「若い頃に頑張っていれば」と言ってくる人への静かな反論

この記事は約9分で読めます。

その一言が、どれだけ重いか知っていますか

「若い頃にもっと頑張っていればねえ」

この言葉を投げかけてくる人は、おそらく自分が爆弾を投げていることに気づいていない。本人の中では、ちょっとした感想、あるいは軽い助言くらいの感覚だろう。「もったいないよね」くらいの温度。コーヒーに砂糖を入れるかどうか程度の、日常的な所感。

だが受け取る側にとって、この一言は腹に突き刺さった槍を、さらにひと押しされるような感覚だ。なぜなら、その言葉が言外に含んでいるのは、「あなたの現状は、あなたの過去の怠慢の結果である」という因果関係の断定だからだ。

今日はこの一言に対して、静かに反論を試みたい。声を荒げるつもりはない。テーブルをひっくり返すつもりもない。ただ、「それは事実と異なります」ということを、できるだけ冷静に、できるだけ丁寧に説明したい。相手が聞いてくれるかどうかは別として。

まず、「頑張っていなかった」という前提を疑ってほしい

「若い頃に頑張っていれば」——この言葉は、「若い頃に頑張っていなかった」ことを前提としている。しかし、その前提は正しいのか。

私は頑張っていた。少なくとも、自分では頑張っていたつもりだ。大学に通い、単位を取り、就職活動では100社以上にエントリーした。リクルートスーツを着て、汗だくで面接会場に通い、自己PRを暗記し、志望動機を捏造し、お祈りメールを100通受け取った。それを「頑張っていなかった」と言うのなら、一体何をすれば「頑張った」ことになるのか。200社受ければよかったのか。300社か。

「頑張る」の定義が人によって違うことは承知している。しかし、少なくとも就職活動において「頑張る」とされる行動——企業研究、OB訪問、自己分析、エントリーシートの推敲、面接対策——これらを一通りやった上で、それでも結果が出なかった人間に向かって「頑張っていれば」と言うのは、的外れだ。

もっと言えば、「頑張る」という言葉自体が、就職氷河期の文脈では機能不全を起こしている。頑張れば結果が出るという前提が成立しない環境で、「頑張れ」は呪いの言葉にしかならない。泳げない水深のプールに放り込まれた人間に「もっと泳げ」と言っているようなものだ。溺れている人間に必要なのは叱咤ではなく、浮き輪だ。

「頑張る」と「報われる」は別の話

「若い頃に頑張っていれば」という言葉の裏には、「頑張れば報われる」という信念がある。この信念は、一定の条件下では正しい。頑張れば成績は上がるし、練習すればスポーツは上達するし、努力すれば技術は身につく。個人のスキルアップに関しては、「頑張り」と「結果」は比例しやすい。

しかし就職は違う。就職とは、個人の能力と関係ない変数が大量に介入するプロセスだ。その年の景気。業界の採用枠。面接官との相性。学歴フィルター。地域差。性別。運。これらの変数が絡み合って、結果が決まる。個人の「頑張り」は、その変数のひとつにすぎない。しかも、最大の変数ですらない。

就職氷河期において最大の変数は「時代」だった。求人倍率が1を切る年がある。大卒の就職率が60%を割り込む年がある。つまり、全員が頑張ったとしても、4割は就職できない。この4割は、頑張らなかったから就職できなかったのか。違う。椅子が足りなかったから座れなかったのだ。

これは個人の努力の問題ではなく、構造の問題だ。構造の問題を個人の責任に帰すのは、論理的に誤っている。しかし「若い頃に頑張っていれば」と言う人は、この区別ができていない。あるいは、区別する必要を感じていない。なぜなら、自分は椅子に座れた側の人間だからだ。座れた人間にとって、座れなかった人間の苦しみは想像の範疇を超えている。

「頑張っていた」ことが見えない問題

非正規で働き続けてきた人間の「頑張り」は、外から見えにくい。

正社員として一つの会社で昇進していく人の「頑張り」は、肩書きや年収という形で可視化される。係長になった、課長になった、年収がいくらになった。成果が数字や名称として表れる。周囲からも「頑張っているね」と認識される。

