就職氷河期世代を「かわいそう」と言われることへの抵抗感

この記事は約10分で読めます。

ある日の雑談から

テレビで氷河期世代の特集を見た知人が、私に向かって言った。

「氷河期世代って、本当にかわいそうよね」。

特に悪意はない。むしろ善意から出た言葉だ。テレビで取り上げられていた非正規雇用の中年、貯金ができない中年、老後の不安を抱える中年。それらを見て、素直に同情したのだろう。そしてたまたま目の前にいる私が、氷河期世代の当事者だったから、口に出した。

「かわいそう」。

私は笑顔で「まあ、そうですねえ」と返した。表面上は同意。内心では、微妙な違和感が湧いていた。その違和感が、何なのか、しばらく考えた。

考えた結果、わかった。私は「かわいそう」と言われることに、抵抗感を持っている。同情されることが嫌なのだ。この感情は、当事者にしかわからないかもしれないが、確かに存在する。

なぜ抵抗感があるのか。なぜ素直に同情を受け入れられないのか。このエッセイは、その理由を探る試みだ。

「かわいそう」は上から目線の言葉

まず、「かわいそう」は、どこかに「上から下への視線」を含んでいる。

「かわいそう」と言う人は、言われる人より、恵まれた立場にいる。少なくとも、自分はそう思っている。恵まれた立場から、恵まれていない人を見下ろして、「かわいそう」と言う。

この視線の構造が、微妙に居心地が悪い。同じ地平に立った人間同士の会話ではなく、ランクの違う者同士の会話になる。同情する側と同情される側。施す側と施される側。この非対称性を、「かわいそう」は内包している。

もちろん、「かわいそう」と言う人に、悪意はないことがほとんどだ。上から目線であることを、本人は自覚していない。「かわいそう」と口に出すことで、相手への共感を示しているつもりだ。

だが受け取る側は、その上から目線を感知する。感知するが、言葉にはしない。「上から目線でものを言うな」と返せば、空気が悪くなる。空気を読んで、黙る。黙って、微笑む。微笑みながら、心の中で距離を取る。

この距離取りが、日常的に発生する。「かわいそう」を言われるたびに、相手との間にフィルターが一枚増える。フィルターが増えると、深い会話ができなくなる。浅いやり取りで済ませるようになる。人間関係の密度が、じわじわ下がっていく。

「レッテル」として機能する

「かわいそう」は、同情の表明であると同時に、レッテル貼りでもある。

「かわいそうな氷河期世代」というラベルを貼られると、私は「かわいそうな人間」として分類される。一度分類されると、その分類から抜け出すのは難しい。相手の中で、私は「かわいそうな人」というフォルダに収まってしまう。

このフォルダの中では、何をしても「かわいそう」の枠から出られない。何か良いことがあっても、「かわいそうな人にも良いことがあった」と解釈される。何か悪いことがあっても、「やっぱりかわいそうな人だから」と解釈される。どう転んでも「かわいそう」の範疇に留まる。

このレッテルが、最も嫌だ。私は「かわいそうな人」として他者に認識されたくない。私は私だ。非正規で働いてきた。貯金は少ない。友達もいない。それは事実だ。だがそれらの事実は、私の「一部」であり、「全部」ではない。

私には他の側面もある。本を読むのが好きだ。観察力はそこそこある。文章を書くのは嫌いじゃない。料理は雑だが、自炊はしている。体調は年齢の割には悪くない。性格は内向的だが、悲観的ではない。

これらの側面は、「かわいそう」のラベルの下では見えなくなる。ラベルが優先される。「かわいそう」なのは上書きされる部分的な事実であり、私の全体像ではない。

だから「かわいそう」と言われると、自分の全体像が潰されたような感覚になる。私という人間が、「かわいそうな人」という一次元の存在に圧縮される。この圧縮に、抵抗感がある。

同情消費という現象

「かわいそう」には、もうひとつの問題がある。同情を「消費」しているケースが多いのだ。

テレビで氷河期世代の特集を見た人が、「かわいそう」と感じる。その感情は、その瞬間は本物だ。だが翌日には忘れている。忘れているだけならいい。問題は、「かわいそうと感じたこと」で、その人は何かをやった気になっている、ということだ。

「共感した」「理解した」「寄り添った」。これらの感情を持つことで、なんとなく「良いことをした」気になる。だが実際には何もしていない。当事者の状況は、1ミリも変わっていない。

