「屋根が崩れそうで危ない」と苦情が来れば、対応せざるを得ない。かといって、更地にすれば、住宅用地の税優遇が外れて固定資産税が跳ね上がるうえ、数百万円の解体費がかかる。受け取った瞬間から、出口のない負担が始まる——だから、相続放棄を考える人すら増えている。かつて「実家」は、心の拠り所であり、資産だった。それが、持て余す重荷へと変わっていく。この変化は、単なる経済の問題ではなく、私たちと故郷、私たちと家族の記憶との関係まで、静かに変えつつある。
都心では「持てない不安」、地方では「持ってしまった重荷」。「持ち家=安心」という戦後日本の共通の物語は、いまや、どこに住むかによって、正反対の悪夢へと、姿を変えている。 これもまた、第2章で述べた「集約」という一つの力が、住まいの神話を、引き裂いた結果だ。
第5章:相続と人口——「2025年問題」が引き金を引く
この「集約」を、いま一段と加速させているのが、人口動態、とりわけ相続の波だ。
日本の人口の分厚い塊である団塊の世代が、後期高齢者となり、そのマイホームが、これから続々と、相続の対象になっていく。いわゆる「2025年問題」の一側面だ。相続された家の多くは、子ども世代がすでに都市部で暮らしているため、住まれることなく、売りに出されるか、放置される。相続の波は、そのまま、空き家の波であり、中古住宅の売り出しの波でもある。別稿で論じた人口減少という大きな潮流が、不動産の世界では、こうした具体的な形をとって現れる。
重要なのは、この波が、全国一律の「暴落」としては現れない、という点だ。相続で売り出された家が、買い手のつく都市部なら、すんなり取引される。だが、買い手のいない地方や郊外なら、売れ残り、空き家になる。同じ『相続による売り出し』という現象が、立地によって、正反対の結果を生む。 ここでも、「集約」の力が、勝ち組と負け組を、くっきりと分けていく。専門家が「2025年問題で重要なのは、全国一律の暴落ではなく、エリアごとの需給差の拡大だ」と指摘するのは、この構図を言い当てている。
さらに、行政の政策も、この集約を、いわば公式に後押ししている。人口が減るなかで、限られた予算で、道路や水道、公共サービスといったインフラを、広く薄く全土に維持し続けるのは、財政的に難しい。そこで、人々の住まいや都市機能を、一定のエリアに集約していく「立地適正化計画」のような取り組みが進む。縮む国では、行政もまた、『すべての場所を守る』ことを諦め、『守る場所を選ぶ』方向へと、静かに舵を切っている。 空き家とタワマンの二極は、市場の力だけでなく、こうした政策の力にも、後押しされているのだ。
ここに、重い倫理的な問いがある。「守る場所を選ぶ」ということは、裏を返せば「守らない場所を決める」ということだ。長年その土地で暮らし、税金を納め、地域を支えてきた人々に、「あなたの住む場所は、これからは支えきれません」と告げるに等しい。それは、財政の論理としては正しくても、そこに生きる人々の尊厳や、故郷への愛着とは、鋭く衝突する。集約という『合理』と、そこに暮らす人々の『情』を、どう折り合わせるか。 これは、単なる不動産や財政の技術論ではなく、縮んでいく国が、その国民一人ひとりと、どう向き合うのかという、極めて人間的な問いなのだ。空き家問題の底には、この重い問いが、静かに横たわっている。
第6章:独自の読み④——今日の”勝ち組”タワマンが、明日の空き家になる
ここまで読むと、「では、都心のタワマンを買える人が勝者で、地方に取り残された人が敗者だ」という結論に、落ち着きそうになる。だが、話はそう単純ではない。私は、今日の『勝ち組』であるタワマンこそ、明日の空き家問題の、予備軍になりかねないと見ている。
歴史を振り返ってほしい。いま空き家として問題になっている家の多くは、かつて、憧れの的だった。高度成長期、郊外に開発されたニュータウンは、当時の人々にとって、最先端の、理想の住まいだった。だが、数十年が経ち、住民が一斉に高齢化し、子ども世代が去ると、その憧れの街は、「オールドタウン」となり、空き家が目立つ、活気を失った地域へと変わった。かつての『勝ち組』の住まいが、時間の経過とともに、『負け組』へと転落した——この歴史は、決して過去のものではない。
同じことが、いまのタワーマンションにも、起こりうる。超高層マンションは、いずれ、大規模な修繕の時期を迎える。その費用は、莫大だ。だが、住民から集める修繕積立金が不足していたり、住民の高齢化で費用の値上げに合意が得られなかったりすれば、必要な修繕ができなくなる。何百世帯もの区分所有者の合意形成は、極めて難しい。管理が行き届かなくなったタワマンは、老朽化し、資産価値を失い、やがて「空室の目立つ、管理不全のタワー」へと、転落しかねない。今日、1億円で取引される憧れのタワマンが、数十年後には、垂直に積み上がった空き家——いわば『空中の空き家』——になる。 そのリスクは、決して絵空事ではない。
つまり、「集約」の勝者に見える都心のタワマンも、時間軸を長くとれば、安泰ではない。空き家が「過去の日本が作りすぎた家の残骸」だとすれば、タワマンは「未来の空き家の、予備軍」かもしれない。二極化の勝ち組と負け組は、固定されたものではなく、時間とともに、入れ替わりうる。 この長い視点を持たないと、私たちは、今日の勝者を過大評価し、同じ過ちを繰り返すことになる。
第7章:金利という試金石——「勝ち組」の価格を、揺さぶるもの
