「趣味は?」と聞かれて答えに詰まる中年の話

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その質問、やめてもらえませんか

「ご趣味は何ですか?」

この質問を投げかけられるたびに、頭の中で静かにアラームが鳴る。0.5秒の沈黙ののちに、私は笑顔を作って、いくつか用意している「答えのカケラ」の中から、その場に最もふさわしいものを選び出す。

「読書、ですかね」。
「散歩をよくします」。
「最近は動画を見たりします」。

どれも嘘ではない。だが、胸を張って「これが私の趣味です」と言えるものではない。読書は月に一冊がいいところだし、散歩は「運動不足の解消」という名の単なる歩行だし、動画視聴は暇つぶしの延長だ。これらを「趣味」と呼ぶのは、コンビニのおにぎりを「郷土料理」と呼ぶくらい無理がある。

だが、「特に趣味はありません」とは言えない。言えば、相手は困った顔をする。「えっ、何もないんですか」と。その「えっ」には、驚きと同時に微量の憐れみが含まれている。40代にもなって趣味がない人間。人生の潤いがない人間。中身が空っぽの人間。そういうカテゴリに瞬時に振り分けられる。

だから嘘ではない、しかし本当でもない回答を絞り出す。中年が趣味を聞かれたときの、静かな戦場。この戦場で、私は20年以上戦い続けている。

20代の頃は答えに困らなかった

20代の頃は、この質問に困らなかった。

大学生の頃は「サークル」があった。ゼミがあった。バイトの仲間と遊びに行くことがあった。これらは厳密には「趣味」ではないが、「日常的に何かをしている」という感覚があった。聞かれれば「映画を見ます」と答えられた。実際に映画館に月2回は行っていた。「ライブに行きます」と答えられた。実際に年に数回はライブに足を運んでいた。

20代前半までは、そこそこの趣味があった。金がなくても、友達と無理やり工面して遊びに行くことがあった。今から思えば、あの頃は「時間と体力はあるが金がない」状態で、時間と体力が趣味の源泉だった。金がなくても、時間と体力があれば、趣味はできる。友達と河原でビールを飲むだけでも「趣味の時間」だった。

変化が起きたのは、20代後半からだ。友人が次々と正社員になり、生活のリズムが変わっていった。私は非正規のままで、時間だけは持て余し、金はない状態が続いた。一人で楽しめる趣味に移行していくか——と思ったが、一人で楽しむ趣味にも意外と金がかかる。映画は1800円。ライブは5000円以上。スポーツ観戦も、コンサートも、旅行も、ある程度の経済的余裕を前提にしている。

金が枯渇するにつれて、趣味のバリエーションが減っていった。最初に消えたのは「遠出を伴う趣味」。次に消えたのは「チケットを買う趣味」。最後に残ったのは「家でできて金のかからない趣味」——つまり、本を読むか、テレビを見るか、ネットを見るか。これらを「趣味」と呼んでいいのかどうかが、このエッセイの出発点である。

「趣味」の定義の厳しさ

そもそも「趣味」とは何か。

辞書を引くと、「個人が楽しみとしている事柄」とある。ずいぶん広い定義だ。この定義に従えば、毎晩の発泡酒も、YouTubeでランダムに見る動画も、スーパーで半額シールを探すことも、全部「趣味」になる。

だが現実社会における「趣味」は、もっと厳しく運用されている。

まず、「継続している」ことが求められる。一回やっただけでは趣味ではない。ある程度の期間、定期的に続けていることが条件になる。

次に、「ある程度の熱量」が求められる。ただ消費するだけではなく、自分なりの工夫や探求がある。お金や時間を投じている。

そして、「他者に説明可能」であることが求められる。聞かれたときに、「○○が好きで、△△をしています」と説明できる程度の輪郭があること。

この三条件を満たすものを、人は「趣味」と呼ぶ。そして私は、この三条件を満たすものを何一つ持っていない。月に一冊の読書は継続とは呼べないし、半額シール探索に熱量はあるが他者には説明しがたいし、YouTubeのダラ見には輪郭がない。

「趣味」というラベルは、意外と貼るのが難しい。貼ろうとすると、「これは本当に趣味と呼べるのか」という内なる検閲が入る。検閲を通過するものが、手持ちにない。だから答えに詰まる。

「無趣味」という烙印

「特に趣味はない」と正直に答えた時期もあった。30歳を少し過ぎた頃だったと思う。もう嘘をつくのに疲れて、本当のことを言ってみた。

相手の反応は、想像以上に厳しかった。

ある同僚は言った。「えっ、本当に何もないんですか。休日は何してるんですか」。
ある初対面の人は言った。「もったいないですね、人生の楽しみが」。
ある親戚は言った。「趣味のひとつくらい持たないと、老後が大変だよ」。

