パナソニックの最初の商品は、じつは「二股ソケット」ではありませんでした。1918年、23歳の松下幸之助が妻と15歳の義弟の3人で始めた小さな町工場。そこで最初にヒットしたのは、古い電球の金具を再利用した「改良アタッチメントプラグ」という部品です。
このサイトでは、企業の創業ストーリーや社名の由来、ロングセラー商品の誕生秘話などを紹介しています。今回取り上げるのは、日本を代表する電機メーカー、パナソニックの始まりです。
「松下幸之助といえば二股ソケット」。そう覚えている方は多いと思います。私もこの記事を書くまでは、そう思い込んでいました。
ところが、パナソニックが公式に公開している歴史の記事や、幸之助本人の自伝『私の履歴書』をもとにした資料を読み比べていくと、話はもう少し複雑でした。最初に作ったソケットはほとんど売れず、仲間は去り、夫婦の着物は質屋に消えた。会社を救ったのは自社の商品ではなく、よその会社から受けた下請けの注文だったのです。
この記事では、学歴もお金もなかった青年がなぜ会社を辞めて独立したのか、そして最初の1年をどう乗り越えたのかを、順を追って紹介していきます。数字や日付は、パナソニック自身が公表している情報を優先しました。
この記事のポイント
- 独立したときの資金は100円足らず。最初のソケットは10日間で10円足らずしか売れなかった
- ピンチを救ったのは、扇風機の部品「碍盤(がいばん)」1,000枚の下請け注文
- パナソニックの商品第1号は改良アタッチメントプラグ。二股ソケットはその2年後の1920年に登場
1. 傾いた家と、9歳の丁稚奉公
松下幸之助は1894年(明治27年)、和歌山県海草郡和佐村(現在の和歌山市)に生まれました。8人きょうだいの末っ子です。
幸之助がまだ幼いころ、父親が米相場に手を出して失敗し、家計は一気に苦しくなりました。そして9歳のとき、幸之助は小学校を途中でやめ、ひとりで大阪へ奉公に出ます。
最初の奉公先は火鉢を売る店でした。その後すぐに自転車店へ移り、そこで6年間を過ごしています。
「自転車の次は電気だ」と考えた少年
私がこの時期の話でいちばん面白いと感じたのは、幸之助が自転車店を辞めた理由です。
そのころの大阪では、路面電車が走り始めていました。幸之助は「電車が広がれば、自転車の需要は減っていく。これからは電気の時代だ」と考え、電気の仕事に移ることを決めたそうです。この判断は、本人の自伝『私の履歴書』に書かれています。
10代半ばの少年が、目の前の商売ではなく「次に来る波」を見て仕事を変えた。のちに「時代の流れを読む経営者」と呼ばれる感覚は、自転車店の店先ですでに芽生えていたのかもしれません。
夜学についていけなかった「経営の神様」
もうひとつ、あまり知られていない話があります。
幸之助は20歳のころ、夜学に通い始めました。ところが授業のほとんどは、先生の話をそのまま書き取る形式。小学校を中退していた幸之助は書き取りについていけず、途中で挫折してしまいます。
「経営の神様」と呼ばれた人にも、勉強でつまずいた経験があったわけです。後年、幸之助が「学ぶ心」の大切さを何度も語るようになった背景には、こうした体験があったのではないでしょうか。
2. 電気との出会いと、上司のダメ出し
1910年10月、15歳の幸之助は大阪電灯(関西電力の前身のひとつ)に、屋内配線の見習い工として入社します。家やお店に電線を引いて、電灯をつける工事の仕事です。
仕事ぶりはすぐに認められ、入社からわずか3カ月で工事の担当者に昇進しました。1915年には、のちに創業を支える井植むめのと結婚しています。
出世したのに、物足りなかった
1917年の春、幸之助は最年少で「検査員」に昇格します。現場の工事をチェックする立場で、工事人たちのあこがれの役職でした。
普通なら喜ぶところです。ところが幸之助は違いました。検査員の仕事は、実際に手を動かす時間が1日2〜3時間ほどで終わってしまう。その楽さに、かえって物足りなさを感じてしまったといいます。
ひとことメモ:年齢の食い違いについて 検査員になった年齢は、資料によって「22歳」とも「24歳」とも書かれています。数え年と満年齢の違いなどが理由と考えられます。はっきりしているのは「1917年の春」という時期なので、このサイトでは年号を基準にしています。
「だめだよ、これは」と言われた改良ソケット
検査員になる少し前から、幸之助は仕事の合間に電灯用ソケットの改良を進めていました。毎日のように配線工事の現場に立っていたからこそ、今あるソケットの使いにくさがよく分かっていたのでしょう。