一方、非正規で転々としてきた人間の「頑張り」は、どこにも記録されない。派遣先で理不尽な扱いを受けながらも契約期間を全うしたこと。契約が切れるたびに次の仕事を探し、面接を受け、また新しい職場のルールを一から覚えたこと。安い給料でやりくりし、生活を維持し続けたこと。これらはすべて「頑張り」だが、履歴書に書いても評価されない種類の頑張りだ。

「若い頃に頑張っていれば」と言う人は、見える頑張りしか頑張りとして認識していない。昇進した、資格を取った、起業した——そういう「成果」を伴う頑張りだけが頑張りだと思っている。成果の出ない頑張りは、頑張っていないのと同じ。

これは、マラソンで完走した人だけが「走った」と認定され、途中でリタイアした人は「走らなかった」と見なされるようなものだ。リタイアした人だって走った。30キロまでは走った。でもゴールテープを切らなければ「走った」ことにならない。就職氷河期のランナーたちは、走った。死ぬほど走った。ただ、コースの途中で道がなくなっていただけだ。

「若い頃」とはいつのことか

「若い頃に頑張っていれば」の「若い頃」とは、具体的にいつを指しているのだろう。

高校時代か。もっと勉強して、もっと偏差値の高い大学に入っていれば、就職も有利だっただろう。確かにそうかもしれない。だが18歳の時点で「10年後に就職氷河期が来るから、今のうちにできるだけいい大学に入っておけ」と助言してくれた大人がいただろうか。いない。未来は予測できない。18歳の選択を40代の視点で批判するのは、答えを知った上でテストの間違いを指摘するようなものだ。それは「頑張り」の問題ではなく、「情報」の問題だ。

大学時代か。もっと資格を取っておけば、もっとインターンに参加していれば。確かにそうかもしれない。だが当時のインターン制度は今ほど充実していなかったし、大学で取れる資格が就職に直結するケースも限られていた。何より、大学生のほとんどは「普通に就職できる」と思って過ごしていた。それが甘かったと言うなら、甘くない大学生活とは何だったのか。18歳から22歳の人間に「将来の社会構造の変動を予測して行動せよ」と要求するのは、酷というより無茶だ。

就活時代か。もっと多くの企業を受けていれば、もっと業界を広げていれば。100社以上受けて全部落ちた人間に、これ以上何を求めるのか。200社受ければ1社くらい引っかかったかもしれない。でもそれは結果論だ。100社落ちた時点で精神的に限界だった人間に、「あと100社頑張れ」と言えるか。言えるなら、あなたの想像力は100社分足りない。

結局、「若い頃に頑張っていれば」の「若い頃」は、特定の時期を指していない。漠然とした「過去」であり、「今こうなっているのは過去のどこかに原因がある」という発想法だ。原因は確かにある。だがそれは個人の怠慢ではなく、社会の構造だ。

言ってくる人の心理

「若い頃に頑張っていれば」と言ってくる人の心理を、少し分析してみたい。怒りをぶつけるためではなく、理解するために。

まず、この言葉を言う人は、たいてい「自分は頑張った側」だと思っている。自分は若い頃に頑張ったから、今の地位や安定がある。その自己認識が正しいかどうかは別として、本人はそう信じている。だから「頑張らなかった人間が苦しんでいるのは当然だ」という因果関係を自然に構築する。

この因果関係は、その人にとって非常に重要だ。なぜなら、「頑張ったから報われた」という物語がなければ、自分の成功は「たまたま運が良かっただけ」ということになってしまうからだ。それは受け入れがたい。自分の努力を否定されるような気がする。だから「頑張ったから成功した/頑張らなかったから失敗した」という因果関係を守る。守るために、他者に向かって「頑張っていれば」と言う。

これは心理学でいう「公正世界仮説」に近い。世界は公正であり、良いことをした人には良い結果が、悪いことをした人には悪い結果が返ってくる、という信念。この信念を維持するために、不幸な人を見ると「きっとその人にも原因がある」と考える。被害者に原因を帰すことで、世界の公正さを保つ。

つまり「若い頃に頑張っていれば」は、言っている本人のための言葉であって、言われている相手のための言葉ではない。自分の世界観を守るための防衛装置だ。だから反論しても響かない。響かないことはわかっている。わかっているけど、ここに書いておく。

