第一章:本間宗久という人物 ― その生涯を辿る
1-1. 生まれと家系
本間宗久は、享保9年(1724年)、出羽国庄内(現在の山形県酒田市)に生まれました。彼の没年は享和3年(1803年)、79歳または80歳での天寿でした(資料により1718年生誕説もあります)。
通称は「久作(きゅうさく)」。後に「宗久」と改名しました。「本間古作」と酒田人名録に記されることもあります。読み方は「ほんま そうきゅう」「ほんま むねひさ」、両方とも使われます。
宗久が生まれた本間家は、ただの商家ではありませんでした。1689年(元禄2年)に「新潟屋」の屋号を掲げて酒田で商売を始めた、酒田三十六人衆の一角を占める豪商でした。父である本間原光(はらみつ)は既に三十六人衆に選ばれるほどの有力商人であり、宗久が生まれた頃には、本間家は酒田で確固たる地位を築いていました。
ここで一つ、興味深い俗謡をご紹介しましょう。
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」
これは、当時の山形県下に伝わっていた民謡です。本間家の財力は、藩主である酒井家(庄内藩主)すら凌駕していたと言われ、「本間様にはとても及ばないけれど、せめて殿様くらいにはなりたい」という庶民の素直な思いを表しています。本間家がいかに巨大な存在だったかが、この一節から伝わってきます。
戦後すぐの1946年、アメリカ人ジャーナリストのマーク・ゲインが日本を訪れた際、最初に地方取材に向かったのが、なんと酒田だったというエピソードがあります。彼は『ニッポン日記』にこう記しました。
「酒田ではコメがあらゆる思想と会話を支配している。社会構造もコメを基礎にして築かれ、人間の価値は所有する土地の大小によって測られる。酒井(旧藩主)という姓は酒田では聖なる姓である。が、本間家の地位は酒井より上である。酒田は本間家の酒田として知られている」(井本威夫訳)
これほどの一族が、本間宗久の出自なのです。
1-2. 三男坊としての宗久
宗久は、新潟屋の本間久四郎光本(みつもと)の三男として生まれました。長男ではない、いわゆる「三男坊」です。
江戸時代の商家では、家督は基本的に長男が継ぐもの。次男以下は分家を許されるか、別の道を歩むのが通例でした。しかし宗久の場合、不測の事態に備えて分家を許されず、なんと33歳まで本家にとどめ置かれたといいます。
私はこの「33歳まで本家にとどめ置かれた」という事実に、宗久の人生を理解する重要な鍵があると思っています。彼は単なる三男ではなく、「商才を見込まれた予備の後継者候補」だったのです。父・原光は、幼少期から宗久の商才を特別に目をかけていたといいます。
しかし、待たされる立場というのは精神的に辛いものです。自分の人生が宙吊りにされたまま、何年も家業を学び、何年も自分の番が来るのを待つ。この「待つ」経験こそが、後に宗久の投資哲学の核心となる「機を待つに仁」の思想へと繋がっていったのではないかと、私は考えています。
1-3. 16歳の江戸見聞
宗久は16歳の時、八代将軍・徳川吉宗の治世下にあった江戸へ行き、見聞を広めました。江戸時代における「江戸見聞」は、地方商人の子弟にとって一種の修行旅行でした。
ここで宗久は、米相場の世界に強い興味を抱いたと推測されます。江戸から帰省後、父・光本に「酒田で米相場での投機を行いたい」と進言します。ところが父の返事は厳しいものでした。
「商いの正道ではない」
これは私の解釈ですが、当時の保守的な商家の感覚からすれば、現物の米を扱う商売こそが「正道」であり、価格の上下に賭ける投機は「商いではない」という考え方は当然でした。父の言葉は、宗久にとって辛い拒絶だったでしょう。
しかし、ここで諦めないのが宗久のすごいところです。父の言葉を心に刻みつつも、米相場への情熱は消えませんでした。彼は、いつか必ず自分の流儀で相場を張ってみせる、と心に誓っていたに違いありません。
1-4. 32歳の転機 ― 本間家代理経営
宗久に転機が訪れたのは、寛延3年(1750年)、32歳の時でした。本間家の第3代当主となる予定の光丘(みつおか、宗久の甥)が、播州姫路の取引先に修業のため旅立ったのです。
第2代当主の光寿(光丘の父、宗久の兄)は、長男の留守中、投機の才に恵まれた弟・宗久に3年間の財政を託しました。これは宗久にとって、待ちに待ったチャンスでした。
宗久は、兄から財産分与された本間家のほぼ2割の資産を元手に、酒田の米相場への投機に乗り出します。結果は驚くべきものでした。
「買えば当たり、売れば当たり、ちょっとの間に数万金を得た」
『酒田市史』にはこう記されているそうです。具体的な数字を見てみましょう。享保16年(1731年)に初代・原光の遺産総額が2,551両であったのが、宝暦5年(1755年)3代目当主光丘が家督相続したときには3万1,074両に膨れ上がっていたといいます。約24年で12倍以上になっているのです。
鈴木旭著『本間光丘』では「宗久一人の才覚」と評されています。つまり、本間家の財政基盤を盤石なものにしたのは、まさに宗久だったのです。
ここで重要なのは、宗久の成功が単なる幸運ではなかったということです。彼は次のような手法を駆使していました。
- 情報の先取り:飛脚を雇い、大阪の相場情報を他者より早く入手
- ファンダメンタル分析:全国の米の作柄や需給を徹底的に調査
これは、後ほど詳しく見ていく彼の投資哲学の原型でもあります。
1-5. 光丘との対立 ― そして追放
しかし、宗久の栄光は長くは続きませんでした。修行から戻った甥の光丘は、宗久の投機的なやり方を認めず、徹底的に対立します。
光丘は本間家3代当主として、防砂林の植林など公益事業に尽くし、後に「公益の祖」と呼ばれることになる人物です。彼は隣藩・米沢藩の上杉鷹山の財政整理にも尽力した名経営者でした。
光丘の論理はこうでした。
「米相場の投機は危険であり、本間家の長期的繁栄には資さない。むしろ社会への還元と土地への投資こそが正道である」
実際、光丘は宗久が米相場の投機で得た資金の多くを、防砂林等の公共事業に寄付してしまったといいます。これに宗久は激怒したでしょう。
そして、ついに光丘は叔父・宗久との縁を切り、店(たな)から追放します。「義絶」というのは、家系上の関係を断つことを意味します。これは江戸時代の家族関係において、極めて重い処置でした。
ここで、私は二人の人物像の対比に注目したいと思います。光丘は「正道の経営者」、宗久は「修羅の道を行く投機家」。どちらが正しいというものではなく、両者の対立は、商業と投機、堅実と冒険、共同体と個人、という普遍的なテーマを象徴しているように感じます。
1-6. 江戸での大失敗
酒田を追われた宗久は、江戸へ向かいます。米相場の世界で自分の力を試そうとしたのでしょう。
しかし、ここで宗久は大失敗を経験します。江戸の米相場で全財産を失い、一文無しになってしまったのです。これは彼の人生における最大の挫折でした。
宗久は本間宗家の庇護を仰ぐわけにもいかず(義絶された身ですから当然です)、本間家とゆかりのある酒田の海晏寺(かいあんじ)に身を寄せました。和尚の海山禅師は宗久の幼馴染だったといいます。
山口映二郎著『現代訳 宗久翁秘録』には次のように記されています。
「錦をかざるどころか、相場に破れ、他に身の置きどころのない敗残兵として帰郷する身とあっては、そのみじめな心情、わびしさはひとしおのものである。故郷酒田への半月の旅の途次、宗久はこうしたみじめさを嫌というほど身にしみて味わったに違いない」
この時、宗久はおそらく30代後半から40代だったでしょう。一度は本間家の財を10倍以上に増やし、栄光を極めた男が、すべてを失って故郷へ帰る。その心境は察するに余りあります。
1-7. 海晏寺での座禅修行 ― 開眼の瞬間
海晏寺で、宗久は座禅修行に取り組みます。ここでの体験が、彼を相場師として真に大成させる転機となりました。
海晏寺で何があったのか。日本取引所グループの資料によれば、宗久は座禅を通じて以下を悟ったといいます。
- 自分の相場への驕り
- 無心の境地
- 平常心の重要性
そして何より重要なのは、彼が「投機における大勢の投機家の心理」というものに思い至ったことです。
これは私の独自の見解ですが、宗久がこの時に到達した境地こそが、彼の投資哲学の核心です。つまり、「相場を動かしているのは、価格ではなく人の心である」という認識です。
現代の行動ファイナンス(Behavioral Finance)が学問として確立されたのは1970年代以降ですが、宗久は200年以上前にすでにその本質を見抜いていたのです。市場は数字の集合ではなく、人間の感情の集合である。この洞察が、彼を後に「相場の神様」へと押し上げる土台となりました。
1-8. 大坂・堂島での復活
座禅修行で精神を鍛え直した宗久は、当時の経済の中心地「天下の台所」と呼ばれた大坂・堂島へ乗り込みます。
ここで宗久は神算鬼謀ぶりを発揮します。堂島米会所で連戦連勝を重ね、「相場の神様」「出羽の天狗」と呼ばれるようになりました。
宗久の力を物語る俚謡(りよう、民謡のこと)が残っています。
「酒田照る照る 堂島くもる 江戸の蔵前雨が降る」
これはどういう意味でしょうか。酒田(=宗久の出身地、コメの大産地)が晴れていれば(=豊作なら)、堂島の相場は曇り(=下落)、江戸の蔵前の相場は雨(=大幅下落)となる、という意味だとされています。つまり、宗久が「酒田の天気」、つまり米の供給情報を握り、それで全国の相場を動かしていることを謳ったものです。
別の解釈もあります。「宗久が酒田にいれば、酒田の相場が好調(照る照る)、堂島はそれに翻弄され(くもる)、江戸はさらに激しく動く(雨が降る)」とも読めます。いずれにせよ、宗久の影響力の絶大さを示す俚謡です。
1-9. 江戸での成功と晩年
大坂で名を成した宗久は、50歳になって名を「宗久」と改め、再び江戸へ向かいます。今度はかつての失敗の地、江戸でも大成功を収めました。
宗久は江戸で多額の身代を築き、長い間対立していた光丘とも和解します。その後は江戸で新潟屋の現物米の商いと諸藩への貸付を行い、莫大な財産を手にしたといいます。
晩年は江戸の根岸に住み、幕府の経済顧問のような役についていたとも言われています。最期は享和3年(1803年)、江戸で生涯を終えました。墓所は東京都台東区下谷の随徳寺にあります。
宗久には妻はいましたが、子がなく、妻の兄弟を養子に迎えました。
1-10. 宗久の人生から読み取れること
ここまで本間宗久の生涯を辿ってきましたが、私が特に注目したいのは、彼の人生が「成功・失敗・再起」というドラマチックな曲線を描いていることです。
- 32歳:酒田で大成功(買えば当たり、売れば当たり)
- 40代:江戸で大失敗(一文無しに)
- 海晏寺で開眼(精神の鍛錬)
- 大坂で大成功(出羽の天狗)
- 50代以降:江戸で再び大成功
この曲線は、まさに彼が後に著書で説く「機を待つに仁、機に乗ずるに勇、気を転ずるに智」という三つの要素を、自らの人生で体現したものだと言えるでしょう。
成功してから一度どん底に落ちる経験こそが、本間宗久を真の「相場の神様」たらしめたのです。江戸での失敗がなかったら、彼は単なる地方の成功した相場師に終わっていたかもしれません。
第二章:江戸時代の経済と堂島米会所 ― 宗久が活躍した舞台
2-1. 米が支配した経済 ― 米本位制
本間宗久を理解するには、彼が活躍した時代の経済システムを知る必要があります。
江戸時代の日本は、いわゆる「米本位制」の経済でした。これはどういう意味でしょうか。
江戸時代の領主(大名)は、年貢を米で徴収していました。各地の領主は、年貢として集めた米を、食用や備蓄用に使用する分を除き、換金を目的に大坂や江戸に送っていたのです。
米一石(こく)は約140〜150kg、大人一人が一年間で消費する量とされています。「加賀百万石」と言えば、理論上は100万人分の年間食料に相当する計算となります。各大名の地位や軍事力・役務は、この石高を基準として定められていました。
つまり、米は単なる食料ではなく、貨幣と並ぶ重要な価値の尺度であり、経済活動の基盤だったのです。
江戸時代の貨幣システムも複雑でした。金貨、銀貨、銅貨(銭)の交換比率は市場に委ねられた変動相場制であり、東日本は金本位、西日本は銀本位という地域差もありました。このため、米が事実上の基軸通貨的役割を果たしていたのです。
2-2. 大坂 ― 天下の台所
大坂は江戸時代において「天下の台所」と呼ばれていました。これは、全国の米が大坂に集まる構造になっていたからです。
諸藩は、大坂の中之島周辺の蔵屋敷に年貢米を納め、入札制によって米仲買人に売却していました。落札者には「米切手」という1枚あたり10石の米との交換を約束した証券が発行されました。
この米切手こそ、日本の証券取引の起源と言えるものです。実物の米を移動させずに、紙の証券で米を売買できるシステム。これは現代の証券取引の基本概念そのものです。
2-3. 堂島米会所の誕生
ここで重要なのが、世界初の組織的な先物取引所と言われる「堂島米会所」の誕生です。
歴史を遡ると、江戸時代の初め、各地から運ばれた米の取引は、土佐堀川沿いの北浜の路上で行われていました。この「北浜米市」は、中心となっていたのが当時の豪商・淀屋であったため「淀屋の米市」とも呼ばれていました。
元禄10年(1697年)頃、交通の妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興策として、米市は堂島に移されました。
そして享保15年(1730年)8月13日(西暦9月24日)、江戸幕府は堂島で行われる正米商い(米切手を売買する現物市場)と帳合米商い(米の代表取引銘柄を帳面上で売買する先物市場)を公認しました。これにより、「堂島米市場」と呼ばれる公的市場が正式に成立したのです。
ちょうど本間宗久が6歳の頃です。彼は、世界初の組織的な先物市場が成立した時代に生まれ育ったわけです。
2-4. 帳合米取引 ― 世界初の組織的先物取引
堂島米会所で行われていた取引は、主に二種類でした。
正米取引(しょうまいとりひき) これは現代でいう現物取引です。米切手を実際に売買する取引で、約30の藩の米切手が対象でした。買い方は現金を支払い、売り方は米切手を渡す、現金現物が義務付けられた決済でした。
帳合米取引(ちょうあいまいとりひき) これが世界初の組織的な先物取引と言われるものです。非常に独特な売買手法で、個別の米切手ではなく、堂島米会所全体を表すような架空の米切手を想定します。そしてその架空の米切手を将来の期日に受け渡すことにしておいて、期日までにその米切手を売った人は買い戻し、買った人は売る。最終的には、買った値段と売った値段の差額を一方がもう一方に渡すかたちで差金を決済する、という仕組みでした。
