利益は誰のものか。この問いに対する答えが、過去30年で大きく変わりました。働く人々の懐から、株主の手元へ。本稿では、財務省、東京証券取引所、厚生労働省、OECDなどの一次情報を基に、日本企業における分配の不均衡を徹底的に解剖します。
はじめに:なぜ今、分配の問題を語るのか
私がこの記事を書こうと思った直接の動機は、2025年7月に日本経済新聞が報じたある数字でした。2024年度の労働分配率が53.9%まで低下し、1973年度以来、実に51年ぶりの低水準を記録したというのです。
労働分配率という言葉を初めて聞く方のために簡単に説明しますと、企業が事業活動で生み出した付加価値(売上から原材料費などを差し引いた、企業が生み出した正味の価値)のうち、どれだけが人件費として労働者に分配されたかを示す比率です。この数字が下がるということは、企業の儲けに対して、働く人々への分配が相対的に減っていることを意味します。
53.9%という数字を私が衝撃を持って受け止めたのは、それが歴史的な文脈の中で持つ意味を理解していたからです。1973年といえば、第一次オイルショックの直前、まだ日本が高度経済成長期の余熱の中にあった時代です。あの頃の日本企業は、現在のように分厚い内部留保もなく、株主還元という言葉もほとんど聞かれない、文字通り「会社は社員のもの」という空気が支配的でした。その時代と同じ水準まで、労働者への分配比率が下がったのです。
ところが、同じ時期に別の数字も報じられていました。2024年度の利益剰余金、いわゆる内部留保は637兆5316億円に達し、13年連続で過去最高を更新。上場企業の自社株買い(企業が自社の株式を市場から買い戻すこと)は2024年に約17兆円と前年比7割増となり、これも3年連続で過去最高。配当金は2023年度に16兆9238億円で過去最高でした。
ここに、私たちが直視しなければならない構造的な歪みが存在します。企業の儲けは確実に増えています。それを示す内部留保は積み上がっています。そして株主への還元は、自社株買いと配当を合わせて年間20兆円を優に超える、史上類を見ない水準に達しています。にもかかわらず、賃金として労働者に回る分の比率は、半世紀前の水準まで下がっている。これが日本経済の現在地です。
私自身、この問題を取材し、考え続けてきました。きっかけは、ある製造業の中堅企業で人事部長を務める知人との会話でした。「うちの会社、過去最高益なんだ。でも、ベアは1.5%が精一杯だった」。彼は苦笑いを浮かべながら、こう続けました。「親会社が外資のファンドに買われてから、株主還元の優先順位が上がった。賃上げの原資を作るのが本当に難しくなった」。
これは決して特殊な事例ではありません。私が話を聞いてきた経営者、人事担当者、労働組合の幹部、そして現場で働く多くの方々が、似たような感覚を抱えています。「会社は儲かっている、しかし自分の生活は楽にならない」。この実感を、データはどう説明するのか。本稿で詳しく解き明かしていきたいと思います。
なお、この問題には複雑な側面があります。「内部留保はキャッシュではない」「株主還元はガバナンス改革の成果である」「賃上げの原資は労働生産性の向上が必要だ」といった反論も、それぞれに正当性があります。私は、これらの異論にも丁寧に向き合いながら、しかし最終的に「やはり分配の問題は深刻だ」と結論せざるを得ない理由を、データと現場の声から組み立てていきたいと考えています。
第1章 数字が語る不均衡の現在地
まず、私たちが今どこに立っているのか、最新の数字で確認していきましょう。データの出所は、可能な限り財務省、東京証券取引所、厚生労働省、内閣府、日本取引所グループといった公的機関の一次資料に依拠しています。
1.1 労働分配率53.9%──51年ぶりの低水準
財務省「法人企業統計調査」によれば、2024年度の労働分配率は53.9%でした。これは、1973年度の水準と並ぶ、過去半世紀で最も低い水準です。
なぜこれが衝撃的なのか、もう少し詳しく見ていきましょう。労働分配率は景気循環に応じて上下します。一般に、好景気で企業の付加価値が膨らむ局面では、人件費はすぐには連動して増えないため、労働分配率は低下します。逆に、不景気で付加価値が縮小すると、人件費は固定的なので相対的に労働分配率は上がります。
ですから、労働分配率が一時的に下がること自体は、必ずしも異常ではありません。問題は、その「低位の水準」がどれくらい持続しているか、そして長期的なトレンドとして低下傾向にあるか、ということです。
第一生命経済研究所の分析によれば、1980年度以降、全規模全産業の労働分配率の平均は71.5%でした。景気拡大期、企業業績好調期には70%を下回るレベルに低下し、景気減速期、企業業績低迷期には70%を上回ってくる、という変動の中で平均が71.5%だったのです。2022年度の労働分配率は69.0%でしたから、過去平均よりやや低い程度でした。
ところが、2024年度は53.9%です。これは過去平均より約18ポイントも下回る、極めて異例の水準です。景気循環では説明できない、構造的な変化が起きていると考えるべきでしょう。
企業規模別に見ると、この格差はさらに鮮明になります。第一生命経済研究所の集計によれば、2022年度時点で大企業(資本金10億円以上)の労働分配率は54.7%、中堅企業が65.5%、中小企業が79.2%でした。つまり、規模が大きいほど労働分配率は低い。大企業ほど、付加価値に対する人件費の割合を抑制してきたということです。
これは私たちの素朴な直感とも一致します。大企業のほうが業績がよく、給与水準も高いはずです。しかし、付加価値あたりの「分け前」で見ると、むしろ中小企業のほうが従業員に多く渡しています。大企業は儲けの多くを、人件費以外──設備投資、内部留保、株主還元──に回しているのです。
1.2 内部留保637兆円──13年連続で過去最高
財務省の法人企業統計調査によれば、2024年度末時点の利益剰余金は637兆5316億円に達し、13年連続で過去最高を更新しました。
637兆円という数字の大きさを実感していただくために、いくつかの比較をしてみます。
日本のGDP(国内総生産)は2024年でおよそ600兆円です。つまり、企業の内部留保は日本のGDPに匹敵する規模にまで膨らんでいます。日本の国家予算(一般会計)は2024年度で約112兆円ですから、内部留保はその約5.7倍。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の運用資産は約230兆円ですから、その約2.8倍です。
過去の推移を見ると、その膨張のスピードがわかります。2005年に222兆円だった利益剰余金は、2018年には458兆円まで積み上がっていました。それが2024年には637兆円ですから、わずか6年で約180兆円も増えたことになります。年平均で30兆円ずつ、企業の手元に残してきた計算です。
大企業に絞って見ると、2024年7-9月期の法人企業統計で、資本金10億円以上の大企業(全産業、金融・保険業含む)の内部留保は553兆円に達し、過去最大を更新しました。前年同期に比べて26兆円も増えています。
「内部留保」という言葉には注意すべき点があります。後の章で詳しく述べますが、内部留保はキャッシュ(現金)そのものではありません。利益剰余金は企業が過去に上げた利益を、税金などを引いた後に、株主への配当に回さずに会社に残した分の累積です。それは設備投資の原資にもなりますし、海外子会社の株式取得にも使われます。ですから「内部留保が637兆円あるなら賃上げしろ」という議論には、技術的には不正確な面があります。
ただし、それでも内部留保の急増は、企業の生み出した付加価値が、人件費よりも企業内部に留保される方向に偏ってきたことを示しています。この点は議論の余地がありません。
1.3 自社株買い17兆円──株主還元の急増
東京証券取引所の上場企業による自社株買いは、2024年に約17兆円と前年比7割増、3年連続で過去最高を更新しました。
自社株買いとは、企業が自分の会社の株を市場から買い戻すことです。これが行われると、市場に流通する株式の数が減るため、1株当たりの利益(EPS)が増えます。結果として株価が上がりやすくなる。事実上の株主還元として機能するのです。
2023年の上場企業の自社株買い取得枠の設定額は約9兆6000億円で、すでに2年連続で過去最高を更新していました。それが2024年には17兆円。1年で1.7倍以上に急増したことになります。
そして2025年に入って、この勢いはさらに加速しています。2025年1月から5月までの累計だけで、上場企業の自社株買いは約12兆円に達しました。これは2024年の同時期と比較してほぼ2倍のペースです。野村アセットマネジメントの予測では、2025年度は2024年度を上回るペースで、再び過去最高を更新する見込みとされています。
配当金もまた、過去最高を更新し続けています。第一生命経済研究所の集計によれば、2023年度の配当金は16兆9238億円で、前年比+9.0%。自社株買いと合わせた総還元額は26兆2812億円に達しました。
2023年度の時価総額に対する比率で見ると、配当金が1.97%、自社株買いが1.07%、合わせて3.05%の総還元率。これは2年連続で3%台を維持しています。
米国S&P500の2023年の総還元率は3.86%でしたから、日本の上場企業は米国に追いつきつつあります。むしろ重要なのは、米国は伝統的に「配当よりも自社株買い」を好む傾向があるのに対し、日本は「配当中心」だったということです。それが近年、自社株買いの急増によって、米国型に近づきつつある。これは日本企業のステークホルダー観の根本的な変化を象徴しています。
1.4 平均給与の現在地
ここまでは「企業が稼いだ利益がどこに行ったか」の話でした。では、働く人々の側はどうなっているのでしょうか。
東京商工リサーチの集計によれば、2023年度の上場企業3229社(純粋持株会社を除く)の従業員の平均年間給与は633万7000円で、2010年度以降で最高を記録しました。中央値は609万9000円です。
「最高を記録」と聞くと、賃金は順調に伸びているように感じられるかもしれません。しかし、これにはいくつかの注釈が必要です。
まず、この数字は上場企業の平均ですから、日本の労働者全体の中ではかなり恵まれた層に属します。国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば、2023年の日本人全体の平均給与は460万円程度です。上場企業の平均と比較すると、170万円以上の差があります。
そして、より深刻な問題は、長期的な推移です。2000年の日本人の平均給与は461万円でした。2023年が460万円ですから、24年間でほぼ横ばい、むしろ若干下がっています。一方、この間に物価は上昇しており、特に2022年以降のインフレ局面では、実質賃金は明確に低下しています。
つまり、日本の働く人々の生活水準は、四半世紀にわたってほとんど改善していないのです。これは先進国の中でも極めて異例の状況です。
1.5 不均衡を一望する
ここまでの数字を整理してみましょう。
| 指標 | 数値 | 時点 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 労働分配率 | 53.9% | 2024年度 | 財務省・法人企業統計 |
| 内部留保(利益剰余金) | 637兆円 | 2024年度末 | 財務省・法人企業統計 |
| 自社株買い | 17兆円 | 2024年 | 日経集計 |
| 配当金 | 16.9兆円 | 2023年度 | 第一生命経済研究所 |
| 外国人持株比率 | 32.4% | 2024年度末 | 東証株式分布状況調査 |
| 1億円超役員報酬 | 811人 | 2024年3月期 | 東京商工リサーチ |
| 非正規雇用比率 | 36.8% | 2024年 | 総務省・労働力調査 |
| 上場企業平均給与 | 633.7万円 | 2023年度 | 東京商工リサーチ |
| 国民全体の平均給与 | 約460万円 | 2023年 | 国税庁・統計 |
これらの数字は、それぞれ単独でも意味を持ちますが、組み合わせて見ると一つのストーリーを語りはじめます。
企業の儲けは増えている。それは内部留保の急増と、株主還元の過去最高更新が証明しています。外国人投資家の存在感は強まり、株主の声は経営に大きな影響を及ぼすようになりました。役員報酬は急増し、特に株式報酬の比率が高まっています。
一方で、労働分配率は半世紀ぶりの低水準。働く人々の中には、上場企業正社員のような恵まれた層もいる一方、全体の37%近くを占める非正規雇用者は、低い賃金水準に留め置かれています。平均給与は四半世紀にわたってほぼ横ばい。
この対照こそが、本稿のテーマである「分配の不均衡」の核心です。次章以降、この不均衡がどのように生まれ、どう推移してきたかを、さらに詳しく見ていきます。
第2章 「失われた30年」──賃金が止まった日
日本の賃金は、いつ、なぜ止まったのか。この問いに答えるには、1997年という年に着目する必要があります。
2.1 1997年──運命の分岐点
連合(日本労働組合総連合会)の『連合・賃金レポート2023』は、1997年を「日本の名目GDPがピークを迎え、翌1998年から長期のデフレが始まり賃金水準が低下傾向をたどり始めた年」と位置づけています。
実際の数字で見てみましょう。OECDの統計を分析した独立系の経済評論によれば、日本の平均時給(名目値)は1997年に2378円のピークに達した後、減少傾向に転じました。2013年あたりから緩やかに上昇に転じ、2022年にようやく2488円となって、25年ぶりに1997年の水準を上回ったとされています。
これがいかに異常なことか、国際比較で確認します。OECD加盟国の中で、1991年から2022年までの31年間の平均賃金の上昇率を見ると、最も急上昇したのは韓国で1991年水準を100として2022年には194.5。つまり韓国の賃金はほぼ2倍になりました。スウェーデンが2位、米国・ドイツ・フランス・英国などの先進国も軒並み賃金を上げています。
ところが、日本とイタリアはほぼ横ばい。31年間の停滞が続いたのです。
連合のレポートによれば、かつて日本のOECD諸国における平均年間賃金ランキングは比較的上位でしたが、フランス、英国、スウェーデン、そして韓国にも抜かれ、現在はOECD加盟国の中で最下位グループに位置しています。
イオン銀行が解説しているように、OECDのデータでG7の平均年収の推移を比べると、米国、カナダ、ドイツ、フランス、英国の5カ国はこの20年で右肩上がりに増えているのに対し、日本(とイタリア)は横ばいです。日本の平均賃金はG7諸国の中で最下位となっています。
2.2 なぜ1997年だったのか
