同窓会で気づいた断層
同窓会には、もう長いこと行っていない。行かなくなった理由はいくつかあるが、そのひとつが「資産格差を可視化される場」だからだ。
最後に行った同窓会は、40歳のときだった。同じ大学を同じ年に卒業した人間が、20人ほど集まった。会場は都内のイタリアン。会費は8000円。この8000円を出すかどうかで、すでに一晩悩んだ。
席に着いて、近況報告が始まる。会話の端々から、生活水準の差が滲み出る。「最近マンション買ってさ」「子どもの中学受験が大変で」「夏休みはハワイに行って」「車を買い替えた」。
一方の私は、賃貸のアパートに住み、子どもはおらず、夏休みは部屋でテレビを見て過ごし、車は持っていない。同じ教室で同じ講義を受けていた人間のあいだに、20年でこれだけの差がついている。
差がついていること自体は、頭では理解できる。正社員と非正規の違い。大企業と中小企業の違い。東京と地方の違い。共働きかどうか。実家の資産があるかどうか。変数はたくさんある。だが「頭で理解できる」ことと「感情として処理できる」ことは別だ。マンションの話を聞きながら、自分の口座残高を思い出したとき、胃のあたりがきゅっと締まる感覚があった。
同じスタートラインだったはずなのに
大学卒業の時点では、全員がほぼ同じスタートラインに立っていた。少なくとも、そう見えた。
同じ大学に合格した学力。同じキャンパスで過ごした4年間。同じ時代に社会に出た。条件はほぼ同じだったはずだ。なのに、20年後の資産に数千万円の差がついている。この差は、個人の努力だけで説明できるのか。
できない。断言する。
もちろん、努力した人が報われたケースはある。正社員として入社し、地道に昇進し、堅実に貯金し、早い段階から投資を始めた人。その人の努力は本物であり、その結果としての資産は正当なものだ。
だが同じくらいの努力をしても、結果が大きく異なるケースがある。就職のタイミング。配属された部署。上司との相性。会社の業績。業界の浮沈。これらの変数が、個人の努力とは無関係に結果を左右する。
同期入社の二人がいたとして、一人は成長事業部に配属され、一人は不採算部門に配属された場合、10年後のキャリアは大きく異なる。努力の量は同じでも、どの土壌に植えられたかで実りが変わる。種の質ではなく、畑の質の問題だ。
格差の構造を分解する
同世代の資産格差を構造的に分解してみる。
第一の分岐点は「新卒時の就職」だ。正社員になれたかどうか。大企業か中小企業か。この分岐が、その後の生涯賃金を大きく左右する。大企業の正社員の生涯賃金は2億円を超えると言われている。中小企業で1億5000万円程度。非正規で転々とした場合は1億円に届くかどうか。出発点の差が、ゴール時の差に直結する。
第二の分岐点は「結婚と家族構成」だ。共働きの正社員夫婦であれば、世帯年収は単純に倍になる。住宅ローンも組みやすく、二人分の退職金が入る。一方、単身者は一人の収入で全てを賄う。さらに言えば、配偶者の実家の資産も変数に含まれる。結婚によって、個人の資産状況は劇的に変わりうる。
第三の分岐点は「実家の経済力」だ。親の経済力は、直接的にも間接的にも子どもの資産形成に影響する。直接的には、住宅購入時の頭金援助、相続、生前贈与。間接的には、奨学金の有無(ない場合は返済負担がない)、就職活動中の生活費の援助、実家に住むことで家賃を節約できること。
第四の分岐点は「投資のタイミング」だ。リーマンショック後の底値で株を買った人と、買えなかった人の差。アベノミクス初期に投資を始めた人と、始められなかった人の差。投資は「いつ始めたか」で結果が大きく変わるが、「いつ始められるか」は余剰資金があるかどうかに依存する。余裕がなければ、どんなにいいタイミングでも投資はできない。
これらの分岐点のうち、個人の努力でコントロールできるのはどれだろう。新卒の就職は、時代と運に大きく左右される。結婚は相手あってのことだし、そもそも経済的な不安定さが結婚のハードルになる場合もある。実家の経済力は完全に運だ。投資のタイミングも、余剰資金がなければ意味がない。