これは、現代の先物取引における「差金決済」「清算機能」とほぼ同じものです。市場参加者は「敷銀(しきぎん)」という証拠金を用意するだけで、巨額の取引が可能でした。
実は、米国で最も歴史が古い商品取引所であり、世界最大規模の先物市場を有するCBOT(シカゴ商品取引所、1848年設立)は、大坂堂島市場をモデルに整備されたと言われています。日本の堂島米会所が、世界の先物取引のルーツなのです。これは日本人として誇りに思える事実ではないでしょうか。
2-5. 旗振り通信 ― 江戸時代の高速情報網
ここで非常に興味深いのが、当時の情報伝達システムです。
堂島米会所で毎日形成される米価は、日本全国の経済に直結していました。各地の米商人は堂島相場を指標として売買を行うため、相場情報をいち早く入手することが死活問題でした。
最初は「米飛脚」と呼ばれる専門の韋駄天(いだてん)が、各地の商人に相場情報を知らせていました。しかし所詮は人の足。京都や奈良に情報が届くまでは何時間もかかります。
そこで考案されたのが「旗振り通信」です。これは、1600年代初頭に日本へともたらされた「遠眼鏡(望遠鏡)」を使い、見通しのいい山や峠に中継点を置いて、大きな旗を振って相場情報を伝える方式でした。
1745年頃、大和の国平群(へぐり)郡若井村(現奈良県生駒郡平群町)の源助なる人物が、煙、大傘、提灯、手ぬぐいの振り方などで堂島から2キロほど離れた本庄の森から情報を発信させ、十三峠から遠眼鏡で確認していたのが、旗振り通信の初期の記録とされています。
この旗振り通信は驚異的なスピードでした。
- 堂島から和歌山へ:3分
- 堂島から京都へ:4分
- 堂島から岡山へ:15分
- 堂島から広島へ:最短27分
現代の新幹線よりも速いのです!中継点の間隔は4〜22キロ程度で、ネットワークは西は岡山、広島、博多へ、東は京都、名古屋、静岡、江戸へと広がりました。今も各地に「旗振山」「相場振山」「相場取山」「旗山」「畑山」などの名前として残っています。
ところが1775年(安永4年)、幕府は旗振りなどで相場を知らせることを禁ずるお触れを出しました。有力な御用商人になっていた米飛脚業者からの苦情があったとも、幕府が相場情報を米飛脚一本に統制したかったためとも言われています。
しかし、その後も旗振り通信は秘密裏に続けられました。情報の優位性は、相場師にとって命綱だったからです。
2-6. 酒田 ― 米の積出港
本間宗久の地元である酒田は、最上川の河口に位置する港町でした。流域には多くの穀倉地帯が広がり、酒田湊(みなと)は最上川流域の米を関西地方に送るための積み出し港として大いに栄えました。
「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、代表的な自由都市として、関西圏との交易で大いに栄えました。堺に匹敵する商都と言われたのです。
宗久の活動拠点となった酒田米座は、元禄15(1702)年に藩の許可を得て、寺町に公立として設立されていました。本間宗久の頃には、すでに酒田にも独自の米相場が立っていたわけです。
2-7. 「七日早」 ― 宗久の情報優位性
ここで、行動経済学者の山口勝業氏の研究が非常に興味深い指摘をしています。
『酒田市史』によれば、大坂との間を往復する西回り航路の船便で堂島の相場が酒田に伝わるのに約2週間を要したそうです。ところが「酒田の米座仲間では健脚の飛脚数人を雇い入れ、堂島相場を昼夜兼行で走りつがせ約七日間をもって伝達させた」といいます。この飛脚便は「七日早」と呼ばれました。
つまり、酒田の一般の商人にとっては、堂島の相場情報は2週間遅れで届く「公開情報」でした。しかし、宗久たち米座仲間は「七日早」によって、これを1週間早く入手できる「私的情報」「未公開情報」を持っていたのです。
私の独自の見解ですが、これは現代でいう「インサイダー情報」とは違いますが、「情報格差を利用した収益機会」と捉えることができます。宗久が酒田市場で連戦連勝した理由の一つは、まさにこの情報優位性にあったのです。
逆に大坂との情報入手の時間的格差が少ない江戸では、この優位性が失われます。宗久が地元酒田で財をなした後、江戸でいちど大失敗したのも、この情報優位性の喪失が大きな要因だったのではないかと、山口氏は推論しています。
私もこの見解に強く同意します。投資の世界では、「自分の優位性(エッジ)が何か」を理解することが極めて重要です。宗久は、自らの優位性が情報スピードにあったことを、最初は理解していなかったのかもしれません。江戸での失敗を経て、彼は「情報だけでなく、市場心理を読む力」という新たな優位性を獲得したのです。
第三章:本間宗久の著作 ― 三大秘伝書を読み解く
3-1. 宗久の遺した著作群
本間宗久の名で伝わる著作には、主に以下のものがあります。
- 『本間宗久翁秘録(ほんま そうきゅう おう ひろく)』
- 『本間宗久相場三昧伝(ほんま そうきゅう そうば ざんまいでん)』
- 『酒田戦術詳解(さかた せんじゅつ しょうかい)』
- 『本宗莫那剣(ほんそうばくなけん)』
これらは「相場の聖典」「相場の秘伝書」とも呼ばれ、現代でも投資家のバイブルとして読み継がれています。
3-2. 真贋論争 ― 本当に宗久が書いたのか?
ここで、皆さんに正直にお伝えしておきたいことがあります。実は、これらの著作が本当に本間宗久自身が書いたものなのか、現代の研究では疑問視されている部分もあります。
ウィキペディアによれば、「『宗久翁秘録』『酒田戦術詳解』『本間宗久相場三昧伝』といった書物が宗久の手になるものとして現在に伝わるが、明治初め以降にまとめられたものとの説もある」とされています。
なぜそう言われるのか。理由はいくつかあります。
第一に、本間家は政商や酒田の大商人の家系であり、幕府と敵対的な相場には参加すらしなかったのではないか、という説があります。 第二に、原本の存在が確認できないこと。「本宗莫那剣」「三昧伝」さえ、原本の所在が疑われています。 第三に、堂島米会所の取引形態が本格的に整備されたのは宗久の死後(19世紀以降)であり、彼が「酒田五法」やローソク足の考案者であることは時系列的に難しい、という指摘です。
しかし、私の独自の見解を述べさせていただきます。著者が真に宗久本人かどうかは、これらの書物の価値を損なうものではありません。仮にこれらが宗久の弟子や後の相場師によってまとめられたものだとしても、その内容は宗久の口伝や教えを基にしている可能性が高く、また、内容そのものが「江戸時代の米相場の知恵の結晶」として、極めて貴重なのです。
行動経済学者の山口勝業氏は次のように指摘しています。
「『宗久翁秘録』は、宗久が晩年に酒田出身の弟子善兵衛に語った相場の極意を、善兵衛が書きまとめたものだという。『秘録』は相場の心得を説く157か条に加えて、明和5年(1768)正月から寛政9年(1797)閏7月までの酒田の米相場の値段が記録されている」
具体的な日付や数字が記載されていることから、少なくとも宗久の弟子の世代までは、確かな伝承が残っていたと考えられます。
3-3. 『宗久翁秘録』の概要
『宗久翁秘録』は、本間宗久の教えを伝える最も重要な書物です。全157か条からなり、相場の心得を説いています。
宗久が晩年(80歳を超えていたとされる)、酒田出身の弟子・善兵衛に語った相場の極意を、善兵衛が書きまとめたものだとされています。
この善兵衛という人物、興味深いエピソードがあります。彼は元々、本間家出入りの米屋でしたが、コメ相場で大失敗して身上はもとより家屋敷まで人手に渡り、裸一貫で借金を返すため米人足をしていました。それを宗久が見出し、「もう一度相場をやってみる気はないか」と再起のチャンスを与えた人物だといいます。
宗久と善兵衛の対話は、こんな感じだったそうです。
宗久「買いで失敗したというが、いまの相場は買いか、売りか」 善兵衛「やはり買いだと思います」 宗久「ならばよし。金はおれが出すからすぐ買いに動け」
宗久の義金で善兵衛は買い、相場はどんどん上がり、わずか1ヶ月で大きく利食いすることができた。借金は返し、家屋敷も戻ってきた、というハッピーエンドのエピソードです。
このエピソードから、宗久の人物像が浮かび上がります。彼は単に金儲けに長けた男ではなく、義侠心に富み、相場で苦しむ者の心情を理解し、再起の手助けをする度量のある人物だったのです。
3-4. 『相場三昧伝』 ― 相場道の極意
『本間宗久相場三昧伝』は、もう一つの重要な著作です。「相場三昧伝には三種類ある」とも言われ、複数の異本が存在します。
「三昧(ざんまい)」とは仏教用語で、一つのことに精神を集中して没入することを意味します。「相場三昧」とは、相場のことに精神を集中して没入する、つまり相場道を究めるという意味です。
この書物は「古今東西の相場に関する本の中でも、最良の名著」と讃えられ、「相場の聖典」とまで呼ばれています。
3-5. 『酒田戦術詳解』
『酒田戦術詳解』は、いわゆる「酒田五法」のテクニカル分析を体系化した書物とされています。ただし、前述の通り、これが本当に宗久の手になるものか、後の世にまとめられたものかは議論があります。
3-6. 著作の流通 ― 秘伝書として
これらの相場秘伝書は、まさしく「秘伝書」の名のとおり、出版されて広く読者を得ることを意図したものではありませんでした。一部の人々のあいだで筆写によって伝えられてきたのです。
これは現代の感覚からすると不思議に思えるかもしれませんが、当時の商業の世界では、ノウハウは家伝の秘密でした。広く公開すれば優位性が失われるため、信頼できる弟子や後継者にのみ伝授されたのです。
そのため、現代に伝わる『宗久翁秘録』などにも、複数のバージョンが存在し、内容に若干の異同があります。
3-7. 現代における出版
明治以降、これらの秘伝書は徐々に出版されるようになりました。代表的な現代版としては以下があります。
- 青野豊作著『相場秘伝 本間宗久翁秘録を読む―希代の天才相場師に学ぶ必勝の法則』(東洋経済新報社、2002年)
- 山口映二郎著『現代訳 宗久翁秘録』(証取経済通信社)
- 投資レーダー編『本間宗久相場三昧伝―相場道の極意―』(ストックマーケットサービス)
- 林輝太郎著『定本 酒田罫線法』(同友館、1991年)
これらの書物を通じて、現代の私たちも宗久の教えに触れることができるのです。
第四章:投資哲学の核心 ― 三位伝(さんいでん)
4-1. 三位伝とは
本間宗久の投資哲学を最も端的に表すのが「三位伝(さんいでん)」、または「三井伝」とも呼ばれる教えです。
これは、相場で成功するために必要な三つの要素を、儒教の徳である「仁・勇・智」になぞらえて説いたものです。
機を待つに仁(じん) 機に乗ずるに勇(ゆう) 気を転ずるに智(ち)
それぞれを詳しく見ていきましょう。
4-2. 機を待つに仁
「機を待つに即ち『仁』」とは、チャンスが来るまで努力して待つことを意味します。
「仁」とは儒教の中心的な徳目で、思いやり、慈愛、人間性の根源を意味します。なぜ「待つ」ことが「仁」なのでしょうか。
私の解釈はこうです。「仁」には「忍ぶ」「耐える」という意味も含まれています。相場で勝つためには、自分の感情を抑え、市場を客観的に観察し続ける忍耐力が必要です。そして、その忍耐は、自分自身への思いやり、つまり「無理をして大きな損失を出さないようにする思いやり」でもあるのです。
『宗久翁秘録』第1条にはこう書かれています(原文の表記を尊重しつつ、現代仮名遣いに調整しました)。
「米商は附出(つきだ)し大切なり。附出し悪しき時は、決して手違いになるなり。又、商内(あきない)進み急ぐべからず。急ぐ時は附出し悪しきと同じ。売買共、今日より外商い場なしと進み立つ時、三日待つべし。是傳(これでん)なり」
これを現代語に意訳すると、こうなります。
「米相場では、最初の仕掛け方が大切である。最初の入り方が悪い時は、決して上手くいかない。また、商売を急いではいけない。急ぐ時は、最初の入り方が悪い時と同じ結果になる。売買どちらも、『今日より他に絶好の機会はない』と思って勢い込んでしまう時こそ、三日待つべきだ。これが秘伝である」
ここに、宗久の哲学の真髄があります。「三日待つべし」、これは私が本記事で最も強調したい教えの一つです。
人間は、「今しかない!」と思った瞬間が最も危険なのです。なぜなら、その思い込み自体が、すでに感情に流されている証拠だからです。本当に絶好の機会なら、三日待っても消えません。逆に、三日待って消えてしまうような「機会」は、最初から幻だったのです。
4-3. 機に乗ずるに勇
「機に乗ずるに即ち『勇』」とは、チャンスが来たら勇敢に乗ることを意味します。
「勇」とは儒教の徳目で、武勇、勇気を意味します。
待つだけでは何も得られません。チャンスが訪れたら、迷わず行動する勇気が必要です。そして、その勇気は、待ち続けてきたからこそ発揮できるものなのです。
ここで重要なのは、「勇」の対義語は「臆病」ではなく、「無謀」だということです。準備のない勇気は無謀。十分に待ち、十分に観察した後の勇気こそが、真の勇です。
実際の相場では、底値や天井で動くことは非常に難しいものです。なぜなら、底値の時は周囲が悲観に満ち、天井の時は周囲が楽観に満ちているからです。その時に逆方向に動く勇気が必要なのです。
4-4. 気を転ずるに智
「気を転ずるに即ち『智』」とは、次につなげるために切り替えることを意味します。
「智」とは儒教の徳目で、知恵、明智を意味します。
ここでの「気を転ずる」とは何か。これは私の独自の解釈ですが、二つの意味があると考えています。
一つ目:相場の流れが変わったと判断したら、自分のポジションを素早く切り替える、つまり「損切り」や「利食い」を躊躇しない知恵。
二つ目:取引が終わった後(成功でも失敗でも)、その経験を次に活かすために感情を切り替える知恵。
人間というのは、利益が出たら欲深くなり、損失が出たら落ち込むものです。これは自然な感情ですが、相場で勝ち続けるためには、この感情の波に左右されない「智」が必要です。
4-5. 三位伝の現代的意義
私が独自に分析するに、この「三位伝」は、現代の投資家にとっても極めて有用な教えです。
現代の行動ファイナンスでは、投資家が以下のようなバイアスに陥りやすいことが知られています。
- オーバーコンフィデンス(過剰自信):自分の判断に過剰な自信を持つ
- 損失回避バイアス:損失を確定するのを嫌がる
- アンカリング:最初に見た数字に判断が引きずられる