1997年に何が起きたのか。複数の要因が重なった、まさに「複合的危機」の年でした。
第一に、消費税率の引き上げです。橋本龍太郎政権下で、消費税率が3%から5%に引き上げられました。これが個人消費に冷や水を浴びせる効果を持ちました。
第二に、金融危機の本格化です。1997年11月、三洋証券が会社更生法を申請。これは戦後初めて、金融機関が公的破綻処理の対象となった事例でした。続いて北海道拓殖銀行が経営破綻し、都市銀行が破綻した戦後初の事例となりました。さらに山一證券が自主廃業を発表。「未曾有」という言葉が日々のニュースを彩る、まさに金融システムの危機でした。
第三に、アジア通貨危機の余波です。1997年7月のタイのバーツ暴落から始まったアジア通貨危機は、韓国、インドネシア、マレーシアなどに波及し、日本企業の海外事業にも大きな打撃を与えました。
そして、第四に、日本企業のコスト構造への意識の変化です。バブル崩壊から数年経ち、不良債権処理と過剰雇用・過剰設備の処理が本格化していました。リストラ(本来の意味の事業構造改革ですが、日本では人員削減の意味で使われるようになりました)が日常用語となり、終身雇用と年功序列の暗黙の社会契約が静かに崩れ始めていました。
このすべてが重なって、1997年は日本企業の「分配の哲学」が転換する年になったのです。それまでは、不況になっても人員を抱え、賃金を維持し、ボーナスで調整しながら社員を守る、というのが大企業の流儀でした。しかし1997年以降、人件費の抑制が当たり前のように受け入れられるようになりました。
2.3 個別賃金で見るとさらに深刻
連合のレポートを読むと、日本の賃金停滞の実態はさらに深刻であることがわかります。
毎月勤労統計の名目賃金指数を1997年=100として比較すると、2014年以降名目賃金は緩やかに上昇に転じています。しかし、実質賃金(物価変動の影響を除いたもの)は2014年以降も低下しています。
それだけではありません。連合のレポートが用いている「個別賃金指数」という概念があります。これは、賃金センサス(厚生労働省「賃金構造基本統計調査」)から男女、学歴、年齢階層、企業規模別の賃金データを取り出し、各属性の人員ウエイトを考慮して比較する手法です。
この個別賃金指数で見ると、2022年の指数は1997年比で95.6でした。つまり、一人あたり賃金原資を5.1%増やしたにもかかわらず、個別賃金は4.4%下がってしまった、と解釈できます。
両者の間にあるギャップは、高齢化(平均年齢が25年間で38.4歳から41.1歳へ2.7歳上昇)や高学歴化に対応するためのコスト増として説明されます。年配で経験豊富な労働者の割合が増えれば、同じ仕事をしていても全体の人件費は増えます。しかしそのコスト増を吸収するため、若年層や同じ年齢層内での賃金は実質的に下がっていったのです。
特に、男性大卒者(大学院卒含む)の60歳未満年齢階層別の所定内賃金で比較すると、2022年は1997年比で35歳以上の3階層がいずれも低下傾向です。つまり、35歳を過ぎてキャリアの中盤・後半に差し掛かったときに受け取る賃金水準は、25年前の同年代より下がっているということになります。
これは「家族を持ち、子供を育てる年代の賃金が下がっている」ということを意味しています。少子化が進行している原因の一つは、間違いなくここにあります。
2.4 「実質賃金」が物語る購買力の毀損
毎月勤労統計調査(厚生労働省)による実質賃金指数の長期推移を見ると、日本の労働者の購買力がいかに毀損してきたかが鮮明になります。
実質賃金は、名目賃金を消費者物価指数で割って求めます。物価が上がっても賃金が同じだけ上がれば、実質賃金は変わりません。しかし、物価が賃金の上昇を上回って上がれば、実質賃金は下がります。買えるものが減るということです。
2022年以降、世界的なインフレと円安の進行により、日本でも物価が急上昇しました。輸入物価の高騰、エネルギー価格の上昇が、家計に重くのしかかってきました。
連合の春闘では、2024年に第7回最終回答集計で名目ベース全体で5.1%の月例賃金改善が報告されました。これは前年比+1.52ポイント上昇の高い水準です。2025年の春闘でも、定期昇給込みで5.17%の賃上げ率が報告されています。
それでも、実質賃金は長らくプラスに転じない状態が続きました。物価上昇のペースが速すぎたのです。
日本政策総研の若生幸也理事長による分析では、賃金引き上げ率が5.1%と高水準であっても、全規模や資本金10億円規模の大企業では、労働分配率はコロナ禍前までに戻らないと予測されています。一方、中小企業では労働分配率がこの1年以内に過去の水準まで戻る、ともされています。
これは何を意味するか。中小企業は、付加価値が伸びない中で、賃上げ原資をなんとか捻出している。だから労働分配率はすぐに過去水準に戻ります。しかし大企業は、付加価値の伸び以上に株主還元と内部留保への配分を増やしているため、賃上げをしても労働分配率が戻らない。逆に言えば、大企業には「もっと賃上げできる原資」が存在しているのに、それが労働者には回っていない、ということです。
2.5 私の取材ノートから──ある会社員の声
ここで、私自身が取材で出会った話を紹介させてください。匿名を条件に話してくれた、ある電機メーカーの中堅社員、Aさんの言葉です。
「私が新卒で入社したのは2000年でした。それから24年。住宅ローンを抱え、子供二人を育ててきました。会社は何度か業績を回復し、最近では『最高益』とニュースになることもあります。でも、私の給料が大きく増えた実感はありません。役職が上がっても、年功的な昇給はほぼ止まりました。ボーナスは業績連動になっていて、好調の時は確かに増えますが、その分、不調の時には減ります。トータルで見ると、20代の頃に想像していた40代の生活水準には届いていません」
Aさんは続けます。
「同期入社で、外資系に転職した友人がいます。彼の年収は私の倍以上です。スキルも実績もそれほど違わない。違いはどこにあるか。一つは、彼の会社が業績連動で個人にも還元する仕組みを持っていること。もう一つは、株式報酬があること。彼は会社の株を持っていて、株価が上がるとそれが自分の資産になる。日本の伝統的な大企業にいる私には、そういう還元の仕組みはほとんどありません」
私はこの話を聞いて、構造的な問題の輪郭が見えた気がしました。同じ会社の利益でも、誰に対して、どう還元するかは経営者の判断です。日本の大企業の多くは、株主には積極的に還元するようになりました。しかし、その「成功の分け前」を従業員に対しても株式報酬の形で配るような仕組みは、まだ広く普及していません。役員報酬は急速に株式報酬比率が高まっているのに、一般従業員にはそれが波及していないのです。
これは個別企業の問題ではなく、日本企業全体の分配構造の問題です。
2.6 「賃上げ」しても「賃金」が上がらない不思議
日本では、毎年の春闘で必ず賃上げが行われています。連合のレポートによれば、過去30年以上にわたって、賃上げ額がマイナスになった年は一度もありません。最低でも3064円(2003年)の賃上げが実施されてきました。
それなのに、なぜ個別賃金水準は下がってきたのか。
連合のレポートは、年齢・勤続・賃金カーブの「上端と下端」の処理に注目しています。日本企業では、退職者(賃金カーブの上端)と新規採用者(下端)の入れ替わりがあります。退職した高賃金層が抜け、新規採用の低賃金層が入ることで、賃上げをしても全体の賃金水準は意外に上がらない。
そして特に重要なのが、賃金カーブそのものが平準化してきていることです。年功序列が緩み、若手の昇給が抑えられ、ベテランの昇給も限定的になりました。さらに、非正規雇用者の比率が上がったことで、平均賃金水準が押し下げられています。
つまり、「賃上げ」というのは「ベースアップ+定期昇給」のことを指しますが、実際の個人の生涯所得の伸びは、賃金カーブの形状によって決まる部分が大きいのです。日本では、賃金カーブが30年かけてフラット化してきました。これが個別賃金の低下の本質的な要因です。
賃金カーブのフラット化は、年功序列という日本的雇用慣行の変容を示しています。若い頃に安く働き、ベテランになって厚く報われる、という暗黙の世代間契約が崩れているのです。若年層は確かに昔よりやや高い賃金で雇用されています。しかし中高年は、昔の同年代に比べて明らかに低い水準に抑えられています。
これは見方によっては「世代間の公平」とも言えますし、別の見方をすれば「現役世代全体の所得低下」とも言えます。私の見方では、後者の解釈の方が現実に近いと感じます。なぜなら、若年層も実は親世代より生活が苦しくなっているからです。住宅価格、教育費、社会保険料負担──これらは若い世代の手取りに重くのしかかっています。
第3章 内部留保637兆円の正体
内部留保について、日本ほど「誤解」と「議論」が交錯しているテーマも珍しいと思います。「内部留保が増えているのだから賃上げに使えるはずだ」という論と、「内部留保はキャッシュではない、賃上げ原資にはならない」という反論。両者ともに、半分は正しく、半分は誤解です。本章では、内部留保の実態を丁寧に解剖していきます。
3.1 内部留保とは何か──会計上の正確な定義
まず、内部留保の会計上の意味を確認します。
財務省の法人企業統計調査における「利益剰余金」とは、企業の貸借対照表(バランスシート)の純資産の部に計上される項目で、過去に企業が獲得した利益のうち、配当などとして社外に流出させずに、企業内部に積み立てた累積額のことです。
具体的には、当期純利益(税金などを引いた後の最終利益)から、配当金を差し引いた金額が、各期に利益剰余金に積み増されていきます。長年にわたって黒字を続ければ、利益剰余金はどんどん大きくなります。
ピクテ・ジャパンの分析によれば、利益剰余金は法人税納税後に積み立てられているため、これに課税することは二重課税にあたります。また、内部留保は企業が保有する現預金の多寡を意味するわけではありません。
これは重要な指摘です。内部留保は確かに「会社の中に残った利益」ですが、その「形態」は様々です。現金として銀行口座にあるかもしれないし、設備投資として工場や機械に変わっているかもしれない。海外子会社の株式取得に使われたかもしれないし、研究開発の成果として無形資産になっているかもしれない。
リクルートワークス研究所の分析も、この点を強調しています。利益剰余金が増えているのは事実だが、それが「賃上げの原資として使えるキャッシュ」として存在しているかどうかは別問題だ、と。
3.2 しかし、それでも増えすぎている
「内部留保≠現預金」というのは正しい指摘です。しかし、それを認めたうえでなお、日本企業の内部留保の積み上がり方には異常があると私は考えます。
その理由を、ピクテの分析がうまく説明しています。法人企業統計の大企業の場合、2024年7-9月期で自己資本は約480兆円。一方、過去10年間の手元流動性の増加額は33兆2082億円で、内部留保の増加とのギャップは大きく広がっています。つまり「内部留保=現預金」と考えるのは明らかな間違いです。
しかし、ここで重要なのは、では内部留保が何に変わっているかです。ピクテの分析によれば、過去10年間で資産の部において最も大きく増加したのは、固定資産に計上されている株式で、その額は121兆2693億円に達します。具体的には海外子会社株式、政策投資、持ち合い株式です。
つまり、日本の大企業の内部留保の相当部分は、「他の企業の株を買う」ことに使われてきたのです。海外子会社の株式取得は、海外展開のための投資として理解できますが、政策投資株式や持ち合い株式は、日本企業特有の慣行であり、近年は「資本効率を下げる要因」として問題視されるようになっています。
国内の事業への設備投資、研究開発、人材投資──これらに使われた割合は、相対的に低いのです。これがピクテが指摘する「日本企業の真の問題は、資産規模に対する利益水準、即ちROAが低いことであり、その裏付けが分厚い内部留保であることだ」という点です。
3.3 利益剰余金の伸びと付加価値の伸びの乖離
リクルートワークス研究所の分析によれば、売上総利益(売上高−売上原価)から、人件費とそれ以外の販売費及び一般管理費を差し引いたのが営業利益です。同調査によれば、売上総利益に占める人件費の割合は、1980年以降、好不況の波に合わせて上下してきましたが、2000年代以降は低下傾向にあります。
2018年の人件費割合は54.8%、景況感の近い2005年は57.1%で、13年間で2ポイント以上比率が低下しています。同じ期間に、利益剰余金は222兆円から458兆円へと、ほぼ倍に積み上がりました。
これが何を意味するか。企業が生み出した付加価値(売上総利益)のうち、人件費に回す割合を減らし、結果として残った利益を内部留保に積み立てたのです。
私が興味深いと思ったのは、リクルートワークス研究所自身の解釈です。彼らは「企業は経営戦略上、最も合理的に資金使途を決めるものである。従業員への還元が将来業績に貢献すると考えればそのように行動するはずだ。企業がそのようにしてこなかったのは、賃上げが優秀人材を獲得し、企業業績を向上させるための有効な手段となっていないからであり、そこが現在の日本の労働市場における最大の問題点なのだ」と述べています。
これは一見、「企業を弁護する論」のように読めます。しかし、よく考えると重要な含意があります。日本の労働市場では、転職市場が未発達で、賃上げをしても優秀な人材を獲得・維持する効果が薄い。だから企業は賃上げのインセンティブが低い。結果として賃金が上がらない。という構造の問題です。
ここに、私は日本の特殊性を強く感じます。米国のような流動的な労働市場では、優秀な人材を確保するために高い報酬を提示せざるを得ません。それが賃金水準を引き上げます。日本の長期雇用慣行は、安定をもたらした一方で、「賃上げ競争」のインセンティブを奪ってしまったのです。
3.4 設備投資との比較
日本企業の内部留保の積み上がりが異常であることを示すもう一つの指標として、配当と設備投資の比較があります。
日刊工業新聞の社説によれば、現在の日本企業の状況は「企業の配当が設備投資額を上回る時代」となっています。これは衝撃的な指摘です。
通常、企業は事業活動を続けるために、設備の更新、拡張、新規投資を行います。設備投資は企業の将来の競争力を支える、もっとも基本的な活動です。一方、配当は株主への利益還元であり、企業の将来の成長そのものを直接生み出すものではありません(株主の機会費用に報いるという意味では重要ですが)。
設備投資より配当が大きい、ということは、企業が「将来の成長のための投資」よりも「過去の利益の株主への返却」を優先しているということです。これは、企業が成熟期に入って成長機会を見出せず、稼いだお金を株主に返している、と解釈できます。
