「老後2000万円問題」を聞いた時に笑うしかなかった理由

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ニュースを見ていた

2019年の初夏だったと思う。テレビのニュースが「老後2000万円問題」を取り上げていた。

金融庁の審議会の報告書が、老後に年金だけでは2000万円不足するという試算を出した。それが大きな波紋を呼んでいる、とアナウンサーが深刻な表情で伝えていた。国会でも野党が追及し、大臣が釈明し、報告書は「受け取らない」という前代未聞の対応がなされた。

テレビの前で、私は笑った。

声に出して笑った。一人暮らしのアパートの部屋で、テレビに向かって。隣の部屋に聞こえたかもしれない。それくらい笑った。

なぜ笑ったのか。面白かったからではない。あまりにも自分の状況とかけ離れた議論が、大真面目に行われていたからだ。

2000万円が「問題」になる世界

まず、この報告書の前提を整理しよう。

「老後2000万円不足」の試算は、夫婦二人世帯で、夫が65歳以上、妻が60歳以上のモデルケースに基づいている。年金収入が月約21万円で、支出が月約26万円。差額が月約5万円。これが30年続くと、5万円×12ヶ月×30年=約1800万円。端数を含めて約2000万円の不足、という計算だ。

この試算を見て、世間は大騒ぎした。「2000万円も貯めなければいけないのか」「年金だけでは暮らせないのか」「政府は何をしているんだ」と。

私が笑ったのは、この「大騒ぎ」に対してだ。

なぜなら、2000万円という数字が「問題」になるということは、2000万円あれば「問題ない」ということでもある。つまりこの議論の参加者は「2000万円を貯められるかどうか」が論点なのだ。2000万円が射程圏内にある人々の悩みなのだ。

私の射程圏内にある数字は、2000万円ではない。200万円ですら怪しい。正確に言えば、貯金残高は二桁万円。つまり100万円にも達していない。2000万円は、私にとって天文学的な数字だ。太陽までの距離と同じくらい、現実味がない。

2000万円が「不足する」と聞いて焦る人は、裏を返せば「2000万円を目標にできる経済力」を持っている人だ。年収がそれなりにあり、ボーナスがあり、退職金の見込みがあり、住宅ローンを組める信用がある人。そういう人々が「2000万円は大変だ」と嘆いている。

私から見れば、2000万円を「大変だけどなんとかなるかも」と思える立場にいること自体が、ものすごい特権だ。大変だと嘆きながらも、その大変さに立ち向かえる経済基盤がある。私には、嘆く対象すらない。嘆く前に、まず土俵に上がれていない。

笑うしかなかった理由

笑った理由を、もう少し分解してみる。

ひとつは、「みんな今さら気づいたのか」という皮肉な感想だ。年金だけでは老後を暮らせない。そんなことは、ねんきん定期便を一回でも見れば誰でもわかることだ。少なくとも私は、ねんきん定期便を見た瞬間にわかった。それを国の審議会が正式に報告書にまとめて、国会で大騒ぎになっている。騒ぐのが10年遅い。いや、私がわかったのも遅かったのだから、お互い様か。

ふたつは、「2000万円で済むのか」という疑問だ。あの試算は、持ち家があることが前提だ。住宅ローンを完済した持ち家に住んでいれば、住居費はほぼかからない。しかし一生賃貸で暮らす人間にとって、家賃は死ぬまで続く。月5万円の家賃が30年で1800万円。家賃だけで2000万円近く飛ぶ。つまり賃貸暮らしの人間にとっては、2000万円どころか4000万円近く必要になる。持ち家を前提にした試算は、賃貸暮らしの人間を計算から除外している。

みっつは、「この問題のことを心配できる余裕がない」という、もっと根本的な感覚だ。老後に2000万円足りない。それはわかった。ではどうすればいいか。貯金しろ、投資しろ、節約しろ。どれも正しい。正しいが、今月の生活費をどう工面するかで頭がいっぱいの人間に、30年後の2000万円を心配する余裕はない。火事で家が燃えているときに「この家の固定資産税の対策を考えましょう」と言われている気分だ。まず火を消してくれ。