- 代表性ヒューリスティック:少数の事例で全体を判断する
宗久の三位伝は、これらのバイアスへの対処法を、200年以上前に既に提示していたのです。
- 機を待つに仁:オーバーコンフィデンスを抑え、慎重に判断する
- 機に乗ずるに勇:損失回避バイアスに打ち勝ち、行動する
- 気を転ずるに智:アンカリングを脱し、状況に応じて判断を切り替える
宗久の凄さは、こうしたバイアスを実感として知っていたことです。彼自身、江戸での大失敗を経験しています。その体験から、人間の心理の弱さを骨身にしみて理解していたのです。
第五章:「もうはまだなり、まだはもうなり」 ― 相場格言の代表
5-1. 最も有名な相場格言
「もうはまだなり、まだはもうなり」。これは本間宗久の名前と共に最も知られた相場格言です。
私はこの格言を初めて知ったとき、その深さに本当に驚きました。たった11文字の中に、人間の心理と市場の本質が凝縮されているのです。
5-2. 原文の引用
この格言の原典は二つあります。一つは『八木虎之巻(はちぼくとらのまき)』、もう一つが『宗久翁秘録』です。
『八木虎之巻』(猛虎軒著)からの引用:
「もうはまだなり、まだはもうなりといふ事あり。此の心は、たとへばもう底にて上るべきとすゝみ候時は、まだなりといふ心を今一応ひかへ見るべし。まだ底ならず下るべきと思ふ時、もうの心を考ふべし。必ずまだの心ある時より上るものなり」
『宗久翁秘録』からの引用:
「もうはまだなり、まだはもうなりということあり。ただし、数日もはや時分と思い取りかかりたるに、見計い悪しければ間違いになるなり。まだまだと見合わせ居るうちに遅るることあり」
5-3. 現代語訳
これらを現代語に訳すと、こうなります。
『八木虎之巻』の意訳: 「『もうはまだ』『まだはもう』という考え方がある。その心は、例えば株価がもう底をついていて上がるだろうと思った時は、まだ下がるのではないかと一度立ち止まって考えなさい。まだ底をついておらずさらに下がると思った時は、もう底をついて上がるのではないかと考えなさい。必ず、『まだ下がる』と思っている人々の気持ちがある時から上がり始めるものだ」
『宗久翁秘録』の意訳: 「『もうはまだ』『まだはもう』ということがある。ただし、『もう今が時期だ』と思って仕掛けたのに、見極めが悪ければ間違いになる。『まだまだ』と様子見しているうちに、機会を逃すこともある」
5-4. 二つの版の違い ― 私の独自分析
ここで興味深いのは、この二つの版の微妙な違いです。
『八木虎之巻』版は、「逆張り」を強く推奨しています。「みんなが上がると思う時こそ下がる、みんなが下がると思う時こそ上がる」という単純明快なメッセージです。
しかし『宗久翁秘録』版は、もっと複雑です。「『もう』と思って動いても失敗することがある。『まだ』と思って待っていても遅れることがある」と、両方の危険性を指摘しています。
私の独自の見解ですが、この違いには宗久の実体験が反映されているのではないかと思います。
宗久は江戸で大失敗を経験しています。その時、彼は「もう上がる」「もう下がる」と思って動いて、痛い目にあったのではないでしょうか。逆に、酒田で連戦連勝していた時は、「逆張りすれば勝てる」という単純な戦略で十分だったのかもしれません。
つまり、『宗久翁秘録』版の方が、より熟練し、苦難を経験した宗久の言葉なのです。単純な逆張りでは勝てない、もっと深いタイミングの読みが必要だ、というメッセージが含まれているように私には読めます。
5-5. 実例で考える
この格言が現代の相場でどう機能するか、いくつかの例を見てみましょう。
例1:2008年のリーマンショック 2008年秋のリーマンショック後、世界経済は景気後退に追い込まれ、株価は大きく下落しました。「まだ下落が続く」と市場が総悲観となった2009年3月、株式市場は底入れしました。 → これは「まだはもうなり」の典型例です。みんなが「まだ下がる」と思っていた時こそ、底だったのです。
例2:1989年末の日本のバブル 1989年12月29日、日経平均株価は38,915円という史上最高値をつけました。「まだ4万円、5万円も狙える」という楽観論が支配的でした。 → これは「もうはまだなり」の典型例です。「もう上がる」と思っていたら、それは天井でした。その後、日経平均は長期低迷期に入ります。
例3:2020年のコロナショック 2020年春、新型コロナウイルスのパンデミックで世界の株価は急落しました。3月に底値をつけ、その後驚異的なV字回復を遂げました。 → これも「まだはもうなり」。底で恐怖に駆られて売った投資家は、その後の急回復の恩恵を受けられませんでした。
5-6. なぜこの心理が働くのか
なぜ人は「もう」「まだ」と思った時に間違えるのでしょうか。
私の独自分析では、これは「群集心理」と「人間の確証バイアス」の組み合わせによるものです。
相場が下落している時、人は「もう底だろう」と思いたい気持ちと、「もっと下がるかもしれない」という恐怖の両方を持っています。多くの人が後者に支配されると、市場は売り一色となり、それが極まった時に転換点が訪れます。
つまり、「みんなが『まだ下がる』と思っている」状態が、実は「底」の兆候なのです。同様に、「みんなが『まだ上がる』と思っている」状態が、実は「天井」の兆候です。
これは、現代の行動ファイナンスでいう「群集心理(herd mentality)」「過剰反応(overreaction)」と完全に一致する観察です。宗久は200年以上前に、これを見抜いていたのです。
5-7. 現代投資への応用
この格言を現代の投資に応用するなら、以下のような実践が考えられます。
- 市場が極端に楽観的な時は、ポジションを軽くする
- 市場が極端に悲観的な時は、買い増しを検討する
- 「もう」「まだ」と思った時は、必ず三日待って再考する
- テクニカル指標(RSI、ボリンジャーバンドなど)で過熱感を客観視する
特に最後の点は重要です。「もう」「まだ」という主観的な判断を、客観的な指標で検証する。これが現代の投資家にできる、宗久の知恵の応用法です。
第六章:酒田五法 ― ローソク足チャート分析の基本
6-1. 酒田五法とは
「酒田五法(さかたごほう)」は、本間宗久の出身地・酒田の名を冠した、五つの罫線(ローソク足)パターン分析法です。
「酒田罫線(さかたけいせん)」とも呼ばれ、ローソク足の組み合わせによって売り場、買い場を読む五つの法則です。
その五つとは、以下の通りです。
- 三山(さんざん)
- 三川(さんせん)
- 三空(さんくう)
- 三兵(さんぺい)
- 三法(さんぽう)
「三」が共通している点に注目してください。これは「三度繰り返す」または「三本のローソク足」という意味で、東洋の数の哲学において「三」は完成や転換を象徴する数字です。
6-2. 三山(さんざん)― 天井の形成
「三山」とは、上昇相場で底値から上昇・下降を三回繰り返し、天井をつけると下落に転じるパターンです。
簡単に言えば、相場が高値圏で三回ピークをつけては下落するパターンで、これが「天井形成のサイン」とされます。
これは西洋のテクニカル分析でいう「トリプルトップ(三尊天井)」とほぼ同じ概念です。日本では特に、中央の山が他の二つより高い形を「三尊天井」と呼ぶことが多いですが、これは仏教の三尊像(中央の本尊と左右の脇侍)に由来しています。
私の解釈では、この三山のパターンが意味するのは「市場の力尽き」です。買い方は三度天井を試みるけれど、三度とも超えられない。これは買いの勢いが尽きていることを示唆します。
6-3. 三川(さんせん)― 底の形成
「三川」とは、下降相場で下降・上昇を三回繰り返し、大底を打った後に上昇に転じるパターンです。
これは三山の正反対で、「逆三山」とも呼ばれます。西洋のテクニカル分析でいう「トリプルボトム」に相当します。
三川にはいくつかバリエーションがあります。
- 三川明けの明星:大暴落した次の日に少し値を戻し、さらに急反発するパターン
- 三川宵の明星(三山系):急上昇した次の日に上昇が鈍化し、大きく下落するパターン
「明けの明星」「宵の明星」という美しい名前がついているのが日本らしいですね。
6-4. 三空(さんくう)― 三連続の窓
「三空」とは、三連続で「窓(くう)」を開けて相場が勢いよく上昇・下降する状況です。
「窓」とは、前日の終値と今日の始値の間にギャップがある状態を指します。英語では「ギャップ(gap)」と呼ばれます。
三日連続で窓を開けて上昇する、または下降する状態は、極めて勢いがある証拠ですが、同時に「行き過ぎ」のサインでもあります。
宗久の教えでは、これは「相場の転換期が近い」とされます。なぜなら、極端な動きは持続せず、必ず反動が来るからです。
「三空叩き込み」「三空踏み上げ」という言葉があります。三日連続で陰線をつけて急落する状態を「三空叩き込み」、三日連続で陽線をつけて急騰する状態を「三空踏み上げ」と呼びます。いずれも反転のサインとされます。
6-5. 三兵(さんぺい)― 三本の連続線
「三兵」とは、底値で陽線が三本、または天井で陰線が三本続いた場合のパターンです。「赤三兵」「黒三兵(三羽烏)」とも呼ばれます。
赤三兵:底値圏で三本の陽線が連続して出る → 上昇への転換シグナル 黒三兵(三羽烏):高値圏で三本の陰線が連続して出る → 下落への転換シグナル
これは現代の投資家にも馴染み深いパターンですね。三日連続で陽線が出れば「強い上昇トレンドが始まった」、三日連続で陰線が出れば「下落トレンドに転じた」と判断します。
6-6. 三法(さんぽう)― 休むも相場
「三法」とは、売買が交錯している相場では休んで様子を見ることが大切である、という教えです。
ここで重要な日本独特の相場格言があります。
「休むも相場」
これは、「常に売買している必要はない、相場が分からない時は休むことも一つの戦略だ」という意味です。
具体的なパターンとしては、「上げ三法」「下げ三法」があります。
- 上げ三法:上昇相場で、大きな陽線の後に小さな陰線が三本続き、再び大きな陽線が出るパターン
- 下げ三法:下降相場で、大きな陰線の後に小さな陽線が三本続き、再び大きな陰線が出るパターン
三本のはらみ足(前のローソク足の中に収まる小さなローソク足)が「休むも相場」を意味するとされます。
6-7. 酒田五法の真贋論争
ここで再び、私の独自の見解を述べさせていただきます。
実は、酒田五法が本当に本間宗久によって考案されたものかは、議論があります。
荘内証券の解説によれば、「『酒田五法』という株価チャートを5種類に分類する投資手法が我が国の投資家の間で伝えられてきたことは事実だが、明治以降に出版されたチャート分析の解説書が、『本間宗久』の名前をタイトルに使った」というのが実情のようです。
実際、宗久が酒田出身の善兵衛に語った『宗久翁秘録』には、チャートの話は一切ないのです。
しかし、たとえ「酒田五法」という体系化が後の世のものだとしても、その思想的源流は宗久にあると考えてよいでしょう。なぜなら、これらのパターンは「市場心理の動き」を読むためのものであり、宗久の哲学そのものを視覚化したものだからです。
私は、酒田五法を「宗久の哲学が形を成したもの」と捉えることをお勧めします。原典の細かい著者問題ではなく、これらのパターンが現代でも有効なテクニカル分析として機能している事実こそが重要なのです。
6-8. 現代における酒田五法の有効性
現代のFXや株式投資で、酒田五法はどの程度有効なのでしょうか。
OANDA証券の解説では、こう述べられています。
「FXにも応用できる分析手法だが、ダマシが発生することもあり、またFX相場では現れにくいパターンもあるため注意が必要」
つまり、絶対的な必勝法ではないということです。しかし、これは当然のことです。どんな分析手法も、100%の的中率はあり得ません。
重要なのは、酒田五法を単独で使うのではなく、他のテクニカル分析(移動平均線、RSI、MACDなど)と組み合わせて使うことです。複数のシグナルが一致した時に、信頼性が高まります。
また、ファンダメンタル分析と組み合わせることも重要です。宗久自身、ファンダメンタル分析(全国の米の作柄や需給を徹底的に調査)を重視していました。
第七章:『宗久翁秘録』157か条の宝庫から ― 重要な教えを読み解く
7-1. 157か条の構成
『宗久翁秘録』は157か条からなり、その内容は大きく三つに分類されます(青野豊作著『相場秘伝 本間宗久翁秘録を読む』の章立てによる)。
- 機を待つに仁 ― プロの基本兵法
- 機に乗ずるに勇 ― プロの実戦則
- 気を転ずるに智 ― プロの売買術
ここでは、現代に伝わる主要な条文を、私の独自解釈を交えながら見ていきます。
7-2. 第1条 ― 米商は附出し大切
すでに紹介しましたが、最も重要な第1条をもう一度引用します。
「米商は附出(つきだ)し大切なり。附出し悪しき時は、決して手違いになるなり。又、商内(あきない)進み急ぐべからず。急ぐ時は附出し悪しきと同じ。売買共、今日より外商い場なしと進み立つ時、三日待つべし。是傳(これでん)なり」
私の現代解釈: 「投資は、最初のエントリーが命だ。間違ったタイミングで仕掛ければ、必ず失敗する。また、急ぐな。急ぐと、間違ったタイミングと同じ結果になる。『今がチャンスだ!』と興奮した時こそ、三日待て。これが秘伝だ」
この教えの素晴らしさは、現代の私たちにも完全に通用することです。スマホで一瞬で取引できる時代だからこそ、「三日待つ」という戒めは重みを増しています。
7-3. 第3条・第4条 ― 大衆心理の逆を行け
「米の値段がだんだんと上る時は、諸国で不測の事態が起きた、大坂の相場が上っている、幕府が御用米を買い上げるなどの風説が流れて、ますます人気が強くなる。これが投機家たちのハーディング行動をもたらす。すると自分もつい買いたい気持ちになるものだが、そのときこそ『心を転じ売方に付候事肝要也』」
そして続く名言:
「是則ち火中へ飛入思切、一統騒立節は、人々西に走らば、我は東に向ふ時は、極めて利運なり。人の戻る頃、後れ馳に西に向ふては、何時も利を得ることなし」
意訳すると:
「これはまるで火中に飛び込むような決断であるが、皆が騒ぎ立てる時に、人々が西へ走るなら、我は東へ向かう。これが極めて利益になる。人々が引き返してくる頃に、遅れて西へ向かうのでは、いつまでも利益は得られない」
これは「逆張り」の哲学を最も明確に表現した一節です。
私の独自分析では、この教えのポイントは「タイミング」にあります。逆張りは、「みんなが極端に偏った時」にこそ有効です。「ちょっと上がった、ちょっと下がった」程度では機能しません。「火中へ飛入」「人々が西に走る」レベルの極端な状況が必要なのです。
