一人でカフェにいることが「孤独」ではなく「通常」になった過程

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一人でカフェにいることが「孤独」ではなく「通常」になった過程

最初は恥ずかしかった

一人でカフェに入ることが、最初は恥ずかしかった。

20代前半の頃だ。カフェは誰かと行く場所だった。友達と待ち合わせて入る。恋人と一緒に入る。一人で入るのは、「友達がいない人」に見られるのではないか。そういう自意識が邪魔をして、一人ではカフェに入れなかった。

初めて一人でカフェに入ったのは、25歳くらいのときだと思う。就職活動の合間、面接と面接の間に2時間の空きがあった。外は寒い。歩き回る体力もない。仕方なく、駅前のチェーン系カフェに入った。

カウンターで「ブレンドコーヒー、Sサイズで」と注文する。300円。席に座る。周囲を見回す。二人連れ、三人連れ、カップル。一人客は——いた。窓際に、ノートパソコンを開いている男性。その隣に、本を読んでいる女性。一人客がいる。自分だけではない。少し安心した。

コーヒーを飲みながら、面接の準備をした。2時間。コーヒー1杯で2時間。店員に怒られるかと思ったが、何も言われなかった。チェーン系カフェは寛大だ。

あの日が、一人カフェの始まりだった。

「恥ずかしさ」が消えるまで

一人カフェの恥ずかしさが消えるまでに、3年ほどかかった。

最初の1年は、毎回少し緊張した。一人で入る瞬間、周囲の目が気になる。席に座っても、周りの客が自分を見ているのではないかと気になる。実際には誰も見ていないのだが、自意識が勝手にセンサーを稼働させる。

2年目になると、緊張が薄れた。一人カフェに週1回くらいのペースで通っていた。通うたびに「誰も気にしていない」ことを確認し、確認を繰り返すうちに、自意識のセンサーが鈍くなった。

3年目。もう何も感じない。一人でカフェに入ることが、完全に日常動作になった。コンビニに入るのと同じ感覚。恥ずかしさゼロ。自意識ゼロ。ただ、コーヒーを飲む場所として、カフェに入る。それだけ。

この変化を「成長」と呼ぶか「麻痺」と呼ぶかは、解釈による。恥ずかしさを克服した、と前向きに捉えることもできる。一人であることに慣れすぎた、と後ろ向きに捉えることもできる。

「孤独」から「通常」への変遷

恥ずかしさが消えたあと、次のフェーズに移行した。「孤独」から「通常」への変遷だ。

恥ずかしさの次に来たのは、孤独感だった。一人でカフェに座っていると、周りの二人連れやグループが楽しそうに話しているのが目に入る。笑い声が聞こえる。自分だけが一人。この「自分だけが一人」感が、30代前半のカフェ体験を覆っていた。

カフェで一人、コーヒーを飲みながら、周囲の楽しそうな声を聞く。自分には一緒にカフェに来てくれる人がいない。この事実が、カフェの空間に座っているだけで突きつけられる。カフェは孤独の確認装置だった。

だがこの孤独感も、繰り返すうちに薄れた。30代後半あたりから、周囲の客のことが気にならなくなった。二人連れが笑っていても、「楽しそうだな」と思うだけで、「自分は一人だ」という反射的な比較が起きなくなった。

40代に入ると、一人でカフェにいることが「孤独」ではなく「通常」になった。通常とは、特別な感情を伴わない状態だ。嬉しくもなく、寂しくもなく、恥ずかしくもなく。ただ、そこにいる。コーヒーがある。椅子がある。自分がいる。それだけ。

この「通常」の状態を獲得するまでに、15年かかった。15年の歳月が、一人カフェを「異常」から「通常」に変換した。

一人カフェの効用

一人でカフェにいることが「通常」になると、カフェの効用が変わった。

最初は「仕方なく入る場所」だった。待ち時間を潰すため、暑さ寒さを凌ぐため。消極的な理由で入っていた。

今は「積極的に行きたい場所」になっている。一人の時間を、一人の空間で過ごす。自宅とは違う環境で、少しだけ非日常の空気を吸う。自宅は生活の場であり、完全にプライベートだ。カフェは公共の場であり、他者の存在がある。他者がいるが、関わらない。この「いるが関わらない」距離感が、絶妙に心地よい。