これを「同情消費」と呼びたい。同情することで、同情する側が満足する。同情される側は、満足する相手のために感情を提供した形になる。提供された感情は、商品として消費される。消費が終わると、関係は終わる。

テレビ番組は、氷河期世代の苦しさをコンテンツとして流す。視聴者はそれを見て「かわいそう」と感じる。感じたことで、視聴者は「社会問題に関心を持つ自分」という自己イメージを得る。番組も視聴率を得る。当事者は、自分の人生を切り取られて放送されることで、一時的な注目を浴びる。だが注目はすぐに消える。問題は残る。

この消費の構造に、私は抵抗感を覚える。私の人生は、誰かの自己満足のための素材ではない。誰かが「かわいそう」と感じて満足するための、コンテンツではない。

「かわいそう」の前に立ち止まれない

「かわいそう」と言う人の多くは、そのあとで立ち止まらない。

「かわいそう」と言って、同情して、そして日常に戻る。「なぜこの世代はこうなったのか」を考えない。「どうすれば改善できるのか」を考えない。「自分に何ができるか」を考えない。

立ち止まって考えることは、労力がいる。労力を使うより、「かわいそう」の一言で感情を処理してしまうほうが楽だ。だから多くの人は、考えずに「かわいそう」で済ませる。

これが、氷河期世代の問題が20年以上放置されてきた一因だと、私は思う。社会全体が「かわいそう」で感情処理をして、構造的な問題に踏み込まなかった。踏み込むには、政策を変え、制度を変え、価値観を変える必要がある。これらは面倒だ。面倒だから、「かわいそう」で終わらせる。

「かわいそう」は、問題を見える化すると同時に、問題を矮小化する機能を持つ。「かわいそうな人がいる」という感覚は、構造的な問題を「個別のかわいそうな事例」に解体する。全体像が見えなくなる。全体像が見えなくなれば、全体への介入もできない。

だから私は、「かわいそう」で話を終わらせないでほしい、と思う。かわいそうと感じたなら、その次を考えてほしい。なぜそうなったのか。どうすれば変えられるのか。自分に何ができるか。この問いに向き合うまでは、「かわいそう」はただの感情のはけ口にすぎない。

求めているのは同情ではなく理解

私が求めているのは、同情ではない。理解だ。

「かわいそう」ではなく、「そういう構造があったんだな」。

「大変だったね」ではなく、「そういう時代だったんだな」。

「頑張ったね」ではなく、「そう生きるしかなかったんだな」。

感情ではなく、認知。心を寄せてくれるより、状況を理解してくれるほうが、ありがたい。

理解するためには、勉強が必要だ。氷河期世代がどんな時代に社会に出たのか。どんな労働市場だったのか。なぜ非正規雇用が拡大したのか。どんな政策が取られ、どんな政策が取られなかったのか。これらを知ることで、「かわいそう」という感情的な反応を超えた、構造的な理解に到達できる。

構造的な理解があれば、「かわいそう」ではなく「不公平だった」と言えるようになる。「不公平だった」は、「かわいそう」より、私にとってずっと救いになる言葉だ。なぜなら「不公平」は、本人のせいではなく、社会の設計の問題だからだ。責任の所在が明確になる。

「かわいそう」は、本人の不幸を強調する。「不公平」は、社会の不正を強調する。同じ状況を描写するのでも、視点が違う。視点が違えば、導かれる結論も違う。

私が求めるのは、「不公平だった」と言ってくれる視線だ。「かわいそう」ではなく。この違いを、理解してくれる人が、もう少し増えてほしい。

「強い」と言われたいわけでもない

「かわいそう」と言われるのが嫌だと書いたが、だからといって「強い」と言われたいわけでもない。

氷河期世代を讃える言葉として、「大変な中を生き抜いてきた、強い世代だ」というものがある。これも、言われると微妙な気持ちになる。

「強い」と言われると、「強くあるべき」というプレッシャーがかかる。強くなければいけない、弱音を吐いてはいけない、涙を見せてはいけない。こういう縛りが発生する。

私は、強くはない。弱いところもある。疲れることもある。諦めたくなることもある。この弱さを否定されると、息苦しい。

「かわいそう」でもなく、「強い」でもなく、「普通の人間として生きてきた」と言ってほしい。不利な条件の中で、泣いたり笑ったり怒ったりしながら、それでも日々を繰り返してきた、普通の人間。英雄でもなく、被害者でもなく、ただの普通の人間。

