「最近どう?」と聞いてくれる人がゼロになった年のこと
気づいたのは年末だった
その年の12月31日、大晦日の夜。一人で年越しそばを食べながら、ふと思った。
「今年一年、『最近どう?』と聞いてくれた人は、いただろうか」。
記憶を辿った。1月。2月。3月——12月。月ごとに、誰かから「最近どう?」と聞かれた記憶を探した。
なかった。
親からの「元気?」は、「最近どう?」とは少し違う。「元気?」は安否確認だ。「最近どう?」は、近況への関心だ。安否確認と近況への関心は、似ているが質が違う。「元気?」は「生きているか」を確認する。「最近どう?」は「どう生きているか」を知りたがっている。
「どう生きているか」を知りたがっている人が、一年間で一人もいなかった。
この事実に気づいたのは、大晦日の夜だった。年越しそばの汁が、少しだけしょっぱく感じた。味付けのせいではない。
「最近どう?」の機能
「最近どう?」は、短い問いかけだが、複数の機能を持っている。
機能1。関心の表明。「あなたのことを気にかけていますよ」というメッセージ。相手の存在を認識し、近況を知りたいと思っている。この関心が、聞かれた側にとっては「自分は忘れられていない」という確認になる。
機能2。会話の糸口。「最近どう?」から始まる会話は、近況報告、愚痴、相談、笑い話など、様々な方向に展開する。この一言が、コミュニケーションの入口になる。
機能3。安否確認のライト版。「元気?」よりも軽く、「何かあった?」よりも重くない。ちょうどいい塩梅の問いかけ。深刻でもなく、軽薄でもない。日常的な関心の表現。
これらの機能を持つ「最近どう?」が、一年間で一度も発動しなかった。つまり、私のことを気にかけてくれる人が一年間で一人もいなかった。私の存在を認識し、近況を知りたいと思ってくれる人がいなかった。
この事実は、静かだが深刻だ。「最近どう?」がない人生は、他者からの関心がゼロの人生だ。関心がゼロの人生は、社会的に存在していないのと同じだ。物理的には存在しているが、社会的には不可視。透明人間。
「最近どう?」が減っていった過程
「最近どう?」は、突然ゼロになったわけではない。徐々に減っていった。
20代。「最近どう?」は頻繁にあった。友達から、同僚から、先輩から。飲み会の席で、LINEで、電話で。月に何度も聞かれた。答えるのが面倒なくらい、頻繁にあった。
30代前半。頻度が減った。友達が減り、会う機会が減り、連絡の頻度が下がった。月に1回くらいは、誰かから「最近どう?」が来ていた。来ていたが、以前ほどではない。
30代後半。さらに減った。年に数回。正月の年賀状に添えられた「お元気ですか」。誕生日のLINEに付け足された「最近どう?」。年に数回の問いかけが、ぎりぎりの生命維持装置だった。
40代前半。年賀状をやめた。年賀状をやめたことで、正月の「お元気ですか」が消えた。誕生日のLINEも来なくなった。友達がいなくなったから。「最近どう?」の受信頻度は、年に1回あるかないか。
そして、あの年。一年間で一度もなかった年。ゼロの年。
自分から聞けばいい、という正論
「聞かれるのを待っていないで、自分から聞けばいいじゃないか」。これは正論だ。
自分から誰かに「最近どう?」と連絡すれば、会話が始まるかもしれない。相手も「最近どう?」と返してくれるかもしれない。待っているだけでは何も起きない。行動すれば変わる。正論だ。
だが自分から「最近どう?」と送るのは、意外とハードルが高い。
まず、送る相手がいない。LINEの友達一覧の半分以上が「誰だかわからない人」だ。残りの人にも、何年も連絡していない。何年も連絡していない相手に突然「最近どう?」と送るのは不自然だ。不自然なメッセージは、「何か用事があるのか」と警戒される。用事はない。ただ近況を知りたいだけ。だが「ただ近況を知りたいだけ」のメッセージを、何年もの沈黙を経て送るのは、気が引ける。
次に、返事が来なかったときのダメージが怖い。自分から「最近どう?」と送って、既読スルーされたら。既読すらつかなかったら。ブロックされていたら。これらの可能性を想像すると、メッセージを送る指が止まる。送る前から傷つくことを予測して、送らない。防衛的な不行動。