ところが、完成した試作品を主任に見せると、返ってきたのは「だめだよ、これは」という一言だけだったそうです。
普通なら落ち込んで終わる話ですが、幸之助はこの否定を独立のきっかけに変えました。「会社が採用しないなら、自分で作って売ればいい」。そう考えた彼は1917年6月、7年間勤めた大阪電灯を辞めてしまいます。
安定した仕事を手放して、評価されなかったアイデアに賭ける。今でいえば、会社で却下された企画を持って起業するようなものです。100年以上前の話なのに、今のスタートアップの物語とよく似ていると感じます。
3. 資金100円足らずのスタートと、最初のつまずき
独立したときの幸之助の手持ち資金は、驚くほど少ないものでした。内訳は次のとおりです。
| 内訳 | 金額 |
|---|---|
| 大阪電灯の退職金 | 33円20銭 |
| 会社の積立金 | 42円 |
| 貯金 | 20円ほど |
| 合計 | 100円に満たない |
当時の100円が今のいくらにあたるかは、何を基準にするかで大きく変わるので、ここでは言い切らないでおきます。ただ、工場を建てるどころか、機械をひととおりそろえるのも難しい金額だったのは確かです。
自宅の畳をはがして工場に
作業場にしたのは、当時住んでいた大阪市東成区猪飼野(いかいの)の借家でした。二畳間と四畳半の半分の畳をはがして土間にし、そこを工場にしたのです。
メンバーは4人。幸之助、義弟の井植歳男(いうえ・としお)、そして大阪電灯時代の同僚2人です。井植歳男はのちに三洋電機を創業する人物ですが、このときはまだ15歳の少年でした。妻のむめのも、家計と仕事の両方を支えています。
お金が足りないため、同僚の林さんが友人から100円を借りてきて、なんとか材料をそろえました。
いちばんの壁は「練り物」の作り方
技術面で最も苦労したのは、ソケットの絶縁部分に使う「練り物(ねりもの)」の調合でした。いくつかの原料を練り合わせて固める素材で、当時は原料も作り方も、各メーカーの企業秘密だったそうです。
何度試しても、うまく固まりません。最後は、知り合いが練り物工場で作り方を学んでいると聞きつけ、会いに行ってようやくコツをつかんだといいます。
10日間で売れたのは10円足らず
1917年10月、ついにソケットが完成します。ところが、本当の苦労はここからでした。
売り先が見つからないのです。名前も知られていない町工場の新商品を、問屋も小売店も相手にしてくれません。完成したソケットは、10日間で10円足らずしか売れませんでした。
これでは仲間の生活が成り立ちません。元同僚の2人は「それぞれ自分の道を探そう」と言って離れていきました。残ったのは幸之助夫婦と、15歳の井植歳男だけ。夫婦は着物をすべて質屋に入れて、どうにか食いつなぐ状態になります。パナソニックの公式記事でも、この時期は質屋に通うほどの資金難だったと紹介されています。
「作れる」と「売れる」は別の話
この場面を読んでいて、私がいちばん考えさせられたのは、良い商品を作れることと、それが売れることは、まったく別の力だということです。
幸之助は配線工事のプロでした。ソケットのどこが不便で、どう直せばいいかも分かっていた。でも、問屋とのつながりや売り先は何も持っていませんでした。この苦い経験が、のちに幸之助が販売の仕組みづくりに力を注ぐようになる原点になったのだと、私は考えています。
4. 扇風機の部品1,000枚が会社を救った
八方ふさがりのまま迎えた1917年の暮れ。思いがけないところから助け舟がやってきます。
電機メーカーの川北電気から、扇風機に使う「碍盤(がいばん)」を1,000枚作ってほしいという注文が入ったのです。碍盤とは、電気を通さないようにするための絶縁の板のこと。つまり、あれほど苦労して身につけた練り物の技術が、そのまま使える部品でした。
徹夜で納めて、利益は約80円
幸之助と井植歳男は徹夜で作業を続け、約束どおり年内に1,000枚を納めました。手にした利益は約80円。独立したときの全財産に近い金額を、たった1回の注文で稼いだことになります。
しかも、仕事ぶりが評価されたのでしょう。翌1918年のお正月早々には、2回目の注文として2,000枚の依頼が入りました。これで、ソケットの失敗から立ち直る道すじが見えてきます。
ここがポイント 会社を救ったのは、幸之助が本当に作りたかった自社の商品ではなく、よその会社の下請け仕事でした。ただ、その下請けを引き受けられたのは、ソケットづくりで苦労して練り物の技術を身につけていたからです。うまくいかなかった挑戦が、別の形で実を結んだわけです。
