ロスジェネという言葉が好きになれない理由

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その呼称に、違和感

「ロスジェネ」。

ロスト・ジェネレーション。失われた世代。私たち就職氷河期世代を指す呼称として、メディアや識者の間で定着している。

書籍のタイトルになり、新聞の連載名になり、ネット記事の見出しになった。「ロスジェネの叫び」「ロスジェネの憂鬱」「ロスジェネの老後」。この呼称を付ければ、記事の注目度が上がるのだろう。コンテンツ流通のタグとして、よく機能する名前だ。

だが、私はこの呼称が好きになれない。当事者として名指しされるたびに、微妙な違和感を覚える。この違和感の正体を、考えてみたい。

「ロスジェネ」という言葉に含まれる問題は、いくつかある。文字通りの意味の問題、使われ方の問題、そしてブランド化の問題。これらを順に書いていく。

「失われた」という受動態

まず、「ロスト」つまり「失われた」という表現の問題。

失われた、と言われると、誰が失ったのか、という疑問が湧く。主語が曖昧だ。受動態は、主語を隠す機能を持つ。「失われた世代」と言えば、世代が自分で失ったのか、誰かによって失わされたのか、わからなくなる。

実際の歴史を見れば、私たちの世代は「失った」のではない。「失わされた」のだ。就職氷河期という経済状況、非正規雇用を拡大した労働政策、世代の問題を20年間放置した社会。これらが合わさって、私たちの機会を奪った。

主体は、私たちではない。社会だ。だが「失われた世代」という受動態は、この主体を消してしまう。まるで自然災害で失われたかのように、誰の責任でもなく、ただ失われた、と。

この表現のマジックが、問題を個人の問題に還元させる。「失われた」側の人間、つまり私たちが、自分で何かを失ったかのように感じさせる。だから自己責任論と親和性が高い。「失った」のは自分、なら責任も自分、という論理展開になりやすい。

本当は「失わされた」のだ。能動態に直せば、「社会が世代を失わせた」となる。この主語を明確にすることで、構造的な問題が見えてくる。だが「ロスジェネ」は、その主語を消している。

世代で括られることへの抵抗

次に、「ジェネレーション」つまり世代で括られることの問題。

世代論は、個人の多様性を潰す。同じ年に生まれたからといって、同じ経験をしているわけではない。氷河期世代の中にも、成功した人、普通に暮らしている人、苦しんでいる人がいる。正社員になれた人もいれば、非正規を転々とした人もいる。結婚した人もいれば、独身の人もいる。

「ロスジェネ」という一語は、この多様性を一枚のラベルで覆い隠す。どんな経歴の人間でも、生まれた年が一致すれば「ロスジェネ」だ。経歴も、収入も、家族構成も、個人の事情も、全部ラベルの下に埋もれる。

ラベルは便利だが、便利なものは往々にして乱暴だ。ラベルで人間を語るとき、語る側は楽ができる。個別の事情を調べなくていい。「ロスジェネだから」で、あらゆる説明ができた気になる。

だがラベルを貼られる側は、乱暴さを感じる。私は「ロスジェネの一人」ではなく、「私」だ。生まれた年が1975年だったかもしれないが、私の人生は1975年生まれの平均ではない。固有の経験と、固有の感情を持っている。「ロスジェネ」では、その固有性が見えない。

「ロスジェネ」と呼ばれるたびに、私は集団の中に押し込められる。押し込まれた集団の中で、私の輪郭はぼやける。ぼやけた輪郭は、誰かの統計的なイメージで塗り直される。塗り直された私は、もはや私ではない。

ブランドとして消費される

「ロスジェネ」の最大の問題は、それが一種のブランドとして流通していることだ。

「ロスジェネの悲哀」は、メディアコンテンツとして需要がある。共感を呼び、議論を生み、クリック数を稼ぐ。「ロスジェネ」というワードを入れた見出しは、PV数が上がるという話を、どこかで聞いた。当事者の苦しみが、メディアビジネスの素材として消費されている。

書籍の帯に「ロスジェネの叫び」と書かれると、本が売れる。テレビ番組で「ロスジェネ特集」を組むと、視聴率が取れる。ネット記事で「ロスジェネの老後」と書くと、読まれる。名前がついたことで、商品化された。

商品化されたことで、良い面もある。社会問題として認知され、議論されるようになった。名前がなければ、誰も注目しなかっただろう。その意味で、「ロスジェネ」という呼称は、問題の可視化に貢献した。