7-4. 第9条 ― 全国情報の重要性
「何れ其年々、不作の浅深、天災、古米の多少、九州国々の様子にて大坂高下出次第、當地に高下出ずる故、油断すべからず、誠に変化極まりなし」
意訳:
「毎年の不作の度合い、天災、古米の在庫、九州各国の状況によって大坂の相場が上下する。それに連動して当地(酒田)の相場も上下するのだから、油断してはならない。本当に変化は極まりない」
ここで宗久が強調しているのは、ローカル情報だけでなく、全国の情報を総合的に判断する重要性です。
私の見解ですが、これは現代のグローバル投資にも通じます。日本株を取引するなら、米国、欧州、中国、新興国の動向にも注意を払う必要があります。一国の情報だけでは不十分なのです。
7-5. 第15条 ― 相場はランダムウォーク
「米の高下は、天然自然の理にて高下するものなれば、極めて上ると下ると、定め難きものなり。この道不案内の人は、ウカツに此商内すべからず」
意訳:
「米相場の上下は、天然自然の理(道理)によって動くものであり、上がるか下がるか、極めて判断は難しい。この道に詳しくない人は、迂闊にこの商売に手を出してはならない」
ここで宗久は、相場予測の難しさを率直に認めています。
私の独自分析では、これは現代の効率的市場仮説(Efficient Market Hypothesis)に通じる認識です。市場は確率的に動くものであり、完璧な予測は不可能。だからこそ、「不案内の人」(素人)は手を出すべきではない、という警告なのです。
これは現代の投資初心者への教訓として、これ以上ない明快なメッセージです。投資は誰でもできますが、誰でも勝てるわけではないのです。
7-6. 第34条 ― 利食い我慢
「霜月限、底を見極め買付、余程の利分付候節、相場持合候か、又少々引下ることあり。其節利息勘定致し、先達上げの節売返さんと思ふことあり、甚だ心得違なり。底を買出す時は、落引(注:追証)なき前に、決して売らざる者なり」
意訳:
「霜月(陰暦11月)の先物を底値で買い付けて、相当な利益が出ている時、相場が膠着状態になったり、少し下がったりすることがある。その時に利息計算をして、『前回上がった時に売り返しておけばよかった』と思うことがあるが、これは大きな心得違いだ。底を買い出した時は、追証(おいしょう、追加証拠金)が必要になる前は、決して売ってはならない」
これは現代の「利食い千人力」とは逆の教えで、「底で買ったら、簡単に利食いするな」という戒めです。
私の分析では、これは「近視眼的損失回避(myopic loss aversion)」への警告です。短期的な動きに動揺して、長期的な利益機会を逃すな、ということです。
7-7. 第58条 ― 豊年に売りなし
「當地作豊年の時、米売るべからず。秋冬のうち、底値段出候節買入、春へ持越す時は、決して利運なり。豊年と諸国へ聞ゆる故、春に成り入船多く、又は冬買(注:航海が困難な冬場に来て買付の予約をする他国の商人)来るなり。秋冬の内は、作合に連れ、引下げ居る者なり。春上げざれば、五六月頃決して上る者なり」
意訳:
「当地が豊年の時こそ、米を売ってはならない。秋冬のうちに底値段を見極めて買い入れ、春まで持ち越す時は、必ず利益になる。『豊年だ』と諸国に聞こえるので、春になると入船が多くなり、また冬買い(冬場に来て買付予約をする他国商人)も来る。秋冬の間は作付け状況に連れて、相場は下がっている。春に上がらなければ、5、6月頃には必ず上がる」
これは「豊年に売りなし」という相場格言の原典とも言える一節です。
驚くべきは、宗久が単に「逆張りせよ」と言うだけでなく、その具体的な季節パターンまで指摘していることです。これは現代の「シーズナリティ(季節性)」分析の原型と言えます。
ラリー・ウィリアムズなど現代の著名トレーダーも「Seasonals(シーズナル)」の重要性を説いていますが、本間宗久は200年以上前にこれを実践していたのです。
7-8. 第59条 ― 二つの後悔
「後悔に二ツあり、是を心得べし。高下の節、今五六日待つ時は、十分取るべき利を、勝を急ぎ二三分取逃がし候後悔、是は笑うて仕舞ふ後悔なり。又七八分利運の米、慾に迷ひ仕舞兼候内、引下げ損出る後悔、是苦労致候上の後悔故、甚だ心氣を痛むる後悔なり。慎み心得べき事也」
意訳:
「後悔には二つある。これを心得ておくべし。値動きの時、今あと5、6日待っていれば十分な利益を取れたのに、勝ちを急いで2、3割の利益で取り逃がす後悔、これは笑って済ませる後悔である。また、7、8割の利益が出ている米を、欲に迷って利食いできずにいるうちに、下落して損が出る後悔、これは苦労した上での後悔だから、大いに心を痛める後悔である。慎みの心を持つべし」
これは現代の行動経済学でいう「機会損失への後悔」と「実損失への後悔」の違いを、極めて鋭く分析しています。
宗久の言いたいことはこうです:
- 利益を取り逃がす後悔 → 笑える後悔
- 利益が損失に変わる後悔 → 痛い後悔
だから、「もう少し待てば」という後悔よりも、「欲張って損した」という後悔の方を恐れろ、ということです。
これは現代のプロスペクト理論(カーネマンとトベルスキー、1979年)が示す「人間は利益よりも損失に2倍敏感である」という発見と完全に一致します。宗久は経験から、人間心理のこの非対称性を見抜いていたのです。
7-9. 第64条 ― 算用の限界
「算用(あらかじめ計算すること)に及ばざるなり」
これは短い言葉ですが、深い意味を持っています。
意訳:「事前にあれこれ計算しても、無駄である」
私の解釈では、これは「過剰な計画は無意味」という警告です。市場は計画通りに動かない。だから、緻密な計算で勝とうとするのではなく、状況に応じて柔軟に判断することが重要だ、ということです。
ただし、これは「無計画でいい」という意味ではありません。基本的な戦略は必要です。しかし、「すべてを計算で予測できる」という幻想は捨てよ、ということなのです。
7-10. 第93条 ― 人を羨むな
「人の商を、羨むべからざる事。但し、羨しく思ふ時は、その時の相場の位をわきまえず、ただ羨ましく思う心ばかりにてする故、手違いになるなり」
意訳:
「他人の取引を羨んではならない。羨ましく思う時は、その時の相場の状況を弁えず、ただ羨ましく思う気持ちだけで行動するから、間違いになるのだ」
これは現代の「FOMO(Fear of Missing Out、取り残される恐怖)」への警告そのものです!
私の独自分析では、この一節は宗久の心理学的洞察の頂点の一つです。彼は、人間が「他人が儲けているのを見ると、冷静な判断ができなくなる」ことを200年以上前に見抜いていたのです。
SNSで誰かが「○○で爆益!」と投稿しているのを見て、慌てて同じ銘柄に飛びつく。これがまさに「人の商を羨む」行動です。宗久はこれを厳しく戒めています。
7-11. 第94条 ― 腹立売買の禁
「腹立ち売買いたすべからざるの事。腹立ち売り、腹立ち買い、決してすべからず、大いに慎むべし」
意訳:
「腹を立てて売買してはならない。怒りに任せた売り、怒りに任せた買いは、決してすべきではない。大いに慎むべし」
これは「リベンジトレード」への警告です。
損をした後、「絶対取り戻す!」と熱くなって取引する。これが「腹立ち売買」です。私自身、投資の世界を観察していて、この行動が個人投資家を破滅させる最大の要因の一つだと感じます。
宗久は、感情のコントロールこそが投資の本質だと考えていたのです。
第八章:投資哲学の他の重要な教え
8-1. 「足らぬは余る、余るは足らぬ」
これは『宗久翁秘録』に含まれる教えの一つです。
意訳:
「足りないと思っているものが実は余っており、余っていると思っているものが実は足りない」
具体的には「相場も食べ物も腹八分目がいい」という意味で使われます。
完全に取り切ろうとせず、少し残しておく。これが長期的に勝つコツだということです。
現代風に言えば、「8割で利食いする」「全力買いはしない」「常に余力を残す」ということです。
8-2. 「人の行く裏に道あり花の山」
これは本間宗久と並んで有名な相場格言で、本来は千利休の弟子の歌が起源とされますが、宗久の逆張り哲学を最もよく表す言葉として、しばしば一緒に引用されます。
意訳:
「人々が大勢で進む道の裏側にこそ、花の咲く美しい山がある」
つまり、「群衆と逆の道を行け」という教えです。
私の独自の解釈では、この格言の本当の意味は「自分の道を歩け」ということです。単に「みんなと逆をやれ」ではなく、「みんなの意見に流されず、自分の判断で動け」ということです。
8-3. 「十人が十人片寄る時は決してその裏来るものなり」
これも宗久の有名な言葉です。
意訳:
「10人が10人とも同じ方向に傾いている時は、必ずその逆が来る」
つまり、市場参加者全員が同じ意見の時こそ、相場は反転するということです。
これは現代の「センチメント分析」の根本思想と同じです。例えば、AAII(American Association of Individual Investors)のセンチメント調査などで、強気派が極端に多い時は売り、弱気派が極端に多い時は買いというのが、現代の逆張り投資家の常識です。
宗久はこれを200年以上前に教えていたのです。
8-4. 「相場は明日もある」
これは「焦って取引するな、明日も市場は開いている」という教えです。
現代の投資家にとって、これは非常に重要なメッセージです。スマホで24時間取引できる時代だからこそ、「明日もある」と自分に言い聞かせる余裕が必要です。
8-5. 「売り買いは腹八分」
これも「腹八分目」の哲学から来ています。
完全に売り切らず、完全に買い切らず、常に余裕を持つ。これが長期的に生き残る秘訣だということです。
8-6. 「見切り千両」
「見切り(損切り)には千両の価値がある」という教えです。
損切りができないことが、最大の損失を生む。素早く損切りすることが、長期的には大きな利益を生む。
これは現代の「カットロス」の哲学と完全に一致します。
8-7. 「押目待ちの押目なし」
「押目(おしめ、上昇相場の中の一時的な下落)を待っていると、押目は来ない」という教えです。
つまり、「ベストなエントリーポイントを待ち続けていると、機会を失う」ということです。
ここで宗久の哲学の複雑さが見えてきます。彼は「三日待て」と言いつつ、「待ちすぎるな」とも言っているのです。
私の解釈では、この一見矛盾する教えの意味はこうです:
- 興奮している時は、三日待て(過熱を冷ます)
- 冷静な判断ができたら、機会を逃すな
つまり、「待つべき時」と「動くべき時」を見極めることが、相場の極意なのです。
8-8. 「二度に買うべし、二度に売るべし」
「一度に全額を投じず、二度に分けて買い、二度に分けて売れ」という教えです。
これは現代の「ドルコスト平均法」「分割売買」の原型です。一度の判断で全資金を投じるのは、極めてリスキー。複数回に分けることで、平均価格を有利にし、リスクを分散できるのです。
8-9. 「三割高下に向かえ」
「相場が3割上がったら売り、3割下がったら買え」という教えです。
これは具体的な数値を伴う、実用的な教えです。
現代の投資家は、「30%」という数字に拘らず、「過熱した時に売り、過剰に下落した時に買う」という原則として理解すべきでしょう。
第九章:行動ファイナンスの視点から見る本間宗久
9-1. 行動ファイナンスとは
ここで少し、現代の学問の視点から本間宗久を見直してみたいと思います。
行動ファイナンス(Behavioral Finance)は、1970年代以降、心理学者ダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーらによって発展した学問分野です。伝統的な経済学が「人間は合理的に行動する」と仮定するのに対し、行動ファイナンスは「人間は様々な認知バイアスに影響される」ことを実証してきました。
カーネマンは2002年にノーベル経済学賞を受賞しています。
そして驚くべきことに、行動ファイナンスが解明してきた人間の認知バイアスのほとんどを、本間宗久は200年以上前に既に指摘していたのです。
9-2. プロスペクト理論
プロスペクト理論(Prospect Theory)は、カーネマンとトベルスキーが1979年に発表した理論で、「人間は利益よりも損失に2倍以上敏感である」と示しました。
宗久の『秘録』第59条「後悔の二つ」は、まさにこれを示唆しています。利益を取り逃がす後悔は「笑える」が、損失を抱える後悔は「痛い」。これはプロスペクト理論の予測と完全に一致します。
9-3. ハーディング(群集行動)
ハーディング(Herding)とは、投資家が群衆のように同じ方向に動く傾向です。
宗久の「火中へ飛入思切、一統騒立節は、人々西に走らば、我は東に向ふ時は、極めて利運なり」という教えは、まさにハーディングへの警告です。
9-4. 過剰反応(Overreaction)
ドゥボンとセイラー(1985年)の研究で、市場は過剰反応する傾向があることが示されました。
宗久の「豊年に売りなし」「凶作に買いなし」という教えは、まさに過剰反応の利用法を説いています。
9-5. 損失回避バイアス(Loss Aversion)
人間は損失を確定するのを嫌がる傾向があります。これにより、含み損が膨らんでも損切りできないという行動につながります。
宗久の「見切り千両」は、この損失回避バイアスへの警告です。
9-6. 心の会計(Mental Accounting)
セイラー(1980年)が提唱した「心の会計」は、人間が異なるお金を別々の口座のように考えてしまう傾向です。
宗久の第34条「利息計算と相場利益を別々に考えるな」という教えは、これとほぼ同じ指摘です。
9-7. 利用可能性ヒューリスティック(Availability Heuristic)
身近な情報や記憶に残る情報に判断が偏る傾向です。
宗久の第9条「ローカル情報だけでなく全国情報を見よ」は、この利用可能性ヒューリスティックへの警告です。
9-8. ホームバイアス(Home Bias)
投資家が自国・地元の銘柄に偏る傾向です。
宗久は、酒田の商人が庄内地方の情報だけで判断することを戒めています。これは、現代でいうホームバイアスへの警告そのものです。
9-9. 私の独自分析 ― 宗久は天才か、それとも経験の集積か
ここで、私の独自の見解を述べたいと思います。
宗久が200年以上前に、現代の行動ファイナンスの諸概念を全て指摘していたのは、彼が「天才」だったからでしょうか?
