「あなたが看るしかないでしょ」と兄弟に言われた独身の氷河期世代
法事の席で
父が倒れてから半年後の法事の席だった。親戚が集まる場で、兄と介護の話になった。
父はリハビリを続けていたが、完全な回復は難しい状態だった。母が主に面倒を見ているが、74歳の母にも限界がある。今後、介護の負担をどう分担するかを話し合う必要があった。
「お母さんも大変だから、そろそろ本格的にどうするか考えないと」。私が切り出した。
兄が答えた。「そうだな。でも俺は子どもの受験もあるし、妻も仕事してるし、なかなか時間が取れないんだよな」。
「じゃあどうするの」。
兄は少し考えてから言った。「お前は独身で身軽だし、時間の融通も利くだろ。お前が中心になって看るしかないんじゃないか」。
「あなたが看るしかないでしょ」。
この一言が、法事の席の空気を一瞬で変えた。いや、変えたのは私の内面だけかもしれない。周囲の親戚は、特に反応しなかった。兄の発言は、おそらく「常識的」に聞こえたのだろう。独身で子どもがいない人間が、介護を担うのは当然だ、と。
「独身だから」のロジック
兄の論理を整理してみる。
兄:既婚。子ども二人(中学生)。正社員。配偶者も正社員。住宅ローンあり。家庭の責任がある。時間的な自由度が低い。
私:独身。子どもなし。派遣社員。配偶者なし。住宅ローンなし。家庭の責任がない。時間的な自由度が高い(と見なされている)。
この比較に基づけば、「独身のほうが自由が利くから、独身が介護を担うべき」という結論は、一見合理的に見える。家族のいる人間に介護の負担を求めると、その家族にも影響が及ぶ。独身なら、影響を受けるのは本人だけ。影響範囲が小さい。だから独身が担うべき。
だがこの論理には、いくつかの問題がある。
問題1。「時間的な自由度が高い」は誤認。派遣社員は正社員より自由度が低い。有給が取りにくい。長期休暇が取れない。休めば収入が減る。休みすぎれば契約が切れる。「独身だから自由」は、「独身で派遣」の現実を知らない人間の思い込みだ。
問題2。「家庭の責任がない」は、介護の免除理由にならない。家庭があるから介護できない、というのは理解できる。だが家庭がないから介護すべき、というのは論理の飛躍だ。家庭がないことは、介護の能力や余裕があることを意味しない。私は年収300万円弱で貯金50万円だ。経済的な余裕は兄のほうがはるかにある。
問題3。介護は「身軽さ」で務まるものではない。介護には専門知識、体力、精神力、経済力が必要だ。身軽であること——つまり家族がいないこと——は、これらの能力を保証しない。独身で身軽でも、介護の専門知識はない。体力は年齢とともに落ちている。精神力は長年の非正規生活で消耗している。経済力は兄の半分以下。
つまり「あなたが看るしかない」は、私が「看る能力がある」からではなく、私が「断る根拠を持たない」から出た言葉だ。家庭という断る根拠を持っている兄は、断れる。家庭という盾がない私は、断れない。断れないから、「しかない」と言われる。
断れなかった理由
兄の言葉に対して、反論すべきだった。「俺だって仕事がある」「俺の経済状況を知っているのか」「介護は兄弟で平等に分担すべきだ」。これらの反論は、頭の中に浮かんだ。浮かんだが、口に出せなかった。
口に出せなかった理由は、複数ある。
理由1。法事の席だったから。親戚が大勢いる場で、兄弟間の対立を見せるのは気が引けた。空気を壊したくなかった。
理由2。兄の言い分に、一理あると感じてしまったから。独身で家庭がない自分のほうが、客観的に見れば「介護を担いやすい」立場にあることは、否定しきれない。否定しきれないから、強く反論できない。
理由3。親への罪悪感。親の介護から逃げている自分を許せない気持ちがあった。兄に「お前が看ろ」と言われて反発するのは、「介護から逃げたい」という本音の表れではないかと、自分を疑った。
理由4。兄との力関係。子どもの頃から、兄には逆らいにくかった。兄は年上で、社会的にも成功している。私は年下で、社会的には「うまくいっていない側」。この力関係が、大人になっても消えない。兄の発言に逆らうのは、子どもの頃から染みついた「弟」のポジションが許さなかった。
