老眼が始まった日——スマートフォンの文字が読めなくなる恐怖と、「老い」を初めて自覚した瞬間

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老眼が始まった日——スマートフォンの文字が読めなくなる恐怖と、「老い」を初めて自覚した瞬間

スマートフォンの文字がぼやけた

異変に気づいたのは、43歳のある夜だった。

いつものようにベッドの中でスマートフォンを見ていた。ニュースサイトの記事を読んでいた。読んでいるうちに、文字がぼやけた。画面が汚れているのかと思って拭いた。拭いても変わらない。目をこすった。変わらない。スマートフォンを近づけるとさらにぼやける。遠ざけると——読める。

遠ざけると読める。近づけるとぼやける。

老眼だ。

その瞬間、体の中を冷たいものが走った。老眼。「老」の字が入っている。「老いる」の「老」。自分の体に「老」がつく症状が現れた。43歳。まだ40代前半。老眼が来るには早くないか。早くない。一般的に老眼は40代前半から始まる。平均的な年齢だ。平均的だが、「自分に起きた」という事実は、平均とか統計とか関係なく衝撃的だ。

その夜からスマートフォンの文字サイズを大きくした。設定画面で「文字の大きさ」を「中」から「大」に変更した。画面に表示される文字が大きくなり、1画面に収まる情報量が減った。スクロールの回数が増えた。些細な変化だが、「自分の体が変わった」ことの象徴的な出来事だった。

老眼の進行と日常への影響

43歳で始まった老眼は、45歳の今も進行している。進行するにつれて、日常のあちこちに影響が出てきた。

影響1は「書類が読みにくくなった」こと。仕事で使う書類——請求書、契約書、マニュアル。特に小さい文字(注釈や但し書き)が読みにくい。目を細めて読む。目を細めると、周囲の人から「大丈夫ですか?」と聞かれる。「大丈夫です、ちょっと目が疲れて」とごまかす。

影響2は「食品の表示が読めなくなった」こと。スーパーで商品を手に取り、裏面の成分表示を見る。文字が小さすぎて読めない。カロリー表示、賞味期限、原材料名。これらを確認するために、商品を腕の長さいっぱいに遠ざけて見る。遠ざけてもぎりぎり。いっそ老眼鏡をかけるべきだが、スーパーの中で老眼鏡を取り出すのが面倒で、結局「まあいいか」と読まずに買う。読まずに買うと、賞味期限が明日だったりする。

影響3は「スマートフォンの使い方が変わった」こと。文字サイズを大きくしただけでなく、画面の明るさを上げた。ブルーライトカットモードを常時オンにした。長時間の使用を避けるようになった(目が疲れるから)。結果的にスマートフォンの使用時間が減った。減ったことは健康には良いかもしれないが、情報収集や連絡に支障が出ている。

影響4は「夜の運転が不安になった」こと。夜間は特に視力が落ちる。対向車のヘッドライトがまぶしく感じる。標識の文字が読みにくい。運転免許を持っている人にとって、視力の低下は安全に直結する問題だ。

老眼鏡という名のハードル

老眼の対策として最もシンプルなのは「老眼鏡をかける」ことだ。100均でも売っている。110円で老眼が補正される。安い。

だが老眼鏡をかけることには、心理的なハードルがある。

ハードル1は「老眼であることを認めたくない」心理。老眼鏡をかける=老眼を認める=自分が老いていることを認める。この認知が辛い。まだ40代だ。まだ「老」の字がつく年齢ではないはずだ(実際には老眼は40代から普通に始まるが、感情的にはまだ「老」を受け入れたくない)。

ハードル2は「見た目の変化」。老眼鏡をかけている人は、周囲から「年を取った」と認識される。若く見られたいわけではないが、「老けた」と思われるのは嫌だ。特に職場で老眼鏡をかけると、「○○さん、老眼鏡なんですね」と指摘される。指摘自体に悪意はないが、「老眼」という言葉を他人の口から聞くのは、自分で自覚するよりもダメージが大きい。

ハードル3は「費用」。100均の老眼鏡でも機能は果たすが、度数が合っていない場合がある。眼科で検査を受けて処方箋をもらい、メガネ店でオーダーすると、1万〜3万円かかる。遠近両用レンズならさらに高い。節約生活の中で、メガネに1万円以上出すのは痛い。

結局、100均の老眼鏡を買った。度数は「+1.0」。合っているかどうかはわからないが、スマートフォンの文字は読めるようになった。110円で日常の不便が解消された。眼科に行くべきだとわかっているが、後回しにしている。後回しの理由はいつも同じ。金と時間がない。

「老い」を自覚するということ

老眼は、「老い」を自覚する最初のきっかけだった。それまでも体力の低下、回復力の遅さ、白髪の増加など、加齢の兆候はあった。だがこれらは「疲れているだけ」「ストレスのせい」「遺伝」と、老い以外の理由で説明できた。

老眼は違う。老眼の原因は、水晶体の弾力性の低下。加齢による生理的な変化。ストレスでもなく、疲労でもなく、遺伝でもない。純粋に「年を取ったから」起きる変化。この「年を取ったから」を、目の前の症状として突きつけられたのが、老眼だった。

老いを自覚すると、時間の見え方が変わる。「まだ時間はある」から「時間は限られている」へ。若い頃は、未来は無限に広がっているように感じた。30代後半くらいから「無限ではない」と薄々感じ始めた。老眼が始まって、「有限だ」と確信に変わった。

有限の時間をどう使うか。この問いが、老眼以降の日常にうっすらと漂っている。漂っているが、答えは出ない。出ないまま、日常を過ごす。日常を過ごすこと自体が、有限の時間の使い方だ。もやし炒めを作り、半額シールを探し、NISAの画面を眺める。この日常が、有限の時間の中身だ。中身が充実しているかどうかは、判断が分かれるところだが。

老眼の先に見えるもの

老眼は、これからの「老い」の序章にすぎない。この先、体のあちこちに老いの症状が現れるだろう。聴力の低下。筋力の低下。関節の痛み。血圧の上昇。記憶力の低下。一つひとつは致命的ではないが、積み重なれば日常生活に支障が出る。

老いに備えるために何ができるか。健康を維持すること。健康診断を受けること。適度な運動を続けること。これらは前のエッセイで書いた通りだ。老眼については、定期的な眼科受診と、適切な老眼鏡の使用が基本的な対策だ。

だがそれ以上に大切なのは、老いを「受け入れる」ことかもしれない。抗っても老いは進む。抗うことにエネルギーを使うより、老いた自分を受け入れて、老いた自分なりの生き方を模索するほうが建設的だ。

老眼になった自分を受け入れる。スマートフォンの文字を大きくした自分を受け入れる。100均の老眼鏡をかけた自分を受け入れる。受け入れることで、老いへの恐怖が少し和らぐ。和らいだ分だけ、日常が楽になる。

老眼が始まった日。あの日から、世界の見え方が文字通り変わった。ぼやけた世界は、老眼鏡をかければクリアになる。だが人生のぼやけ——将来の不安、老後の見通し、孤独の深まり——は、老眼鏡では矯正できない。矯正できないぼやけを抱えたまま、今日もスマートフォンの画面を覗き込む。文字は読める。読めるだけで、ありがたい。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。老眼の始まりに衝撃を受けた人は、きっと少なくないはずです。

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