もう一つ、都心の不動産価格の「勝ち」を、揺さぶりかねない要因がある。別稿で論じた、金利だ。
都心のマンション価格が、これほど高騰した背景には、長く続いた超低金利がある。金利がほぼゼロなら、多額のローンを組んでも、利払いは軽い。だから、人々は、高い物件でも、無理をして買えた。投資家も、安いコストで資金を借りて、不動産に投じてきた。低金利は、都心の不動産価格を、下から支える、巨大な土台だった。
だが、その金利が、正常化しつつある。「金利のある世界」が来れば、ローンの負担は増し、無理をして買える人は減る。投資家にとっても、借入コストが上がれば、不動産の魅力は薄れる。低金利という土台が揺らげば、都心の高騰も、無傷ではいられない。 さらに、都心タワマンの価格を支えてきた海外マネーも、円安(別稿参照)が反転すれば、流れが変わりうる。円安で割安だった日本の不動産が、円高になれば、その割安感を失う。
つまり、いまの「一極集中」の構図は、決して盤石ではない。それは、超低金利と、円安と、人口の集約という、いくつかの条件の上に、辛うじて成り立っている。そのどれか一つが変われば、勝ち組と負け組の地図は、書き換えられうる。二極化は、固定された結末ではなく、次の局面で再編されうる、流動的な状態なのだ。 とりわけ、金利のある世界への移行は、この巨大な不動産の天秤を、どちらに傾けるか——その最大の試金石になる。
第8章:ただし——「集約」は、必ずしも悪ではない
ここまで、集約がもたらす痛みを中心に描いてきた。だが、公平を期すために、この「集約」が持つ、合理的な側面も、しっかり置いておきたい。
人口が減っていく国で、すべての地域に、均等に人を住まわせ、均等にインフラを維持し続けることは、実は、極めて非効率だ。人がまばらにしか住まない広大な地域に、道路や水道、電気、公共交通を維持するコストは、莫大になる。財政が厳しさを増すなか、それは持続可能ではない。だとすれば、人々の暮らしを、一定の便利なエリアに集約し、そこに資源を集中的に投じる「コンパクトシティ」という発想は、縮む国が生き延びるための、合理的な戦略でもある。都市への集中は、人々の交流を密にし、イノベーションを生み、経済の生産性を高める効果も持つ。
だから、「集約は悪だ、地方を守れ」と単純に叫ぶだけでは、答えにならない。問われているのは、「避けられない集約を、いかに、痛みを最小にしながら、賢く進めるか」だ。取り残される地域や人々の暮らしを、どう支えるか。無秩序に放置される空き家を、防災や治安の観点から、どう管理し、活用し、あるいは除却するか。空き家を、安い住まいや、二地域居住の拠点として、いかに再生させるか。そして、都心の住宅を、「資産の器」だけでなく、「実際に住むための家」として、普通の人が手に入れられるように、どう供給を工夫するか。集約という大きな流れを認めたうえで、その痛みを和らげ、恩恵を分かち合う——そこに、これからの住宅政策の、腕の見せどころがある。
エピローグ:家は、本来、暮らす場所だったはずだ
2026年の日本には、7戸に1戸が空き家という現実と、1億円のタワマンに人が殺到する現実が、同居している。それは、対立する二つの異変ではなく、「縮む国」という一つの大きな力が生んだ、一枚のコインの、表と裏だ。人と富が、少数の勝ち残る場所へと吸い寄せられ、残りが見捨てられていく——その大いなる選別の、光と影である。
これから注目すべき点を、三つ挙げておく。
- 金利と、都心価格の行方。 「金利のある世界」への移行が、低金利に支えられてきた都心の高騰を、どこまで冷やすのか。二極化の「勝ち組」の地図が、書き換えられるかどうかの、最大の焦点だ。
- 空き家対策の実効性。 900万戸に達した空き家を、活用するのか、除却するのか。負動産の重荷を、どう軽くするのか。放置が進めば、防災・治安・景観のリスクは、地域社会を蝕んでいく。
- タワマンの長期的な管理。 今日の憧れが、明日の「空中の空き家」にならないために、大規模修繕や、管理組合の合意形成という、地味だが重い課題に、どう向き合うか。数百世帯の区分所有者が、修繕積立金の値上げや、大規模工事に合意できるか。この「合意形成」の難しさこそ、タワマンという住まいが抱える、時限爆弾だ。買うときには誰も気にしないが、数十年後に、必ず突きつけられる問いである。
そして、最後に、忘れてはならない、いちばん素朴な問いを置いておきたい。家とは、本来、人が暮らすための場所だったはずだ。 資産を保管する器でもなく、投機の対象でもなく、相続でもてあます負債でもなく——雨露をしのぎ、家族と過ごし、日々を営むための、生活の土台。その当たり前が、いま、資産としての家(都心タワマン)と、余った家(地方の空き家)という二つの極に引き裂かれ、「普通の人が、普通に暮らす家」という、ど真ん中が、静かに空洞化している。空き家900万戸と、1億円のタワマン。その二つの間に、私たちは、「暮らすための家」を、どうやって取り戻すのか。それが、縮む国の住まいをめぐる、最も本質的な問いなのだと思う。
※本稿の数値は、総務省「住宅・土地統計調査」、不動産経済研究所の市場予測、LIFULL HOME’Sのマーケットレポート、および2026年の各報道に基づく。「二極化ではなく一極集中の裏表」「家が資産の器になった」「今日のタワマンが明日の空き家」といった読み解きは、筆者の分析である。本稿は特定の不動産取引を勧誘・助言するものではない。価格・制度は変動するため、利用時点の最新情報を確認されたい。