つまり、資産格差の大部分は、個人の努力以外の要因で決まっている。これは不愉快な事実だが、事実だ。
数字で見る格差
同世代の資産格差を、もう少し具体的に見てみよう。
大企業正社員、勤続20年、共働き、持ち家ありのモデルケースを仮定する。世帯年収800万円。住宅ローンは組んでいるが、持ち家は資産として計上できる。金融資産は退職金見込みを含めて2000万円以上。住宅を含めた純資産は4000万円から5000万円。
一方、非正規、単身、賃貸のモデルケース。年収200万円台。住宅は賃貸で資産ゼロ。金融資産は100万円以下。退職金の見込みなし。純資産は100万円以下。
同じ年に同じ大学を出た人間の間に、純資産で4000万円以上の差がついている。4000万円。途方もない数字だ。この差を「個人の努力の差」で説明するのは無理がある。4000万円分の努力の差とは、具体的に何なのか。正社員が非正規の40倍努力したとでも言うのか。
この格差は、出発点の違いが複利的に拡大した結果だ。最初の差が小さくても、時間が経つにつれて差は加速度的に広がる。正社員は昇給し、ボーナスが増え、投資で運用益が出て、さらに投資に回す。非正規は横ばいの給料で、貯金もできず、投資もできず、横ばいのまま歳を取る。格差の複利効果。金融の世界だけでなく、人生そのものにも複利は働いている。
「同じ大学を出たのに」という錯覚
「同じ大学を出たのに、なぜこんなに差がつくのか」——この疑問の前提には、「同じ大学を出たなら、同じくらいの結果が出るはず」という暗黙の期待がある。
だが大学卒業という共通項は、22歳時点のスナップショットにすぎない。22歳以降の人生は、大学名とは無関係の変数で動く。たまたま正社員になれたか。たまたま成長企業だったか。たまたま良い上司に当たったか。たまたま健康でいられたか。たまたま結婚相手が見つかったか。
「たまたま」の積み重ねが、20年後に数千万円の差になる。大学名は、就職活動の最初のフィルターとしては機能するが、その後の資産形成にはほとんど寄与しない。東大を出ても非正規の人はいるし、名もない大学を出ても資産を築いた人はいる。大学名は、人生の初期パラメータのひとつにすぎない。
同窓会で感じる居心地の悪さは、この「初期パラメータが同じなのに結果が違う」というギャップから来ている。同じスタートラインだったはずなのに、ゴール地点がこんなに違う。その差を説明する変数が「努力」ではなく「運」だとしたら、努力してきた人はそれを認めたくないし、運が悪かった人は救いがない。
格差を語ることの難しさ
資産格差の話は、する相手を選ぶ。
資産が多い人に格差の話をすると、「自慢に聞こえるかもしれないけど」と前置きされた上で「私も最初は大変だった」という話になりがちだ。最初は大変だったが、努力して今の地位を手に入れた。暗に「あなたも努力すればよかったのに」というメッセージが含まれている。
資産が少ない人に格差の話をすると、傷を舐め合うような会話になりがちだ。「うちもカツカツだよ」「年金の見込額、見た?」「やばいよね」。共感は得られるが、解決策は出てこない。共有した不安が倍になって返ってくるだけだ。
だから格差の話はしにくい。する場所がない。上にも下にも話しにくく、横に話しても堂々巡り。かくして資産格差は、個人の胸の中に閉じ込められたまま膨張していく。
「格差は仕方ない」のか
資産格差は仕方がないものなのか。
ある程度は仕方がない。能力の差、努力の差、選択の差。これらによって結果に差がつくこと自体は、自由経済社会においては自然なことだ。全員が同じ資産を持つ社会は、別の問題を生む。
だが「ある程度」の範囲を超えた格差は、社会の機能不全を示している。同じ年に同じ大学を出た人間の間に4000万円以上の差がつくとき、その差の大部分が「個人の努力以外の要因」で説明されるとき、それは「仕方がない」のではなく「仕方がなくされた」のだ。
仕方がなくされた要因。新卒一括採用という制度。非正規雇用の待遇格差。正社員と非正規の社会保障の差。年金制度の設計。住宅政策。教育費の高さ。これらは政策の選択であり、変更可能なものだ。変えなかった結果として、今の格差がある。