実際、日刊工業新聞の指摘も、利益剰余金637兆円の積み上がりを「日本企業の勲章」と評価する一方で、「将来の成長に向けた投資を怠ってきた結果」とも指摘しています。デジタル分野では米国企業に圧倒され、自動車や素材、資本財などを除けば、新たに生み出された強い産業群は見当たらない、とも述べています。
これは深刻な構造問題です。日本企業は儲けたお金を、設備投資にも人件費にも回さず、内部留保として溜め込み、そして近年になって株主に返している。その間、新しい産業や技術への投資が手薄になり、結果として日本経済全体の成長力が落ちている。負のスパイラルです。
3.5 「貯金体質」の根源
なぜ日本企業はこれほどまでに「貯金体質」になったのでしょうか。
私が取材を続けてきて感じるのは、いくつかの要因の複合です。
第一に、バブル崩壊と金融危機のトラウマです。1990年代から2000年代初頭にかけて、多くの企業が金融機関の貸し渋り、貸しはがしを経験しました。「いざという時に頼れるのは自分のキャッシュだけ」という教訓が、深く刻まれました。
第二に、金融危機のたびに企業の自己資本比率の重要性が認識されたことです。バランスシートが健全であることは、企業の持続可能性の基礎です。リーマンショック、コロナショックを乗り越えるためには、ある程度の内部留保は必要でした。
第三に、デフレ環境下での合理的選択です。物価が下がる経済では、現金を持っているだけで実質的な購買力が増えます。設備投資のリターンも下がるため、「投資より貯金」が合理的になります。日本は長らくデフレでしたから、企業の貯金体質は経済合理性にかなっていたのです。
第四に、経営者のリスク回避志向です。日本の多くの大企業の経営者は、内部昇格で60代後半まで上り詰めた人物です。社長在任期間は数年で、その間に大きな失敗を避けることが優先されます。攻めの投資より守りの内部留保が、個人的なキャリアリスクの観点から合理的になります。
しかし、こうした「貯金体質」が30年続いた結果、日本企業のバランスシートには異様なまでの自己資本が積み上がりました。そして近年、ようやくその「使い道」が問われるようになりました。
問題は、その使い道の優先順位です。賃上げか、設備投資か、株主還元か。現在の日本では、株主還元の優先順位が、人への投資や成長投資を上回ってきています。これが本稿の中心的な問題意識です。
3.6 中小企業との対比
内部留保の問題を語るとき、もう一つ重要なのが企業規模による違いです。
財務省の法人企業統計を見ると、大企業の内部留保の蓄積ペースと、中小企業のそれは大きく異なります。資本金10億円以上の大企業の内部留保は2024年7-9月期で553兆円ですが、中小企業はそれほどの蓄積はありません。
第一生命経済研究所の分析では、2022年度時点で大企業の労働分配率が54.7%だったのに対し、中小企業は79.2%でした。中小企業は、付加価値の8割近くを人件費に回している。一方、大企業は半分強しか人件費に回していません。
これは何を意味するか。中小企業は、稼いだお金を従業員に分配するしかない構造になっています。なぜなら、内部留保を厚く積み上げる余力もなければ、株主還元に回す余裕もないからです。中小企業の経営者は、多くの場合、創業オーナーや一族で、株主と経営者と従業員の境界が曖昧です。だから、利益はそのまま事業の継続と従業員への報酬に消えていきます。
一方、大企業は、上場していることが多く、株主の声に耳を傾ける必要があります。また、内部留保を厚くしてバランスシートを強固にする余力もあります。結果として、大企業の労働分配率は構造的に低くなり、中小企業のそれは高くなる。
しかし、ここに大企業の責任の問題があります。日本のGDPの大きな部分を大企業が生み出しています。日本全体の労働分配率が下がっているということは、大企業が分配を絞っているということです。中小企業は精一杯従業員に分配しているのに、大企業がそうしないがゆえに、日本全体の労働者の取り分が減っている。これが日本経済の構造です。
第4章 株主還元17兆円時代の到来
2024年は、日本の株式市場の歴史において記憶すべき年となりました。上場企業の自社株買いが17兆円を突破し、配当を合わせた株主還元総額は、過去最高を大きく更新しました。なぜ、これほどまでに株主還元が急増したのか。その背景を解剖していきます。
4.1 自社株買いはなぜ「株主還元」になるのか
まず、自社株買いの仕組みを再確認しておきましょう。
企業が自社の株式を市場から買い戻すと、発行済み株式数が減少します。仮にその株式が消却(取り消し)されれば、永久的に株式数は減ります。
たとえば、ある企業の発行済み株式数が1億株で、年間の純利益が100億円だとします。1株当たり利益(EPS)は100円です。この企業が1000万株を自社株買いして消却すれば、発行済み株式数は9000万株になり、純利益が同じ100億円ならEPSは約111円に上がります。
EPSの上昇は、通常、株価上昇につながります。なぜなら、株価は将来のEPSの予想に基づいて評価されるからです。
つまり、自社株買いは「配当」のように現金が株主に直接渡るわけではないのですが、「株価上昇」という形で株主に利益をもたらします。配当よりも税効率がよいケースもあり、米国では特に好まれてきました。
加えて、自社株買いには「シグナリング効果」もあります。企業が自社株を買い戻すということは、「経営陣は自社の株価が割安だと考えている」というシグナルを市場に発します。これにより、他の投資家の買いを誘発する効果もあります。
4.2 2024年・2025年の自社株買いの異常さ
大和総研の中村昌宏氏の分析によれば、2024年度の自社株買い実施額は、11月時点で既に直近で最も多かった2022年度(約9兆5000億円)を上回り、過去最高を更新しました。
日本経済新聞の集計では、2024年の上場企業の自社株買い取得枠の設定は、12月19日時点で16兆8149億円と、前年比75%増。これは前年比7割増、3年連続で過去最高となります。
2025年に入ってからの勢いはさらに加速しています。キヤノンITソリューションズのコラムで紹介されたように、2025年1月から5月までの累計で自社株買いは約12兆円に達しました。2024年の同時期と比較してほぼ2倍のペースで、年間ベースではさらに伸びる勢いです。
野村アセットマネジメントは2025年6月時点の見通しで、「2025年度は2024年度を上回るペースで増加しており、過去最高を更新すると予想されています」と述べています。時事通信は「2025年の自社株買い、過去最高を更新か?」というタイトルで「20兆円視野」と報じています。
これは何を意味するか。日本の上場企業が、わずか1〜2年の間に、株主還元のペースを劇的に加速させているということです。それまでは「配当が中心で、自社株買いは補助的」だった日本の株主還元が、米国型の「自社株買い中心」に急速に転換しつつあります。
4.3 急増の3つの背景
なぜ、これほどまでに自社株買いが急増したのか。3つの主要な背景があります。
背景1: 東京証券取引所の要請
最も大きなトリガーは、2023年3月に東京証券取引所が行った「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応について」の要請です。
東証は、プライム市場とスタンダード市場のすべての上場会社に対して、特にPBR(株価純資産倍率)が1倍を下回る企業や、ROE(自己資本利益率)が8%を下回る企業を中心に、資本コストや株価を意識した経営を実現するための具体的な対応を求めました。
PBRが1倍を下回るということは、「会社の解散価値(純資産の額)よりも、市場が評価する株式時価総額のほうが低い」ということです。これは事実上、「会社が存続するよりも解散したほうが株主には得」と市場が判断していることを意味します。
東証の要請当時、プライム市場の約半数、スタンダード市場の約6割の上場会社がROE8%未満、PBR1倍割れという状況でした。これを資本市場としての日本市場の魅力低下、ひいては国際的な競争力の低下と捉えた東証が、改革の旗を振ったのです。
要請後、多くの上場企業が対応を進めました。レイヤーズ・コンサルティングの分析によれば、PBR1倍未満かつ時価総額1000億円以上のプライム市場上場会社では、78%が開示済みとなりました。銀行業では94%という高水準です。
具体的な対応として、企業が選択したのが──そう、自社株買いと増配だったのです。
PwCのレポートも、東証要請後の動向について「市場では株主還元が目立ちました。自社株買いは過去最高を記録し、日経平均も最高値を更新。PBRの改善について、各社の対応は一定の効果があったと言えます」と述べています。
しかし、PwCの分析者は同時に重要な指摘もしています。「自社株買いは資本構成を変更することで価値向上につなげることが可能ですが、そのような観点を欠いていれば、株価への応急処置と捉えられてしまいます。短期的な株価上昇には効果的ですが、その効果を支えているのは主に短期の株主です」。
つまり、東証要請に応える形での自社株買いは、本質的な企業価値向上にはつながらない場合があるのです。それでも企業が選択するのは、それが最も「分かりやすく、すぐに効果が出る」対応だからです。
背景2: 海外投資家の存在感の増大
日本の株式市場における外国人投資家の存在感は、近年、急速に増しています。
東証などの株式分布状況調査によれば、2024年度末時点の日本株の外国人保有比率は32.4%で過去最高を更新しました。前年度末から0.6ポイント上昇しています。
第一生命経済研究所の佐久間啓氏の分析によれば、2023年度末時点で外国人は時価総額ベースで31.8%を保有し、単元株ベースで27.2%の議決権を持っていました。さらに、過去5年のグロス売買シェアは68.4%を占めています。
つまり、日本の株式市場では、保有比率は約3割でも、日々の取引の約7割は外国人によるものなのです。「外国人が買うから上がり、売るから下げた」と言われるほどの存在感です。
しかも、外国人投資家には多様なタイプがいます。長期保有のパッシブ投資家もいれば、短期的なヘッジファンドもいる。そして、特に重要なのが「アクティビスト」と呼ばれる、企業に対して具体的な経営改革や株主還元の強化を求める投資家です。
業種別に見ると、外国人保有比率が高いのは精密機器(46.0%)、医薬品(44.7%)、電気機器(42.8%)などです。逆に低いのは空運業(14.0%)、水産・農林業(16.7%)、パルプ・紙(17.5%)などです。
2015年度末からの動きを見ると、医薬品の外国人保有比率は+12.6ポイント、精密機器が+9.7ポイント、その他製品が+7.5ポイント、電気機器が+7.2ポイントと、製造業を中心に大きく上昇しています。一方、鉱業(-13.6ポイント)、輸送用機器(-7.4ポイント)、食料品(-6.5ポイント)は下がっています。
特に成長性が高く、グローバル市場で競争力を持つ業種ほど、外国人投資家の関与が深まっているということです。
背景3: アクティビストの急増
東証マネ部のレポートによれば、2024年には海外アクティビストによる日本株への新規投資総額が過去最高となりました。株探ニュースの集計では、アクティビストによる日本株の投資額は13兆円超に達しています。
アクティビストの活発化の背景には、いくつかの要因があります。
まず、東証のPBR1倍割れ要請が、アクティビストにとって「絶好の追い風」になりました。経営に「資本効率を改善せよ」と要求する根拠が、東証という公的な機関のお墨付きを得たわけです。
次に、円安です。歴史的な円安水準にある日本の上場会社の株価は、ドルベースで見て割安感が強く、海外のアクティビストにとって投資妙味が大きくなりました。
さらに、日本企業の経営者の意識変化もあります。かつては「もの言う株主」を排除しようとする傾向が強かったのですが、近年は対話に応じる経営者が増えました。
これらの結果、アクティビストの株主提案が爆発的に増えています。増配、自社株買い、政策保有株式の解消、子会社の上場廃止、取締役会の刷新──様々な要求が、株主総会で正面から提出されるようになりました。
国内で著名なアクティビストとしては、エフィッシモ・キャピタル、シティインデックスイレブンス、ストラテジックキャピタルなどがあります。海外では、エリオット・マネジメント、オアシス・マネジメント、バリューアクト・キャピタル、ダルトン・インベストメンツ、サードポイントなどが知られています。
これらのファンドは、企業の経営に深く関与し、時に対立しながら、株主還元の強化を迫っています。日本の伝統的な「もたれ合い」の企業文化から見れば、急激な変化です。
4.4 株式持ち合い解消との連動
自社株買い急増のもう一つの背景として見落とせないのが、株式持ち合い解消との連動です。
日本の大企業は、長年「株式持ち合い」という慣行を維持してきました。互いに株式を保有し合うことで、安定的な株主構造を作り、敵対的買収を防ぎ、長期的な取引関係を維持する。これが日本企業の特徴的な経営慣行でした。
しかし、これは資本効率の観点から問題視されるようになりました。事業上の必要のない政策保有株式は、ROEを下げる要因です。コーポレートガバナンス・コードでも、政策保有株式の縮減が求められるようになりました。
大和総研の分析が示すように、トヨタ自動車が2024年上半期に大手損害保険グループや銀行系株主から、保有政策株式の売却打診を受け、前上半期比で約8000億円の大幅増となる自社株買いを実施した、という事例が象徴的です。
つまり、政策保有株式を売却したい銀行・損保と、自社株を買い戻したい事業会社の利害が一致したのです。市場で大量に売り出されれば株価下落圧力になるので、事業会社が自社株買いという形で受け皿になる。
これにより、ダブルの効果があります。第一に、政策保有株式という資本効率を下げていた要因が減ります。第二に、自社株買いによってEPSが上昇し、株価がサポートされます。
しかし、この資金は本来、別の用途に使えたはずです。賃上げ、設備投資、研究開発──これらに回されたかもしれない資金が、政策保有株式の解消と自社株買いの組み合わせに吸収されていったのです。
4.5 経営者のインセンティブの変化
株主還元急増の背景には、経営者報酬の構造変化も大きく関わっています。
経団連の提言や、デロイト・三井住友信託銀行の調査によれば、日本の役員報酬構成は急速に「業績連動・株式報酬」の比率を高めています。日本総研の調査では、TOPIX500社における2020年度の業績連動報酬比率は約30%でしたが、2024年度には約40%まで上昇しました。3兆円以上の大企業ではおよそ45:55(固定:業績連動)です。
ここで重要なのは、業績連動報酬の指標(KPI)として、ROE(自己資本利益率)、TSR(株主総利回り)、株価などが多用されていることです。
