「もう若くないから」と言われるたびに思うこと

この記事は約9分で読めます。

32歳で初めて言われた

「もう若くはないですからね」。

この言葉を初めて面と向かって言われたのは、32歳のときだった。転職エージェントの面談室で、私の履歴書を眺めていたエージェントが、ちょっと困ったような表情を作って言った。「このご年齢ですと、未経験の業界へのチャレンジは、もう若くはないですからね」。

32歳。

日本の平均寿命が80歳を超える時代に、32歳で「若くない」と判定された。残りの人生のほうがまだ長い。仮に65歳まで働くとしたら、働く期間の半分以上がまだ先にある。にもかかわらず、エージェントの言葉では、私はもう「若くない側」の人間だった。

その日の帰り道、電車の窓に映る自分を見た。32歳の顔。自分では、そんなに「若くなくなった」実感はなかった。髪は黒いし、肌もそこまで老けていない。体力もある。何なら、20代後半とそんなに変わらない気がしていた。

だが世間はそう見ない。世間の「若さ」の定義は、私の自己認識より厳しい。32歳は「若くない」。この基準に、自分の感覚を合わせなければならないのかと、その電車の中で、少し憂鬱になった。

「若さ」の有効期限が短すぎる

日本社会における「若さ」の有効期限は、異常に短い。

20代は文句なく「若い」。23歳の新卒は「若手中の若手」として、ポテンシャル採用の対象になる。25歳は「まだ若い」。28歳でもギリギリ「若い」と言ってもらえる。

だが30歳を越えた瞬間、微妙になる。30歳は「若くないとは言えないが、若いとも言いにくい」。31歳で「もう若くない」に傾き、32歳で完全に「若くない」と認定される。35歳は「若くない」の金字塔であり、ここを超えると「中堅」と「おじさん・おばさん」の中間みたいな、曖昧な身分になる。

40歳は「もう若くない」が確定。45歳は「まあまあのおじさん・おばさん」。50歳以降は「若さ」の議論にすら上らない。

つまり、「若い」と見なされる期間は、せいぜい25歳から29歳までの5年間くらいだ。人生80年のうちの、わずか5年間。残りの75年は、「若くない」状態で過ごすことになる。

この有効期限の短さは、どう考えてもおかしい。農産物なら、5年で傷む野菜は誰も買わない。人間の「若さ」だけが、なぜこんなに賞味期限が短いのか。

答えは簡単だ。「若さ」に商品価値を見出す社会だからだ。若さは労働市場でのポテンシャルとして、婚活市場での魅力として、あらゆる場面で「資産」扱いされる。資産として消費されるから、短期間で使い切られる。そして使い切られた人間は「若くない」として、次のステージに押し出される。

「もう若くないから」の用法事典

「もう若くないから」という言葉は、場面ごとに異なる意味で使われる。観察してきた結果をまとめてみる。

用法1、「だから転職は諦めろ」。転職エージェントや面接官が使う。35歳以上は転職市場で不利だから、現状維持を勧めるための婉曲表現。本心は「あなたを紹介できる求人がありません」なのだが、直接言えないから「若くない」でオブラートに包む。

用法2、「だから新しいことを始めるな」。家族や親戚が使う。40代でプログラミングを始めたい、起業したい、引っ越したい——こういう挑戦的な話をすると、「もう若くないんだから」と止められる。「若いうちならいいが、この年齢で失敗したら取り返しがつかない」という心配の表現。

用法3、「だから体を大事にしろ」。医者や家族が使う。夜更かしをする、酒を飲む、運動をしない。こういう生活習慣に対して「もう若くないんだから」。これは善意の警告だが、言われると妙に傷つく。

用法4、「だから結婚を急げ」。親戚が使う。「いい人がいたら結婚しなさい、もう若くないんだから」。この用法は特に40代の独身に向けられる。婚活市場でも年齢がものを言うから、早くしろというメッセージ。

用法5、「だから夢を諦めろ」。これが最もきつい用法だ。何か新しいことをやりたいと話すと、「もう若くないんだから、現実を見ろ」と返される。夢と年齢を結びつけるロジック。若くなければ夢を見てはいけないという、誰が決めたかわからないルール。