「若い頃に頑張っていれば」と言われたときの内心

この言葉を言われたとき、私の内心では以下のような反応が同時多発的に起きている。

まず、怒り。「お前に何がわかる」という原始的な感情。これが最初に来る。ただし表には出さない。出したところで何も変わらないし、「だから就職できないんだよ」と返されるのがオチだ。

次に、自己懐疑。「もしかして本当にそうなのかもしれない」という疑念。これが厄介だ。外部からの批判は跳ね返せるが、その批判が内面に侵入して自己批判に変わると、戦う相手が自分自身になる。そして自分自身には勝てない。

そして、疲労。またこの話か。何度目だ。何人目だ。同じ反論を頭の中で組み立て、同じ結論に至り、そして同じように黙る。この繰り返しに、心底疲れる。

最後に、諦め。この人には伝わらないだろうな、という静かな確信。伝わらないことがわかっているから、笑って流す。「そうですね、もうちょっと頑張ればよかったかもしれませんね」と。この同意は降伏ではない。撤退だ。戦っても勝てない戦場から、被害を最小限にして退く判断。

「頑張る」以前の問題

もう少し本質的な話をしたい。

「若い頃に頑張っていれば」という言葉は、「頑張り」が個人の意志と能力だけで決まるという前提に立っている。しかし実際には、「頑張れる」こと自体が、環境と条件に依存している。

たとえば、実家が裕福な学生は、バイトをせずに就職活動に集中できる。交通費も受験料も親が出してくれる。一方、仕送りなしで生活している学生は、バイトを減らせない。就活のために東京に行く交通費すら捻出が難しい。同じ「頑張り」でも、スタートラインが違う。

たとえば、メンタルの強い人間と弱い人間がいる。10社落ちても平気な人もいれば、3社で心が折れる人もいる。これは性格であり、体質であり、育った環境の産物であり、個人の「頑張り」でどうにかなる範囲には限界がある。

たとえば、コネのある家庭とない家庭がある。親が一部上場企業の役員なら、OB訪問のひとつやふたつ簡単にセッティングできる。親がそういう世界と無縁なら、自力でゼロから開拓するしかない。同じ「頑張り」でも、効率が違う。

「頑張れ」と言う前に、「頑張れる条件が平等に配分されているか」を考えてほしい。考えた上で、それでも「頑張れ」と言えるなら、あなたは相当に恵まれた環境で育った人だ。恵まれたこと自体は悪くない。だが、恵まれていることに無自覚なまま、恵まれなかった人間に説教するのは、控えめに言って的外れだ。

では、何と言えばいいのか

「若い頃に頑張っていれば」の代わりに、何と言えばいいのか。

正解はない。そもそも何か言わなければいけないという前提が間違っているのかもしれない。他人の人生に対して、簡単にコメントしないこと。それが最良の対応だったりする。

それでも何か言いたいなら、「大変だったんだな」くらいでいい。事実の確認。判断を含まない一言。「頑張りが足りなかった」とも「時代が悪かった」とも言わない。ただ「大変だったんだな」と。

あるいは、何も言わずに一杯おごってくれるのが、一番うれしかったりする。ビールでいい。発泡酒でもいい。「まあ飲めよ」の一言に含まれる、言語化されない連帯感。それは「若い頃に頑張っていれば」の100倍、人の心に届く。

反論の代わりに

最後に、「若い頃に頑張っていれば」と言ってくるすべての人に、反論の代わりに問いを返したい。

あなたが若い頃に頑張れたのは、なぜですか。

頑張る環境があったからではないですか。頑張りを受け止めてくれる社会があったからではないですか。頑張ったら結果が出るという時代に、たまたまいたからではないですか。

あなたの頑張りを否定したいのではない。あなたは確かに頑張った。その頑張りは本物だ。ただ、その頑張りが報われたのは、あなたの頑張りだけが理由ではない。頑張りが報われる環境に、あなたがいたからだ。

その環境にいなかった人間に向かって「頑張っていれば」と言うことの空虚さを、少しだけ想像してみてほしい。

想像できなくてもいい。できないなら、せめて黙っていてくれないか。黙っていてくれるだけで、こちらは十分に救われる。うるさい応援より、静かな沈黙のほうが、ずっと優しいことがある。

 

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「頑張っていれば」と言われたことのある人、あるいは言ってしまったことのある人、どちらにも読んでもらえたらと思います。

タイトルとURLをコピーしました