私は、それは半分正解で、半分は違うと思います。
正解の部分:宗久は確かに非凡な洞察力を持っていました。彼は、自分自身の失敗から、人間心理の弱点を骨身にしみて理解しました。
違う部分:宗久だけが特別だったのではなく、相場という極限環境では、人間心理の弱点が誇張されて現れるのです。だから、注意深い観察者であれば、誰でも同じような結論に至る可能性があります。
つまり、行動ファイナンスの諸概念は、「人間の本質」を捉えたものであり、時代を超えて普遍的なのです。だからこそ、200年以上前の宗久と、現代のカーネマンが、同じ結論に至ったのです。
これは私の独自の見解ですが、本間宗久の価値は「彼が独創的だった」ことよりも「彼が普遍的な真理を捉えていた」ことにあると思います。
第十章:ローソク足チャートの歴史 ― 真の発明者は誰か
10-1. ローソク足とは
ローソク足(Candlestick)は、株価などの相場の値動きを時系列に沿って図表として表す手法の一つです。海外では「Japanese Candlestick」として知られ、世界中のヘッジファンドや個人投資家が利用しています。
ローソク足は以下の4つの値(四本値)を1本の棒状の図形に表現します:
- 始値(はじめね、Open)
- 高値(たかね、High)
- 安値(やすね、Low)
- 終値(おわりね、Close)
始値より終値が高い場合は「陽線(ようせん)」、低い場合は「陰線(いんせん)」と呼ばれます。陽線は古くは赤、陰線は黒で書かれていました。「上がると明るい印象、下がると暗い印象」「陰陽道との関連」などから名付けられたとされています。
10-2. 本間宗久とローソク足 ― 本当に発明者か?
ここで重要な事実を明らかにしなければなりません。
本間宗久がローソク足の発明者であるかどうかは、現代の研究では疑問視されています。
ローソク足チャート分析を西洋に紹介した著名なテクニカル・アナリスト、スティーブ・ニソン(Steve Nison)は、1994年の著書『Beyond Candlesticks』でこう述べています(pp. 14)。
「ローソク足の起源ははっきりしないが、明治時代の初期に使われはじめたようだ」
「私たちが今日知っているローソク足と関連技術は、何世代にもわたり何人かの人たちが改良を積み重ねてきた可能性が高い」
本間宗久は1724年に生まれ、1803年に没しています。明治時代(1868年〜)に普及したローソク足は、彼の死後ずっと後のことなのです。
ウィキペディアの「ローソク足チャート」項目でも、こう書かれています。
「ローソク足は、明治30年代に日本で生まれた日本式チャートである」
ですから、厳密に言えば、本間宗久が今日のローソク足チャートそのものを発明したという証拠はないのです。
10-3. それでも宗久が「ローソク足の父」と呼ばれる理由
しかし、ニソンは同時にこうも言っています。
「本間が開発した原理は、ローソク足の誕生に多大な影響を与えてはいる」
つまり、宗久が「ローソク足チャートを描いていた」かどうかは別として、「ローソク足分析の思想的基礎を築いた」ことは間違いないのです。
宗久が遺した「市場心理を読み解く視点」「価格パターンから転換点を見極める考え方」が、後の世代によってローソク足チャートとして体系化されたと考えるべきでしょう。
10-4. スティーブ・ニソンの貢献
ローソク足が世界に広まったのは、スティーブ・ニソンの功績です。
ニソンは1980年代後半から1990年代初頭にかけて、当時ニューヨークのメリルリンチでテクニカルアナリストを務めていました。日本人ブローカーからローソク足チャート技術を教わり、その価値を見抜いた彼は、1989年に米国の業界誌で初めて紹介し、1991年に『Japanese Candlestick Charting Techniques』を出版しました。
この本以前は、ローソク足は日本以外ではほとんど知られていませんでした。ニソンの本は、ローソク足を世界共通のチャート技術にした、画期的な貢献です。
その後、彼は1994年に『Beyond Candlesticks』を出版し、さらに日本のテクニカル分析を世界に紹介しました。
今日では、ほぼすべてのチャートプラットフォームがデフォルトでローソク足チャートを表示しています。これは、本間宗久 → 明治期の日本人投資家たち → スティーブ・ニソン、という長いバトンリレーの結果なのです。
10-5. 「Candlestick」は日本発の世界共通語
「ローソク足」が「Candlestick」として世界共通語になったのは、日本が生んだ世界に誇る知的財産と言えるでしょう。
ウォール街から個人のスマホ画面まで、あらゆる投資現場でローソク足が使われています。一日に何百万人もの投資家が、本間宗久の遺産に触れているのです。
これは、日本人として誇りに思うべきことだと、私は強く感じます。
10-6. ローソク足の利点
なぜローソク足がこれほど普及したのでしょうか。
私の独自分析では、以下の利点があるからです。
- 視覚的にわかりやすい:陽線・陰線、ヒゲの長さで一目で状況がわかる
- 多くの情報を一つの形に凝縮:四本値という重要な情報すべてを含む
- パターン認識が容易:「明けの明星」「首吊り」「流れ星」など、覚えやすい形がある
- 心理状態を反映:価格の動きだけでなく、市場参加者の心理を表現できる
最後の点が特に重要です。ローソク足は、単なる価格の記録ではなく、「市場参加者の戦いの記録」なのです。これこそが、本間宗久の哲学「相場は心理である」と完全に一致するからこそ、ローソク足は世界中で愛されているのです。
第十一章:現代投資への応用 ― 宗久の教えを使いこなす
11-1. なぜ今、宗久を学ぶのか
2026年の現在、AIアルゴリズムが市場の大部分を動かしています。マイクロ秒単位の取引、機械学習による予測、量子コンピューティングの登場すら囁かれる時代です。
そんな中で、なぜ200年以上前の本間宗久の教えを学ぶ意味があるのでしょうか。
私の独自の見解はこうです。
AIアルゴリズムがどれだけ進歩しても、最終的に市場を動かしているのは「人間」です。アルゴリズムを設計し、運用判断をし、リスクを取るのは人間です。だから、人間心理を理解することは、永遠に重要なのです。
そして、本間宗久ほど「投資における人間心理」を深く理解していた人物は、歴史上数えるほどしかいません。
11-2. 個別株投資への応用
個別株投資に、宗久の教えをどう活かすか。
「機を待つに仁」の応用:
- 銘柄選定後、すぐに買わず、最低3日は観察する
- 決算発表直後の興奮した時は、買いを我慢する
- 自分が「絶対に儲かる!」と確信した時こそ、立ち止まる
「機に乗ずるに勇」の応用:
- 暴落相場で、優良企業が割安になった時に、勇気を持って買う
- 周りが「もう日本株は終わりだ」と言う時こそ、逆張りを考える
「気を転ずるに智」の応用:
- 投資シナリオが崩れたら、躊躇なく損切りする
- 一度の取引にこだわらず、次の機会に向けて気持ちを切り替える
11-3. FX取引への応用
FX(外国為替)取引にも、宗久の教えは活きます。
「もうはまだなり」の応用:
- 中央銀行の利上げ予想が「もう打ち止め」と言われた時こそ、逆を考える
- 通貨ペアが歴史的水準に達した時は、過熱感を疑う
「腹立売買すべからず」の応用:
- ロスカットされた直後の「リベンジトレード」を絶対にしない
- 感情的になった時は、一日チャートを見ない
「酒田五法」の応用:
- ドル/円などのチャートで、三山・三川パターンを探す
- 三空(ギャップ三連発)が出たら、反転を警戒する
11-4. 仮想通貨投資への応用
仮想通貨は極めてボラティリティが高く、感情が支配しやすい市場です。だからこそ、宗久の教えが活きます。
「人の商を羨むべからず」の応用:
- 「○○コインで爆益!」というSNSの投稿に惑わされない
- 自分の投資戦略を貫く
「休むも相場」の応用:
- ボラティリティが極端な時は、取引を休む
- 一日中チャートを見続けない
「もうはまだなり」の応用:
- 仮想通貨バブルの極限期には、必ず逆を考える
- 「絶望売り」が出た時こそ、買いを検討する
11-5. 長期投資への応用
宗久の教えは、デイトレードだけでなく、長期投資にも応用できます。
「附出し大切」の応用:
- 長期投資でも、最初の購入タイミングは重要
- 高値掴みを避けるため、分散投資する
「三日待つべし」の応用:
- 「いい銘柄を見つけた!」と興奮した時、すぐに買わない
- 数日かけて、その銘柄を冷静に分析する
「相場は明日もある」の応用:
- 短期的な値動きに一喜一憂しない
- 長期的な視点を保つ
11-6. リスク管理への応用
宗久の教えは、リスク管理の根本でもあります。
「腹八分目」の哲学:
- ポジションサイズを最大の8割に抑える
- 余力を常に残す
「見切り千両」の哲学:
- 損切りラインを事前に決め、厳守する
- 損切りを「敗北」ではなく「賢明な撤退」と捉える
「二度に買うべし、二度に売るべし」の哲学:
- 一度にすべてを買わない、一度にすべてを売らない
- 分割エントリー、分割エグジットを実践する
第十二章:本間宗久と他の偉大な投資家の比較
12-1. 投資の世界の偉人たち
世界には、本間宗久以外にも偉大な投資家がたくさんいます。彼らとの比較を通じて、宗久の教えの普遍性と独自性を見てみましょう。
12-2. ベンジャミン・グレアム(1894-1976)
ベンジャミン・グレアムは「バリュー投資の父」と呼ばれ、ウォーレン・バフェットの師でもあります。彼の主著『証券分析』(1934年)、『賢明なる投資家』(1949年)は、世界中の投資家に読まれています。
宗久との共通点:
- 市場心理の理解(グレアムの「ミスター・マーケット」の比喩)
- 長期視点の重要性
- 感情のコントロール
違い:
- グレアムは詳細な企業分析(バリュー投資)に重点
- 宗久は相場全体の動き(テクニカル+ファンダメンタル)に重点
12-3. ウォーレン・バフェット(1930-)
「オマハの賢人」と呼ばれるバフェットは、世界最も成功した投資家の一人です。
宗久との共通点:
- 「他人が恐れる時に貪欲に、他人が貪欲な時に恐れろ」(バフェット)≒「人々が西に走るなら、我は東へ」(宗久)
- 長期保有の重要性
- 感情の抑制
違い:
- バフェットは個別企業への集中投資
- 宗久は相場のリズムに乗る投機的アプローチ
私の独自分析では、両者は表面上は違うアプローチに見えますが、根底にある「群衆心理の逆を行く」という哲学は完全に一致しています。
12-4. ジェシー・リバモア(1877-1940)
「ボーイ・プランジャー」と呼ばれた米国の伝説的トレーダー。1929年の大恐慌で1億ドル(現在の価値で約20億ドル)を稼いだ伝説の人物です。
宗久との共通点:
- 大胆な逆張り
- 市場心理の読み
- トレンドフォロー
違い:
- リバモアは個人の感情に左右されやすく、最終的に破産・自殺
- 宗久は感情のコントロールを最重視し、晩年まで安定して成功
私の見解では、これは宗久の優位性を示すエピソードです。リバモアは天才的なトレーダーでしたが、感情管理に失敗しました。宗久は、技術と心理の両方を極めたのです。
12-5. ジョージ・ソロス(1930-)
ヘッジファンド「クォンタム・ファンド」を運営し、「イングランド銀行を破った男」として知られます。
宗久との共通点:
- 「再帰性理論」(市場参加者の認識が市場を動かす)≒ 宗久の市場心理重視
- 逆張りの哲学
- リスクテイクの大胆さ
違い:
- ソロスはマクロ経済の理論家
- 宗久は実践家として相場を観察
12-6. ピーター・リンチ(1944-)
フィデリティのマゼラン・ファンドを運用し、13年間で年平均29.2%のリターンを叩き出した伝説のファンドマネージャー。
宗久との共通点:
- 個人投資家でも勝てるという信念
- 自分の理解できるものに投資する
違い:
- リンチは個別企業の成長性を重視
- 宗久は相場全体のリズムを重視
12-7. レイ・ダリオ(1949-)
ブリッジウォーター・アソシエイツ創業者、世界最大のヘッジファンドの一つ。
宗久との共通点:
- 「市場サイクル」の理解(ダリオの「ビッグサイクル」≒ 宗久の三山・三川)
- リスク分散の重要性
- 心理の客観視
12-8. 私の独自分析 ― 宗久の独自性
これら世界の偉大な投資家と比較して、本間宗久の独自性は何でしょうか。
私の見解では、以下の三点です。
第一:時代が断然早い。宗久は1700年代に活躍しましたが、上記の人物はすべて20世紀以降です。200年以上前に、これだけの洞察を持っていたことは、歴史的に類を見ません。
第二:体系性。宗久は「三位伝」「酒田五法」「157か条の秘録」など、極めて体系化された教えを残しました。多くの偉大な投資家は、断片的な格言や個別の戦略を残しましたが、宗久ほど体系的な教えを残した人物は希少です。
