SNSに「充実した生活」を投稿する気力がなくなった話

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SNSに「充実した生活」を投稿する気力がなくなった話

かつてはSNSを使っていた

信じられないかもしれないが、かつてはSNSに投稿していた時期がある。

20代後半、ミクシィが流行っていた頃。日記を書き、コミュニティに参加し、マイミクと交流していた。たいした内容ではない。「今日食べたラーメンが美味しかった」「週末に映画を見た」「仕事が疲れた」。日常の断片を、テキストにして投稿していた。

30代前半、Facebookが普及した。アカウントを作り、大学時代の友達とつながった。最初は楽しかった。久しぶりに友達の近況がわかる。写真を見れば元気そうだ。「いいね」を押す。押される。ゆるやかなつながり。

だが、Facebookを使っているうちに、投稿する気力が徐々に失われていった。失われた理由は、いくつかある。

タイムラインの圧

Facebookのタイムラインには、友達の「充実した生活」が並ぶ。

結婚しました。子どもが生まれました。マイホームを建てました。昇進しました。海外旅行に行ってきました。家族でキャンプに行きました。高級レストランでディナー。子どもの運動会。新車を買いました。

華やかだ。キラキラしている。みんな充実している。少なくとも、タイムライン上ではそう見える。

このタイムラインを眺めながら、自分は何を投稿できるか考えた。「今日も派遣の仕事が終わった」。「半額の惣菜が美味しかった」。「発泡酒を飲みながらテレビを見ている」。投稿するまでもない日常だ。投稿しても「いいね」がつくとは思えない。つかなかったら、さらに惨めになる。

比較が始まる。友達は家族旅行の写真を投稿している。私は一人でテレビを見ている。友達は子どもの成長を記録している。私は子どもがいない。友達はキャリアの節目を祝っている。私は派遣契約の更新を祈っている。

この比較が、タイムラインを開くたびに発生する。開くたびに、自分の人生が他者の人生より「劣っている」ことを確認させられる。確認するのが辛くなって、タイムラインを開く頻度が減った。開く頻度が減ると、投稿する頻度も減る。減ると、さらにつながりが薄くなる。薄くなると、開く理由がなくなる。

こうしてSNSからフェードアウトした。アカウントは残っているが、最後の投稿は5年以上前だ。ログインしたのも、いつか覚えていない。

「投稿するもの」がない

SNSに投稿するには、「投稿するもの」が必要だ。

旅行に行った写真。美味しいものを食べた写真。友達と過ごした写真。新しく買ったものの写真。趣味の成果物。仕事の成果。人生のイベント。

私の日常には、これらのどれもない。旅行に行かない。美味しいもの(投稿に値するレベルの)は食べない。友達がいないから、友達との写真はない。新しく買ったものは100均の商品。趣味はない。仕事の成果は特筆すべきものがない。人生のイベントは発生しない。

投稿するものがないのは、「日常が平坦すぎる」からだ。SNSに投稿されるのは、日常の中の「非日常」だ。特別な出来事、特別な食事、特別な場所。特別なことがない日常は、SNSの対象にならない。

特別なことがない。毎日が同じ。同じ時間に起きて、同じ電車に乗って、同じ仕事をして、同じスーパーで買い物して、同じ部屋で食べて、同じテレビを見て、同じベッドで寝る。この繰り返しの中に、「投稿に値する一コマ」が存在しない。

もし半額シールの惣菜を投稿したら? 「今日のゲット品! 鶏の唐揚げ、定価298円が半額で149円!」。誰が見たいのだ、こんな投稿を。見たい人がいるかもしれないが、少なくともFacebookの友達一覧にいるような「充実した生活を送っている人々」は、見たくないだろう。

「いいね」の経済学

SNSの「いいね」は、一種の通貨だ。投稿する→いいねがもらえる→承認欲求が満たされる。このサイクルが、SNSの基本的な動力だ。

だが「いいね」をもらうためには、「いいね」に値する投稿が必要だ。華やかな写真、面白い文章、共感を呼ぶエピソード。これらがないと、「いいね」は来ない。「いいね」が来ないと、投稿するモチベーションが下がる。モチベーションが下がると投稿しなくなる。投稿しなくなると存在が忘れられる。忘れられると、「いいね」を押してくれる人がさらに減る。

「いいね」の量は、投稿者の社会的な存在感に比例する。存在感のある人には「いいね」が集まり、存在感のない人には集まらない。集まらない人は、さらに存在感を失う。「いいね」の格差が、存在感の格差を拡大する。

私のような人間は、「いいね」経済の底辺にいる。投稿するものがなく、投稿しても「いいね」がつかず、「いいね」がつかないから投稿しなくなる。底辺にいると、上に這い上がるのが難しい。這い上がろうとする気力すらなくなる。だからSNSから退場する。退場は静かだ。誰にも気づかれない。

SNSをやめて変わったこと

SNSをやめて(正確にはフェードアウトして)、変わったことがいくつかある。

まず、比較の機会が減った。タイムラインを見ないから、他人の充実した生活を見ることがない。見ないから、比較しない。比較しないから、自己肯定感の低下が止まった。SNSを見ていた頃のほうが、自己肯定感は低かったと思う。

次に、時間が増えた。SNSを見ていた時間(1日30分〜1時間)が、他のことに使えるようになった。使えるようになった時間で何をしているかというと、テレビを見ているだけだが。使い道は変わらないかもしれないが、「他者の幸せを見て落ち込む」時間がなくなった分だけ、精神衛生は改善した。

そして、孤独が深まった。これはデメリットだ。SNSは、ゆるいつながりを維持するツールだった。ゆるくても、つながりはつながりだ。つながりがゼロになるのと、ゆるいつながりがあるのとでは、孤独の質が違う。SNSをやめたことで、つながりの最後の糸が切れた。

メリットとデメリットの天秤は、微妙だ。比較の苦しみがなくなった代わりに、つながりもなくなった。どちらが得かは、一概には言えない。ただ、SNSを見ていた頃の自分は、今より不幸せだった気がする。気がするだけかもしれないが。

「充実した生活」とは何か

最後に、「充実した生活」の定義について考えたい。

SNSに投稿される「充実した生活」は、外から見える充実だ。写真に撮れる充実。他者に見せられる充実。「いいね」がつく充実。

だが充実の定義は、もっと広いはずだ。半額の惣菜がおいしかったこと。散歩中に見た夕焼けがきれいだったこと。図書館で借りた本が面白かったこと。眠れない夜に、ようやく眠れた瞬間の安堵。これらは、SNSに投稿するものではない。写真に撮るものでもない。だが、確かに充実の一瞬だ。

充実は、「いいね」の数で測れるものではない。他者に見せるものでもない。自分の中にだけ存在する、静かな充実がある。その充実は、SNSでは可視化されない。可視化されないから、他者には伝わらない。伝わらないが、確かに存在する。

私の生活は、SNS的には空っぽだ。投稿するものがない。「いいね」がつかない。だが私の中には、小さな充実がある。半額の刺身がおいしい夜。発泡酒の最初の一口の幸福。散歩中の風が気持ちいい瞬間。これらの瞬間は、誰にも共有されないが、私だけは知っている。

SNSに投稿する気力がなくなったのは、「充実した生活」がないからではない。「充実した生活」の定義が、SNSの定義と合わなくなったからだ。私の充実は、SNSのフォーマットに収まらない。収まらないから、投稿しない。投稿しないことが、私なりの充実の守り方だ。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。SNSを見て疲れた経験がある人は、きっと少なくないはずです。

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