無趣味であることは、本人が思っている以上に、社会的にマイナスな属性だった。「趣味がない=人生が貧しい=何か問題がある人」という連想が、スムーズに作動する。相手の頭の中で、私は「中身のない人」というフォルダに振り分けられていく様子が見えるようだった。

特にきつかったのは、「老後が大変だよ」という類のコメントだ。趣味がない人間は、老後に何をすればいいかわからず、認知症のリスクが高まる、という話をどこかで聞いたらしい。だから今のうちに趣味を作っておけ、と。

余計なお世話だ、と思った。そもそも老後の話ではなく、今現在の話をしているのだ。今現在、趣味を持つ余裕がない人間に、「老後のために趣味を持て」と言うのは、パンがない人に「デザートも食べなさい」と言うようなものだ。

それ以降、「特に趣味はない」と正直に答えることは、諦めた。毎回同じ説教を受けるのが疲れた。だから、「読書」か「散歩」か「動画視聴」を、その場の雰囲気で選んで答えるようになった。防御のための嘘。相手を納得させ、会話を次に進めるための潤滑剤としての嘘。

金がないと趣味はできない、という真実

きれいごとを言えば、「趣味は金の有無と関係ない」ということになっている。お金をかけなくても楽しめる趣味はたくさんある、と。

確かに一理ある。散歩は無料だ。公園で本を読むのも無料だ。図書館で借りた本を読むのも無料。ラジオを聴くのも、ほぼ無料。これらは「お金のかからない趣味」の代表例として、よく紹介される。

だが実際問題、「お金のかからない趣味」には、いくつかの前提条件がある。

第一に、「時間があること」。散歩も読書も、まとまった時間がなければできない。非正規で働き、残業し、休日も次の週の準備に追われている人間に、ゆっくり散歩する時間はない。時間は金と同じくらい希少なリソースであり、時間のない人間には「無料の趣味」もできない。

第二に、「心の余裕があること」。明日のシフトが入るかどうかわからない状態で、公園のベンチで本を読んで楽しめるか。読めない。文字を追っても頭に入らない。心の大部分が「来月の家賃」「契約更新」「老後の不安」に占領されていて、趣味を楽しむ回路が作動しない。

第三に、「周囲の理解があること」。趣味を続けるには、周囲の人間の理解が必要な場合もある。家族との時間を削って趣味に没頭することに、罪悪感を持たずにいられるかどうか。一人暮らしで独身なら関係ないが、家族がいるとまた別の問題が発生する。

これらの前提条件を満たすには、やはり一定の経済的基盤が必要だ。金がないと時間を買えない(残業を減らせない、休日出勤を断れない)。金がないと心の余裕が持てない。金がないと、趣味に費やすリソースそのものが枯渇する。

「趣味は金と関係ない」は、一定の経済的基盤を持っている人間から見た風景だ。基盤のない人間から見れば、趣味は明らかに「余裕のある人のための贅沢品」だ。

かつて趣味だったものの墓場

思い返してみると、20代の頃には「これが趣味です」と言えるものがいくつかあった。それらは今、どうなっているか。

映画鑑賞。大学時代から20代半ばまで、月に3本は映画館に行っていた。単館系の映画も見ていたし、洋画も邦画も幅広く見ていた。チケット代1800円が高く感じ始めたのは20代後半。いつの間にか月1回になり、半年に1回になり、今は年に1回も行かなくなった。

音楽鑑賞。CDを買っていた時代もあった。毎月数枚のCDを買って、アルバムを通して聴いていた。今は定額制のサブスクもあるが、契約していない。月1000円が惜しい。YouTubeで無料で聴ける音楽で満足している。「音楽が趣味」と言える感じではない。

ゲーム。大学時代はよく遊んだ。ハードを買う金がなくなってから、自然と離れた。今はスマホの無料ゲームをたまに起動する程度。これを「ゲームが趣味」とは呼べない。

読書。これは細々と続いている。ただし、書店で買う本は年に数冊。あとは図書館で借りる本だ。読む速度も落ちた。集中力が続かない。20代の頃は1日で1冊読めたが、今は1冊読み終わるのに2週間かかる。

旅行。20代の頃は国内を一人で旅した。夜行バスに乗って地方都市へ。ビジネスホテルに泊まって、現地の名物を食べて、帰る。その程度でも楽しかった。今は夜行バスに乗る体力がない。ビジネスホテルも値上がりしている。何より、交通費と宿泊費を捻出する心理的ハードルが上がっている。

これらは「かつての趣味たち」だ。今は全部、休眠状態にある。消滅したわけではないが、活動を停止している。いつか再開するかもしれないと思いながら、10年以上経っている。おそらくこの先も再開しない。再開する前提条件が整う見込みがないからだ。

