年金の試算を初めて見た日のことを正直に書く

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封筒を開けた瞬間の話

それは「ねんきん定期便」という名前の封筒に入ってやってきた。

毎年誕生月に届くらしいが、20代の頃は開封すらしなかったと思う。届いていたかどうかすら記憶にない。興味がなかったのではなく、年金という制度が自分の人生に関係しているという実感がなかった。年金は「おじいちゃんおばあちゃんがもらうもの」であり、22歳の自分にとっては月の土地の権利書と同程度のリアリティしかなかった。

初めてまともに開封したのは、30代後半のことだ。なぜ急に開ける気になったのかは覚えていない。おそらく同世代の誰かが「ねんきん定期便、見た?」と話題にしたのがきっかけだったと思う。「見たほうがいいよ」と言われて、じゃあ見てみるかと。軽い気持ちで。

封筒を開けて、中のハガキを見た。そこに書かれていた数字を見て、しばらく固まった。

少ない。

驚くほど少ない。いや、驚くという感情ではなかった。もっと冷たい感覚だ。血の気が引くような、足元がふっと抜けるような。水風呂に飛び込んだときのような、一瞬の呼吸停止。

ハガキには「このままの加入状況が続いた場合の65歳時点での年金見込額」が記載されていた。月額にして、一人暮らしの家賃にすら足りない金額。これが「老後の生活の基盤」になるのだと思った瞬間、笑いが込み上げてきた。笑うしかなかった。

なぜこんなに少ないのか

年金の額が少ない理由は、制度を理解すれば明白だ。

日本の公的年金は大きく分けて国民年金と厚生年金の二階建てになっている。会社員として厚生年金に加入していれば、国民年金に上乗せして厚生年金がもらえる。正社員としてフルタイムで40年間働けば、それなりの額になる。

しかし、非正規雇用で転々としてきた人間の年金はどうなるか。

まず、派遣やパートの場合、厚生年金に加入できない期間がある。勤務時間や契約期間が一定の条件を満たさなければ、厚生年金の対象外になる。その期間は国民年金のみ。国民年金だけの場合、満額でも月額6万円台だ。6万円台。東京の1Kの家賃にも届かない。

さらに問題なのは、非正規の期間に国民年金の保険料を払えていなかったケースだ。私もそうだった。就職できなかった直後の数年間、保険料の免除申請をしていた。免除された期間の年金は、満額の半分しか反映されない。つまり、払えなかった期間が長いほど、将来もらえる年金は減る。

加えて、厚生年金に加入していた期間も、非正規は給与が低い。厚生年金の額は現役時代の給与に連動するから、給与が低ければ年金も低い。正社員と同じ仕事をしていても、給与が違えば年金も違う。現役時代の格差が、老後に持ち越される。いや、老後にさらに拡大する。

これらの要素が合わさって、ねんきん定期便に記載された数字はあの絶望的な金額になっていたわけだ。制度としては理にかなっている。理にかなっているからこそ、残酷だ。ルール通りに計算された結果がこの金額だということは、ルールそのものが私のような人間を想定していないということだ。

数字を見たあとの72時間

ねんきん定期便を見たあとの数日間のことを、正直に書く。

初日。数字が頭から離れない。仕事中もふとした瞬間にあの金額が浮かぶ。目の前のデータ入力の作業が、急に無意味に思えてくる。この作業で得られる給料から引かれている年金保険料が、将来あの程度の額にしかならないのだとしたら、私は何のために払っているのか。いや、払わなければ額はゼロになるのだから、払うしかないのだが。

二日目。ネットで年金について調べ始める。「年金 少ない 対策」で検索する。出てくるのは「iDeCo」「NISA」「付加年金」「繰下げ受給」といったワード。どれも「今から追加で何かしろ」という話だ。今の生活費でカツカツの人間に「追加で積み立てろ」と言っているのだ。追加のお金があるなら、そもそもこんなに困っていない。