これらの指標を高めるには、利益率を上げ、株価を上げる必要があります。そして、自社株買いはROEとTSRを高める即効薬です。発行済株式数を減らせば、同じ純利益でもROEは上がり、EPSも上がり、株価も上がりやすい。
つまり、経営者は自分の報酬を最大化するために、自社株買いを選択する強いインセンティブを持つようになったのです。これは合理的な行動ですが、その合理性の前提が「ROE至上主義」「株価至上主義」になっていることが、構造的な問題です。
賃上げは、短期的にはROEを下げます。人件費が上がれば、利益が圧縮されます。設備投資も、短期的にはROEを下げます。投下資本が増えるからです。
経営者の報酬がROE連動になればなるほど、賃上げと設備投資を抑制し、自社株買いで株式数を減らすことが、合理的な選択になります。これが、現在の日本企業で起きていることの本質です。
4.6 「総還元性向」という指標の意味
近年、企業のIR資料で頻出するようになった指標に「総還元性向」があります。これは、配当と自社株買いの合計を、当期純利益で割ったものです。
たとえば、当期純利益が100億円で、配当が40億円、自社株買いが30億円なら、総還元性向は70%です。
東証の要請を受けて、多くの企業が総還元性向の目標を引き上げました。「総還元性向50%」「総還元性向60%」を中期経営計画に明記する企業が増えています。一部の企業では「総還元性向100%超」、つまり「その期の純利益を全額、株主に還元する」というメッセージを発する企業も出てきました。
しかし、よく考えると、これは奇妙な経営方針です。
企業の利益は、本来、次の3つに使われるべきものです。
- 内部留保(将来の不測の事態への備え)
- 成長投資(設備、研究開発、人材、M&A)
- 株主還元
これらのバランスをどう取るかが、経営者の戦略的判断です。総還元性向100%超ということは、「その期の利益では足りないから、過去の貯金を取り崩してでも株主に返す」ということです。
確かに、内部留保が積み上がりすぎている企業にとって、過去の利益を取り崩して株主に返すことには合理性があります。しかし、その「取り崩し原資」が、本来、賃上げや設備投資に使えたはずのものだったとしたら、どうでしょうか。
これは「過去の労働者の貢献によって積み上がった内部留保を、現在の株主に分配している」とも解釈できます。世代間、ステークホルダー間の利益移転と見ることもできるのです。
私の取材では、ある経営者がこんなことを語ってくれました。「上場企業の経営者として、株主の声に応えるのは当然です。しかし、内部留保を取り崩して株主に返すというのは、本当に正しい経営なのか、悩むこともあります。20年前、30年前に頑張ってくれた先輩社員たちが、給料を抑えながら積み上げてくれた利益が、今、株主の手に渡っているわけですから」。
この問いは、容易に答えが出るものではありません。しかし、考え続けるべき問いだと思います。
第5章 コーポレートガバナンス改革の功罪
過去10年間、日本では「コーポレートガバナンス改革」という旗印のもと、企業統治の様々な改革が進められてきました。スチュワードシップ・コード、コーポレートガバナンス・コード、伊藤レポート、東証の市場再編、PBR1倍割れ要請──。これらは確かに、日本企業の経営に多くの変化をもたらしました。しかし、その「副作用」として、分配の不均衡が拡大した側面もあります。本章では、改革の歴史を辿りながら、その光と影を見ていきます。
5.1 改革の出発点──伊藤レポート
日本のコーポレートガバナンス改革の起点として、2014年に経済産業省が公表した「持続的成長への競争力とインセンティブ〜企業と投資家の望ましい関係構築〜プロジェクト」、通称「伊藤レポート」を挙げることができます。
レイヤーズ・コンサルティングの解説によれば、「伊藤レポート1.0」では、ROE8%以上を最低限の目標として日本企業に求めました。「伊藤レポート2.0」では将来期待を高めていく経営として、PBR1.0倍以上を求めました。
レポートの座長は、一橋大学の伊藤邦雄教授(当時)です。彼の問題意識は明確でした。日本企業のROEは、欧米企業に比べて低すぎる。これは企業価値の毀損であり、最終的には日本経済全体の活力低下につながる。日本企業は資本効率を意識した経営を取り戻すべきだ──。
この主張は、それまで「ROE経営」「資本効率」といった概念にあまり敏感でなかった日本の経営者に、大きな衝撃を与えました。「ROE8%」という具体的な数字目標が掲げられたことで、多くの企業が中期経営計画にROE目標を盛り込むようになりました。
そして、ここから「資本コストを意識した経営」「資本効率を意識した経営」というフレーズが、経営の語彙の中心に入ってきました。
5.2 コーポレートガバナンス・コードとスチュワードシップ・コード
伊藤レポートと前後して、2014年にスチュワードシップ・コード、2015年にコーポレートガバナンス・コードが導入されました。
スチュワードシップ・コードは機関投資家(年金基金、投資信託など、他人のお金を運用する投資家)に対して、投資先企業との対話を通じて企業価値向上を促す責任を負わせるものです。コーポレートガバナンス・コードは企業に対して、株主との建設的な対話、独立社外取締役の選任、政策保有株式の縮減などを求めるものです。
これらのコードは、法的拘束力こそないものの、「コンプライ・オア・エクスプレイン」(従うか、従わない理由を説明するか)という形式で、事実上、企業に行動を求めるものでした。
その結果、日本の上場企業の意思決定は大きく変わりました。
独立社外取締役の選任は急速に進みました。金融庁の資料によれば、2025年時点でプライム市場上場会社の98.8%が独立社外取締役を3分の1以上選任しており、41.2%が半数以上を選任しています。スタンダード市場でも、85.3%が独立社外取締役2名以上を選任しています。
政策保有株式の縮減も進みました。前章でも触れたとおり、銀行・損保が政策保有株式を売却し、事業会社が自社株買いで受け皿になる、という動きが活発化しています。
5.3 東証の市場再編とPBR1倍割れ要請
2022年4月、東京証券取引所は市場区分の再編を行いました。それまでの東証一部、東証二部、ジャスダック、マザーズの4市場が、プライム、スタンダード、グロースの3市場に再編されたのです。
特にプライム市場は、「グローバルな投資家との建設的な対話を中心に据えた企業向けの市場」と位置づけられました。これにより、プライム市場上場企業には、より厳格なガバナンス要件と情報開示が求められるようになりました。
そして、2023年3月、東証は前章でも紹介した「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」を要請しました。
東京証券取引所が示した投資家の声には、こんな表現があります。「何度言っても動かなかった日本最大規模のメーカーが、今回の要請を受け、PBR1倍から脱却するための成長実現に向けた計画を立てた。こうした事例がよくあり、課題はまだまだあるが、劇的な進歩」。これは海外投資家のコメントです。
東証の要請は、日本企業の経営に劇的な変化をもたらしました。第一生命経済研究所の河谷善夫氏の分析によれば、要請対象企業のうち、時価総額が大きいほど東証の要請への対応は進んでいます。
5.4 改革の「光」の部分
ここまでの改革の流れは、明らかにポジティブな側面を持っています。
第一に、企業の意思決定プロセスがオープンになりました。独立社外取締役の選任が進み、取締役会の構成が多様化しました。創業家や生え抜き経営陣だけで意思決定する時代は終わりました。
第二に、株主との対話が深まりました。それまで「うるさい株主」を遠ざけていた企業も、IR(投資家向け広報)を充実させ、機関投資家との対話を行うようになりました。
第三に、企業の効率性意識が高まりました。「資本コスト」「ROIC(投下資本利益率)」「ROE」といった指標が、経営の語彙として定着しました。事業ポートフォリオの見直し、不採算事業からの撤退、M&Aによる事業再編が活発化しました。
第四に、株主還元の充実です。これは「光」とも「影」とも解釈できますが、少なくとも株主の立場から見れば、配当と自社株買いの拡大は歓迎すべきものです。
これらの改革によって、日本株は再評価されました。日経平均株価は2024年2月に最高値を更新し、2025年には6万円台に達する場面もありました。長年「割安」と評価されていた日本株が、海外投資家から見直され始めたのです。
5.5 改革の「影」の部分
しかし、改革には影の側面もあります。
第一に、株主以外のステークホルダーへの配慮が相対的に薄れたことです。コーポレートガバナンス・コードでは、株主以外のステークホルダー(従業員、取引先、地域社会、環境など)との関係も重視するように書かれています。しかし、実際の改革の重点は、ROE、PBR、株主還元など、株主に関わる指標に集中してきました。
第二に、短期主義の助長です。PwCのレポートも指摘していますが、自社株買いは短期的な株価上昇には効果的ですが、その効果を支えているのは主に短期の株主です。本質的な企業価値向上を信じて中長期の投資を行う機関投資家は、自社株買いの発表に飛びついて売り買いするという動きには通常なりません。
つまり、企業が東証の要請に応える形で行っている自社株買いは、本来期待された「中長期的な企業価値向上」とは別の効果を生んでいる可能性があるのです。
第三に、人への投資の停滞です。コーポレートガバナンス改革の議論では、「人的資本経営」「人への投資」というフレーズも頻繁に登場します。しかし、実際には、株主還元の拡大に比べて、人件費の拡大は遅れています。
これは、企業が「人への投資」を「研修費」「福利厚生」「教育プログラム」などに置き換えて捉えていることが一因です。賃上げは、企業から見れば「人件費の増加」というネガティブな数字に直結します。だから「人的資本経営」という言葉を使いながら、実際には賃上げを抑制し、別の形での「人への投資」をPRする、という二重構造が生まれています。
第四に、日本の長期的な経営哲学との緊張です。日本企業は長年、「会社は社員のもの」「ステークホルダー経営」という独特の経営哲学を持ってきました。これは欧米の「株主第一主義」とは異なるものです。コーポレートガバナンス改革は、ある意味で「日本的経営の欧米化」を推進してきました。
これが日本企業の競争力強化につながっているかどうかは、まだ議論の余地があります。一部の論者は、「日本の長期雇用、長期的視点の経営は、半導体や自動車などの長期投資が必要な産業で強みを発揮してきた。それを失えば、日本の競争力の根幹が揺らぐ」と警鐘を鳴らしています。
5.6 「光と影」を超えて
改革の光と影をどう評価するかは、立場によって異なります。
株主の立場から見れば、改革は概ね歓迎すべきものでした。透明性は高まり、ROEは改善し、株主還元は拡大しました。
経営者の立場から見れば、改革は両刃の剣でした。経営の自由度は制約され、株主との対話に多くの時間とエネルギーを使う必要が出てきました。しかし、自社の業績連動報酬を最大化するインセンティブも与えられました。
従業員の立場から見れば、改革は「自分たちには何のメリットもない」と感じることが多かったでしょう。賃上げのペースは株主還元の拡大ペースに追いついておらず、雇用の安定性も従来より低下しています。
私自身は、改革の方向性そのものは正しいと考えています。日本企業のROEの低さ、政策保有株式の多さ、ガバナンスの不透明さなどは、確かに問題でした。改革によって、これらの問題は一定程度改善されました。
しかし、改革のスピードと、その「副作用」のスピードが、釣り合っていません。株主還元の拡大は急速に進んだ一方で、賃上げや人への投資の拡大は遅れています。改革の「次のステージ」では、ステークホルダー間の分配のバランスを、より明確に意識する必要があるでしょう。
金融庁も2025年6月に「コーポレートガバナンス改革の実質化に向けたアクション・プログラム 2025」を公表し、企業と投資家の自律的な意識改革を通じて改革を実質化させるべく、東証と共に今後の取り組みを示しています。改革の次のステージで、人的資本、ステークホルダー間のバランス、長期的な企業価値の意味などが、より深く議論されることを期待します。
第6章 役員報酬と従業員給与の格差拡大
分配の不均衡は、「企業対株主」だけの問題ではありません。「企業内部」での分配にも、大きな歪みが生じています。役員報酬の急増と、一般従業員の賃金停滞のギャップです。
6.1 1億円超役員報酬、過去最多811人
日本経済新聞によれば、2024年3月期に役員報酬1億円以上を得た上場企業の役員は811人で、前期から89人(12%)増え、過去最多となりました。
ソニーグループの吉田憲一郎会長のように、十億円を超える報酬を得る経営者も珍しくなくなりました。トヨタ自動車、日立製作所、東京エレクトロンといった大企業の経営陣の報酬は、ここ数年で大きく増加しています。
東京商工リサーチの集計によれば、報酬1億円超の上場企業の役員は2023年度決算で1000人を突破しました。これは、上場企業3874社を対象とした有価証券報告書での個別開示に基づくものです。
日本経済新聞の分析によれば、TOPIX500構成銘柄を対象にした「ペイ・レシオ」(役員と一般社員の報酬差)では、LINEヤフーで130倍もの差がついている例があります。トヨタ、ソニー、東京エレクトロンなどでも、50倍超の格差が報告されています。
過去のデータと比較するために、ある事例を引きます。ソフトバンクグループのサイモン・シガース氏の役員報酬と従業員の平均給与には約83倍の差があります。トヨタ自動車のディディエ・ルロワ氏(当時)の役員報酬と従業員の平均給与の差は約82倍でした。
国税庁のホームページによれば、日本の平均給与は460万円程度です。仮にトヨタの従業員と役員報酬を比較すると、さらに格差は大きくなります。
6.2 業績連動報酬と株式報酬の拡大
日本の役員報酬の構造は、過去10年で急速に変化しました。
日本総研のTOPIX500社における役員報酬の支給実態調査によれば、社内取締役(執行役含む、監査等委員を除く)の年間1人当たり平均総報酬(中央値)は7060万円でした。内訳は基本報酬4130万円、賞与1930万円、株式報酬1200万円です。
注目すべきは、報酬構成の変化です。社内取締役の報酬構成は、企業規模(売上高)が大きいほど業績連動報酬比率が高くなる傾向があります。3兆円以上の企業では固定報酬(基本報酬):業績連動報酬(賞与+株式報酬)の構成比率はおよそ45:55、TOPIX500社の平均ではおよそ60:40です。
これが2020年度の調査ではTOPIX500社の平均がおよそ70:30だったことを考えると、業績連動報酬比率(実績)が高まっていることがわかります。