中年の趣味は、かつての趣味の墓場だ。墓石が並んでいる。墓石には名前が刻まれている。「映画鑑賞」「音楽鑑賞」「ゲーム」「旅行」。名前はあるが、中身は死んでいる。

「趣味を持つべき」論への違和感

 

テレビや雑誌で、「40代からの趣味のススメ」みたいな特集を見ると、複雑な気持ちになる。

カメラを始めて、週末に撮影に出かけましょう。ワインスクールに通って、知識を深めましょう。陶芸教室に通って、自分だけの器を作りましょう。家庭菜園を始めて、食卓を豊かにしましょう。

どれも素敵な提案だ。素敵だが、どれもお金がかかる。カメラは中古でも数万円。ワインスクールは月に1万円以上。陶芸教室も同様。家庭菜園はベランダの日当たり次第で、そもそも土と鉢を買わないといけない。

これらの「趣味」は、ある程度の可処分所得を前提にしている。月に数万円を自由に使える人間向けの提案だ。月の自由に使えるお金が5000円以下の人間には、エントリーすらできない趣味たちだ。

そして、そういう経済的事情を無視して「趣味を持つべきだ」と言われると、疎外感が強くなる。「趣味を持つべき」という規範があり、その規範を満たせない人間は、また新たな「普通からの逸脱」として位置づけられる。仕事、結婚、持ち家、子ども、そして趣味。普通の人が当たり前に持っているものを、私は持っていない。持っていないリストにまた一行追加されるだけだ。

別に趣味を否定しているのではない。趣味を持つ人はどんどん持てばいい。問題は、「趣味がないこと」が異常視される社会の視線だ。趣味は個人の自由であるはずなのに、いつの間にか「持つべき標準装備」として扱われている。標準装備から漏れた人間は、何度でも「持ってない」と指摘される。

飲み会の自己紹介という地獄

職場の飲み会。新しい派遣先の歓迎会。取引先との接待。こういう場で、必ず回ってくるのが「自己紹介」の時間だ。

名前。所属。そして、「最後に、趣味や特技を一言」。

この「趣味や特技を一言」が地獄だ。全員が順番に何かしら答えていく。「私はマラソンが趣味で、先日フルマラソンを完走しまして」「ワインが好きで、ソムリエの資格を取りました」「ゴルフを始めて5年になります」。

趣味の発表会。見事な多様性。みんな、ちゃんとしたものを持っている。

私の番が来る。「えー、趣味ですか、読書……くらいですかね」。弱々しい声で言う。「何読むんですか?」と振られることもある。そう振られたときのために、一応「最近読んだ本」を3冊くらい暗記している。しかしその暗記書籍名を言うと、話が広がることは稀だ。「へー、そうなんですね」で会話は終わり、次の人の番に移る。

これは地獄だ。順番が回ってくる前から、心拍数が上がる。何と言うか、どう言うか、相手にどう思われるか。数分間の不安と、30秒の自己紹介。コストパフォーマンスが悪すぎる。

「趣味はありません」と答えたら、場がシラけるだろう。場をシラけさせたくないから、嘘をつく。嘘をつくために暗記する。暗記するために本を読む。本末転倒だ。趣味のために本を読んでいるのではなく、「趣味があるフリ」のために本を読んでいる。

「没頭」がない日常

趣味の本質は、「没頭」だと思う。

何かに夢中になり、時間を忘れる。周りが見えなくなる。作業の苦労が快感に変わる。この「没頭」の感覚こそが、趣味を趣味たらしめる。単に何かをしているだけでは趣味にはならない。没頭するに至ったとき、それは趣味になる。

私の日常には、没頭がない。

仕事は、時計をちらちら見ながらやっている。早く終わらないかなと思いながらデータを入力する。没頭とは真逆だ。

家での時間は、どこか上の空だ。テレビをつけていても、半分は別のことを考えている。来月の家計、契約更新、親の健康、老後の不安。思考が散漫で、目の前のコンテンツに没入できない。

本を読んでも、数ページで意識が飛ぶ。面白くないわけではない。集中力が続かないのだ。スマホの通知が気になる。SNSを開いて、タイムラインをなんとなく眺める。何かを楽しんでいるわけではないが、何かを消費している。没頭ではなく、消費。

没頭するには、ある種の心の余白が必要だ。今日と明日の生活が不安なく保証されている、という安心感。その安心感の上に、没頭の土台が築かれる。土台がなければ、どんなに面白いコンテンツがあっても、没頭はできない。