だが商品化は、同時に問題の矮小化でもある。「ロスジェネ」はパッケージ化されたコンテンツになり、消費されて終わる。消費されたあと、問題は残る。消費者は満足したが、当事者の状況は変わらない。

この消費の構造に、私は居心地の悪さを感じる。私の人生が、「ロスジェネ」というパッケージの一部として消費されている。消費される素材として、名前を冠された存在になっている。

英語由来の軽さ

「ロスジェネ」が英語由来のカタカナ語であることにも、引っかかる。

英語由来のカタカナ語は、オリジナルの英語のニュアンスと切り離されて、日本で独自の意味合いを持つことがある。「ロスジェネ」もそうだ。英語の「Lost Generation」は、もともと第一次世界大戦後のアメリカの若者を指す文学用語だった。ヘミングウェイやフィッツジェラルドの世代。戦争で精神的に傷ついた世代、という重い意味を持っていた。

日本の「ロスジェネ」は、この重さを継承していない。軽いカタカナ語として、メディアで流通している。重い意味合いを持つ英語が、軽い響きのカタカナ語になったとき、そこに込められていた痛みが薄れる。

「就職氷河期世代」という日本語のほうが、まだ重みがある。「氷河期」という具体的なイメージ、「世代」という集合を指す漢字。一見すると硬い印象だが、実態に即した表現だ。

「ロスジェネ」は、カジュアルで、キャッチーで、使いやすい。使いやすさは、深刻さの希薄化と表裏一体だ。深刻な問題をカジュアルに語れるようになると、問題が「そこまで深刻ではない」と錯覚される。

私は、自分の世代の問題を、カジュアルに語られたくない。重く、具体的に、実感を伴って語ってほしい。「ロスジェネ」というワードで軽く流されるのは、私たちの経験を矮小化する気がする。

「失われた」は過去形

「ロスジェネ」の「ロスト」は、過去形だ。過去に失われた。この過去形が、問題を過去のものに見せる効果を持つ。

「失われた世代」と言われると、なんとなく「もう済んだ話」のように聞こえる。過去に不幸があった、今はもう終わっている、という印象を与える。

だが実際は、問題は続いている。氷河期世代は、今も非正規で働いている。今も貯金ができない。今も老後の不安を抱えている。過去の問題ではなく、現在進行形の問題だ。

過去形の呼称は、この現在進行形を見えなくする。「もう済んだ話」として片付けられる。片付けられたら、対策も打たれなくなる。過去の問題は、もう対策する必要がないから。

「ロスジェネ」と呼ぶことで、問題が過去の出来事として固定化される。これは、当事者にとって不都合だ。私たちは、今も現在進行形で、この問題の中にいる。過去形で呼ばれるのは、生きている人間を死んだ人間として扱うのに近い。

本当なら、「失われつつある世代」くらいの現在進行形にしてほしい。または「失わされた世代」という受動態にしてほしい。「ロスジェネ」は、短くて便利だが、正確ではない。正確でない呼称が、正確でない認識を生む。

諦めを内包する言葉

「失われた」という表現には、もうひとつ問題がある。諦めが含まれているのだ。

失われたものは、戻らない。失われた指輪、失われた時間、失われた友人。「失われた」と言われると、回復不可能なニュアンスが強い。

「ロスジェネ」もそうだ。失われた世代。もう取り戻せない世代。諦めが前提になっている。

この諦めは、当事者の中にも内面化されうる。「ロスジェネだから、もう仕方ない」「失われた世代だから、どうしようもない」。こう考えることで、現状を受け入れる言い訳になる。

諦めを促す呼称は、変化への意欲を削ぐ。「失われた」と自認すれば、新しいことに挑戦する気持ちが萎える。だってもう失われているのだから、今さら何をしても遅い、と。

私は、諦めたくない。年齢的に選択肢は狭まっているが、ゼロではない。できることをやる、という姿勢を保ちたい。「ロスジェネ」という諦めの言葉は、この姿勢を弱める。

だから、自分のことを「ロスジェネ」とは呼ばない。呼ばれることはあるが、自称はしない。自称する瞬間、諦めを自分で受け入れることになる。受け入れたくない。

「世代ビジネス」のカモ

「ロスジェネ」という括りは、世代ビジネスのカモにもなる。

「ロスジェネのための資産形成セミナー」「ロスジェネの老後対策」「ロスジェネの婚活サービス」。世代名を冠した商品やサービスが、次々と登場する。

これらは、当事者の不安につけ込んだビジネスだ。「あなたはロスジェネだから、特別な対策が必要です」とマーケティングする。特別であるかのように感じさせて、高額な商品を売る。