業績連動報酬算定に用いるKPI(財務)は採用数の多い順に①営業利益、②当期純利益、③売上高(売上収益)です。株式報酬(業績連動型)に用いるKPIは採用数の多い順に①TSR(株価成長率含む)、②ROE、③営業利益でした。
ここに、構造的な問題があります。役員の報酬がTSRやROEと連動するということは、株価を上げ、自己資本利益率を高めることが、役員個人の利益に直結するということです。
すでに前章で述べたように、株価を上げROEを高める最も即効性のある方法は、自社株買いです。配当の増額もそれに次ぐ手段です。一方、賃上げは短期的にはROEを下げ、株価にもプラスにならない場合があります。
つまり、役員報酬の構造が、「賃上げよりも株主還元」という選択を、経営陣に対して合理化させているのです。
6.3 経団連の提言が示すもの
経団連が2024年1月に公表した「役員・従業員へのインセンティブ報酬制度の活用拡大に向けた提言」は、興味深い文書です。
経団連は、ウイリス・タワーズワトソンの調査を引用しながら、日本企業は米国、英国、ドイツ、フランスの企業と比べて、インセンティブ報酬が占める割合が比較的少ないと指摘しています。また、米国では社外取締役報酬の約6割を株式報酬が占めているのに対し、日本では社外取締役への株式報酬の活用が進んでいない、と述べています。
そして、経団連は次のような提言をしています。「経済界としては、株主や従業員等のステークホルダーと十分な対話を行いながら、インセンティブ報酬制度を適切に活用することで、コーポレートガバナンス改革や『人への投資』の拡大を推進する」。
注目すべきは、「従業員に対しても株式をインセンティブ報酬として付与する動きが広がりつつある」「これは『新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画』が掲げる中間層の安定的な資産形成に寄与し、『分厚い中間層の形成』につながる」という表現です。
つまり、経団連は、従業員に対しても株式報酬を導入することで、株価上昇の恩恵を従業員にも分配する、というビジョンを示しているのです。
これは確かに、一つの有望なアプローチです。役員だけが株式報酬を受け取り、株価上昇の恩恵を独占する構造から、従業員も含めて株主と利害を一致させる構造へ。これが実現すれば、現在の分配の不均衡を是正する効果が期待できるかもしれません。
しかし、現状ではこの動きはまだ限定的です。Of All株式会社の調査によれば、2024年版の上場企業の役員報酬データレポートでは、業績連動報酬の導入割合は51.04%、株式報酬の導入割合は56.10%でした。これは役員の話です。一般従業員への株式報酬の普及率は、これより大幅に低いのが実情です。
6.4 「ペイ・レシオ」の導入議論
米国では2018年より、SECの規制によりペイ・レシオ(CEOと従業員中央値の報酬比率)の開示が義務付けられています。これは、報酬格差の是正を目的の一つとしたものです。
日本ではまだ開示が義務付けられていません。しかし、『日本の人事部』の解説では、「役員報酬の高額化が一層進むと将来的な開示に向けた議論も想定されます」と述べられています。
実際、一部の日本企業では、自主的にペイ・レシオを開示する動きが始まっています。プライム市場時価総額上位100社のうち、ペイ・レシオを開示している企業の割合は徐々に増加しているとされます。
ペイ・レシオの開示が義務化されれば、企業内部の分配の透明性が高まります。役員と従業員の報酬格差が大きい企業に対しては、株主や投資家からの説明責任の圧力が強まるでしょう。
これは、日本企業のステークホルダー観に大きな変化をもたらす可能性があります。
6.5 個別企業に見る格差の実態
具体的な企業の例を見てみましょう。日本経済新聞のTOPIX500構成銘柄を対象にした分析によれば、LINEヤフーでは役員と一般従業員の報酬差が130倍となっていました。トヨタ自動車、ソニー、東京エレクトロンなどでも50倍超の格差が報告されています。
これを米国と比較するとどうでしょうか。米国のS&P500企業の平均ペイ・レシオは、一般に300倍程度と言われています。米国の方が、絶対値としては格差が大きいことは事実です。
しかし、日本の特徴は、「過去30年で急速にペイ・レシオが拡大した」ことです。1990年代までは、日本企業の役員と従業員の格差は20倍程度に収まっていました。「経営者は従業員の代表」という日本的経営の哲学があったからです。
その格差が、コーポレートガバナンス改革、業績連動報酬の導入、株式報酬の普及などを通じて、2-3倍に拡大したのです。これは、日本企業の経営哲学の根本的な変化を反映しています。
6.6 株式報酬の本質的な問題
役員に対する株式報酬の拡大には、私は懸念を持っています。
株式報酬は、確かに役員と株主の利害を一致させる効果があります。役員が株主の利益を考えて経営することで、企業価値が向上し、結果として全てのステークホルダーに利益が及ぶ──というのが、株式報酬の正当化ロジックです。
しかし、現実には、株式報酬は「短期的な株価上昇」へのインセンティブを強めることが多いのです。なぜなら、株式報酬は一定期間(通常3〜5年)で権利確定されることが多く、その期間内の株価が役員の報酬を決めるからです。
長期的な企業価値向上には、研究開発投資、人材投資、設備投資など、すぐには利益に結びつかない投資が必要です。しかし、これらは短期的にはROEを下げ、株価にもプラスにならないことが多い。
役員が「3年後の株価が上がれば自分の報酬が増える」と考えると、その3年間に株主還元を強化し、コスト削減で利益を出し、株価を押し上げる、という選択を取りがちです。これが、現在の日本企業の「賃上げ抑制、株主還元拡大」の構造的な背景の一つです。
私が取材したある経営者は、こう語っていました。「私の報酬の半分は株式報酬です。これは私の在任期間の業績と株価に依存します。私の在任期間は4年。その間に大きな成果を出さないと、退任時に手元に残るものが少ない。だから短期的なROE改善と株価上昇に集中せざるを得ない」。
正直な吐露だと思いました。これが、業績連動報酬と株式報酬の拡大が、日本企業の経営に与えている影響の一つです。
第7章 非正規雇用という二重構造
日本の分配問題を語るとき、雇用形態の二重構造を避けて通ることはできません。正規雇用と非正規雇用の格差は、賃金水準だけでなく、社会保障、キャリア機会、生涯所得など、あらゆる面で深い亀裂を生んでいます。
7.1 非正規雇用の現状
総務省の労働力調査によれば、2024年平均で非正規雇用労働者は2126万人に達しています。役員を除く雇用者に占める非正規雇用労働者の割合は36.8%です。
これは1990年代と比較すると、劇的な変化です。1990年頃まで、非正規雇用は全労働者の20%程度でした。それが2004年に30%を超え、現在は37%近くまで拡大しています。
正規雇用労働者も増えてはいます。2024年平均で3645万人と、10年連続で増加しています。しかし、全体に占める割合では、非正規雇用の比率の高止まりが続いています。
特に重要なのが、年齢層別の傾向です。65歳以上の非正規雇用は急増しており、2002年に95万人だった65歳以上の非正規労働者が、2022年は405万人に達しています。日本の経済活動を、高齢者の非正規労働が支える構造になっているのです。
7.2 非正規雇用の歴史的背景──1995年「新時代の日本的経営」
日本の非正規雇用の拡大は、特定の政策と思想によって推進されてきました。象徴的なのが、1995年に日経連(当時)が公表した「新時代の日本的経営」という報告書です。
この報告書では、労働者を3つのグループに分ける雇用ポートフォリオが提案されました。
第1に「長期蓄積能力活用型グループ」、いわゆる正規雇用者です。長期雇用、定期昇給、退職金制度の対象となります。
第2に「高度専門能力活用型グループ」、専門性を持って契約ベースで働く労働者です。
第3に「雇用柔軟型グループ」、いわゆる非正規雇用者です。これは、企業の業績変動に応じて雇用を調整できる柔軟な労働力として位置づけられました。
この提案は、その後の労働法制の規制緩和とともに、日本企業の雇用慣行に大きな影響を与えました。
特に重要だったのが、労働者派遣法の度重なる改正です。1986年に成立した労働者派遣法は、当初は専門的な業務に限定されていました。しかし、1999年の改正で派遣対象業務がネガティブリスト方式となり、2003年の改正で製造業務への派遣が解禁されました。
これにより、企業は基幹的な業務にも派遣労働者を活用できるようになり、人件費削減の手段として非正規雇用を選択するようになりました。
労働政策研究・研修機構(JILPT)の研究によれば、企業の意識調査では、非正規雇用を増加させた理由として「人件費の節約」を挙げる企業の割合が、長年にわたって調査対象企業の約半数に及んでいました。
つまり、非正規雇用の拡大は、企業のコスト削減戦略と密接に結びついていたのです。
7.3 正規・非正規の賃金格差
非正規雇用と正規雇用の賃金格差は、依然として大きいままです。
リクルートワークス研究所の分析によれば、時給1000円以下で働いている人の割合は、正規雇用者で9.6%なのに対し、パート・アルバイトでは59.9%に達しています。契約社員・派遣労働者の場合、時給1000円以下の比率は28.9%です。
ニッセイ基礎研究所の研究では、45〜49歳の年齢層で正規雇用者の年収は非正規雇用者の年収の2倍以上の差があると報告されています。
ただし、近年の動きには変化もあります。短時間労働者の平均時給は2010年の1049円から2022年に1282円まで増加しました。12年間で約22%の伸びです。これは、人手不足の影響と、最低賃金の引き上げによるものです。
しかし、それでも正規雇用との格差は依然として大きく、特に賞与、退職金、社会保障の面で大きな差があります。
7.4 「同一労働同一賃金」の進捗と限界
2020年に施行されたパートタイム・有期雇用労働法と労働者派遣法の改正により、「同一労働同一賃金」の原則が法的に確立されました。
これは、正規雇用者と非正規雇用者で、同じ仕事をしている場合は同じ賃金を支払うべき、という原則です。さらに、福利厚生、教育訓練、社会保険などについても、不合理な格差を禁止しています。
派遣労働者についても、派遣先均等・均衡方式または労使協定方式により、派遣先の正社員と均衡の取れた賃金を支払うことが求められるようになりました。
この改正により、一定の改善は見られています。労働政策研究・研修機構の研究によれば、企業の調査で「賃金の節約」を非正規雇用活用の理由とする割合は、2010年から2019年にかけて低下し、「正社員が確保できないため」とする割合が上昇しています。
しかし、根本的な格差解消には程遠いのが現状です。「同一労働」の判定基準が曖昧であり、企業が職務内容を意図的に差別化することで、実質的に格差を維持できる余地が残っています。
7.5 非正規雇用と労働分配率の関係
非正規雇用の拡大は、企業の労働分配率の低下に直接寄与してきました。
内閣府の経済財政白書の分析によれば、企業の意識を見ると、人件費の削減や雇用調整という目的で非正規雇用を活用している動きが強まっています。これは、人件費の削減を主な目的として、企業が非正規雇用の活用を行ったことが、労働分配率の低下につながったことを意味します。
労働分配率の推移を要因分解してみると、2001年以降、賃金要因が、労働分配率を押し下げる方向に働いています。さらに詳しく見ると、パートタイム比率の高まりによる賃金押下げ寄与が大きかったことがわかります。
つまり、企業の付加価値が上がっても、その配分が「相対的に低賃金の非正規労働者」に多く向かうことで、平均賃金が押し下げられ、結果として労働分配率が下がる、という構造です。
これは、企業から見れば「人件費総額を抑えながら必要な労働力を確保する」合理的な戦略です。しかし、社会全体から見れば、所得格差の拡大と、消費の停滞、ひいては経済成長の鈍化を招きます。
7.6 失われた中産階級と少子化
非正規雇用の拡大は、日本社会に深刻な構造変化をもたらしました。
ニッセイ基礎研究所のレポートが警鐘を鳴らしているように、非正規雇用は経済格差と家族形成格差を生み出しています。45〜49歳の男性で見ると、正規雇用者と非正規雇用者の年収には2倍以上の開きがあります。
これが何を意味するか。日本の少子化問題と直結します。安定した雇用と十分な収入がなければ、結婚も子育ても難しい。非正規雇用者の結婚率、出生率は、正規雇用者に比べて顕著に低くなっています。
私が取材したある30代の派遣労働者(男性)は、こう語っていました。「正社員になれずに10年以上、派遣で働いています。年収は350万円程度。ボーナスも退職金もない。家族を持つなんて、夢のまた夢です」。
これは個人の問題ではなく、構造の問題です。1990年代以降、企業は人件費削減のために非正規雇用を拡大してきました。その「合理的選択」の集積が、日本の中産階級の縮小、結婚・出生率の低下、社会の縮小再生産へとつながっているのです。
労働分配率の低下、株主還元の拡大、非正規雇用の拡大──これらは別個の現象ではなく、すべて「企業の利益を最大化する」という同じ論理のもとで起きてきた現象です。そして、その結果として、日本社会は静かに縮んでいます。
第8章 国際比較で見える日本の異常
日本の分配の不均衡が、いかに国際的に見ても異常なものかを、本章で確認していきます。
8.1 平均賃金──OECD加盟国の中での日本
OECDの統計によれば、2023年時点での各国の平均年収(購買力平価ベース)で、日本は約46792ドルで、OECD加盟38カ国中25位です。OECDの平均(58232ドル)を大きく下回ります。
1位はルクセンブルクで約89767ドル、2位アイスランド、3位スイス、4位米国と続きます。日本は先進国の中では下位グループに位置しています。
1991年から2022年までの31年間の平均賃金の上昇率を見ると、最も急上昇したのは韓国で、1991年水準を100として2022年には194.5。スウェーデンも大きく伸ばしました。
一方、日本とイタリアはほぼ横ばい。31年間の停滞が続いたのです。
これは何度強調してもしすぎることはない事実です。先進国の中で、賃金がほぼ横ばいで30年以上停滞している国は、日本とイタリア以外にほぼありません。そして韓国に至っては、日本を抜き去って、賃金水準でも上回るようになりました。
8.2 最低賃金の比較
最低賃金の水準も、国際比較では低位にあります。
日本の最低賃金は2025年で全国加重平均1121円です。OECD加盟30カ国中、下位5番目に位置しています。
OECD加盟国の中で、日本の法定最低賃金は中位労働者の総賃金に対する比率が47%にとどまり、OECD平均の57%を大きく下回っています。これは、「最低賃金の相対水準の低さ」が日本の賃金構造における大きな課題であることを示しています。
