この世代の愚痴が「また同じ話」と思われることへの愚痴

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わかっている、同じ話をしている

このエッセイを書くにあたって、まず自覚から始めたい。

わかっている。同じ話をしている。

就職氷河期で100社落ちた話。非正規で転々とした話。貯金ができなかった話。老後が不安な話。結婚できなかった話。友達がいなくなった話。親に「安定した仕事に就け」と言われ続けた話。自己責任論を浴びた話。

同じ話だ。何度も書いた。何度も語った。読む人、聞く人の中には、きっとこう思う人がいるだろう。「また氷河期世代の愚痴か」「いつまで同じ話をしているんだ」「もう聞き飽きた」。

わかっている。わかっているのに、止められない。止められないまま、書き続けている。語り続けている。このエッセイだって、過去に書いた内容と重複する部分が多々あるだろう。

なぜ止められないのか。「また同じ話」と思われる可能性を承知の上で、なぜ語ってしまうのか。その理由を、今回は考えてみたい。これはメタな愚痴だ。愚痴を聞き飽きられることへの、愚痴。

第一の理由、問題が解決していないから

同じ話を繰り返す最大の理由は、同じ問題が続いているからだ。

腰が痛い人は、毎日「腰が痛い」と言う。毎日同じことを言う。「もうその話は聞き飽きた」と家族に言われるかもしれない。だが痛みは続いている。痛みが続いている限り、言葉にするしかない。

氷河期世代の問題は、解決していない。40代、50代になっても、非正規雇用の割合が高い。貯金ができない。年金の見通しが暗い。未婚率が高い。親の介護と自分の老後が重なる。これらの問題は、20年以上経っても、本質的には解決していない。

解決していない問題について、語るなと言うのか。解決するまで待てと言うのか。待ったとしても、解決しないかもしれない。解決しないまま私たちは年老いていく。老いていく過程で、問題は語り続けられる。

「また同じ話」と言う人は、その問題の当事者ではないか、当事者であっても解決の展望が見えている人だろう。当事者で解決の展望がない人間にとって、「同じ話」は現在進行形の現実だ。過去を蒸し返しているのではない。今も続いている問題を、今の言葉で語っているだけだ。

第二の理由、聞いてもらえていない実感

同じ話を繰り返すもうひとつの理由は、「まだ伝わっていない」という感覚があるからだ。

何度語っても、社会が変わった実感がない。政策が動いた実感が薄い。当事者の状況が劇的に改善した形跡はない。だから、もう一度語る。「伝わっていないのかもしれない」「今度こそ届くかもしれない」と。

これは壁に向かって話している感覚に似ている。返事がない。反応がない。だが話し続ける。話し続けなければ、伝わる可能性はゼロになる。話し続ければ、いつか誰かに届くかもしれない。届くかどうかわからないが、可能性はゼロではない。

この「伝わらなさ」は、氷河期世代の愚痴の持続性を生んでいる。伝わったと感じられれば、愚痴は止まる。伝わらないから、繰り返す。繰り返すから「また同じ話」と言われる。「また同じ話」と言われると、さらに伝わらない感覚が強化される。強化されると、また繰り返す。

この悪循環を断ち切るには、聞く側の態度が変わる必要がある。「また同じ話」ではなく、「まだ続いている話なんだな」という認識。この認識の転換が、この循環を止める鍵だ。

第三の理由、自分自身の整理

愚痴を繰り返す第三の理由は、自分自身の整理のためだ。

同じ話を繰り返すことで、自分の経験を咀嚼している。語るたびに少しずつ、経験の形が変わる。最初に語ったときは、生々しい怒りだった。2回目に語ったときは、少し距離ができた悲しみだった。10回目に語ったときは、諦めに近い平静さがあった。20回目に語ったときは、達観した笑いのようなものがあった。

同じ出来事を語り直すたびに、受け止め方が変化する。これは、心理療法の「語り直し」に近い効果があると思う。トラウマ的な経験を何度も語ることで、徐々に消化していく。消化しきれない経験も、語り続けることで、少しずつ柔らかくなっていく。

