NISAを今さら始めている自分への複雑な感情

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証券口座を開設した日

45歳にして初めて、証券口座を開設した。

スマートフォンの画面をタップしながら、本人確認書類を撮影し、個人情報を入力し、投資経験の欄で「なし」に丸をつけた。「なし」。45年間生きてきて、投資経験「なし」。この事実に特に恥ずかしさは感じなかった。投資どころか、貯金すらままならなかった人生だ。投資経験がないのは当然の帰結であり、恥じるようなことではない。少なくとも、そう自分に言い聞かせた。

口座開設の理由は、新しいNISA制度が始まったからだ。非課税で投資できる。年間の投資枠が大幅に拡大された。制度は恒久化された。テレビでも雑誌でもネットでも、「やらなきゃ損」の大合唱。投資に縁のなかった人間の耳にまで届くほどの大合唱。

「やらなきゃ損」。この言葉に、微妙な引っかかりを覚える。「やれる余裕のある人間にとっては」という前提が省略されているからだ。投資に回すお金がない人間にとって、「やらなきゃ損」は「あなたは損をし続ける側の人間です」という通告にしか聞こえない。

それでも口座を開いた。月5000円からでいいと聞いたからだ。5000円。缶ビールを週に数本我慢すれば捻出できる金額。それが20年後にいくらになるのかは、正直よくわからない。わからないが、ゼロよりはましだろう。「ゼロよりまし」が、私の投資の出発点だ。華々しくもなんともない。

「今さら」という自覚

NISAを始めたことを知人に話したら、「いいじゃん、始めたんだ」と言われた。善意の言葉だ。しかしその「いいじゃん」の奥に、「今さら?」という微量の驚きが含まれていた気がした。気のせいかもしれない。だが私自身が最も強く感じているのが、まさにその「今さら」なのだ。

NISAの前身であるジュニアNISAや旧NISAは、もう何年も前から存在していた。積立投資は「若いうちに始めるほど有利」と、どの入門書にも書いてある。複利の効果。時間を味方につける。20代で始めれば、月1万円の積立が65歳時には数千万円になる——そういう試算がグラフとともに紹介される。右肩上がりの美しい曲線。

そのグラフを45歳で見ると、自分の持ち時間がグラフの右端のほうにしか残っていないことに気づく。複利の恩恵を最大限に受けるための「時間」という資源が、すでに大部分を消費されている。20代で始めた人間と45歳で始めた人間では、ゴール時点の金額に圧倒的な差がつく。同じ月1万円を積み立てても、だ。

この事実を知ったとき、感じたのは後悔ではなかった。もっと正確に表現すると、「後悔する権利すらない」という感覚だった。後悔とは「あのときああしていれば」という仮定法だが、「あのとき」の私には投資に回すお金がなかった。後悔の前提条件が揃っていなかった。後悔は、選択肢があった人間にだけ許される感情だ。

複利の残酷さ

複利は「人類最大の発明」とアインシュタインが言ったとか言わないとか。真偽は怪しいが、複利の威力自体は事実だ。

月1万円を年利5%で30年積み立てると、約830万円になる。元本は360万円だから、利息だけで470万円。時間が長ければ長いほど、雪だるま式に増える。これが複利の力だ。

では、同じ条件で20年だとどうなるか。約410万円。30年の場合の半分以下だ。10年短くなっただけで、最終金額が半分以下になる。これが「時間」の価値だ。

45歳で始めた私に残された時間は、65歳まで20年。20代で始めた人間は40年以上ある。この差は、どんなに頑張っても埋められない。月々の積立額を増やせば多少は取り返せるが、月1万円がやっとの人間に「月5万円積み立てましょう」と言われても、財布の中身は変わらない。

複利のグラフは、右肩上がりの希望の曲線であると同時に、「早く始められなかった人間」への残酷な宣告書でもある。あなたはもうこの曲線の左端に立つことはできません、と。

投資入門書の読みにくさ

NISAを始めるにあたって、投資の入門書を何冊か読んだ。どれも「初心者向け」と銘打っており、文体はフレンドリーで、イラストも多い。しかし読んでいて、微妙な居心地の悪さが拭えなかった。