これらの理由が重なって、私は黙った。黙って、うなずいた。うなずいたことで、「介護は主に自分が担う」という暗黙の合意が成立した。法事の席で、数秒のやり取りで、人生の方向が一つ決まった。
独身の氷河期世代が背負うもの
「独身だから介護を担え」。この論理は、氷河期世代の独身者に特に重くのしかかる。
氷河期世代の独身者は、「結果として独身」であるケースが多い。結婚したかったができなかった。経済的な理由で。結婚しないことを選んだのではなく、結婚できなかった。できなかった結果として独身であり、独身であることで介護を押し付けられる。
結婚できなかったのは自分のせいではなく、時代と構造のせいだと、このエッセイシリーズで何度も書いてきた。時代のせいで結婚できず、結婚できないから独身で、独身だから介護を担え。因果の連鎖が、介護の負担という形で帰結する。
「独身のデメリット」は、一般に「孤独」「老後の不安」「保証人の問題」などが挙げられるが、「介護を押し付けられる」もリストに加えるべきだ。独身であることのペナルティが、介護の場面でも発動する。結婚しなかった罰。結婚できなかった罰。家庭を持たなかった罰。
罰ではない、と言い聞かせたい。だが現実は罰のように感じる。
平等な分担という理想
法的には、介護の義務は兄弟間で平等だ。民法上、扶養義務は直系血族にあり、兄弟間に順位の差はない。つまり、兄も私も、同等の扶養義務を負っている。
だが法的な平等と実際の分担は、別物だ。実際には、「独身の子ども」「近くに住んでいる子ども」「仕事の融通が利く子ども」に、介護の負担が偏る傾向がある。この偏りは、法律では解消できない。家族の力学で決まる。
平等に分担したいなら、兄弟間で明確な取り決めが必要だ。「費用は折半」「月に何日ずつ帰省する」「緊急時の対応ルール」。これらを文書にしておくのが理想だが、兄弟間でそこまでの取り決めをするのは、心理的にハードルが高い。「家族なんだから、話し合えば何とかなる」と思いがちだが、実際は「話し合わないまま、弱い立場の人間に負担が偏る」ケースが多い。
私は「弱い立場の人間」だ。独身、非正規、低収入。この三拍子が揃った人間に、介護の負担が寄せ集まる。集まった負担を、弱い立場のまま背負う。背負いきれるかどうかは、わからない。わからないまま、背負い始めている。
「看るしかない」のその先
「あなたが看るしかない」と言われて、半年が経った。今のところ、母が主に介護を担い、私は月に一度の帰省と週に数回の電話でサポートしている。兄は月に一度、短時間の帰省。費用は父の年金から出している。
この体制が、いつまで持つか。母の体力次第だ。母が健康なうちは持つ。母が倒れたら持たない。母が倒れたら、私が実家に戻るか、父を施設に入れるか、どちらかだ。
実家に戻れば、今の仕事を失う。仕事を失えば収入がゼロになる。施設に入れれば、費用がかかる。費用は父の年金だけでは足りないかもしれない。足りない分は兄弟で負担することになるが、私の負担能力はほぼゼロだ。
この先の見通しが立たない。立たないまま、日々を過ごしている。「看るしかない」と言われた日から、将来の不安のリストに「介護」が追加された。老後の不安、健康の不安、雇用の不安。そして介護の不安。不安のリストは長くなる一方で、解消されるものはない。
それでも、親は親だ。育ててくれた。食べさせてくれた。学校に行かせてくれた。「安定した仕事に就け」と呪文のように言い続けたのも、心配してくれたからだ。その親の面倒を看るのは、義務であり、恩返しでもある。
「看るしかない」。この言葉を、「押し付けられた」と感じるか、「引き受けた」と感じるか。答えは日によって変わる。気力がある日は「引き受けた」と思える。疲れている日は「押し付けられた」と思う。どちらも本音だ。本音は一つではない。矛盾する本音が共存している。共存したまま、介護を続ける。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。独身であることを理由に介護を任された経験がある人は、きっと少なくないはずです。