格差は天災ではない。人災だ。人が作った制度が作った格差だ。だから人が制度を変えれば、格差は縮められる。縮めるべきかどうかは政治的な判断だが、「仕方がない」と諦める必要はない。
持っている人の見えなさ
資産格差でもうひとつ厄介なのは、「持っている人」は自分が持っていることに気づきにくいことだ。
正社員の友人が「最近出費が多くて大変だよ」と言うとき、その「出費」の中身は子どもの塾代や住宅ローンや車の維持費だったりする。私から見ればそれは「出費」ではなく「資産形成」の一部だ。子どもの教育費は将来のリターンがあるし、住宅ローンの返済は持ち家という資産の蓄積だし、車は生活の質を維持するための投資だ。
「大変だよ」と言いながら、その「大変さ」の中に資産形成が組み込まれている。一方、私の「大変さ」は、家賃を払ったら何も残らないという「消費」だけの大変さだ。同じ「大変」でも、質がまったく違う。
持っている人は、持っていない人の「持っていなさ」を想像しにくい。「うちも余裕ないよ」と言う人の「余裕がない」は、旅行を一回減らすとか、外食を週一から月二に減らすとかいうレベルだ。私の「余裕がない」は、歯医者に行くかどうかを真剣に悩むレベルだ。同じ言葉を使っているが、指している現実が違う。
この「見えなさ」が、格差の議論を難しくする。持っている人は「自分も大変だ」と感じているから、持っていない人の大変さが特別だとは思わない。みんな大変。みんな頑張っている。だから格差は問題ではない、という結論に至りやすい。
格差のある風景の中で生きる
格差は、日常の風景の中に溶け込んでいる。
朝の通勤電車。同じ車両に乗っている人々のあいだに、年収で数倍の差がある。だが全員が同じつり革につかまり、同じ駅で降りる。見た目では区別がつかない。スーツの値段が違うかもしれないが、満員電車ではそんなことは気にならない。
コンビニのレジ。同じ弁当を買っている人のあいだに、資産で数千万円の差がある。だが弁当の値段は同じだ。500円の弁当は、年収200万円の人にとっては日給の数パーセントだが、年収1000万円の人にとっては誤差だ。同じ弁当を食べても、その500円の「重さ」は人によって違う。
同窓会の会費8000円。ある人にとっては夕食代、別の人にとっては3日分の食費。同じ金額が、持つ人と持たない人では意味が変わる。格差とは、同じものの重さが違うということだ。500mlのペットボトルの水は、地球上ではどこでも同じ重さだが、月面では6分の1になる。格差は、人によって重力が違う世界に生きているようなものだ。
疑問の答えは出ない
「同世代でなぜこんなに資産格差があるのか」という疑問に対する答えは、結局のところ「構造」と「運」だ。努力の差ではなく、置かれた構造の差と、偶然の重なりの差。
この答えは、誰も満足させない。努力した人は「運のおかげだと言うな」と反発するし、運が悪かった人は「構造のせいだと言っても何も変わらない」と虚しくなる。
でもこの答えは事実に最も近い。事実は、人を慰めないし、勇気づけもしない。ただそこにあるだけだ。
同窓会には、もう行かないと思う。行かなくても、格差は消えない。行けば可視化されるだけで、行かなくても存在している。見えないからといって、ないわけではない。
ただ、見なくていいものを、わざわざ見に行く必要はない。自分の口座残高は自分が知っている。他人の口座残高と比較しても、自分の残高は変わらない。変わらないものを変えるために使えるエネルギーは、比較ではなく行動に向けたほうがいい。
月5000円のNISA。ささやかな貯金。できる範囲の節約。それが私にできる「行動」のすべてだ。4000万円の差は埋まらない。埋まらないが、自分の1万円を2万円にすることはできるかもしれない。他人との差ではなく、昨日の自分との差。比較の対象を変えるだけで、少しだけ息がしやすくなる。少しだけだが。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。同世代との資産格差を感じたことがある人は、きっと少なくないはずです。