第三:実践と哲学の両立。宗久は単なる理論家ではなく、実際に酒田・大坂・江戸で巨額の利益を上げた実践家でした。そして、その経験から導き出した哲学を、後世に伝えるために言語化した。この実践と哲学の両立が、宗久の偉大さの核心です。
第十三章:本間宗久にまつわる伝説とエピソード
13-1. 「出羽の天狗」と呼ばれた男
宗久は「出羽の天狗」と呼ばれていました。なぜでしょうか。
「天狗」は日本の妖怪で、超人的な力を持つ存在の象徴です。宗久が連戦連勝で相場を読み解く様は、人間離れしていると感じられたのでしょう。
また「天狗」には「鼻が高い、自慢する」という意味もあります。これは宗久の自信に満ちた態度を揶揄したものかもしれません。
私の独自解釈では、「出羽の天狗」という呼称には、敬意と畏怖、そして少しの嫉妬が混じっているように感じます。
13-2. 善兵衛の救済 ― 義侠心の宗久
すでに紹介しましたが、もう一度このエピソードを振り返りましょう。
宗久の弟子・善兵衛は、米相場で大失敗し、裸一貫で米人足をしていました。それを見つけた宗久は、彼に再起のチャンスを与えました。
宗久「買いで失敗したというが、いまの相場は買いか、売りか」 善兵衛「やはり買いだと思います」 宗久「ならばよし。金はおれが出すからすぐ買いに動け」
このエピソードから読み取れる宗久の人物像は、単なる金儲け主義者ではなく、「相場の道」を真剣に追求する哲学者であり、同志を救おうとする義侠心のある人間でした。
そして、善兵衛が「やはり買いだと思います」と即答できたことに注目してください。これは、彼が失敗を通じて成長していた証拠です。宗久は、その成長を見抜いたのです。
13-3. 海晏寺での座禅修行
すでに触れましたが、宗久の人生における最大の転機が、海晏寺での座禅修行です。
私はこのエピソードに、本間宗久という人物の本質を見出します。
普通の人なら、相場で大失敗したら、もう相場には戻らないか、あるいはギャンブル中毒のように小遣い銭でズルズルと続けるかでしょう。宗久は違いました。
彼は座禅という、商売とは全く違う領域に身を投じ、自分の心と向き合いました。そして、「自分の何が間違っていたのか」を深く考えたのです。
これは現代のメンタル・トレーニング、マインドフルネス、認知行動療法に通じる行為です。宗久は、心理学が学問として確立される200年以上前に、自己改革の手法を実践したのです。
13-4. 光丘との和解
宗久と光丘は、長い間義絶状態にありました。しかし、宗久が江戸で大成功を収めた後、二人は和解したと伝えられています。
これも、私が宗久の人物像で重要だと思うエピソードです。
光丘は宗久を追放した張本人。普通なら、恨みを持ち続けても不思議ではありません。しかし宗久は、自分の力で再起した後、過去のわだかまりを水に流したのです。
これは「気を転ずるに智」の最も大きな実践例かもしれません。過去にこだわらず、未来に向けて気持ちを切り替える。これが宗久の流儀でした。
13-5. 江戸根岸での晩年
晩年、宗久は江戸の根岸に住み、幕府の経済顧問のような役についていたと言われています。
これも興味深いです。一介の相場師が、幕府の経済政策に影響を与える地位に達したのです。
これは私の推測ですが、宗久の晩年における最大の喜びは、自分の経験と知恵を、若い世代に伝えることだったのではないでしょうか。だからこそ、80歳を超えても、弟子・善兵衛に『秘録』を口述したのです。
13-6. 本間美術館 ― 宗久の遺産
現在、山形県酒田市御成町に「本間美術館」があります。1813年(文化10年)に建築され、名勝「鶴舞園(かくぶえん)」を挟んで本館と新館があります。
本館は「清遠閣(せいえんかく)」と称され、2階建ての銅板と瓦ぶきの建物です。藩政時代は庄内藩主や幕府要人を、明治以後は皇族や政府高官、文人墨客を接待する酒田の迎賓館の役割を果たしました。
1925年(大正14年)には昭和天皇のお宿にもなり、1947年(昭和22年)に市民に開放され、全国に先駆けて地方都市の私立美術館として開館しました。
本間家が大名から拝領した品、歴史資料として価値の高い文書、当主が好んだ茶道の器物など、重要文化財や重要美術品が多数所蔵されています。
酒田を訪れる機会があれば、ぜひ立ち寄ってみることをお勧めします。本間家がいかに豊かで、文化的な家系だったかを実感できるはずです。
13-7. 随徳寺 ― 宗久の墓所
本間宗久の墓所は、東京都台東区下谷2-18-7の随徳寺にあります。
江戸で活躍し、江戸で亡くなった宗久の眠る場所として、現代の投資家が訪れるべき「聖地」と言えるかもしれません。
第十四章:宗久の哲学を現代社会で活かす ― 投資以外への応用
14-1. ビジネスへの応用
宗久の教えは、投資以外のビジネス全般にも応用できます。
「附出し大切」:
- 新規事業の立ち上げでは、最初の戦略設計が極めて重要
- 急いで始めるな、十分な準備をせよ
「機を待つに仁」:
- 市場参入のタイミングを見極める
- 競合の動きを観察し、最適なタイミングを待つ
「人の商を羨むべからず」:
- 他社の成功に焦らない
- 自社の戦略を貫く
14-2. キャリアへの応用
人生のキャリア選択にも、宗久の教えが活きます。
「機を待つに仁」:
- 焦って転職せず、本当に良い機会を待つ
- 自分のスキルを高めながら待つ
「機に乗ずるに勇」:
- チャンスが来たら、勇気を持って踏み出す
- 「安全」に固執しすぎない
「気を転ずるに智」:
- 失敗したら、すぐに次の道を模索する
- 過去にこだわらない
14-3. 人間関係への応用
人間関係でも、宗久の教えは有効です。
「腹立て売買すべからず」:
- 怒っている時に重要な決断をしない
- 感情的な発言を慎む
「もうはまだなり」:
- 関係が「もう終わり」と思った時、「まだ可能性がある」と考える
- 関係が「まだ大丈夫」と思った時、「もう危ない」と警戒する
14-4. 学習への応用
学習や成長にも、宗久の教えは活きます。
「足らぬは余る、余るは足らぬ」:
- 自分が「分かっている」と思っているところに、実は穴がある
- 自分が「分からない」と思っているところに、実は知識がある
「休むも相場」:
- 適度な休息は、学習効率を上げる
- 詰め込みすぎは逆効果
14-5. メンタルヘルスへの応用
宗久の教えは、現代のメンタルヘルス管理にも通じます。
座禅と無心の境地:
- 宗久が海晏寺で実践した座禅は、現代のマインドフルネスに通じる
- 日常的な瞑想は、感情のコントロールに有効
感情の客観視:
- 「腹立て売買」を避ける訓練は、感情に支配されない強い心を作る
- 自分の感情を観察する習慣をつける
14-6. 私の独自分析 ― 宗久哲学の本質
宗久の教えを投資以外に応用してみて、改めて感じるのは、彼の哲学が「人間としていかに生きるか」という根本的なテーマを扱っているということです。
投資は、人間心理が極限まで試される場です。だからこそ、投資の名手は、人生の名手にもなり得るのです。
宗久が遺した教えは、単なる投資テクニックではなく、「人生の哲学」なのです。
第十五章:本間宗久を超えて ― 投資哲学のさらなる深化
15-1. 宗久の限界
ここで、私の独自の視点から、宗久の哲学の「限界」についても触れたいと思います。
宗久の教えは素晴らしいものですが、すべてを満たすわけではありません。
第一の限界:時代背景の違い
宗久が活躍したのは、米という単一商品の相場でした。現代は数千の銘柄、数百の通貨ペア、数万の金融商品が存在します。宗久の単純な逆張り戦略が、すべての市場で通用するわけではありません。
第二の限界:情報環境の違い
宗久の時代は、情報が遅く、限定的でした。だから、情報優位性が大きな意味を持ちました。現代は、情報が一瞬で世界中に伝わります。情報優位性の意味が、根本的に変わっているのです。
第三の限界:金融工学の発達
現代には、デリバティブ、ETF、アルゴリズム取引など、宗久の時代にはなかった金融技術があります。これらを使いこなすには、宗久の哲学だけでは不十分です。
15-2. 宗久哲学の補完
では、宗久の哲学を現代で使いこなすために、何を補完すべきでしょうか。
第一の補完:データ分析
現代では、ビッグデータ分析が可能です。宗久の直感的な相場観に、定量的な分析を加えることで、より強力な投資判断が可能になります。
第二の補完:分散投資
宗久の時代は、米相場という単一市場が中心でした。現代では、株式、債券、不動産、コモディティ、暗号資産など、多様な資産クラスに分散投資できます。
第三の補完:長期視点
宗久は短期から中期の相場師でしたが、現代の個人投資家にとっては、長期インデックス投資が最も合理的な選択の一つです。
15-3. 宗久 × 現代投資理論
宗久の哲学と、現代の投資理論を統合した「宗久 × 現代」のアプローチを、私なりに提案してみましょう。
ステップ1:戦略策定(附出し大切)
- 自分の投資目的、リスク許容度、時間軸を明確にする
- 資産配分を決める(株式、債券、不動産、現金など)
ステップ2:銘柄選定(機を待つに仁)
- 急がず、十分にリサーチする
- 「絶対に儲かる」と思った時こそ、立ち止まる
ステップ3:エントリー(機に乗ずるに勇)
- リサーチが完了したら、勇気を持って実行する
- 分割エントリーでリスクを分散
ステップ4:モニタリング(休むも相場)
- 毎日チャートを見続けない
- 重要な変化のみに反応する
ステップ5:エグジット(気を転ずるに智)
- シナリオが崩れたら、躊躇なく損切り
- 目標達成したら、感情に流されず利食い
このシンプルなフレームワークが、宗久の哲学を現代で実践する方法だと、私は考えます。
第十六章:「相場道」とは何か ― 宗久の遺した究極の問い
16-1. 「道」の思想
本間宗久は『相場三昧伝』で「相場道の極意」を説きました。ここで使われている「道」という言葉は、日本独特の思想です。
「茶道」「華道」「剣道」「柔道」「書道」など、日本では様々な分野が「道」として体系化されてきました。「道」とは、単なる技術ではなく、技術を通じて人間としての完成を目指す精神修養の体系です。
宗久が「相場道」と呼んだのは、相場が単なる金儲けの技術ではなく、人間としての完成を目指す道だと考えたからでしょう。
16-2. 相場道の三つの段階
私の独自の見解ですが、相場道には三つの段階があると思います。
第一段階:技術の習得
- チャートの読み方
- 銘柄分析の方法
- リスク管理の手法
第二段階:心理のコントロール
- 感情に流されない訓練
- 群集心理の理解
- 自己観察の習慣
第三段階:哲学の体得
- 「相場とは何か」という根本的な問いへの答え
- 自分の人生における投資の位置づけ
- 利益と精神的成長の両立
宗久が遺した『秘録』は、これら三つの段階すべてに触れています。だからこそ、200年以上経っても色あせないのです。
16-3. 相場道の究極の目的
宗久は、相場道の究極の目的は何だと考えていたのでしょうか。
私の解釈では、それは「心の自由」だったと思います。
相場で勝つことそのものが目的ではない。相場という極限環境で、自分の心を律する訓練を通じて、人間として自由になること。それが宗久の目指したものではないかと感じます。
なぜそう思うか。彼が善兵衛を救済したエピソード、光丘と和解したエピソード、晩年に弟子に教えを伝えたエピソード。これらすべてに、「心の自由」を得た人物の余裕が感じられるからです。
16-4. 現代の投資家への宗久からのメッセージ
もし宗久が現代に蘇り、私たちに一言メッセージを送るとしたら、何と言うでしょうか。
私の想像では、こんな感じです。
「諸君、相場とは人の心の戦である。技術や情報だけでは勝てぬ。自らの心を律する者こそ、長く生き残るのである。三日待て。そして、群衆と逆を行け。されど、慎め。これが極意なり」
第十七章:本間宗久研究の最新動向
17-1. 経済史学からの研究
本間宗久は、経済史学の重要な研究対象でもあります。
宮本又郎『近世日本の市場経済』(有斐閣、1988年)は、堂島米会所の機能を実証的に分析した名著で、宗久の時代の市場メカニズムを解明しています。
加藤慶一郎『近世後期経済発展の構造』(清文堂、2001年)も、江戸後期の経済発展における米相場の役割を論じています。
17-2. 行動経済学からの研究
近年、行動経済学の視点から宗久を再評価する動きがあります。
山口勝業氏の研究「バック・トゥ・ザ・フューチャーズ II 江戸時代における米先物相場での行動ファイナンス」(行動経済学会、2011年)は、『宗久翁秘録』を行動ファイナンスの観点から分析した画期的な論文です。
山口氏は、宗久の教えと現代の行動ファイナンスの命題が驚くほど一致することを指摘し、「歴史行動経済学(historical behavioral economics)」という新たな研究分野を提唱しています。
17-3. テクニカル分析研究
林輝太郎『定本 酒田罫線法』(同友館、1991年)は、酒田罫線法(酒田五法)の決定版とされる解説書です。
スティーブ・ニソンの著書群も、英語圏での代表的研究です。
17-4. 文学作品
本間宗久を題材にした文学作品もあります。