1918年3月7日、大開町で正式に創業
お金のめどが立った幸之助は、家賃16円50銭の借家に引っ越します。場所は大阪市の大開町(おおひらきちょう、現在の福島区大開)です。
そして1918年3月7日、「松下電気器具製作所」を立ち上げました。幸之助23歳、妻のむめの22歳、義弟の井植歳男15歳。借家の1階を工場にした、文字どおりの家内工業でした。
この日が、今のパナソニックグループの創業日です。この「創業の家」の1階部分は、大阪府門真市にある松下幸之助歴史館に復元されて展示されています。公開されている写真を見ると、ごく普通の町家です。ここから世界的な電機メーカーが生まれたと思うと、なんとも不思議な気持ちになります。
「繁盛さん」がやってきた
パナソニックの公式記事には、ほほえましいエピソードも紹介されています。
注文が増えて人手が足りなくなり、工員を募集したときのこと。最初に来てくれたのは近所に住む妊娠中の女性で、その名字はなんと「繁盛(はんじょう)」さんだったそうです。
「大きく開く」と書く大開町で創業したら、繁盛さんが来てくれた。赤ちゃんが生まれたら、繁盛が倍になる。幸之助はそう言って大喜びしたといいます。この女性が、パナソニックで最初の従業員です。
縁起をかつぐ、どこか人間らしい幸之助の一面が見えるお話です。
5. 二股ソケットはなぜ売れたのか
ここからが、いよいよ本題です。
大正時代の「コンセント」は天井にあった
まずは、大正時代の家の電気事情を想像してみてください。
今のように壁にコンセントがあるわけではありません。電気の出口は、天井からぶら下がった電灯用のソケットが1つか2つあるだけでした。家庭の電源といえば、ほぼ「電球の差し込み口」だったのです。
では、アイロンのような電気製品を使いたいときはどうしたのか。コードの先に「アタッチメントプラグ」という部品を付け、電球を外したソケットにねじ込んで電気を取っていました。
商品第1号は「古い電球の金具」から生まれた
幸之助が大開町で最初に取り組んだのが、このアタッチメントプラグの改良でした。
悩みどころは、ソケットにねじ込む金属部分の精度です。そこで幸之助が思いついたのが、使い終わった古い電球の口金(くちがね、金属のねじ部分)を再利用するという方法でした。電球の口金は、もともとソケットにぴったり合うように精密に作られています。しかも廃品なので安く手に入ります。
こうして生まれた改良アタッチメントプラグは、品質が良いうえに、ほかの商品より3割も安い値段で売り出されました。パナソニックは、これを「商品第一号」と位置づけています。
注文は殺到し、幸之助は初めて4〜5人の工員を雇うことになりました。前の章で紹介した「繁盛さん」がやってきたのは、ちょうどこのころです。
二灯用差込みプラグ、そして二股ソケットへ
続いて幸之助は、1つのソケットから2つに電気を分けられる「二灯用差込みプラグ」を売り出します。これは実用新案も取り、関東方面にも売れるようになって、月に5,000個を作るまでになりました。1918年の暮れには、従業員は20人を超えています。
そして1920年、「二灯用クラスター」、通称「二股ソケット」が登場します。1つの電灯用ソケットを二股に分けて、電球をつけたまま、アイロンや電気コタツも同時に使えるようにした器具です。
ひとことメモ:「二股ソケットで創業」は少し不正確 「松下幸之助は二股ソケットで創業した」とよく言われます。でも、パナソニックの公式記事では、商品第1号は1918年の改良アタッチメントプラグ、二股ソケットは1920年の発売と整理されています。あいだに二灯用差込みプラグもあるので、資料によって呼び名がごちゃまぜになりやすいようです。
売れた理由を3つにまとめると
いろいろな資料を読んだうえで、私が考える「ヒットの理由」は次の3つです。
- 暮らしの不便を正面から解決した:電灯をつけるか、アイロンを使うか。その二択をなくした
- 品質を落とさずに安かった:古い電球の口金を再利用するなど、工夫でコストを下げ、ほかより大幅に安くした
- 現場を知っていた:7年間、配線工事の現場で家庭の電気の使われ方を見てきた経験が生きた
特に3つ目が大きいと思います。大阪電灯で「だめだ」と言われた経験も、毎日見てきた現場の不便も、すべてがこの商品に注ぎこまれているからです。
販売は得意な相手に任せた
もうひとつ見逃せないのが、売り方の工夫です。
幸之助は二灯用差込みプラグについて、大阪の吉田商店と保証金3,000円で一手販売の契約を結びました。つまり、販売はその商店にまとめて任せたのです。受け取った保証金は、工場を広げる資金に使っています。