テレビの中の「老後」と自分の「老後」

あの報道をきっかけに、テレビではさまざまな「老後資金対策特集」が組まれた。ファイナンシャルプランナーが登場し、表やグラフを使って解説する。「50代からでも間に合う老後資金の貯め方」「夫婦で2000万円を貯めるシミュレーション」「退職金を運用するコツ」。

これらの特集を見ながら、画面の向こうの世界と自分の世界が、地続きではないことを実感した。

テレビの中の「老後」は、夫婦二人で暮らし、退職金があり、年金も夫婦合わせて21万円ある世界だ。21万円でも足りないと嘆いている世界。

私の「老後」は、おそらく一人暮らしで、退職金はなく、年金は月数万円の世界だ。21万円が足りないのではない。21万円がそもそも手に届かない。テレビの「2000万円問題」は、私にとっては「月21万円もらえる人の贅沢な悩み」に見えた。

もちろん、月21万円で暮らすのが楽だとは思わない。医療費、介護費、予備費。歳を取れば出費は増える。21万円でも足りない局面はあるだろう。だが月21万円と月数万円では、「足りない」の意味がまったく違う。前者は「ゆとりがない」であり、後者は「生存できるかどうか」だ。

報告書が「受け取られなかった」こと

このニュースで最も印象的だったのは、金融庁の報告書を麻生大臣が「受け取らない」と言ったことだ。

受け取らない。報告書を。審議会が時間をかけて作成した報告書を。不都合な事実が書かれているからという理由で。

この「受け取らない」は、多くの国民の怒りを買った。だが私は怒りではなく、既視感を覚えた。「不都合な事実を受け取らない」——これは、就職氷河期世代に対する社会の態度そのものではないか。

氷河期世代が「正社員になれなかった」「キャリアを積めなかった」「貯金ができなかった」と訴えても、社会は長らく「受け取らなかった」。自己責任論で蓋をし、構造的な問題を直視しなかった。報告書を受け取らない大臣と、氷河期世代の声を受け取らない社会は、同じ構造だ。不都合な事実は、存在しないことにする。そうすれば問題は「なかったこと」になる。

ならないのだが。

2000万円の内訳を自分に当てはめてみる

試しに、あの試算を自分に当てはめてみた。一人暮らし版にアレンジして。

収入。年金の見込額を月額に換算すると、ひとり暮らしで約7万円。これがベースだ。

支出。家賃5万円。食費3万円。光熱費1万円。通信費5000円。交通費5000円。医療費1万円。雑費1万円。合計12万円。最低限の生活だ。外食も旅行も趣味もない、ただ生存するための支出。

差額。月5万円の不足。年間60万円。30年で1800万円。

あれ、計算してみたら、一人暮らしでもほぼ2000万円足りない。テレビの夫婦二人の試算と、ほぼ同じ金額が不足する。年金額が低い分、支出も少ないが、それでも帳尻が合わない。

1800万円。この数字を目の前に置いて、しばらく眺めた。

現在の貯金額と見比べた。差額を計算した。計算しないほうがよかった。絶望を数値化するのは、精神衛生上よくない。

「貯めればいい」という暴論

2000万円問題が報じられた後、さまざまな「対策記事」がネットに溢れた。その多くは「貯めればいい」という結論に帰着する。

月5万円を30年貯めれば1800万円になる。月8万円なら20年で達成できる。退職金と合わせれば到達可能。資産運用を組み合わせればさらに効率的。

これらの記事を読むたびに、「月5万円を貯金に回せる人間がどれだけいるのか」と思う。手取り15万円の人間が月5万円貯金したら、残りは10万円だ。10万円で家賃と食費と光熱費を払えるか。都市部では不可能だ。