すべての用法に共通するのは、「だから○○をするな」または「だから○○を諦めろ」という、行動の抑制だ。「若くない」は、何かを始めない・続けない・挑戦しない理由として使われる。若くないことが、消極性の根拠になっている。

体力の話だとすれば、部分的に正しい

「若くない」を体力の話として受け取るなら、部分的には正しい。

確かに体力は落ちた。20代の頃と比べると、徹夜がきつい。二日酔いからの回復が遅い。朝起きるのがつらい。階段を上ると息が切れる。これらは加齢による生理的変化であり、否定しようがない。

新しいことを覚えるスピードも落ちた。若い頃は一度聞けば覚えられたことが、今は何度もメモしないと頭に入らない。新しいアプリの使い方を覚えるのに、20代の倍の時間がかかる。これも事実だ。

だから「若くない」を根拠に「無理はするな」と言われるのは、一理ある。健康を考えて生活すること自体は、賢明な判断だ。

問題は、体力の話と能力の話が混同されることだ。「体力が落ちた」ことと「能力が落ちた」ことは別物だ。40代のほうが判断力、経験、忍耐力、人間関係の構築力など、多くの能力が上がっている。にもかかわらず、「若くない」の一言で全部ひっくるめて「ダメ」扱いされる。

体力が落ちたから転職もダメ、新しい挑戦もダメ、夢を見るのもダメ。これは飛躍だ。体力が落ちたなら、体力を使わない仕事や挑戦を選べばいい。判断力や経験が必要な領域でなら、40代のほうがむしろ有利だ。

だが世間の「もう若くないから」は、そういう細かい区別をしない。ひとつのラベルで全部を否定する。ラベルの粗さが、当事者を苛立たせる。

「まだ動ける」という内心の反論

「もう若くないから」と言われるたびに、私の内心ではこう反論している。

「まだ動ける」。

体力は落ちたが、動ける。新しいことを覚えるのは遅いが、覚えられる。夢を見る権利は年齢で消失しない。挑戦する意志は、まだ枯れていない。

この反論を声に出すことはない。声に出せば、「強がりだ」「現実を見ろ」と返されるから。だから内心にとどめる。内心にとどめながら、「もう若くないから」と言う相手に笑顔で「そうですね」と返す。

この二重構造は疲れる。外面は同意、内面は反論。この分裂を何年も続けていると、自分が何を考えているのかわからなくなる。外面の同意を重ねるうちに、内面の反論が弱っていく。「もしかしたら本当にもう若くないのかもしれない」と、自分でも信じ始める。

これは危険な兆候だ。社会的な自己認識が、自分の実感を上書きしていく。32歳で「若くない」と言われ、35歳で「若くない」と言われ、40歳で「若くない」と言われ続けると、自分でも「若くない」と思うようになる。外からの評価が、内なる信念として定着する。

だから、内心の反論は守り続けなければならない。「まだ動ける」。この一言を、自分のために何度も言う。他人の「若くない」認定に飲み込まれないように。

年齢で線を引く文化

日本社会は、年齢で線を引くのが好きだ。

新卒採用、中途採用の年齢制限、昇進の「何歳まで」という目安、住宅ローンの審査基準、生命保険の加入条件、婚活アプリの検索フィルター。あらゆる場面で、年齢が仕切り線として使われる。

この線は、「若い人」と「若くない人」を分ける。線の内側にいる人は、様々な選択肢にアクセスできる。線の外側にいる人は、選択肢が激減する。

この線は、個人の能力や状態とは無関係に引かれる。40歳で体力もあり意欲もある人でも、「40歳」という数字だけで線の外側に置かれる。線の内側にいる25歳が無気力で能力もない人でも、「25歳」という数字だけで線の内側にいる。

この粗さが、日本の年齢差別の本質だ。「年齢差別」という言葉は、日本ではまだ市民権を得ていない。性差別、人種差別は悪とされるが、年齢差別は「仕方ない」とされる。「だって若いほうが伸びしろあるでしょ」という理屈で、容認されている。