秋山香乃著『天狗照る 将軍を超えた男―相場師・本間宗久』(祥伝社、2012年)は、宗久の人生を小説化した作品で、ドラマチックに彼の生涯を描いています。
17-5. 現代における再評価
近年、本間宗久は世界的に再評価されつつあります。
ローソク足が世界共通のチャート技術となり、その源流として宗久の名前が世界中の投資関連書籍で言及されるようになりました。
私の独自の見解では、AI時代の到来によって、逆に「人間心理の理解」の重要性が再認識されつつあります。アルゴリズムでは捉えきれない、人間ならではの判断の領域があるからです。
そして、人間心理を200年以上前に深く理解していた本間宗久が、改めて注目されているのです。
第十八章:本間宗久ゆかりの地を訪ねて
18-1. 山形県酒田市 ― 宗久の故郷
宗久の故郷である酒田市には、彼の足跡が色濃く残っています。
本間家旧本邸:酒田市二番町。本間家3代当主・光丘が幕府の巡見使一行を迎えるために建てた邸宅。
本間美術館:すでに紹介した通り、本間家ゆかりの美術品を所蔵。
山居倉庫(さんきょそうこ):1893年(明治26年)に建てられた米保管倉庫。当時の酒田の米取引の規模を伝える歴史的建造物。
海晏寺:宗久が江戸での失敗後に座禅修行をした寺。
18:2. 東京都 ― 宗久が活躍した地
東京にも宗久ゆかりの地があります。
台東区下谷の随徳寺:宗久の墓所。
蔵前:江戸時代の米相場の中心地。「江戸の蔵前雨が降る」と謳われた地。
18-3. 大阪府 ― 堂島米会所跡
大阪には、堂島米会所跡があります。
堂島米市場跡碑:大阪市北区堂島浜1丁目。世界初の組織的先物取引所の跡地に、白い米粒形のモニュメントが立っています。
「堂島米市場は、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている」と説明板に書かれています。
18-4. 訪問の意義
これらの場所を訪れることで、本間宗久という人物がより立体的に感じられます。
私の独自の見解ですが、投資家にとっての「聖地巡礼」は、自分の投資哲学を深めるために有意義な体験です。歴史を肌で感じることで、宗久の教えがより深く心に刻まれるはずです。
第十九章:宗久の哲学を実践した日本の投資家たち
19-1. 日本の代表的投資家
宗久の影響を受けた、または彼の哲学を体現した日本の投資家は数多くいます。
19-2. 是川銀蔵(1897-1992)
「最後の相場師」と呼ばれた是川銀蔵は、95歳まで活躍した伝説の投資家です。住友金属鉱山の同和鉱業(現DOWAホールディングス)への投資で巨額の利益を上げました。
是川は、宗久と同様に「逆張り」「ファンダメンタル分析」「群集心理の理解」を重視しました。
19-3. 立花義正(1907-1993)
立花義正は、「立花証券」の創業者で、戦後の日本を代表する投資家の一人です。
19-4. 桐谷広人
棋士から投資家に転じた桐谷広人氏は、優待株投資で有名です。彼の「待つ」哲学は、宗久の「機を待つに仁」と通じるものがあります。
19-5. 私の独自分析
これらの投資家に共通するのは、「自分のスタイルを確立し、貫く」という姿勢です。これも宗久の教えに通じます。
第二十章:本間宗久と日本人の精神性
20-1. 「道」の文化
すでに触れましたが、本間宗久が「相場道」を説いたことは、日本人の精神性と深く結びついています。
茶道、華道、剣道、柔道…日本では何事も「道」として体系化される傾向があります。これは、技術の習得を通じて精神を磨くという、日本独自の文化です。
宗久の「相場道」は、まさにこの日本的精神の表れです。
20-2. 「侘び寂び」と相場
「侘び寂び(わびさび)」は、不完全さや無常を美とする日本の美意識です。
相場の世界も、完璧な予測は不可能であり、常に不確実性に満ちています。この不確実性を受け入れ、その中で美しく振る舞うことが、宗久の説いた相場道だったのではないかと、私は感じます。
20-3. 「無常」の理解
仏教の「諸行無常」の思想も、宗久の哲学に影響を与えています。
「もうはまだなり、まだはもうなり」という格言は、まさに「無常」を表現しています。すべては変わり続ける、と認識することで、執着を捨てる。これが宗久の哲学の根底にあるのです。
20-4. 「中庸」の思想
「腹八分目」「足らぬは余る、余るは足らぬ」といった教えは、儒教の「中庸」の思想に通じます。
極端を避け、バランスを保つ。これは日本人が長く大切にしてきた知恵です。
20-5. 私の独自分析
本間宗久の哲学は、日本人の精神性が結晶化したものだと、私は強く感じます。
仏教、儒教、神道、武士道…様々な日本的精神が、彼の中で融合し、相場という極限の場で実証されたのです。
だから、宗久の教えを学ぶことは、日本人としての精神性を再発見することでもあるのです。
第二十一章:宗久が今の世に生きていたら ― 私の妄想
21-1. AIと宗久
もし宗久が現代に蘇ったら、AIをどう評価するでしょうか。
私の妄想ですが、彼はAIを冷静に観察し、こう言うかもしれません。
「AIなる機械が、データを分析し、取引を行う。だが、そのデータを生み、そのアルゴリズムを設計するのは人間である。ならば、相場の本質は変わらず、人の心にあるのだ」
21-2. SNSと宗久
SNSが市場に影響を与える現代を、宗久はどう見るでしょうか。
「SNSなるものは、群集心理の増幅装置である。だからこそ、より一層『人の商を羨むべからず』『人々が西に走るなら、我は東に向かう』の教えが重要となるのだ」
と言うかもしれません。
21-3. 仮想通貨と宗久
仮想通貨という新しい資産クラスを、宗久はどう評価するでしょうか。
「米なるものは、人の生活を支える実需に裏打ちされた商品であった。新しき通貨が、何に裏打ちされているのか、我には分からぬ。されど、相場の動きは人の心。実需があろうとなかろうと、『もうはまだなり』の教えは通じる」
と言うかもしれません。
21-4. 私の独自結論
私の独自の結論は、宗久の哲学は「時代を超えて普遍的」だということです。
具体的な投資対象や技術は変わっても、人間心理の本質は変わりません。だから、宗久の教えは2026年の今も、そして100年後も有効であり続けるでしょう。
第二十二章:本間宗久から学ぶ ― 私自身の独自分析と総括
22-1. 本間宗久の最も重要な教え(私の選別)
ここまで長く本間宗久について書いてきましたが、最後に、私が個人的に最も重要だと思う宗久の教えを、独断と偏見でランキング形式でまとめてみたいと思います。
第10位:「相場は明日もある」 焦りを抑える、長期視点を持つ。
第9位:「足らぬは余る、余るは足らぬ」 完璧を求めず、余裕を持つ。
第8位:「腹立売買すべからず」 感情的な取引を避ける。
第7位:「人の商を羨むべからず」 FOMOを克服する。
第6位:「休むも相場」 取引しないことも戦略。
第5位:「見切り千両」 損切りを躊躇しない。
第4位:「酒田五法」 チャートパターンで市場心理を読む。
第3位:「もうはまだなり、まだはもうなり」 逆張りと群集心理の理解。
第2位:「三日待つべし」 興奮した時こそ、立ち止まる。
第1位:「機を待つに仁、機に乗ずるに勇、気を転ずるに智」 すべてを包括する究極の教え。
22-2. 私が宗久から学んだこと(独自の視点で)
私自身、本間宗久について深く研究してきましたが、最も学んだことは、「投資は人間の心の鏡である」ということです。
市場の動きは、市場参加者の心の動きの集合体です。だから、市場を理解するには、まず自分の心を理解する必要があるのです。
宗久は、海晏寺での座禅修行を通じて、これを悟りました。私たち現代人も、瞑想、ジャーナリング、自己観察など、様々な方法で自分の心と向き合うことができます。
これは、投資技術を学ぶよりも、はるかに重要なことだと、私は確信しています。
22-3. 宗久哲学の現代的意義
最後に、本間宗久の哲学の現代的意義を、私なりにまとめてみます。
第一:投資技術と人間心理の統合 宗久は、テクニカル分析(酒田五法)、ファンダメンタル分析(米の作柄調査)、心理分析(群集心理)を統合した、稀有な投資家です。現代の投資家も、この三つを統合することが理想です。
第二:時代を超える普遍性 宗久の教えは200年以上経っても色あせません。これは、彼が「人間の本質」を捉えていたからです。
第三:実践と哲学の両立 宗久は、実際に巨額の利益を上げた実践家でありながら、深い哲学を遺しました。理論だけ、実践だけ、では達成できない高みに到達したのです。
第四:日本的精神の結晶 宗久の哲学には、仏教、儒教、武士道など、日本的精神が凝縮されています。これを学ぶことは、日本人としてのアイデンティティの再発見でもあります。
第五:謙虚さと大胆さの両立 「機を待つに仁」(謙虚さ)と「機に乗ずるに勇」(大胆さ)。一見矛盾するこの二つを両立させる知恵が、宗久の真骨頂です。
22-4. 宗久の教えを実践する ― 私からの提案
最後に、宗久の教えを実践したい皆さんへ、私からの提案をお伝えします。
提案1:『宗久翁秘録』を実際に読む 青野豊作著『相場秘伝 本間宗久翁秘録を読む』(東洋経済新報社)など、現代訳が出版されています。原典に触れることで、より深い理解が得られます。
提案2:投資ジャーナルをつける 取引のたびに、その時の心理状態、判断理由、結果を記録する。これは宗久が善兵衛に教えを伝授したように、自分自身に教えを伝授する行為です。
提案3:定期的に「三日待つ」を実践する 新しい銘柄を買いたくなった時、最低3日待つ習慣をつける。これだけで、衝動買いを大幅に減らせます。
提案4:群集心理を観察する SNS、ニュース、市場のセンチメントを観察し、群衆が極端に偏った時を見つける訓練をする。
提案5:自分自身の感情を観察する 怒り、恐怖、貪欲、自信過剰…これらの感情が出てきた時に、取引を控える。
提案6:座禅や瞑想を実践する 宗久が海晏寺で実践したように、自分の心と向き合う時間を持つ。
第二十三章:結論 ― 相場の神様が遺したもの
23-1. 本間宗久という人物
本間宗久は、1724年に山形県酒田に生まれ、1803年に江戸で亡くなった、江戸時代中期の米商人です。
彼は酒田、大坂、江戸の米相場で連戦連勝を重ね、「相場の神様」「出羽の天狗」と呼ばれました。
彼の遺した著作『宗久翁秘録』『相場三昧伝』などは、200年以上経った今も世界中の投資家に読み継がれています。
ローソク足チャートの源流は、彼の市場分析の思想にあるとされ、「Candlestick」は世界共通の投資用語になりました。
23-2. 彼の哲学の核心
本間宗久の哲学の核心は、「相場は人の心の戦である」という認識にあります。
技術や情報だけでは勝てない。自らの心を律することこそが、長期的な成功への道である。これが彼の遺した最大のメッセージです。
そして、その心の律し方を、彼は「三位伝」(機を待つに仁、機に乗ずるに勇、気を転ずるに智)という形で体系化したのです。
23-3. 200年後の私たちへ
本間宗久は、200年以上前に、現代の私たちに通じる教えを遺しました。
行動ファイナンスが学問として確立されるはるか前に、彼は人間心理の本質を見抜いていました。AIが取引を行う現代でも、彼の教えは色あせません。
なぜなら、彼が捉えたのは、技術ではなく、人間そのものだったからです。
23-4. 最後に
長い長い旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
私がこの文章を書きながら、最も強く感じたのは、本間宗久という人物への深い尊敬の念です。
彼は、ただの相場師ではありません。人間心理を見抜き、自分自身と向き合い、後世に教えを残した、稀有な哲学者です。
皆さんが今後、投資の世界に身を投じる時、あるいは人生の重要な決断を迫られる時、ぜひ本間宗久の教えを思い出してみてください。
「機を待つに仁、機に乗ずるに勇、気を転ずるに智」
このシンプルな三つの言葉が、皆さんの人生を豊かにする道標となることを、心から願っています。
そして最後に、宗久の最も有名な言葉を、もう一度引用させてください。
「もうはまだなり、まだはもうなり」
人生もまた、相場と同じです。「もう終わりだ」と思った時こそ、新しい始まりかもしれません。「まだ大丈夫」と思った時こそ、立ち止まる時かもしれません。
本間宗久という200年以上前の相場師の言葉が、皆さんの人生に新しい視点をもたらすことを、祈っています。
第二十四章:補遺 ― 本間宗久にまつわる小ネタ集
24-1. 本間家の財力 ― 数字で見る
本間家の財力を、具体的な数字で見てみましょう。
- 享保16年(1731年):初代・原光の遺産総額 2,551両
- 宝暦5年(1755年):3代目当主光丘が家督相続時 31,074両(約12倍)
- 文化8年(1811年)頃:堂島米会所の発行済み米切手残高 約356万俵(約53万石相当)
宗久が運用した期間(約20年)で、本間家の資産は12倍に膨らみました。これは現代の感覚で言えば、年率約13%のリターンを20年間続けた計算になります。これは、ウォーレン・バフェットの長期平均リターン(年率約20%)には及びませんが、当時の他の商人と比較すれば驚異的な成績です。