英国の最低賃金は約1600円、フランスは約1600円(円換算)です。韓国の最低賃金も2022年の改定で約1000円に達しました。日本が「最低賃金1000円」を達成するという議論をしている間に、他の先進国はすでにその水準を大きく超えていたのです。
8.3 労働生産性の低さ
日本生産性本部の「労働生産性の国際比較2024」によれば、日本の就業1時間当たりの付加価値は56.8ドルで38カ国中29位となっています。トップのアイルランドは154.9ドルですから、その差は3倍近くあります。
1人当たりの労働生産性も38カ国中32位となっています。
労働生産性の低さは、賃金の低さと表裏一体です。1時間あたりに生み出す付加価値が少なければ、賃金として分配できる原資も少なくなります。
ただし、日本の労働生産性が低い原因については、議論があります。一つの見方は「日本の労働者の能力が低い」というものですが、これは事実ではありません。日本の労働者の教育水準、勤勉さ、技術力は世界的に見て高い水準にあります。
問題は、企業のビジネスモデル、産業構造、デジタル化の遅れ、サービス業の生産性の低さ、過剰な労働時間など、構造的な要因です。
8.4 株主還元の国際比較
株主還元の水準も国際比較してみます。
第一生命経済研究所の分析によれば、2023年の日本の上場企業の総還元率(配当+自社株買い/時価総額)は3.05%でした。米国S&P500の総還元率は3.86%で、日本より高い水準です。
しかし重要なのは、米国は「配当<自社株買い」という構造であるのに対し、日本は「配当>自社株買い」という構造だったことです。それが、近年の自社株買い急増によって、日本も米国型に近づきつつあります。
ピクテの分析によれば、日本企業の問題は、ROAが低いことであり、その裏付けが分厚い内部留保であることです。米国企業はROAが高く、内部留保を厚く積まずに、稼いだ利益をどんどん株主に還元する構造になっています。一方、日本企業はROAが低く、内部留保を厚く積み、最近になって過剰な内部留保を株主に返している段階です。
つまり、日本企業の株主還元拡大は、「過去の貯金の取り崩し」という性格が強いのです。これが続けば、いずれ「貯金」は尽きます。その時、日本企業の株主還元はどうなるのか。これは、現在進行形の重要な問いです。
8.5 ドイツ・フランスとの比較──共同決定制度
ドイツやフランスは、別のアプローチで企業内分配のバランスを取っています。
ドイツには「共同決定法」という制度があり、従業員2000人以上の企業では、監査役会(取締役会の監督機関)の半数が労働者代表で構成されます。これにより、経営の重要決定に労働者の声が反映される仕組みになっています。
フランスでも、企業内の「企業委員会」や「労使協議会」などを通じて、労働者代表が経営情報にアクセスし、意見を表明する権利が法的に保障されています。
これらの制度は、企業内における労使のバランスを保つ仕組みとして機能してきました。ドイツやフランスの労働分配率が比較的高く維持されているのは、この制度的背景が関係していると考えられます。
日本にもかつて「労使協議制」という慣行があり、企業内における労使協調が一般的でした。しかし、これは法的に保障されたものではなく、企業の任意の取り組みでした。労働組合の組織率の低下とともに、その実効性も低下しています。
連合などの調査によれば、日本の労働組合組織率は1990年代の25%程度から、現在は16%程度まで下がっています。組合があっても、その交渉力は弱まっています。
8.6 韓国の急上昇
韓国は、日本との比較において、特に注目すべき事例です。
1991年から2022年までの31年間で、韓国の平均賃金は約2倍になりました。日本がほぼ横ばいだったのに対して、韓国は大幅に上昇しています。
韓国の最低賃金は、現在ではドル換算で日本を上回ります。月額ベースで見ると、韓国の最低賃金は1000ドル以上で、日本の地方部の最低賃金水準を上回っています。
なぜ韓国はここまで賃金を上げられたのか。複数の要因があります。
第一に、強力な労働組合運動です。韓国では1987年の民主化以降、労働組合が活発に活動し、毎年の賃上げ闘争が大規模に展開されてきました。
第二に、政府の最低賃金引き上げ政策です。文在寅政権下では、最低賃金の急激な引き上げが行われ、その後の政権でも引き上げ基調が続いています。
第三に、産業構造の高度化です。半導体、IT、コンテンツ産業など、高付加価値産業への移行が進み、それが賃金水準を引き上げました。
第四に、財閥企業の高水準の賃金です。サムスン電子、現代自動車、SKハイニックスなど、韓国の主要企業は、グローバル企業として競争力を発揮し、その従業員にも高い賃金を支払っています。
日本との対比で考えると、韓国は「賃金を上げてでも国際競争力を維持する」戦略を取り、結果としてそれが成長を生み、再び賃上げの原資を生む、というポジティブなスパイラルに乗りました。
一方、日本は「人件費を抑えて利益を出す」戦略を取り、それが消費の停滞、内需の縮小、ひいては成長の鈍化を招き、再び賃上げ原資の不足、というネガティブなスパイラルに陥っています。
8.7 国際比較から見える教訓
国際比較から、いくつかの教訓が見えてきます。
第一に、賃金は経済成長の結果ではなく、経済成長の原因にもなるということです。賃金が上がれば消費が増え、内需が拡大し、それが企業の売上を増やし、再び賃上げの原資を生みます。日本は、この好循環に長らく入れていません。
第二に、制度的な枠組みが分配のバランスを左右するということです。ドイツの共同決定制度、フランスの労使協議制度のように、労働者の声が経営に反映される仕組みは、分配のバランスを保つ上で重要です。
第三に、企業の競争力と賃金水準は両立可能ということです。韓国、ドイツ、米国などは、高い賃金水準を維持しながら、国際的な競争力も保っています。「賃上げをすれば国際競争力が下がる」という主張は、必ずしも事実ではありません。
第四に、政府の役割の重要性です。最低賃金の引き上げ、労働市場の規制、税制、社会保障制度──これらの政策は、企業の分配行動に大きな影響を与えます。日本の政府は、過去30年間、これらの政策をどう運用してきたか、改めて検証する必要があります。
第9章 ケーススタディ──トヨタ、ソニー、銀行
抽象的な議論だけでなく、具体的な企業の事例を通じて、分配の問題を見ていきましょう。
9.1 トヨタ自動車──日本最大の企業の選択
トヨタ自動車は、日本を代表する企業であり、その経営は日本経済全体に大きな影響を及ぼします。
トヨタの2024年3月期決算は、営業利益が初めて5兆円を超え、日本の上場企業として歴代最高の業績を記録しました。2026年3月期では、営業収益が50兆6849億円(前期比5.5%増)で過去最高を更新しています。
この好業績を受けて、トヨタは積極的な株主還元を行っています。配当は安定的・継続的に増配を続けており、2024年度には1株当たり90円(中間配当40円+期末配当50円)としました。
加えて、自社株買いも積極的に実施しています。大和総研の分析が指摘するように、トヨタは大手損害保険グループや銀行系株主から保有政策株式の売却打診を受け、2024年上半期には前上半期比で約8000億円の大幅増となる自社株買いを実施しました。
一方、賃上げについてはどうでしょうか。トヨタは2024年春闘で満額回答を続け、ベースアップと一時金も大幅に積み増しました。これは賃上げを牽引する企業としての姿勢を示しています。
しかし、私が注目するのは、株主還元と賃上げの「ペース」の違いです。トヨタの配当総額は、過去10年で大幅に増加し、自社株買いも近年急増しています。一方、従業員の平均賃金の伸びは、それほど急ではありません。
トヨタの公式IRでも、「配当金については、安定的・継続的に増配を行うよう努めていきます」と明記されています。一方、「内部留保資金については、カーボンニュートラル社会の実現に向けた環境技術やお客様の安全・安心のための安全技術等の次世代の成長投資、従業員や取引先、地域社会等を含めたすべてのステークホルダーの皆様のために活用していきます」とされています。
ステークホルダーへの配慮は明記されていますが、株主への還元のような具体的な数値目標は示されていません。これが日本のトップ企業のスタンスです。
9.2 ソニーグループ──株式報酬の先進企業
ソニーグループは、日本企業の中で最も早く、欧米型のコーポレートガバナンスを取り入れた企業の一つです。
吉田憲一郎会長兼CEOの報酬は、日本人経営者として最高水準にあります。2021年度には12億5300万円、2024年3月期にもこの水準を維持しています。
ソニーの役員報酬の特徴は、株式報酬の比率が極めて高いことです。CEO報酬の半分以上が、業績連動型の株式報酬となっています。
これは、日本企業の中では珍しい構造です。役員と株主の利害を一致させるという観点では、理にかなった設計です。実際、ソニーの株価は近年大きく上昇しており、それが役員報酬の急増にも反映されています。
一方、ソニーの一般従業員の賃金水準も、日本の大企業の中では高水準にあります。しかし、CEOとの格差は拡大しています。
私が興味深いと思うのは、ソニーが従業員向けの株式報酬制度も積極的に導入していることです。日本の多くの大企業がまだ役員のみに株式報酬を限定している中で、ソニーは従業員にも株式の機会を広げようとしています。これは、本稿で議論してきた「分配の問題」に対する一つの解決策の方向を示しています。
9.3 銀行──PBR1倍割れの代表業種
日本の銀行業は、長らくPBR1倍割れの状態が続いてきた代表的な業種です。三菱UFJフィナンシャル・グループ、三井住友フィナンシャルグループ、みずほフィナンシャルグループの3メガバンクをはじめ、多くの銀行のPBRが1倍を大きく下回っていました。
これに対して、銀行各社はここ数年で大規模な株主還元策を発表してきました。レイヤーズ・コンサルティングのデータでは、銀行業の94%がPBR1倍割れ対応策を開示しており、これは全業種の中で最高水準です。
具体的には、配当性向の引き上げ(純利益の40%以上を配当)、自社株買いの大規模実施、政策保有株式の縮減などが進められています。
例えば、三菱UFJフィナンシャル・グループは、配当性向40%目標を掲げ、加えて自社株買いも実施しています。三井住友フィナンシャルグループ、みずほフィナンシャルグループも同様の方針を打ち出しています。
これらの結果、銀行業のPBRは大きく改善しました。一部のメガバンクではPBRが1倍を超える水準まで回復しています。
一方、銀行の従業員の賃金はどうでしょうか。メガバンクの平均年収は800万円台で、日本の大企業の中では高水準です。しかし、ここ10年で大きく伸びたわけではありません。
銀行業界全体としては、合理化(ATMの削減、店舗の統廃合、人員削減)を進めながら、利益を確保し、株主還元を強化する、という戦略を取っています。
これは、「労働分配率を下げて、株主分配率を上げる」という典型的な戦略です。
9.4 私の取材ノート──ある中堅企業の選択
最後に、私が取材した中堅企業の事例を一つ紹介します。
この会社は、化学品の製造販売を行う中堅メーカーで、東証プライム市場に上場しています。創業100年を超える歴史を持ち、業界では一定の地位を持っています。
数年前、この会社は外資系のアクティビスト・ファンドから大量保有報告書を提出されました。ファンドは、この会社のPBRが1倍を下回っていることを指摘し、自社株買いと配当の大幅増額、政策保有株式の解消を要求しました。
経営陣は当初、抵抗しました。「うちは長期的な視点で経営しており、短期的な株価上昇のために投資資金を株主に返すわけにはいかない」というのが、社長の言い分でした。
しかし、ファンドの提案は他の株主からも一定の支持を集め、株主総会では取締役の選任議案で僅差の票差となりました。
結局、経営陣は方針転換を決断しました。中期経営計画を見直し、総還元性向70%という大規模な株主還元策を打ち出しました。同時に、政策保有株式の段階的な売却も進めることになりました。
私はこの会社の人事部長に話を聞きました。「株主還元を増やすことで、ROEは確かに改善しました。株価も上がりました。経営陣の報酬も増えました。しかし、賃上げの原資は厳しくなりました。今年の春闘では、定昇込みで2.5%。連合の平均(5.1%)の半分です」。
「会社の方針は、もう変えられません。株主の声が経営の中心にある。私たち人事部としては、限られた予算の中で、できるだけ従業員にも報いる工夫をしているつもりです。でも、株主還元の伸びと賃上げの伸びの差は、年々広がっています」。
この話に、私は日本企業の現在地を象徴的に見ました。アクティビストの圧力、東証の要請、経営者の業績連動報酬、内部留保への懸念──これらが複合的に作用して、企業の意思決定が「株主還元優先」に流れていく。その流れの中で、賃上げと人への投資が、相対的に後回しになっていく。
これは一つの企業の問題ではなく、日本企業全体の構造的な問題です。
9.5 例外的な企業──ファーストリテイリング、ニデック
もちろん、すべての日本企業が同じ方向に進んでいるわけではありません。例外的な企業もあります。
ファーストリテイリング(ユニクロ)は、賃上げに積極的な企業として知られています。柳井正会長は、世界的な水準と比較しても日本の賃金が低すぎることを公言し、自社では大幅な賃上げを実施してきました。
ニデック(旧日本電産)も、創業者の永守重信氏のリーダーシップの下、業績連動の手厚い賞与を出してきました。同社の社員は、業績がよい年には大幅な賞与が出ることで知られています。
これらの企業に共通するのは、「強力なリーダーシップを持つ創業者・オーナー経営者がいる」ことです。彼らは、株主の声に左右されず、自分の信念に基づいて経営判断ができます。賃上げが企業の競争力を高めるという信念があれば、それを実行できます。
一方、内部昇格で社長になり、株主との対話に多くの時間を費やす一般的な大企業の経営者は、こうした大胆な決断をしにくい構造にあります。
これは、日本企業のガバナンス改革の「光と影」を象徴しています。透明性とアカウンタビリティは高まりましたが、その代わりに、経営の自由度と長期的視点が失われつつあります。
第10章 構造的要因の解剖
ここまで、現象としての「分配の不均衡」を様々な角度から見てきました。本章では、この問題を生み出している構造的要因を、より体系的に分析します。
10.1 グローバル化と資本市場の統合
最も大きな構造要因の一つは、グローバル化と国際的な資本市場の統合です。
1980年代から1990年代にかけて、世界の資本市場は急速に統合されました。日本の株式市場も例外ではありません。外国人投資家の流入が始まり、日本企業も海外の資本市場で資金調達するようになりました。