伸びしろは年齢だけで決まらない。40代でも伸びる人はいるし、20代でも頭打ちの人はいる。個別に見ればいい。だが個別に見るのはコストがかかる。だから年齢で一律に判断する。このコスト削減のために、多くの40代以上が機会を奪われている。

海外との比較

海外の一部の国では、採用における年齢差別は違法とされている。アメリカの雇用機会均等法、ヨーロッパ諸国の平等法。履歴書に年齢を書かない、写真を載せない。面接で年齢を聞くのは違法。そういう国もある。

日本の履歴書には、生年月日を書く欄がある。写真も貼る。面接では「おいくつですか」と当然のように聞かれる。年齢で判断するのが当たり前の文化だ。

法律上は「年齢制限の禁止」が定められているが、例外規定が大量にあり、実質的には年齢制限が合法的に運用されている。「長期勤続によるキャリア形成のため」という理由で、35歳以下に限定できる。この「例外」が「原則」として機能している。

日本の「もう若くないから」文化は、制度的にも支えられている。個人の意識だけで変わるものではない。社会全体の構造として、年齢が人間を仕切る基準として機能している。

この構造の中で「若くない」と言われ続けるのは、個人の問題ではなく、社会の問題だ。社会の問題なのに、個人が「年齢を理由に諦めろ」と言われる。この構造的な不条理に、「仕方ない」と頭を下げるしかない。

「若くない」を言われたときの返し方

「もう若くないから」と言われたとき、どう返すか。何通りかの対応を試してきた。

対応1、同意する。「そうですね、もう若くないですよね」。これが最も摩擦の少ない対応。相手は満足し、会話は終わる。だが自分の内心には傷が残る。自己否定を口に出したダメージは、地味に蓄積する。

対応2、軽くいなす。「まあ、まだ動けますから」。やんわりと反論。相手が善意の忠告のつもりなら、この返しで引き下がってくれる。ただし相手が説教したい気分の場合、「いや、あなたはわかってない」と食い下がられる。

対応3、真っ向から反論する。「若いか若くないかは、年齢だけで決まるものじゃないと思います」。これは勇気がいる。相手との関係が悪化するリスクがある。だが自分の信念を表明することで、自分を守れる。

対応4、皮肉で返す。「じゃあ若い人にやってもらいましょうかね」。ややブラックなユーモア。相手の「若くない」認定をそのまま返して、相手に考えさせる。上級者向け。

対応5、無視する。会話を続けない。相手の「若くない」発言を、聞かなかったことにして、別の話題に移る。これも有効だ。反論も同意もしない。ただスルー。スルースキルは中年の必須装備。

場面や相手によって、使い分けている。一律の正解はない。ただ、自分を傷つけない対応を選ぶこと、それだけは意識している。

若くないからこそ見える景色

ポジティブな話もしておく。

若くない、ということは、若い頃には見えなかった景色が見えるということでもある。

若い頃は、将来のことを考えると希望があった。でも同時に、不安も大きかった。どうなるかわからないから不安。その不安は、希望と表裏一体だった。

若くなくなると、将来の輪郭が見えてくる。「このまま行けば、だいたいこういう感じで人生が終わる」という見通しが立つ。見通しが立つと、希望は減るが、不安も減る。プラスマイナスで見れば、感情のボラティリティが下がる。

若い頃の熱狂や焦燥は、少なくなった。だが代わりに、落ち着きを手に入れた。動揺しにくくなった。他人の評価に振り回されにくくなった。

これらは「若くない」ことで得られたものだ。若さという資産を失った代わりに、老いという資産を得た。交換だ。交換は悪くない。得たもののほうを数えれば、プラスの年もある。

「もう若くないから」と言われるたびに、私は思う。若くない。その通り。だが、若くないからこそ、若い頃にはできなかったことができるようになった。若い頃には気づかなかったことに気づけるようになった。若さを惜しむのはやめた。若くない自分を、受け入れる。

受け入れた上で、言いたい。まだ動ける。まだ考える。まだ生きている。年齢は、私を止める理由にはならない。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「もう若くないから」と言われて複雑な気持ちになったことがある人は、きっと少なくないはずです。

タイトルとURLをコピーしました