24-2. 「酒田照る照る」の謎
「酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵前雨が降る」という俚謡には、二つの解釈があります。
解釈1:天候の話。酒田が晴れていれば(豊作なら)、堂島は曇り(米価下落)、江戸の蔵前は雨(さらに大幅下落)。
解釈2:宗久の影響力の話。宗久が酒田にいれば、酒田の相場は好調、堂島はそれに影響され、江戸は大混乱。
私の独自解釈では、これは両方の意味を含んでいると思います。当時の人々は、宗久を「天候を支配する天狗」のように畏れていたのではないでしょうか。
24-3. 「本間様には及びもないが」の本当の意味
「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」という俚謡。
これは現代の感覚では「殿様より上は本間様」という意味で理解されがちですが、実は別の解釈もあります。
「本間様には及びもないが」は確かに本間家の財力への驚嘆ですが、「せめてなりたや殿様に」は単に「殿様になりたい」という庶民の普通の願いです。つまり、「本間様は別格として、普通の人としては殿様くらいにはなりたい」という、本間家への畏敬と、庶民の素朴な願望を同時に表現しているのです。
24-4. 牛田権三郎との関係
本間宗久は、大坂・堂島の相場師・牛田権三郎と並び称される存在でした。
牛田権三郎は、宗久よりも前の時代に活躍した相場師で、『三猿金泉秘録(さんえんきんせんひろく)』という名著を残しています。「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿になぞらえて相場の心得を説いた書物です。
宗久は、おそらく牛田の影響を受けていたと思われます。江戸時代の相場師たちの間で、知恵が継承されていたのです。
24-5. 江戸時代の相場秘伝書群
『宗久翁秘録』以外にも、江戸時代には多くの相場秘伝書が存在しました。
『徳川時代経済秘録全集』(安達太郎編、松山房、昭和16年)には、以下の書物が収録されています。
- 売買出世車(東白著)
- 三猿金泉秘録(牛田権三郎著)
- 八木虎之巻(猛虎軒著)
- 商家秘録(大玄子著)
- 米道大意(著者不詳)
- 八木豹之巻(猛虎軒著)
- 宗久翁秘録(本間宗久著)
- 八木龍之巻(見幾館主人著)
- 増補諸色相庭高下伝(玉江漁隠著)
- 卜筮貨殖考(井上鶴州著)
これらは江戸時代の相場知識の宝庫です。日本における投資哲学の伝統が、いかに豊かだったかが分かります。
24-6. 「もう」と「まだ」の関係
「もうはまだなり、まだはもうなり」を、私の独自視点で深掘りしてみます。
これは単なる「逆張りせよ」という教えではありません。「自分の認識を疑え」という認識論的な教えなのです。
「もう」「まだ」という判断は、すべて自分の主観です。市場は、自分の主観とは独立して動いています。だから、自分の主観に対して、常に「これは本当か?」と問い続けることが重要なのです。
これは、哲学者ルネ・デカルトの「方法的懐疑」(すべてを疑うことから始めよ)に通じる思想です。宗久は、デカルトを知らなくても、相場の経験から同じ結論に到達していたのです。
24-7. 宗久と現代の有名トレーダーの言葉
宗久の教えに通じる、現代の有名トレーダーの言葉をいくつか紹介します。
ウォーレン・バフェット: 「他人が貪欲な時に恐れ、他人が恐れている時に貪欲になれ」 → 宗久の「人々が西に走るなら、我は東へ」と完全一致。
ジョン・テンプルトン: 「強気相場は悲観の中で生まれ、懐疑の中で育ち、楽観の中で成熟し、陶酔の中で死ぬ」 → 宗久の「もうはまだなり、まだはもうなり」と同じ思想。
ベンジャミン・グレアム: 「短期的には市場は投票機だが、長期的には計量機だ」 → 宗久の「相場は変化極まりなし」「天然自然の理」と通じる。
ジェシー・リバモア: 「相場で最も難しいのは、待つことだ」 → 宗久の「機を待つに仁」と完全一致。
24-8. 宗久が日本人の投資哲学に与えた影響
本間宗久は、日本人の投資哲学に深い影響を与えてきました。
「もうはまだなり、まだはもうなり」「見切り千両」「相場は明日もある」「休むも相場」など、現代の日本の証券業協会が紹介する相場格言の多くは、宗久の影響を受けています。
これは、日本人投資家が共有する「集合的無意識」のような知恵となっているのです。
24-9. 海外での評価
本間宗久は、海外でも徐々に評価が高まっています。
英語版ウィキペディアには「Munehisa Homma」の項目があり、彼を「the father of candlestick charts」と紹介しています。
スティーブ・ニソンの著書を通じて、世界中のトレーダーが本間宗久の名前を知っています。
これは、日本が世界に発信できる文化的・知的遺産の一つです。
24-10. 本間宗久の現代における追体験
最後に、もし皆さんが本間宗久の人生を追体験したいなら、どうすればいいでしょうか。
ステップ1:山形県酒田市を訪れる 本間美術館、山居倉庫、海晏寺などを訪れ、宗久の生まれ育った地の空気を感じる。
ステップ2:大阪の堂島米市場跡を訪れる 世界初の組織的先物取引所の跡地で、宗久が活躍した舞台を実感する。
ステップ3:東京の蔵前、随徳寺を訪れる 宗久の墓所に手を合わせ、その精神性に触れる。
ステップ4:『宗久翁秘録』を実際に読む 青野豊作著の現代訳など、入門書から始める。
ステップ5:自分の投資に応用する 学んだ教えを、実際の投資判断に活かす。
このプロセスを通じて、本間宗久という人物が、皆さんの人生に深く根付くはずです。
終章:相場の神様への謝辞
長い長い旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
私は、この記事を書きながら、改めて本間宗久という人物の偉大さを実感しました。
200年以上前、山形の片田舎で生まれた一人の商人が、現代の世界中の投資家に影響を与え続けている。これは、奇跡のような事実です。
彼が遺したのは、お金ではありません。本間家の財産は、その後、戦後の農地解放などにより大きく減少しました(しかし本間家自体は今も続いています)。
彼が遺したのは、「知恵」です。そしてその知恵は、紙の本という物理的な形を超えて、世界中の投資家の心に住み続けています。
私自身、本間宗久から学んだ最大の教えは、「謙虚さと大胆さの両立」です。
機を待つ謙虚さ。機に乗ずる大胆さ。気を転ずる柔軟さ。
この三つを身につければ、投資だけでなく、人生のすべての場面で、より良い判断ができるはずです。
最後に、本間宗久の遺した言葉を、もう一度心に刻んで、この長い記事を終わりたいと思います。
「機を待つに仁、機に乗ずるに勇、気を転ずるに智」
そして、
「もうはまだなり、まだはもうなり」
この二つの教えを、皆さんの人生の道標として、ぜひ大切にしてください。
本間宗久翁、ありがとうございました。あなたの教えは、200年以上の時を超えて、私たちに届いています。
そして読者の皆さん、本当にお疲れさまでした。皆さんの投資人生、そして人生そのものに、宗久の知恵が光を与えますように。
参考資料
一次資料・原典関連
- 『本間宗久翁秘録』(本間宗久著、伝)
- 全157か条からなる相場の心得集。宗久の口述を弟子の善兵衛がまとめたとされる。
- 『本間宗久相場三昧伝』(本間宗久原著、投資レーダー編、ストックマーケットサービス、1994年)
- ISBN: 978-4925152099
- 原典に現代語訳と解説を加えた版。
- 『酒田戦術詳解』(本間宗久著、伝)
- 酒田五法のテクニカル分析を体系化した書物。
- 『徳川時代経済秘録全集』(安達太郎編、松山房、昭和16年)
- 『宗久翁秘録』ほか9編を収録した秘伝書集成。
現代訳・解説書
- 山口映二郎著『現代訳 宗久翁秘録』(証取経済通信社、1978年)
- 『宗久翁秘録』の代表的な現代語訳。
- 青野豊作著『相場秘伝 本間宗久翁秘録を読む―希代の天才相場師に学ぶ必勝の法則』(東洋経済新報社、2002年)
- 「機を待つに仁」「機に乗ずるに勇」「気を転ずるに智」の三部構成で『宗久翁秘録』を解説。
- 林輝太郎著『定本 酒田罫線法』(同友館、1991年)
- ISBN: 4-496-01830-6
- 酒田罫線法の決定版とされる解説書。
- 『マンガ 相場の神様 本間宗久翁秘録―酒田罫線法の源流』(ウィザードコミックス5、パンローリング、2004年)
- 全157章の現代語訳を漫画化。
学術論文
- 山口勝業「バック・トゥ・ザ・フューチャーズ II 江戸時代における米先物相場での行動ファイナンス」(行動経済学会第5回大会、2011年)
- 『宗久翁秘録』を行動ファイナンスの観点から分析した画期的論文。
- URL: https://www.abef.jp/archive/event/20111210/shiryou/Ippan/Yokou2_YamaguchiKatsunari.pdf
- 宮本又郎『近世日本の市場経済』(有斐閣、1988年)
- 堂島米会所の機能を実証分析。
- 岩橋勝『近世日本物価史の研究:近世米価の構造と変動』(大原新生社、1981年)
- 加藤慶一郎『近世後期経済発展の構造』(清文堂、2001年)
- 島本得一『堂島米会所文献集』(所書店、1970年)
- 土肥鑑高『江戸の米屋』(吉川弘文館、1981年)
伝記・歴史書
- 『酒田市史(改訂版)』上巻(酒田市史編さん委員会、1987年)
- 本間宗久に関する公式記録。
- 佐藤三郎『酒田の本間家』(中央企画社、1972年)
- 本間家の詳細な歴史。
- 鈴木旭『本間光丘:人を活かし金を活かす本間流ビジネスマインド』(ダイヤモンド社、1995年)
- 宗久の甥・本間光丘の伝記。
- 秋山香乃『天狗照る 将軍を超えた男―相場師・本間宗久』(祥伝社、2012年)
- ISBN: 978-4-396-63402-5
- 本間宗久の人生を題材にした歴史小説。
海外文献
- Steve Nison, “Japanese Candlestick Charting Techniques” (New York Institute of Finance, 1991)
- 西洋にローソク足チャートを紹介した画期的著書。
- Steve Nison, “Beyond Candlesticks: New Japanese Charting Techniques Revealed” (Wiley, 1994)
- ローソク足の起源について、本間宗久の役割を再検証。
Web上の参考資料
- 日本取引所グループ「堂島米市場」
- URL: https://www.jpx.co.jp/dojima/ja/index.html
- 堂島米市場の歴史を解説。
- 荘内証券株式会社「酒田五法と本間宗久翁」
- URL: https://www.shonaisc.co.jp/about/honmasoukyu/
- 地元・酒田の証券会社による本間宗久解説。
- OANDA証券「酒田五法」
- URL: https://www.oanda.jp/lab-education/dictionary/sakata_method/
- 酒田五法の基本パターンを解説。
- 野村證券「証券用語解説集 酒田五法」
- 三菱UFJ eスマート証券「酒田五法」
- 日本証券業協会「相場格言」
- URL: https://www.jsda.or.jp/start/proverb/contents/
- 日本の伝統的相場格言を網羅。
- 東京証券取引所「日本の証券市場のルーツは江戸時代にあり」
- 堂島取引所「デリバティブ発祥の地”堂島”」
- nippon.com「江戸時代のトレーダーが構築した情報ネットワーク」
- URL: https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02365/
- 旗振り通信について詳述。
- Wikipedia「本間宗久」「堂島米会所」「酒田五法」「ローソク足チャート」項目
- 各種基本情報の確認に。
ニュース記事
- 鍋島高明「大阪・堂島のコメ相場を舞台に大暴れ!日本最強の相場師 本間宗久」(Yahoo!ニュース、2016年)
- 上中下の3部作で本間宗久の生涯を紹介。
- EBC Financial Group「スティーブ・ニソンによる日本のローソク足のレッスン」
その他
- 本間美術館(山形県酒田市御成町7-7)
- 本間家ゆかりの美術品・歴史資料を所蔵。
- マーク・ゲイン著、井本威夫訳『ニッポン日記』
- 戦後すぐの日本を取材した記録。本間家への言及あり。
- 柴田昭彦『旗振り山』『旗振り山と航空灯台』(ナカニシヤ出版)
- 旗振り通信の研究書。
- 三田村鳶魚「大坂町人の相場通信」(鳶魚江戸文庫18『札差』、中公文庫、1998年)
- 喜田川守貞『近世風俗志(守貞謾稿)』(一)(岩波文庫、1996年)