これにより、日本企業は「国際的な資本コスト」に直面することになりました。海外の投資家から見れば、日本企業のROEは低すぎる、自己資本比率は高すぎる、株主還元は少なすぎる、と映りました。
東京証券取引所などの株式分布状況調査によれば、2024年度末時点の日本株の外国人保有比率は32.4%です。1990年頃には4-5%程度だったことを考えると、劇的な変化です。
日本企業は、グローバル化した資本市場の中で、海外の投資家の期待に応える必要が出てきました。それが、ROE経営、株主還元の拡大、政策保有株式の縮減などの動きにつながっています。
10.2 日本的経営の解体
もう一つの構造要因は、日本的経営の解体です。
戦後の日本企業は、終身雇用、年功序列、企業内組合という「三種の神器」を持っていました。これは、高度経済成長期に日本の競争力の源泉となりました。
しかし、1990年代以降、これらの慣行は徐々に解体されていきました。リストラ、成果主義、非正規雇用の拡大──これらすべてが、日本的経営の解体を意味します。
日本的経営の解体は、経営の効率性を高めた面もあります。しかし、同時に、企業と従業員の長期的な絆を弱め、賃上げのインセンティブを下げる効果も持ちました。
かつての日本企業では、「会社のために頑張れば、いずれ報われる」という暗黙の社会契約がありました。終身雇用と年功序列が、この社会契約を保証していました。
現在、この社会契約は崩れつつあります。会社は従業員を長期的に雇用することを保証できなくなり、従業員も会社への忠誠心を失いつつあります。
この相互不信の中で、企業は「人への投資」を後回しにし、株主還元と内部留保を優先するようになりました。
10.3 株主構成の変化
日本企業の株主構成は、過去30年で劇的に変化しました。
かつての日本企業の株主構成は、メインバンク、取引先企業、生命保険会社などの「安定株主」が中心でした。これらの株主は、企業との取引関係を維持することを優先し、短期的な株価上昇や配当を強く求めることはありませんでした。
しかし、2000年代以降、株式持ち合いの解消が進み、安定株主の比率は大きく下がりました。代わりに増えたのが、外国人投資家、機関投資家、アクティビストです。
これらの新しい株主は、安定株主とは異なる行動原理で動きます。彼らは投資のリターンを最大化することを目的とし、経営に対して具体的な要求を行います。
株主構成の変化は、企業の意思決定の優先順位を変えました。安定株主が多かった時代には、経営者は従業員、取引先、地域社会など多様なステークホルダーを意識して経営できました。しかし、現在の経営者は、市場の声、特に機関投資家の声を無視できません。
10.4 経営者像の変化
経営者の像も大きく変わりました。
戦後の日本企業の経営者は、内部昇格でたたき上げの「サラリーマン社長」が中心でした。彼らは会社の文化を体現し、長年の経験を持つ社員たちと共通の言語で話せました。
現在も内部昇格の社長が多いのは事実ですが、その役割と意識は大きく変わっています。彼らは、機関投資家との対話、IR活動、海外戦略、M&A、株主提案への対応など、グローバルなビジネスリーダーとしての役割を果たす必要があります。
そして、彼らの報酬は、業績連動・株式報酬の比率が高まっています。これにより、経営者の関心は、株価とROEに強く向かいます。
「サラリーマン社長」だった時代の経営者は、自分も従業員の一員という意識を持っていました。だから、賃上げに対しても比較的同情的でした。しかし、業績連動型の高額報酬を受け取る現在の経営者は、自分を従業員とは別の階層として認識する傾向が強くなっています。
10.5 デフレ経済とゼロ金利の影響
長らく続いたデフレ経済とゼロ金利政策も、分配構造に影響を与えました。
デフレ環境下では、企業はコスト削減を優先します。賃上げは難しく、内部留保を厚くすることが合理的です。
ゼロ金利政策の下では、借入コストが低く、自己資本を積み増す必要性が薄れます。それにもかかわらず、日本企業は自己資本を積み増し続けました。これは、過去のトラウマ(バブル崩壊と金融危機)の影響と言えます。
しかし、2020年代に入って、世界的なインフレと金利上昇が始まりました。日本もデフレから脱却し始めました。これにより、企業は内部留保を取り崩して、株主に還元する方向に動いています。
問題は、その「取り崩し」が、賃上げや設備投資ではなく、自社株買いと配当に向かっていることです。
10.6 政策と制度の影響
政府の政策と制度も、分配の構造に大きな影響を与えてきました。
派遣法の度重なる改正による非正規雇用の拡大、減税と税制優遇による法人税の引き下げ、最低賃金の低位での維持、労働組合への規制と組織率の低下──これらすべてが、分配のバランスを「資本」側に有利にシフトさせる要因として作用してきました。
特に重要なのが、税制です。日本の法人実効税率は、1990年代の50%超から、現在は約30%まで下がりました。法人税の引き下げは、企業の手元に残る利益を増やしますが、それが賃上げに回るか、内部留保や株主還元に回るかは、企業の判断次第です。実際には、株主還元と内部留保への配分が増えました。
一方、所得税の最高税率も引き下げられてきました。これは、高所得者層の手取りを増やしますが、結果として所得格差の拡大を促進しています。
法人税減税と所得税の累進性緩和の組み合わせは、企業と高所得者層に有利な税制であり、労働者一般には不利な構造です。
10.7 構造を変えるには
これらの構造的要因を整理すると、分配の不均衡は、一つの要因によるものではなく、複合的な構造変化の結果であることがわかります。
グローバル化、日本的経営の解体、株主構成の変化、経営者像の変化、デフレ経済、政策と制度──これらすべてが、相互に影響し合いながら、現在の構造を作り出してきました。
したがって、構造を変えるには、複数の要素に同時にアプローチする必要があります。一つの政策や制度の変更だけでは、根本的な解決にはなりません。
この点については、後の章で具体的な処方箋を議論します。
第11章 現場感覚と実体験からの考察
ここまで、統計データと制度的な分析を中心に議論を進めてきました。しかし、この分配の不均衡という問題は、数字だけでは捉えきれない、生々しい人間的な側面を持っています。本章では、私が取材を通じて聞いてきた現場の声、そして自分自身の観察から得た実感を、率直に書き記しておきたいと思います。
11.1 「給料が上がらないのが普通」という空気
まず指摘しておきたいのは、日本の働く人々の多くが「給料が上がらないのが普通」だと思っている、という事実です。
私が取材で話を聞いた、ある大手メーカーで20年以上働く50代男性のAさんは、こう語ってくれました。
「入社してから定期昇給はずっとありましたが、ベースアップらしいベースアップは記憶にありません。10年前と比べて、月給は2-3万円増えた程度です。役職が上がったから、というのが大きい。役職を外れたら、給料は下がります」
この感覚は、多くの日本人サラリーマンに共通するものではないでしょうか。「給料が上がる」とは、「定期昇給」か「昇格」によるものであり、企業全体の賃金水準が上がる、ということではないという感覚。これは、海外の労働者の感覚と大きく異なります。
OECDの統計を見ると、過去30年間の日本の平均賃金の停滞は、世界の主要国の中で異常に目立ちます。1991年を100とした場合、2022年の韓国の賃金指数は194.5、米国は約140、ドイツも約130に達しているのに対し、日本はほぼ100前後で横ばいでした。
このグラフを見せたとき、Aさんは「えっ、韓国はそんなに上がっているんですか」と驚いていました。多くの日本人が、この国際比較の事実を知りません。「賃金が上がらないのは、日本だけの特殊な現象だ」ということを、認識する機会自体が少ないのです。
11.2 「会社は儲かっているのに、なぜ給料は上がらないのか」
私が複数の従業員に同じ質問をしてきました。「あなたの会社の決算は好調なのに、なぜ給料はそれほど上がらないのですか」と。
返ってきた答えは、驚くほど似通っています。
「会社が儲かっていても、その利益は将来の投資のためにとっておく必要があると言われています」 「自社株買いをしているらしいけど、それが何のためなのか、よくわからない」 「役員報酬は上がっているらしいけど、私たちには関係ない話だと思っている」 「賃上げの話になると、組合が頑張ってくれているのはわかるが、結局のところ会社の判断次第」
ここから見えてくるのは、従業員と経営の間の「情報の非対称性」です。多くの従業員は、自社の財務状況、利益の使い道、株主還元の状況などを、詳しく把握していません。決算説明会の資料を読んだことがあるか、と聞くと、ほとんどの人が「いや、読んだことはない」と答えます。
一方、機関投資家やアクティビストは、企業の財務情報を徹底的に分析し、経営に具体的な要求を突きつけます。経営者は、株主との対話には多くの時間を費やしますが、従業員一人ひとりに会社の財務状況を説明することはありません。
この「情報の非対称性」こそが、賃金交渉の力関係を歪めている根本的な要因の一つだと、私は考えています。
11.3 労働組合の弱体化と「声を上げない」労働者
労働組合の組織率は、1949年の55.8%をピークに、現在は約16%まで低下しています。特に、若年層、中小企業、非正規雇用者の組織率は極めて低い水準です。
私は、ある大手電機メーカーの労働組合役員の方にインタビューしたことがあります。彼は、組合活動の現状について、こう語ってくれました。
「春闘で会社と交渉していますが、組合員からの突き上げが昔ほど強くないんです。組合員自身が、『これ以上要求しても無理だろう』と諦めているような感じがする。賃上げの要求を強くしすぎて、会社の業績が悪くなったらどうしよう、という空気もある」
これは、興味深い現象です。労働組合員自身が、賃上げに対して消極的になっている。会社の経営状況に過度に配慮し、自分たちの取り分を強く主張できない。
この背景には、長年のデフレ経済と、リストラの記憶があります。1990年代後半から2000年代にかけて、多くの日本企業がリストラを行いました。終身雇用が保証されない時代に、賃上げを強く要求して会社と対立することは、リスクが高いと感じられるようになりました。
「会社と運命共同体」という意識が、結果として、賃金交渉の力を弱めている。これは、欧米の労働者の意識とは大きく異なります。欧米では、労使は対立する関係であり、労働者は自分の取り分をしっかり主張するのが当然とされています。
11.4 「働き方改革」の隠された側面
「働き方改革」というスローガンの下で、近年、長時間労働の是正、有給休暇取得の促進、テレワークの導入などが進められてきました。これらは、労働者にとってプラスの変化です。
しかし、私が現場の声を聞く中で気になっているのは、「働き方改革」が賃上げと切り離されて議論されている、という点です。
ある大手企業の人事担当者は、こんなことを話してくれました。
「働き方改革で、残業時間を減らすことが目標になっています。しかし、残業代が減ることで、若手社員の手取りが減るケースもある。基本給を上げない限り、本当の意味で生活は楽になりません」
つまり、長時間労働の是正は、それ自体は望ましいことですが、賃金水準の引き上げと両輪で進めなければ、労働者の生活向上にはつながりにくいということです。
実際に、私が見てきた多くの企業では、働き方改革によって労働時間は減ったものの、賃金水準は大きくは変わっていません。むしろ、残業代が減った分、手取りが下がった若手社員も少なくありません。
11.5 非正規雇用の現場から
私は、複数の非正規雇用の方にもインタビューしてきました。彼ら・彼女らの話は、日本社会の「分配の不均衡」の最も深刻な側面を示しています。
ある40代女性のBさんは、派遣社員として大手企業のオフィスで働いていました。彼女の話は、私の心に強く残っています。
「同じフロアで、同じような仕事をしている正社員と比べて、私の時給は半分以下です。ボーナスもありません。退職金もありません。それでも、責任感を持って働いています。でも、子どもの将来を考えると、不安で仕方がありません」
彼女が働いているその会社は、業績好調で、過去最高益を更新し続けていました。自社株買いと配当を増やし、株主からは高く評価されています。しかし、その利益の恩恵は、彼女のような派遣社員には届きません。
これは、特殊なケースではありません。総務省の労働力調査によれば、非正規雇用は2024年時点で2126万人、雇用者全体の36.8%に達しています。3人に1人以上が、非正規雇用なのです。
そして、非正規雇用の平均年収は、正規雇用の半分以下です。同一労働同一賃金が法律で定められましたが、実態としては、まだ大きな格差が残っています。
11.6 中小企業の経営者の声
「分配の不均衡」を語るとき、忘れてはならないのが、中小企業の存在です。日本の企業数の99.7%は中小企業であり、雇用の約7割を支えています。
私は、ある地方の製造業の中小企業経営者にインタビューしたことがあります。彼は、こう語ってくれました。
「賃上げをしたい気持ちはあります。でも、大手取引先からの単価切り下げの圧力が強く、利益が出ない。賃上げをしたら、会社が回らなくなる。私自身、社長として、ほとんど自分の報酬を上げていません」
中小企業の労働分配率は、財務省の法人企業統計調査によれば2022年度で79.2%と、大企業の54.7%と比べてはるかに高い水準です。つまり、中小企業は、利益のほとんどを人件費に回しているのです。
問題は、大手取引先と中小企業の力関係にあります。大手企業は、優越的な地位を利用して、中小企業に単価切り下げを要求します。中小企業は、それを受け入れざるを得ません。結果として、中小企業の利益は薄く、賃上げの原資が確保できません。
この「サプライチェーンにおける利益配分の歪み」も、日本の賃金停滞の重要な要因です。
11.7 私自身の観察と仮説
ここまで、様々な現場の声を紹介してきました。これらの声を聞いてきて、私自身が抱いている仮説があります。
それは、「日本の分配の不均衡は、経済の問題であると同時に、社会の問題、そして文化の問題でもある」ということです。
経済的には、グローバル化、株主資本主義、デフレ経済などの構造要因があります。社会的には、労働組合の弱体化、非正規雇用の拡大、雇用形態の多様化などがあります。文化的には、「会社のため」「社会のため」と自己犠牲を厭わない労働倫理、声を上げることを躊躇する集団主義、現状維持を好む保守的な姿勢などがあります。
これらが複雑に絡み合って、現在の状況を作り出しています。だからこそ、解決も簡単ではありません。一つの政策や制度を変えるだけでは、根本的な解決にはなりません。
しかし、私は楽観的でもあります。なぜなら、近年、若い世代を中心に、「会社のために自分を犠牲にする」という発想が薄れてきているからです。転職市場の活性化、副業の解禁、起業家精神の高まり──これらは、労働者個人が、より強い交渉力を持つ社会の到来を示唆しています。