その居心地の悪さの正体を考えてみた。

まず、入門書の想定読者が「余剰資金のある若い会社員」だということ。「毎月の給料から少しずつ」「ボーナスも活用して」「生活防衛資金を半年分確保した上で」——これらのアドバイスは、安定した収入と一定の貯金がある人間を前提としている。ボーナスがなく、生活防衛資金もなく、来月の契約更新すら不確実な人間は、想定読者に含まれていない。

次に、「長期投資のメリット」が繰り返し強調されること。15年以上保有すれば元本割れのリスクはほぼゼロ、20年以上なら安心、30年ならさらに安心。安心の度合いが保有年数に比例する。私は今から30年保有すると75歳だ。75歳まで積み立て続けて、75歳から取り崩す。その年齢まで自分が健康でいられるかどうかもわからない。

そして、「若いうちに始めれば」というフレーズの頻出。これはアドバイスとして正しい。正しいからこそ、若くない読者の心に刺さる。「今さら始めても遅い」とは書いていないが、「若いうちに始めるのがベスト」と繰り返されれば、裏メッセージは明白だ。

入門書を読み終えたとき、知識は増えたが、気分は重くなっていた。知らないほうが幸せだったとは言わない。だが「知ったことで焦りが増した」のは事実だ。

月5000円の積立という現実

証券口座を開設し、投資信託を選び、毎月の積立額を設定する画面が表示された。

推奨額は月33333円。新NISAの年間投資枠を均等に使い切る金額だそうだ。月33333円。私の月収を考えると、現実的な金額ではない。家賃、光熱費、食費、通信費、交通費。これらを引いた残りは、33333円に遠く及ばない。

結局、月5000円に設定した。5000円。投資信託のグラフ上では、ほとんど見えない金額だ。20年間積み立てても元本は120万円。運用益を含めても、老後の生活を支えるには心許ない。

だが5000円でも、積み立て始めた瞬間に「投資をしている人間」のカテゴリに入る。ゼロと5000円の間には、金額以上の心理的な溝がある。ゼロは「何もしていない」であり、5000円は「できる範囲でやっている」だ。この差は、自己認識に大きく影響する。

初回の積立が実行されたとき、証券口座の残高が5000円と表示された。5000円。吹けば飛ぶような金額。だが画面に映るその数字は、45年間の人生で初めて「自分の未来への投資」として使ったお金だった。缶ビール数本分の金額に、想像以上の感慨を覚えた。

周回遅れの自覚

職場でNISAの話題が出ることがある。「今年からオルカンに変えた」「S&P500がいい」「配当金で旅行に行った」——投資歴の長い同僚たちは、銘柄や運用方針を当たり前のように語る。

私はその会話に入れない。入れないのは知識がないからだけではない。持っている金額が違いすぎるからだ。同僚が「含み益が50万出た」と言っているとき、私の口座残高は5万円だ。桁が違う。文字通りの桁違い。

これは周回遅れの感覚だ。同じトラックを走っているのに、他のランナーは3周目、4周目を回っている。私はようやくスタートラインに立ったところ。背中すら見えない。

この感覚は、就職活動のときと似ている。周囲が次々と内定をもらっていく中で、自分だけがまだエントリーシートを書いている、あの感覚。人生のあらゆる局面で、私は周回遅れだ。就職で遅れ、キャリアで遅れ、貯金で遅れ、投資で遅れる。遅れの複利。悪い意味での複利効果。

だが周回遅れでも走ることはできる。ラップタイムは遅いし、ゴール時の順位は後ろのほうだろうが、走らないよりは走ったほうがいい。走らなければ、順位すらつかない。

「投資は自己責任」という言葉

投資の世界では「自己責任」という言葉が頻繁に使われる。利益が出ても損失が出ても、すべて自己責任。誰のせいにもできない。

この「自己責任」、どこかで聞いたことがある。

就職氷河期世代に向けられた「自己責任論」だ。就職できなかったのは自己責任、非正規なのは自己責任、貯金がないのは自己責任。そして今度は、投資で損をしても自己責任。

自己責任の地層が何重にも積み重なっている。最初の層は「就職できなかった自己責任」。その上に「キャリアを積めなかった自己責任」。さらに「貯金できなかった自己責任」。そして今「投資のリスクを取る自己責任」。全部、自己責任。社会は何の責任も取らない。