英雄視されるのも、被害者視されるのも、どちらも居心地が悪い。普通の人間として扱ってほしい。これが、多くの氷河期世代当事者の本音ではないかと思う。

同情と共感は違う

「かわいそう」が同情の表明なら、その対極にあるのは「共感」だ。

同情と共感は、似ているようで違う。

同情は、相手を自分より下に置く。相手の不幸を、外側から眺める。「自分は大丈夫だが、あの人は大変だ」という距離感がある。

共感は、相手と同じ目線に立つ。相手の気持ちを、内側から想像する。「もし自分だったら、こう感じるかもしれない」という想像力がある。

私が望むのは、共感だ。同情ではなく。

共感してくれる人は、「かわいそう」とは言わない。「それは辛かっただろうね」と言う。「辛かった」は、相手の主観を想像した言葉であり、距離が近い。「かわいそう」は、相手の状況を外から評価した言葉であり、距離が遠い。

共感する人は、相手の苦しみを、自分のことのように感じる。感じた上で、「自分に何ができるか」を考える。同情する人は、相手の苦しみを、他人事として感じる。感じた上で、「かわいそうだ」と言って終わる。

この違いは、会話してみればわかる。共感の言葉は、相手の心に届く。同情の言葉は、相手の心に距離を作る。

だから「かわいそう」と言ってくる人には、私は心を開かない。「辛かっただろうね」と言ってくれる人には、少し心を開く。この使い分けを、長年の経験で、無意識にやってきた。

同じ世代の中での違い

面白いことに、「かわいそう」と言われることに抵抗がない氷河期世代もいる。

「そうなんですよ、本当に大変で」と、相手の同情を受け入れる人もいる。その受け入れ方で、相手との会話が成立する人もいる。これは人それぞれの感受性の違いだ。

私は「かわいそう」を受け入れられない。でも受け入れられる人を批判するつもりはない。人によって、楽な立ち位置は違う。同情を受け入れることで救われる人もいる。それはそれで、ひとつの在り方だ。

ただ、「かわいそうと言われたがる」という空気が、氷河期世代全体に広がるのは、少し違うと感じる。同情を求めて、同情を得て、それで満足する。このループに入ると、構造的な変化への動機が弱まる。「かわいそうな自分」に甘んじることが、居心地良くなってしまう。

同情は、一時的な慰めにはなる。だが長期的には、変化を阻害する。変化するためには、同情に依存せず、自分の状況を客観視する必要がある。客観視して、「これは個人の問題ではなく構造の問題だ」と認識する。認識すれば、同情ではなく、変革を求める姿勢になる。

だから私は、「かわいそう」に抵抗する。抵抗することで、自分を「かわいそうな存在」に固定化させない。固定化されると、変化への意欲が失われる。意欲を保つために、同情を受け入れない。これが、私の静かな戦略だ。

それでも、人の善意は信じたい

最後に、少しバランスを取っておく。

「かわいそう」と言う人の多くは、善意で言っている。その善意まで否定するのは、フェアではない。

善意は尊い。善意があるから、社会は完全な弱肉強食にはならない。善意があるから、強者は弱者を気にかける。善意があるから、私は今、こうして生きていられる。

ただ、善意の表現方法には改善の余地がある。「かわいそう」よりも、「大変だったね」。「大変だったね」よりも、「そう生きざるを得なかったんだね」。少しずつ、相手の主体性を尊重する言葉に、移行していってほしい。

これはお願いだ。要求ではない。相手の善意を、より洗練された形で受け取れるように、お互いに調整していく。その積み重ねが、世代を超えた対話を可能にする。

「かわいそう」と言われたら、私はこれからも笑顔で「まあ、そうですねえ」と返すだろう。内心の抵抗感は、このエッセイに書き残しておく。書き残すことで、自分の気持ちを整理する。整理した気持ちは、次の会話で少しだけ顔を出すかもしれない。顔を出したとき、相手が「なるほど」と思ってくれたら、そこから対話が始まる。

対話が始まれば、「かわいそう」は「理解」に変わるかもしれない。変わるまでには時間がかかるだろう。だが、時間をかける価値はある。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「かわいそう」と言われて複雑な気持ちになったことがある人は、きっと少なくないはずです。

タイトルとURLをコピーしました