氷河期世代の愚痴は、語ることで処理しているセルフセラピーの側面がある。聞かされる側にとっては同じ話の繰り返しでも、語る側にとっては毎回違う段階にある。初回と10回目では、語り手の心の状態が違う。同じ言葉を使っていても、その言葉の重さが違う。

だから、語ることをやめられない。やめたら、消化が止まる。消化されないまま経験が固まってしまう。固まった経験は、心の中で重荷として残る。重荷を軽くするために、語り続ける。

「また同じ話」と言う人の心理

「また同じ話」と言う側の心理も、考えてみたい。

彼らの多くは、悪意ではなく、疲労から言っている。同じ話を何度も聞かされると、聞く側も疲れる。疲労が「また同じ話」という言葉になる。

一部の人は、自分が語られている内容の当事者ではないから、飽きやすい。関心がない話題は、すぐに新鮮味を失う。同じ話が何度も繰り返されると、飽きて、「もういいよ」という気分になる。

また一部の人は、語られている問題の存在自体を認めたくないから、話題そのものを封じたい。「また同じ話」と言うことで、会話を終わらせようとする。これは一種の防衛機制だ。社会の不公平を認めたくない、自分が何らかの特権を持っていることを認めたくない、こういう心理から「もういい」で話を切り上げる。

そしてもう一部の人は、解決策を示せない自分に疲れている。何度も話を聞くうちに、「何かしてあげたい」という気持ちが湧く。だが何もできない。無力感が積み重なる。無力感に耐えるのが辛いから、話題を終わらせたくなる。

これらの心理は、理解できる。理解できるが、当事者としては、それでも語りたい。語らせてほしい。そう思う。

聞き飽きる人と聞き続ける人

世の中には、同じ話を何度聞いても飽きない人がいる。

祖母の昔話を、毎回笑顔で聞く孫。友人の失恋話を、何度でも聞く親友。配偶者の仕事の愚痴を、毎晩聞く家族。こういう人たちは、同じ話を聞き飽きない。

なぜ飽きないのか。語る相手を、大切に思っているからだ。語る相手の心が落ち着くなら、何度でも聞く。内容が同じでも、語り手の心の状態が違うから、毎回違う話として受け取る。

愛のある聞き手は、同じ話を何度でも聞く。愛のない聞き手は、一度で「またか」と言う。

氷河期世代の愚痴を「また同じ話」と切り捨てる社会は、この世代への愛が薄いということだ。愛があれば、何度でも聞ける。聞きながら、少しずつ何かしようと考える。切り捨てる社会は、考える気がない社会だ。

私は、愛のない聞き手が多い社会で、語り続けるのは、無駄だろうかと考えることがある。語っても聞いてもらえないなら、語らないほうがマシかもしれない。でも、語らなかったら、何も伝わらない可能性は100%だ。語れば、10%くらいは伝わる可能性がある。10%に賭けて、語り続ける。

「また同じ話」を言う人への、ささやかな反論

「また同じ話」と言う人に、静かに反論したい。

あなたが「また同じ話」と言っている間に、氷河期世代はまた一歳、歳を取った。歳を取るだけで、状況は悪化している。体力は落ち、転職は難しくなり、老後は近づく。「同じ話」のように見える話は、少しずつ違う局面に入っている。同じ話に見えるのは、あなたが注意深く聞いていないからだ。

「また同じ話」と言うことで、あなたは何を得ているのか。話題を早く終わらせる効率か。聞きたくない話から逃げる安らぎか。いずれにしても、あなたが得るものは小さい。一方、言われた側が失うものは大きい。語る意欲を失い、社会に対する信頼を失う。

得るものの小さい行為で、失うものの大きい影響を与える。コストパフォーマンスが悪い発言なのだ、「また同じ話」は。

もし「また同じ話」と感じたら、口に出す前に、少し立ち止まってほしい。なぜこの人は同じ話をしているのか。問題が解決していないのか。伝わっていないと感じているのか。自分の整理のために語っているのか。立ち止まって考える時間を、ほんの数秒でも取ってほしい。数秒でも考えてくれたら、語り手は少しだけ救われる。