ソケットで「売る力がない」つらさを味わった幸之助は、販売は得意な相手に任せて、自分はものづくりに集中する道を選びました。最初の失敗から、しっかり学んでいたことが分かります。
6. 町工場から「家電王国」へ
二股ソケットの成功で足場を固めた松下電器は、ここから一気に大きくなっていきます。すべてを書くと本が1冊できてしまうので、ここでは創業期のストーリーとつながる出来事にしぼって紹介します。
問屋に断られた自転車ランプを、お店に預けて回る
1923年、幸之助は砲弾型の電池式自転車ランプを発売します。当時の自転車の明かりは、ろうそくや石油ランプがほとんど。電池式もありましたが、2〜3時間で切れるうえに壊れやすいものでした。幸之助のランプは、半年かけて100個近い試作を重ね、30〜50時間も明かりがもつものに仕上がりました。
ところが、ここでもまた「売れない」壁にぶつかります。質の悪い電池式ランプにこりていた問屋は、どこも扱ってくれません。在庫は2,000個にまで積み上がりました。
そこで幸之助がとった方法は、大阪中の自転車店を回って、ランプを置いていくことでした。条件はひとつだけ。「お店で実際に点けてみて、30時間以上もったら取引してください」。この実演作戦が当たり、2〜3カ月後には月に2,000個が売れるようになり、1年後には月に1万個を作るまでになりました。
ソケットのときは、売り先が見つからずに立ち往生しました。でも今回は、自分の足で売り方そのものを生み出したわけです。数年前の失敗から、ここまで変わったことに驚かされます。
「ナショナル」ブランドの誕生
1927年、砲弾型を改良した角型ランプを発売し、このときから「ナショナル」の商標を使い始めます。
「国民の」という意味をもつこの名前は、その後80年以上にわたり、冷蔵庫や洗濯機など、日本の家庭の白物家電を代表するブランドになりました。
不景気でも、一人も辞めさせない
1929年の暮れ、政府の引き締め政策で景気が冷え込み、松下電器の売上は半分に落ち込みます。倉庫に入りきらないほどの在庫を抱え、病気で寝込んでいた幸之助のもとには「従業員を半分に減らしてはどうか」という相談が持ちこまれました。
幸之助の答えはこうでした。生産はその日のうちに半分にする。でも、従業員は一人も辞めさせない。工場は半日勤務にして、給料は全額払う。そのかわり休日を返上して、全員で在庫を売り歩く。その結果、在庫はおよそ2カ月で売り切れ、工場は元どおり動き始めました。
「水道哲学」と、もうひとつの創業記念日
1932年5月5日、幸之助は全従業員を集めて、会社の「使命」を発表します。
水道の水は、本来はお金がかかるものです。それでも、道ばたの水道の水を誰かが飲んでも、とがめる人はいません。それは水がたっぷりあるからです。生産者の使命は、水道の水のように物を豊かに、安く届けて、世の中から貧しさをなくすことだ。これが、のちに「水道哲学」と呼ばれる考え方です。
幸之助はこの日を「創業記念日」と定めました。さらに、使命を果たすまでの期間を250年とし、25年を1区切りとして10回で完成させるという、とても長い計画まで示しています。
面白いのは、会社をつくった日は1918年3月7日なのに、創業記念日は1932年5月5日だということです。幸之助にとっては、商売を始めた日よりも、「何のために事業をするのか」が分かった日のほうが、本当の意味での創業だったのでしょう。
ここがポイント 水道哲学の根っこには、アタッチメントプラグや二股ソケットを「品質はそのままで3割安く」売って、お客さんを増やしてきた経験があります。立派な理念が先にあったのではなく、商売の手ごたえが先にあって、それを言葉にしたものが理念になったのだと、私は考えています。
その後のおもな歩み
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1933年 | 製品ごとに責任者を置く「事業部制」を導入。大阪・門真に本店と工場を建設 |
| 1935年 | 松下電器産業株式会社に改組 |
| 1973年 | 幸之助が会長を退き、相談役に |
| 1980年 | 松下政経塾を開塾 |
| 1989年 | 幸之助、94歳で死去 |
| 2008年 | 社名をパナソニック株式会社に変更。「ナショナル」ブランドも「パナソニック」に統一 |
2008年の社名変更で、創業者の名字「松下」は社名から消えました。それでも門真には今も幸之助の歴史館があり、創業の家が復元されています。名前は変わっても、物語は残す。それがパナソニックの選んだ道なのだと思います。