そして、「最近どう?」と聞いたとき、自分が答える番が来ることへの恐怖。「そっちこそ最近どう?」と聞き返された場合、何と答えるか。「派遣で働いて、半額の惣菜を食べて、一人でテレビを見て、年越しそばを一人で食べています」。この回答を、相手に聞かせたいか。聞かせたくない。聞かせたくないから、聞かない。聞かなければ、聞かれない。
「最近どう?」がない生活の具体的な影響
「最近どう?」がない生活は、具体的にどんな影響があるか。
影響1。自分の近況を「報告する相手」がいないことで、近況を「意識する機会」がなくなる。人は他者に語ることで、自分の状態を客観視する。「最近どう?」と聞かれて「ぼちぼちだよ」と答えるとき、自分が「ぼちぼち」であることを確認する。聞かれないと、自分の状態を確認する機会がない。確認しないまま、状態が悪化しても気づかない。
影響2。承認の欠如。「最近どう?」は、「あなたのことを覚えていますよ」という承認だ。承認がないと、「自分は誰からも覚えられていない」という感覚が強くなる。覚えられていない感覚は、自己存在感の希薄化につながる。「自分はいてもいなくても同じだ」と思い始める。
影響3。異変の検知機能の喪失。「最近どう?」は、異変を検知するセンサーとしても機能する。聞かれて「実はちょっと辛くて」と答えることで、助けを求める入口が開く。聞かれなければ、入口が開かない。辛いまま、一人で抱え続ける。
これらの影響は、目に見えにくい。外からは「普通に暮らしている」ように見える。だが内面では、承認の欠如と異変検知の不在が、じわじわと精神を蝕んでいる。
「最近どう?」の代替物
人からの「最近どう?」がないなら、代替物を用意するしかない。
代替物1。日記を書く。自分で自分に「最近どう?」と問いかける。日記に近況を書くことで、自分の状態を客観視する。他者への報告の代わりに、自分への報告。
代替物2。このエッセイを書く。書くことが、自分の状態を言語化する作業だ。言語化すれば、漠然とした感覚が明確になる。明確になれば、対処しやすくなる。読者がいるかどうかは別として、書くこと自体が「最近どう?」への回答になっている。
代替物3。カフェに行く。前のエッセイで書いたカフェは、他者の存在する空間だ。話しかけられることはないが、人がいるということ自体が、微かな承認になっている。「この空間に自分もいていい」という、暗黙の承認。
代替物4。親に電話する。「元気?」を「最近どう?」の代替として使う。親の「元気?」に「元気だよ」と答えることで、最低限の承認を得る。
これらの代替物は、他者からの「最近どう?」には及ばない。自分で自分に問いかけるのと、他者から問いかけられるのでは、承認の質が違う。自問自答は自己完結であり、他者からの関心とは本質的に異なる。
代替物で凌いでいる。凌いでいるうちは大丈夫。凌げなくなったときが、本当の危機だ。その危機が来ないように、代替物を維持する。日記を書く。エッセイを書く。カフェに行く。親に電話する。
来年は聞いてもらえるか
来年は、「最近どう?」と聞いてくれる人が現れるだろうか。
わからない。現れないかもしれない。現れないなら、また一年間、ゼロのまま過ごす。ゼロの年が2年続き、3年続き、5年続く。続くたびに、「最近どう?」の記憶が遠のく。遠のくと、聞かれることへの期待も薄れる。期待が薄れると、聞かれなくても平気になるかもしれない。平気になることが、成熟なのか麻痺なのか。
もし来年、誰かが「最近どう?」と聞いてくれたら。その一言に、どれだけ救われるか。聞いてくれた人は、そのことの重さを知らないだろう。軽い挨拶のつもりで聞いただけだろう。だが受け取る側にとっては、一年ぶりの、あるいは数年ぶりの、関心の表明だ。砂漠の中の一滴の水だ。
もしこのエッセイを読んでいる人がいたら、お願いがある。あなたの連絡先リストの中に、長い間連絡を取っていない人がいないか、確認してほしい。いたら、「最近どう?」と送ってほしい。たった5文字だ。5文字のメッセージが、相手にとって一年ぶりの関心かもしれない。5文字が、誰かの大晦日の年越しそばの味を、少しだけ変えるかもしれない。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「最近どう?」と聞かれなくなったことに気づいた人は、きっと少なくないはずです。