世代を超えて繰り返される「同じ話」

少し視野を広げて考えてみる。

「また同じ話」の構造は、氷河期世代に限らない。歴史を見れば、あらゆる世代の愚痴が、繰り返されてきた。

戦後世代は、「戦争の苦労」を語り続けた。経済成長期を生きた世代は、「貧しかった頃の話」を語り続けた。バブル世代は、「バブル崩壊後の苦労」を語り続けた。どの世代も、自分たちが経験した困難を、後の世代に語り続けた。

後の世代は、しばしば「もう聞き飽きた」と言った。「今の時代は違う」と言った。だが語り手は、語り続けた。語ることが、その世代のアイデンティティの一部だったからだ。

氷河期世代も、その系譜に連なっている。氷河期で就職できなかった話を、100年後も誰かが語るかもしれない。語られなくなったときこそ、その世代の経験が完全に忘却されるときだ。忘却されないために、語り続ける意義がある。

「また同じ話」を恐れずに、語り続ける。これが、世代の記憶を残す唯一の方法だ。残された記憶は、次の世代の参考になる。次の世代が、同じ過ちを繰り返さないための材料になる。そう考えると、「また同じ話」は、未来への投資だ。聞き飽きられても、語る価値がある。

書き続ける意味

このエッセイシリーズも、「また同じ話」の塊だ。

100社落ちた話、非正規の話、貯金の話、老後の話、結婚の話、友達の話、親の話。何度も書いた。似たような表現、似たような構造、似たような結論。繰り返しだらけだ。

それでも書く。書くことが、私にとっての整理だからだ。書くことで、自分の経験に形を与える。形を与えれば、少しずつ消化できる。消化できれば、少し軽くなる。軽くなれば、次の日が少し楽になる。

読む人にとっては、「また同じ話」かもしれない。それでもいい。読まなくていい。読んでくれるなら、1000人に1人でも、「自分も同じだ」と感じてくれる人がいれば、それで十分だ。

書き続ける私は、そう自分に言い聞かせている。言い聞かせないと、書く動機が萎える。「また同じ話」と思われる可能性は、書く意欲を削ぐ。削がれた意欲を、自分で補充する。補充するために、「書く意味」を自分に言い聞かせる。この循環で、書き続けている。

ループの中の螺旋

最後に、もうひとつ気づいたことを書いておく。

同じ話を繰り返しているように見えて、実は少しずつ変化している。

ループを描いているように見えて、実は螺旋を描いている。同じ場所を回っているように見えて、少しずつ高度が変わっている。上昇しているか下降しているかは別として、動いている。

最初に「100社落ちた」と語ったときの私と、今「100社落ちた」と語る私は、同じ人間ではない。歳を取った。考え方が変わった。受け止め方が変わった。同じ言葉を使っていても、その言葉の背後にある感情は、毎回少し違う。

ループだと思って眺めると、進歩がないように見える。螺旋だと思って眺めると、動いているのが見える。見る人の視点の問題だ。

「また同じ話」と感じる人は、ループとして見ている。「少しずつ変化している」と感じる人は、螺旋として見ている。私自身は、螺旋として見たい。螺旋として見れば、語り続けることに意味を見出せる。ループとして見れば、語ることが虚しくなる。

虚しさに負けないために、螺旋として見る。見続ける。これは、語る側の選択だ。聞く側がどう見るかは、コントロールできない。だが自分がどう見るかは、コントロールできる。自分の視点を、自分で選ぶ。

「また同じ話」と言われる日々の中で、私はなお、螺旋を描いている。少しずつ、少しずつ、経験を昇華していく。昇華しきれない部分もあるが、ゼロよりはマシだ。ゼロよりマシな螺旋を、明日も描く。

このエッセイも、螺旋の一周だ。何周目かはわからない。だが、次の周もあるだろう。次の周を描きながら、また語る。「また同じ話」と言われる覚悟で、それでも語る。

語ることが、この世代の、ささやかな抵抗だ。抵抗を止めたら、何も残らない。だから抵抗する。愚痴という形で、ゆるやかに、長く、抵抗する。聞き飽きられても、語り続ける。これが私たちにできる、最後の戦い方かもしれない。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「また同じ話」と言われて複雑な気持ちになったことがある人は、きっと少なくないはずです。

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