7. 二股ソケットの物語から学べること
いくつもの資料を読み比べてみて、私がいちばん強く感じたのは、松下幸之助の創業物語は「成功の物語」というより「失敗から学び続けた物語」だということです。最後に、今の私たちにも役立ちそうなポイントを4つにまとめてみました。
その1:却下されたアイデアを、自分で確かめに行った
上司に「だめだ」と言われたソケットを、幸之助は捨てませんでした。ただ、その改良ソケット自体は、結局ほとんど売れていません。
大事なのは、アイデアが正しかったかどうかよりも、自分で確かめに行ったことだと思います。確かめに行ったからこそ練り物の技術が身につき、碍盤の注文を受けることができた。動かなければ、何も始まっていなかったはずです。
その2:下請け仕事をためらわなかった
独立した人ほど「自分の商品で勝負したい」と考えがちです。でも幸之助は、扇風機の碍盤という下請け仕事で会社をつなぎ、その利益で自社の商品に挑みました。
下請けで稼いだお金が、夢を試すための時間を買ってくれたわけです。今の言葉でいえば、受託の仕事で資金を回しながら自社の商品を育てる、というやり方。これは今の起業にもそのまま通じる考え方だと感じます。
その3:「売る力」が足りない分を、工夫で補った
ソケットで売り先がないつらさを知った幸之助は、二灯用差込みプラグでは販売を専門の商店に任せ、自転車ランプでは自分でお店を回って実演してもらう方法を考え出しました。
同じ「売れない」という悩みに対して、状況に合わせて違う答えを出しているところが見事です。失敗の経験が、打てる手の数を増やしていったのがよく分かります。
その4:人を信じて任せた
創業して間もないころ、幸之助は練り物の作り方を、雇ったばかりの工員にも隠さず教えていました。同業者からは「技術を持ち出されるぞ」と忠告されたそうです。
それに対して幸之助は、人は信じて任せればむやみに裏切ったりしない、細かいことを気にしてけちな経営をしていたら事業も人も育たない、という意味の言葉を返したと、パナソニックの公式記事で紹介されています。
のちの事業部制も、この「任せる」考え方の延長にあるのではないでしょうか。製品ごとに責任者を立て、一人ひとりに一国一城の主として事業を任せる仕組みです。その出発点は、大開町の小さな工場にあったのだと思います。
おわりに
二股ソケットは、今の私たちにはあまりなじみのない道具です。部屋の壁にはコンセントがあり、家電は何台でも同時に使えます。
でも100年ほど前は、「電気をつけたまま、アイロンも使える」ことが、暮らしを変えるほどの発明でした。そしてその裏には、上司のダメ出し、売れないソケット、質屋通い、徹夜の下請け仕事がありました。
「経営の神様」と呼ばれる人も、スタート地点は私たちとそれほど変わらない。資料をたどっていくと、そんな当たり前のことに気づかされます。次にパナソニックの家電を手に取るとき、借家の畳をはがして土間をつくり、売れないソケットを抱えていた若き日の幸之助のことを、少しだけ思い出してみてください。
このサイトでは、これからもさまざまな企業の創業ストーリーを紹介していきます。次回もぜひお楽しみに。
参考にした資料
この記事は、以下の資料をもとに書いています。
- パナソニック公式サイト「松下幸之助『自分を信じ、人を信じる』――パナソニックの歴史ものがたり Episode 07」(Panasonic Newsroom Japan、2026年3月6日)
- パナソニック ホールディングス公式サイト「松下幸之助の生涯」
- The社史「パナソニック:松下幸之助の松下電気器具製作所創業と『ナショナル』商標」ほか、パナソニックの創業に関する各ページ
- AV Watch「松下、10月から社名をパナソニック株式会社に変更」(2008年1月10日)
- 松下幸之助「私の履歴書」(日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人1』日本経済新聞社、1980年所収)
- 『松下電工60年史』(松下電工株式会社、1978年)
- 経済春秋社編『企業の歴史:明治百年』(1968年)
- パナソニック ホールディングス 有価証券報告書 第118期(2025年3月期)「沿革」
※『私の履歴書』『松下電工60年史』『企業の歴史:明治百年』と有価証券報告書の内容は、The社史に掲載された引用をもとにしています。
※大阪府門真市の松下幸之助歴史館では、創業の家の復元展示や、当時の製品を見ることができます。