三日目。少し落ち着く。落ち着くというよりは、麻痺する。見なかったことにする能力が発動する。人間の防衛本能は優秀で、直視できない現実を一時的に棚上げしてくれる。年金のハガキを引き出しの奥にしまい、日常に戻る。だが「戻った」のではなく「目を逸らした」だけだということは、自分が一番よくわかっている。

「将来の自分」という他人

年金の試算を見て気づいたことがある。私は「将来の自分」のことを、ほとんど考えたことがなかった。

20代の頃は目の前の生活で精一杯だった。来月の家賃をどう払うか、今日の食費をどう抑えるか。視野は常に「今月」「来月」で、「30年後」は想像の圏外だった。

30代になっても状況は大して変わらなかった。派遣の契約更新が半年ごとで、半年先のことすら不確実なのに、65歳の自分を想像する余裕はない。「老後」は概念としては知っているが、自分ごととして考えたことがない。老後は他人事。将来の自分は他人。

ねんきん定期便は、その「他人」を急に目の前に連れてきた。65歳の自分。あの金額で暮らしている自分。その姿は、想像するだけで寒気がした。

ここで残酷な事実がある。「将来の自分」のことを考えなかったのは、怠慢だったのだろうか。違うと思う。考える余裕がなかったのだ。日々の生活に追われている人間に「30年後のことを考えろ」と言うのは、溺れている人間に「将来の健康のために泳ぎ方を改善しろ」と言うようなものだ。まず浮かなければ話にならない。

年金制度と氷河期世代の相性の悪さ

年金制度は、基本的に「正社員として長期間働く」ことを前提に設計されている。新卒で就職し、ひとつの会社で定年まで勤め上げる。その間、厚生年金の保険料を給与から天引きされ続ける。40年分の積立が、老後の年金になる。

この前提は、高度経済成長期からバブル期までは機能していた。終身雇用が常識で、正社員の椅子は十分にあった時代。年金制度は、その時代の人生モデルに最適化されている。

就職氷河期世代は、その人生モデルからはみ出した世代だ。新卒で正社員になれなかった。なれたとしても、不安定な雇用形態で転々とした。厚生年金の加入期間は短く、給与は低く、国民年金の未納期間もある。年金制度の前提と、実際の人生が噛み合っていない。

たとえて言えば、年金制度は「高速道路のETC」のようなものだ。ETCカードを持っていれば料金所をスムーズに通過できる。しかしカードを持っていない車——つまり制度の前提から外れた人間は、料金所で止められる。止められるだけならまだいい。「カードを持っていないあなたが悪い」と言われる。カードを配ってもらえなかったのはこちらの責任ではないのに。

年金制度を設計した人たちは、「正社員にならない人生」を想定していなかったのだろう。想定外の人生を送っている人間が、想定外に少ない年金額を突きつけられている。想定外は、こちらのせいではない。

免除期間の代償

年金には「免除制度」がある。収入が少なくて保険料を払えない場合、申請すれば保険料の支払いが免除される。私もこの制度を使った。使わなければ、食費が出なかった。

免除制度はありがたい制度だ。払えない人が「未納」にならずに済む。未納だと年金の受給資格自体が危うくなるが、免除なら受給資格期間にカウントされる。

ただし、代償がある。免除された期間の年金額は、通常の半分にしかならない。全額免除の場合、本来もらえるはずの額の半分。つまり、若い頃にお金がなくて払えなかった代償を、老後に払い続けることになる。

若い頃の貧しさが、老後の貧しさに直結する。この因果の連鎖は、個人の努力では断ち切れない。「追納」という制度もある。免除された期間の保険料を、あとから払い直すことで満額に戻せる。だが追納できるのは10年以内だ。しかも、追納するだけの余裕がある人間は、そもそも免除を受けていない。免除を受けるほど困窮していた人間に、追納の余裕があるわけがない。制度のデザインが、どこか矛盾している。