実際には、ロスジェネ向けの特別な金融商品など、ほとんど意味がない。年齢や収入に合わせた一般的な金融商品で十分なケースが多い。だが「ロスジェネ向け」という枕詞がつくと、特別感が出て、買ってしまう。

世代名がついたことで、その世代を対象とした情報商材が溢れた。当事者の中には、これらに騙された人もいるだろう。「ロスジェネ」という言葉が、ビジネスの触媒として機能している。

この構造にも、私は抵抗感がある。私たちの世代の苦しさを、誰かのビジネスチャンスにされたくない。私たちは、マーケティングの対象ではなく、生きている人間だ。

日本語表現の可能性

「ロスジェネ」に代わる言葉は、あるだろうか。

「就職氷河期世代」は、使われている日本語表現だ。長いが、具体的で、実態に即している。「氷河期」という比喩は、当時の就職市場の厳しさを端的に表している。

「機会を奪われた世代」という表現もあり得るかもしれない。受動態だが、「奪われた」という能動的な動詞の受け身なので、奪った主体の存在が透けて見える。「失われた」より、責任の所在が明確だ。

「ポストバブル世代」という呼称もある。バブル崩壊後に社会に出た世代、という時代的な位置づけ。ただし、この呼び方は経済的な文脈が強く、個人の経験を表しにくい。

どの呼称にも、一長一短がある。完璧な呼称は、ないのかもしれない。呼称は所詮ラベルであり、ラベルでは人間の経験を完全に表現できない。

ただ、「ロスジェネ」は、いくつかの意味で好ましくない呼称だと、私は感じている。他に適切な呼称がないから、消極的に「就職氷河期世代」を使っている。これも不完全だが、「ロスジェネ」よりはマシだ。

名前の政治

呼称の話は、実は政治的な問題でもある。

ある集団をどう呼ぶかは、その集団をどう認識するかに直結する。呼び方が変われば、認識も変わる。認識が変われば、対応も変わる。

「ロスジェネ」と呼ばれると、私たちは「失われた人々」として認識される。失われた人々には、同情は向けられても、根本的な対策は向けられにくい。「もう失われたのだから、今さらどうしようもない」と。

「機会を奪われた人々」と呼ばれれば、私たちは「被害者」として認識される。被害者には、奪われた機会の回復という対策が、向けられやすい。

「構造的に取り残された人々」と呼ばれれば、私たちは「構造改革の対象」になる。構造的な問題として認識されれば、政策的な介入が必要だと判断されやすい。

どう呼ぶかで、どんな対策が取られるかが変わる。だから呼称は、ただの言葉の問題ではなく、政治の問題だ。

「ロスジェネ」という呼称が定着したことで、私たちの問題への政策的介入は、限定的なものにとどまってきた。「失われた」世代には、小さな支援プログラムがあればいい、というレベルで。もし別の呼称が定着していたら、違う対応があったかもしれない。

自分で自分を呼ぶ

結局のところ、自分を何と呼ぶかは、自分で決めるしかない。

他人から「ロスジェネ」と呼ばれることは、止められない。だが自分で自分を「ロスジェネ」と呼ぶことは、やめられる。自称だけは、自分でコントロールできる。

私は、自分を「ロスジェネ」と呼ばない。「就職氷河期世代の一人」と呼ぶ。少し長いが、この呼び方のほうが、自分の実感に近い。

呼ばれ方と、呼び方は、違う。呼ばれるのは受動的で、避けられない。呼ぶのは能動的で、選択できる。能動的な選択の部分で、自分を大切に扱いたい。

「ロスジェネ」という呼称に対する違和感を、このエッセイに書き残した。書いたからといって、呼称が変わるわけではない。これからも「ロスジェネ」という言葉は使われ続けるだろう。使われ続ける中で、私は自分だけは、別の呼び方を使う。それが、私のささやかな抵抗だ。

失われていない。まだここにいる。その事実を、自分の呼び方で、自分に確認し続ける。名前は、自己認識の器だ。器を選ぶ自由は、私にある。その自由だけは、手放したくない。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「ロスジェネ」という呼称に違和感を持ったことがある人は、きっと少なくないはずです。

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