「貯めればいい」は、貯める余裕のある人間にとっては正論だ。だが余裕のない人間にとっては暴論だ。「食べなければ痩せます」と言うのと同じくらい、正しいが無意味だ。食べなければ死ぬ。貯金すれば生活費がなくなる。正論と暴論は、受け取る側の状況によって容易に入れ替わる。

笑いの種類

あのとき私が笑ったのは、いくつかの種類の笑いが混ざっていた。

ひとつは「自嘲」。自分の貯金額と2000万円の距離を、笑い飛ばすしかなかった。泣くよりは笑うほうが、精神的な被害が少ない。

ひとつは「皮肉」。国の審議会が今さらこんなことを発表して大騒ぎになっている。私はとっくに知っていた。というか、知りたくなくても現実が教えてくれていた。

ひとつは「諦め」。2000万円。この数字を聞いて、「よし、頑張って貯めよう」とは思えなかった。あまりにも遠すぎる目標は、モチベーションではなく虚脱感を生む。マラソンのスタート地点で「ゴールは200キロ先です」と言われたら、走り出す気にならない。

そしてひとつは「安堵」。これは意外だったが、確かにあった。「ああ、年金だけでは暮らせないというのは、私だけの問題ではなかったのだ」という安堵。私が特別にダメなのではなく、制度自体がそういう設計になっているのだ。自分の不安が、個人的な不安から社会的な不安に格上げされた瞬間。個人の問題だと思っていたものが、実は構造の問題だった。その「発見」に、少しだけ救われた。

 

2000万円問題のその後

あの騒動から数年が経った。2000万円問題はどうなったか。

何も解決していない。報告書は「受け取られなかった」が、報告書が指摘した問題自体は消えていない。年金だけでは老後を暮らせない、という事実は変わっていない。むしろ物価の上昇で、必要額はさらに増えているかもしれない。

新NISAが始まり、「自分で資産形成を」という方向に舵が切られた。国は「年金だけでは足りませんから、自分で投資してください」と、婉曲的に宣言したわけだ。2000万円問題の「解決策」は、国民に自助努力を求めることだった。

自助努力。これもまた聞き覚えのあるフレーズだ。就職氷河期世代に「自分で何とかしろ」と言い続けてきた社会が、今度は全国民に「自分で何とかしろ」と言っている。自助の範囲がどんどん広がっている。共助も公助も後退して、自助だけが肥大化していく。

その自助すらできない人間は、どうなるのか。2000万円問題は、「2000万円を心配できる人」と「2000万円以前の問題を抱えている人」の間の溝を、くっきりと可視化した。そして可視化しただけで、溝を埋める作業は誰もしていない。

あの日以降、変わったこと

2000万円問題のニュースを見て笑ったあの日以降、私の生活は何か変わっただろうか。

正直に言えば、劇的には変わっていない。収入は大して増えていないし、支出を劇的に減らす余地もない。すでにかなり切り詰めた生活をしているから、これ以上絞れる雑巾は残っていない。

ただ、意識は変わった。「老後は何とかなるだろう」という漠然とした楽観が消え、「何ともならない可能性が高い」という冷静な現状認識に置き換わった。楽観が消えたことは悲しいが、非現実的な楽観よりは現実的な悲観のほうが、対策を講じる動機になる。

月5000円のNISAを始めたのも、この意識の変化がきっかけだ。2000万円には到底届かないが、ゼロよりは1万円、1万円よりは10万円。積み重ねるしかない。積み重ねた結果が2000万円に届かなくても、届かないなりの着地点がある。完璧を目指して何もしないよりは、不完全でも何かしたほうがいい。

2000万円問題は、私を笑わせたが、同時に動かしもした。笑った勢いで立ち上がった、とでも言おうか。立ち上がっただけで走れているわけではないが、座り込んでいるよりはましだ。

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。2000万円問題を聞いて笑うしかなかった人は、きっと少なくないはずです。

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