中年になってから、没頭したのはいつだっただろう。思い出せない。この「思い出せない」という事実自体が、深刻な症状かもしれない。

代替としての「気晴らし」

趣味がない代わりに、私には「気晴らし」がある。

気晴らしは趣味とは違う。趣味は積極的に楽しむものだが、気晴らしは受動的に消費するものだ。楽しいというより、気が紛れる。充実というより、時間潰し。

気晴らしの例。仕事から帰って、スーパーで半額の惣菜を買い、発泡酒を飲みながらテレビを見る。バラエティ番組の、特別面白くもないやり取りを眺めながら、笑ったり笑わなかったりする。番組が終わる頃には眠くなっている。歯を磨いて寝る。

気晴らしの例、その2。休日に、近所のショッピングモールに行く。特に買うものはない。ウィンドウショッピング。見るだけで、買わない。買えない。見て、「いいなあ」と思って、そのまま家に帰る。何かを買うための外出ではなく、「外に出る」こと自体が目的の外出。

気晴らしの例、その3。YouTubeで、好きでも嫌いでもない動画をダラダラ見る。歴史解説、雑学、猫の動画、他人の旅行動画。見ても見なくてもいい動画を、見ている。積極的に楽しんでいるのではなく、何かが流れている状態に身を置いている。

これらを「趣味」と呼んでいいなら、私にも趣味はある。だが呼んでいいのかは、前述の通り疑問だ。「テレビが趣味です」と自己紹介で言ったら、微妙な顔をされる。「発泡酒が趣味です」と言ったら、心配される。「ショッピングモール徘徊が趣味です」と言ったら、変人扱いされる。

気晴らしは、趣味のように「説明可能な輪郭」を持たない。だから人前では「趣味」として提示できない。気晴らしは個人の裡にとどまり、公的には「無趣味」と認定される。

それでも、気晴らしを尊重したい

ただ、中年になって思うのは、「気晴らしを軽視しすぎてはいけない」ということだ。

気晴らしがなければ、生きていけない。仕事のストレス、生活の不安、将来への恐怖。これらに毎日さらされる中で、発泡酒一本分の気晴らしが、人間を壊れないように繋ぎ止めている。没頭できる趣味は素晴らしいが、没頭する余裕のない人間には、気晴らしがあればいい。気晴らしは、趣味の劣化版ではなく、別種の生存戦略だ。

だから「趣味は何ですか」と聞かれたら、本当はこう答えたい。

「趣味というほどのものはないんですが、半額惣菜と発泡酒を組み合わせて夜を過ごすのが好きです。番組は決めていなくて、テレビをつけて流れているものを見ます。たいして面白くなくても、気が紛れます。休日はショッピングモールをぶらぶらして、何も買わずに帰ります。これを趣味と呼べるかはわからないんですが、これで一週間が回っています」。

本当にこう答えたら、相手は困惑するだろう。困惑させたいのではない。ただ、「趣味のある人生」の対極にある「気晴らしで持たせている人生」を、否定されたくない。ひっそりと、肯定まではいかなくても、認めてほしい。

認めてもらえないなら、自分で認めるしかない。中年になって気づいたのは、自分で自分を認めないと、誰も認めてくれないということだ。趣味がない。没頭するものがない。語れる情熱がない。それでも、毎日を生きている。生きているという最低限の継続性を、自分で評価するしかない。

答えの用意

結局、現実の社交の場では、無難な答えを用意し続けるしかない。

「ご趣味は?」と聞かれたら、「読書ですかね」と答える。相手が深追いしなければ、そこで会話は終わる。深追いされたら、「最近読んだ本」を3冊ほど出す。さらに深追いされたら、「いや、そんなに詳しくないんですが」と謙遜する。謙遜することで、相手の追及を止める。

この一連のやり取りを、何百回もやってきた。もはや台本のようだ。問題は、台本をこなしているあいだ、私は自分の現実とは無関係の人間を演じているということだ。演じている時間は、生きている時間ではない。社交の時間は、自分の時間ではない。

自分の時間は、家に帰って、発泡酒を開ける瞬間から始まる。家に帰って、テレビをつけて、気にも留めない番組を流しながら、一日の疲れを発泡酒で流す。この時間が、私の「本当の時間」だ。この時間を「趣味」と呼べたら、どれだけ気が楽だろう。

呼べるようになる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。来ても来なくても、私は毎晩、発泡酒を開けるだろう。開けながら、「趣味は何ですか」と聞かれた今日の会話を思い出して、少し笑うだろう。

笑いながら、明日もまた、答えのカケラを用意する。「読書ですかね」。これで今日も一日を凌いだ。凌いだ数だけ、生きてきた。凌ぎ続けることも、ひょっとしたら、誰にも自慢できない種類の「趣味」なのかもしれない。

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「趣味は?」に答えるたびに汗をかく人は、きっと少なくないはずです。

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