年金事務所に行った日

ねんきん定期便を見てから数ヶ月後、意を決して年金事務所に相談に行った。

窓口で番号札を取り、待合室で待つ。ハローワークの待合室に似た空気がある。蛍光灯、プラスチックの椅子、目を合わせない人々。既視感だ。

番号を呼ばれ、窓口に座る。担当者は中年の女性で、穏やかな口調だった。加入記録を確認してもらい、将来の見込額を改めて計算してもらう。画面に表示された数字は、ねんきん定期便と同じだった。当然だ。同じデータベースなのだから。

「この金額だと、生活は厳しいでしょうか」と聞いてみた。担当者は一瞬言葉を選ぶように間を置いてから、「年金だけで生活するのは、正直なところ難しいかもしれませんね」と答えた。「正直なところ」。エージェントと同じ前置きだ。「正直なところ」のあとには、必ず聞きたくない現実が続く。

「何か対策はありますか」と聞いたら、「付加年金」「iDeCo」「繰下げ受給」の説明をしてくれた。付加年金は月400円の追加保険料で将来の年金を増やせる。iDeCoは自分で積み立てる個人年金だ。繰下げ受給は受給開始を65歳から70歳に遅らせることで、月額を増やす方法。

どれも理にかなった対策だが、どれも「これから積み立てる」話だ。過去の空白は取り戻せない。失われた加入期間は、もう戻らない。できることは「今から、できる範囲で、少しずつ」しかない。

担当者は最後にこう言った。「まだ時間はありますから」。その言葉に励まされたかったが、「まだ時間はある」は「もうあまり時間はない」の裏返しにも聞こえた。

誰にも言えない不安

年金の不安は、誰にも言えない種類の不安だ。

友人に「年金の見込額が少なくてさ」と言えるか。言えない。まず相手の年金額がわからない。もし相手が正社員として長年働いてきた人間なら、こちらの金額を聞いて気まずくなるだろう。同情されるか、アドバイスされるか、どちらにしても居心地が悪い。

親に言えるか。言えない。親はもう年金生活者だ。子どもの将来の年金が少ないと知ったら、心配するに決まっている。親に心配をかけたくないから、黙っている。ただでさえ「ちゃんと就職できなかった子ども」として心配をかけてきたのに、これ以上の荷物は背負わせたくない。

パートナーに言えるか。パートナーがいればの話だが、仮にいたとしても言いにくい。「私の年金、これだけしかないんだけど」という告白は、「私と一緒になると老後が厳しいですよ」という予告でもある。

だから一人で抱える。一人でハガキを見て、一人で検索して、一人で年金事務所に行って、一人で帰ってくる。年金の不安は、社会的に共有しにくい不安だ。金額が低いということは、つまり「ちゃんと働いてこなかった」ことの証でもあるように感じられるからだ。実際にはそうではないのだが、社会の目はそう見る。年金額は、人生の通信簿のように機能している。低い点数の通信簿を、誰が人に見せたいだろうか。

それでも、知ってよかった

ここまで暗い話を書いてきたが、最後にひとつだけ前向きなことを書く。

年金の試算を見たことは、つらかったが、知ってよかった。

知らなかったら、何の対策もしないまま65歳を迎えていたかもしれない。知ったからこそ、付加年金に加入した。月400円という少額だが、やらないよりはましだ。iDeCoも検討し始めた。掛金を捻出するのは簡単ではないが、できる範囲で始めようと思った。

何より、「知る」ということは、現実を直視するということだ。目を逸らしていた30代までの自分と、直視した30代後半以降の自分では、時間の使い方が少し変わった。老後のためにできることは限られているが、限られた中でできることをやる。それは「希望」とは呼べないかもしれないが、「諦めとも違う何か」ではある。

ねんきん定期便。あの薄っぺらいハガキは、私の人生で最も重い郵便物だった。読むのにかかった時間は30秒。理解するのにかかった時間は数分。受け入れるのにかかった時間は、まだ計測中だ。

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。年金の試算を見て凍りついた経験がある人は、きっと少なくないはずです。

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