投資における自己責任は、確かに正しい。誰も強制していないし、損益は自分に帰属する。だが「自己責任で投資をせざるを得ない状況に追い込まれた」という前段階の責任は、個人にはない。年金だけでは暮らせないから投資をする。投資をしなければ老後が破綻する。その構造を作ったのは社会であり、制度であり、政治だ。投資するかしないかは自己責任かもしれないが、投資しなければ生きていけない状況に置かれたことは、自己責任ではない。

嫉妬ではなく、ただの事実確認

20代からNISAやiDeCoを始めていた同世代がいる。彼らは就職氷河期をくぐり抜け、正社員として働き、余剰資金を投資に回してきた。運用歴は20年以上。含み益は数百万円。中には1000万円を超えている人もいるだろう。

彼らに対して嫉妬を感じるか。正直に言えば、ゼロではない。だが嫉妬というよりは、「ああ、そういう人生もあったのだな」という平坦な感想に近い。パラレルワールドの自分を見ているような感覚。

もし私が新卒で正社員になれていたら。もし安定した給料を得ていたら。もし20代から投資を始めていたら。「もし」の連鎖は無限に続くが、その先にある「結果」は、今の自分とはまったく違うものだっただろう。だが「もし」はしょせん仮定法であり、現実は「45歳で月5000円から始めた」という事実だけだ。

事実と向き合うしかない。事実は冷たいが、嘘はつかない。

それでも始めた理由

複雑な感情を抱えながらも、NISAを始めた理由をまとめておく。

理由1。年金だけでは足りないから。ねんきん定期便の数字を見て以来、これは動かない前提として受け入れた。足りない分をどうにかしなければならない。投資がその「どうにか」のひとつだ。

理由2。始めないと永遠にゼロだから。45歳で始めるのは遅い。でも46歳で始めるよりは早い。そして始めなければ永遠にゼロだ。遅いか早いかの問題ではなく、ゼロかゼロ以外かの問題だ。

理由3。自分で何かしている、という感覚がほしかったから。これが最も正直な理由かもしれない。年金の不安、老後の不安、お金の不安。それらに対して「何もしていない」状態は、不安を増幅する。月5000円でも「やっている」という事実は、不安を少しだけ和らげてくれる。プラセボかもしれない。だがプラセボでも効けばいい。

理由4。将来の自分への、小さな贈り物として。45歳の私が65歳の私にできることは限られている。だが月5000円ずつ、20年間。合計120万円プラス運用益。大きな金額ではないが、65歳の自分がこの口座を見たとき、「45歳の自分は、できる範囲で何かしてくれていた」と思えるかもしれない。それだけで、始めた意味はある。

複雑な感情の正体

NISAを始めた自分への複雑な感情。その正体は何か。

「遅すぎた」という悔しさと、「始められた」という安堵が混在している。「もっと早く始めたかった」という願望と、「早く始める余裕なんてなかった」という事実が衝突している。「投資なんて金持ちのやること」という古い思い込みと、「月5000円からできるなら自分にもできる」という新しい発見が、頭の中で綱引きをしている。

そして最も複雑なのは、「投資を始めたことで、自分の人生の遅れを数字で突きつけられた」という感覚だ。口座残高5万円は、20年間投資をしてきた人間の口座残高500万円との差を、明確に可視化する。投資を始めなければ見えなかった差が、始めたことで見えるようになった。

それでも、見えないよりは見えたほうがいいと思うことにした。見えないまま65歳を迎えるよりは、見えた上で対策するほうがましだ。たとえその対策が月5000円という微風のようなものであっても。

微風でも、20年吹き続ければ何かを動かすかもしれない。動かなくても、吹かないよりは吹いたほうがいい。そんな程度の希望で、今月もカード引き落としの日に5000円が証券口座に移動する。小さな、とても小さな未来への送金だ。

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。NISAを「今さら」始めた経験のある人は、きっと少なくないはずです。

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