一人暮らしの人間にとって、自宅は「完全な孤独」の空間だ。誰もいない。何の音もしない。この完全な孤独は、時に重い。カフェは「不完全な孤独」だ。人がいる。声が聞こえる。コーヒーマシンの音がする。だが誰も自分に話しかけない。話しかけられない孤独は、話しかけられない安心と表裏一体だ。

カフェは、孤独と社会の中間地帯だ。完全に孤立しているわけでもなく、完全に社会に参加しているわけでもない。その中間にいる心地よさ。これを発見したのが、40代だった。

300円の滞在許可証

カフェでコーヒーを1杯頼む。300円。この300円は、カフェ空間への「滞在許可証」だ。

300円を払えば、1時間でも2時間でも座っていられる。冷暖房の効いた空間。椅子とテーブル。電源コンセント(ある席なら)。Wi-Fi。これらが300円で使える。自宅では光熱費がかかるが、カフェなら300円のコーヒー代だけで、快適な環境が手に入る。

ただし300円は、節約生活者にとっては軽くない。自宅でインスタントコーヒーを飲めば20円だ。カフェの300円は、インスタントの15倍。この15倍のプレミアムを、「空間への対価」として許容できるかどうか。

私は週に1回、300円のカフェ代を許容している。月1200円。年14400円。NISAの月額積立の3ヶ月分弱。この14400円は、「一人でいることを苦痛でなくするための投資」だ。自宅の完全な孤独に耐えるよりも、カフェの不完全な孤独のほうが精神衛生に良い。精神衛生の改善は、長期的には医療費の節約につながる。——こうやって節約脳で正当化するのが、私の癖だ。

「おひとりさま席」の増加

最近のカフェには、「おひとりさま席」が増えている。壁に向かったカウンター席、パーテーションで仕切られた個別席、電源とWi-Fi完備の作業スペース。一人客を想定した設計が、標準になりつつある。

これは、一人客の増加を反映している。一人でカフェに来る人が増えた。独身者の増加、リモートワークの普及、「一人時間」の価値の見直し。社会全体が、「一人でいること」をより許容するようになった。

15年前、一人でカフェに入ることが恥ずかしかった。今は、カフェのほうが一人客を歓迎している。社会の変化が、私の「通常」を後押ししてくれた。

だが「おひとりさま席」が増えたことと、「孤独の解消」は別の話だ。席が増えても、孤独は消えない。快適な一人席に座って、快適に孤独を過ごす。快適さと孤独は共存する。共存するが、快適な孤独は不快な孤独よりずっとましだ。

カフェという居場所

45歳。独身。一人暮らし。友達なし。趣味なし。この条件で「居場所」と呼べる場所は多くない。

自宅は居場所だが、孤独の圧が強い。職場は居場所だが、契約が終われば消える。ハローワークは居場所だが、そこにいること自体がネガティブだ。

カフェは、これらのどれとも違う居場所だ。誰にも属さず、何にも縛られず、300円だけ払えば座れる。座っている間は、社会の一員であるような気がする。コーヒーを飲んでいる自分は、他の客と同じカフェの客だ。正社員の客も派遣の客も、カフェでは区別されない。コーヒー1杯の前で、みんな平等だ。

この「コーヒー1杯の平等」が、カフェの最大の魅力だ。300円で買える平等。安い。安いが、価値がある。

一人でカフェにいることが「孤独」ではなく「通常」になった。通常になったことを、私は良かったと思っている。孤独が消えたわけではない。孤独はある。あるが、孤独の中でも居心地の良い場所を見つけた。それがカフェだ。300円の居場所。明日もきっと行くだろう。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。一人カフェが日常になっている人は、きっと少なくないはずです。

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