問題は、この個人レベルの変化が、社会全体の分配構造の変化に、どこまで結びつくか、ということです。
第12章 反論と検討──株主還元は悪なのか
ここまで、「分配の不均衡」を批判的に論じてきました。しかし、フェアな議論のためには、反論にも耳を傾ける必要があります。本章では、株主還元を擁護する立場の主張を整理し、それに対する私自身の評価を述べたいと思います。
12.1 「株主は資本を提供したのだから当然」という主張
最も基本的な反論は、「株主は企業に資本を提供したのだから、その対価としてリターンを得るのは当然である」というものです。
これは、株式会社の基本原理から考えれば、確かにその通りです。株主は、企業に資本を提供し、その対価として、配当と株価上昇によるリターンを期待します。企業がこれに応えるのは、当然の責務です。
特に、上場企業は、不特定多数の投資家から資金を調達しています。その投資家たちに対して、適切なリターンを提供しなければ、資本市場は機能しません。
私もこの主張自体には同意します。問題は、「適切なリターン」とは何か、ということです。
過去の日本企業のように、利益のほとんどを内部留保に回し、株主には微々たる配当しか支払わないのは、確かに行き過ぎでした。しかし、現在のように、利益の100%以上(つまり、過去の利益を取り崩してまで)を株主還元に回すのも、別の意味で行き過ぎではないでしょうか。
問題は、「バランス」です。株主、従業員、取引先、地域社会など、すべてのステークホルダーに対して、適切なバランスで価値を分配すること。これこそが、長期的に持続可能な企業経営です。
12.2 「株主還元が経営の規律をもたらす」という主張
次の反論は、「株主還元の圧力があるからこそ、経営者は規律を持って経営できる」というものです。
実際、過去の日本企業は、株主の声が弱かったために、非効率な経営や無駄な投資が行われてきました。バブル期の過大な多角化、ゾンビ企業の延命、政策保有株式の積み上げなど、株主の利益を顧みない経営が、結果として日本企業の競争力を弱めたという指摘があります。
東京証券取引所の「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」要請は、まさにこの問題意識から出てきたものです。日本企業の低ROEや、株価の低迷を改善するためには、株主を意識した経営が必要だと。
この主張にも、一定の説得力があります。しかし、私はここで注意を促したい。
「株主の声を意識する」ことと「株主だけを意識する」ことは違います。前者は健全ですが、後者は危険です。現在の日本企業は、後者に近づいているのではないか、というのが私の懸念です。
12.3 「賃上げは別の手段で実現すべき」という主張
「企業の利益を株主に還元することと、賃上げをすることは、別の問題である」という主張もあります。
確かに、企業の利益が増えても、自動的に賃金が上がるわけではありません。賃上げは、労使交渉、最低賃金制度、税制などを通じて実現すべきものだ、という考え方です。
この主張にも一理あります。賃金水準の決定は、企業の利益だけで決まるものではなく、労働市場、生産性、業界慣行など、複数の要因に依存します。
しかし、私はこう反論したいです。「企業の利益が増えても賃上げに回らない」という事実を、私たちはこの30年間、目の当たりにしてきました。経団連や政府がいくら賃上げを呼びかけても、企業は応じません。応じても、わずかな水準にとどまります。
つまり、「賃上げは別の問題」と切り離して考えていたら、いつまでたっても賃金は上がらない。賃上げと企業の利益・株主還元は、密接に関連している問題として、一体的に考える必要があるのです。
12.4 「グローバル競争で生き残るためには仕方ない」という主張
「日本企業は、グローバル競争の中で生き残るために、株主還元を強化せざるを得ない」という主張もあります。
これは、外国人投資家の比率が高まり、グローバルな資本市場との統合が進む中で、日本企業も「世界標準」に合わせざるを得ないという議論です。
ピクテ・ジャパンなどの分析によれば、米国のS&P500企業の総還元率は3.86%(2023年)に対し、日本企業は3.05%です。日本企業の株主還元は、まだ米国に追いついていない、という見方もできます。
確かに、グローバル競争を無視することはできません。しかし、私はここでも問いを投げかけたい。
日本企業が「米国型」を目指すことが、本当に正解なのでしょうか。米国経済は、確かに株式市場のパフォーマンスは高いですが、その代償として、深刻な所得格差、医療制度の崩壊、社会の分断などを抱えています。
ドイツや北欧諸国のように、株主と従業員、社会のバランスを取りながら、競争力を維持している経済モデルもあります。日本は、自国の文化と歴史に合った、独自の経営モデルを模索すべきではないでしょうか。
12.5 「労働分配率の低下は生産性の問題」という主張
「労働分配率の低下は、企業の人件費抑制が原因ではなく、生産性の向上に賃金が追いついていないからだ」という主張もあります。
つまり、企業は付加価値を増やしてきたが、それは技術革新や設備投資の成果であり、必ずしも従業員の貢献によるものではない。だから、すべてが賃金に反映されるわけではない、というロジックです。
この主張は、半分正しく、半分間違っていると思います。
確かに、付加価値の増加には、設備投資や技術革新の貢献があります。それは、株主や経営者の意思決定の結果でもあります。しかし、その設備や技術を実際に使いこなして付加価値を生み出しているのは、現場の従業員です。彼ら・彼女らの貢献を、適切に評価しないのは、フェアではありません。
また、生産性が向上しているにもかかわらず賃金が上がらないと、消費が伸びず、内需が縮小し、結果として日本経済全体が停滞します。これは、企業にとっても、長期的にはマイナスです。
12.6 私の結論──「両立は可能」
これらの反論を踏まえて、私の結論はこうです。
株主還元と賃上げは、対立するものではなく、両立可能なものです。むしろ、両立させなければ、長期的な企業価値も社会の持続可能性も実現できません。
具体的には、以下の優先順位で利益を分配すべきだと考えます。
第一に、将来の競争力強化のための投資(設備投資、研究開発、人材育成)。これは、企業の長期的な成長の基盤です。
第二に、従業員への適切な分配(賃上げ、賞与、福利厚生)。これは、生産性向上の源泉であり、企業の最も重要なステークホルダーへの責任です。
第三に、株主への適切な還元(配当、自社株買い)。これは、資本を提供してくれた株主への責任です。
第四に、戦略的な内部留保(将来の危機への備え、M&A資金)。これは、持続可能性のために必要です。
問題は、現在の日本企業が、これらの優先順位を逆転させているように見えることです。株主還元が最優先になり、賃上げと投資が後回しになっています。
このバランスを取り戻すことが、これからの日本企業の最大の課題だと、私は考えています。
第13章 これからの処方箋
ここまで、日本企業の分配の不均衡という問題を多角的に分析してきました。最終章として、この問題にどう対処すべきか、私なりの処方箋を提示したいと思います。
これは、即効性のある特効薬ではありません。長期的、複合的な取り組みが必要です。しかし、できることから始めることが重要だと思います。
13.1 企業に求められること
まず、企業自身に求められる行動を整理します。
(1) 経営者のマインドセットの転換
すべては、経営者のマインドセットから始まります。「株主のためだけの経営」から「すべてのステークホルダーのための経営」へ。
幸い、世界的にもこの方向への動きがあります。米国の主要企業のCEOで構成されるビジネス・ラウンドテーブルは、2019年に「企業の目的に関する声明」を発表し、株主だけでなく、顧客、従業員、サプライヤー、地域社会、株主のすべてに価値を提供することを宣言しました。
日本企業も、この潮流に乗るべきです。経団連は2020年に「経団連企業行動憲章」を改訂し、Society 5.0時代に対応した企業の社会的責任を強調しています。
ただし、声明や憲章だけでは不十分です。実際の経営判断、特に利益の分配において、ステークホルダー資本主義を実践しなければなりません。
(2) 経営者報酬と従業員給与の連動
経営者報酬を業績連動にすることは、それ自体は合理的です。しかし、その「業績」の定義に、従業員の処遇に関する指標を加えるべきです。
例えば、「平均賃金の伸び率」「従業員エンゲージメント指数」「労働分配率」などを、経営者報酬の決定要因に組み込むのです。これにより、経営者は、株主還元だけでなく、従業員への分配にも責任を持つようになります。
実際、欧州の一部企業では、こうした仕組みを導入しています。日本でも、先進的な企業は、すでに従業員指標を経営者評価に組み込み始めています。
(3) 賃上げの自己拘束的な仕組み
企業が自発的に賃上げを続けるための仕組みも重要です。例えば、「インフレ率連動の自動賃上げ条項」を就業規則に組み込む、「労働分配率の最低目標値」を設定する、「利益の一定割合を従業員に還元するルール」を作る、などが考えられます。
これらは、外部からの圧力ではなく、企業自身が自発的にコミットする仕組みです。経営者が交代しても、賃上げの方針が継続するという点で、重要です。
(4) 非正規雇用の正社員化と処遇改善
非正規雇用の正社員化と処遇改善は、社会全体の分配構造を改善するために不可欠です。
同一労働同一賃金の徹底、非正規雇用の正社員転換ルートの整備、福利厚生の平等化など、できることはたくさんあります。
非正規雇用に依存することは、企業にとって短期的には人件費削減になりますが、長期的には、人材の質の低下、組織のモチベーション低下、社会的批判の増大など、デメリットも大きいです。
13.2 政策に求められること
企業の自発的な行動だけでは限界があります。政策面でも、いくつかの重要な改革が必要です。
(1) 税制改革
法人税制の見直しが必要です。利益のうち、賃上げや人材投資に回した部分を、税額控除する仕組みを強化すべきです。
実際、日本にはすでに「賃上げ促進税制」がありますが、その効果は限定的です。控除率を引き上げる、対象を拡大する、適用条件を緩和するなど、より使いやすく、インセンティブの強い制度に改める必要があります。
同時に、自社株買いに対する課税の検討も視野に入れるべきです。米国では、2023年から自社株買いに1%の物品税が課されています。これは、自社株買いと配当の税制上のバランスを取るための措置でもあります。日本でも、検討の価値はあると思います。
(2) 最低賃金の引き上げ
最低賃金の継続的な引き上げは、低所得層の賃金底上げに直接効果があります。
日本の最低賃金は、近年大幅に引き上げられてきましたが、それでもまだ国際的に低い水準にとどまっています。OECD諸国の中で、日本の最低賃金は中位以下です。
今後も、計画的に引き上げを続けるべきです。同時に、中小企業が引き上げに対応できるよう、補助金や税制支援を組み合わせることも重要です。
(3) 労働組合の活性化
労働組合の組織率を上げることも、賃上げにつながります。
具体的には、非正規雇用者の労働組合加入の促進、産業別労働組合の機能強化、労使協議の場の制度化などが考えられます。
ドイツの「共同決定」制度のように、従業員代表が取締役会に参加する仕組みを、日本でも導入することを検討すべきだと、私は考えています。これにより、経営の意思決定に従業員の声が直接反映されるようになります。
(4) コーポレートガバナンス・コードの見直し
東京証券取引所のコーポレートガバナンス・コードと、金融庁のスチュワードシップ・コードを見直し、ESG要素、特にS(社会)の要素を強化すべきです。
具体的には、「人的資本への投資」「労働分配率」「賃金格差」などを、開示項目として強化することです。すでに、人的資本の情報開示は2023年から義務化されていますが、その内容と質をさらに高める必要があります。
開示が進めば、投資家も、企業の人的資本への取り組みを評価対象にするようになります。それが、企業の行動変容を促します。
13.3 社会に求められること
最後に、社会全体としての変化も必要です。
(1) 賃金交渉文化の再構築
日本の賃金交渉文化は、欧米と比べてかなり弱いです。労働者自身が、賃上げを声高に要求することを躊躇する文化があります。
これを変えるには、教育、メディア、世論形成など、多方面からのアプローチが必要です。「賃上げを要求することは正当な権利である」という意識を、社会全体で共有する必要があります。
(2) 個人の交渉力の強化
集団的な交渉力(労働組合)に加えて、個人の交渉力も高める必要があります。
具体的には、転職市場の活性化、スキルアップの機会の拡大、副業の容認、起業家精神の育成などです。労働者個人が、複数の選択肢を持ち、企業と対等に交渉できる立場になることが重要です。
近年、若い世代を中心に、転職への抵抗感が薄れてきています。これは、賃金交渉力の強化につながる可能性があります。
(3) ステークホルダー意識の醸成
「会社は誰のものか」という問いに、社会全体で答えを出していく必要があります。
「株主のものだ」という答えだけでは不十分です。「従業員のものでもあり、取引先のものでもあり、地域社会のものでもあり、株主のものでもある」という、複層的な答えを共有することが重要です。
これは、企業経営者だけでなく、メディア、教育機関、政策当局など、社会のあらゆる層が考えていくべきテーマです。
13.4 個人としてできること
最後に、私たち一人ひとりができることも、考えておきたいと思います。
第一に、自社の財務状況、利益の使い道、株主還元の状況などを、もっと知ることです。決算説明資料を読み、自分が働いている会社の経営について、関心を持つことです。
第二に、賃金交渉に対して、もっと積極的になることです。これは、難しいことですが、自分の価値に見合った報酬を要求する権利は、誰にでもあります。
第三に、社会的な議論に参加することです。SNS、メディア、選挙など、様々な場で、分配の問題について意見を表明することです。
第四に、消費者として、企業を選別することです。従業員を大切にする企業の製品・サービスを優先的に選ぶ。これは、市場メカニズムを通じた、強力な企業への圧力になります。
13.5 長期的な展望
これらの処方箋を実行しても、すぐに劇的な変化が起きるわけではありません。30年かけて作られてきた構造は、30年かけて変えていく必要があるかもしれません。
しかし、私は希望を持っています。
近年、世界的にもステークホルダー資本主義への回帰の動きが見られます。ESG投資の拡大、人的資本の重要性の認識、所得格差への問題意識の高まり──これらは、株主資本主義の行き過ぎへの反省です。
日本でも、若い世代を中心に、新しい価値観が広がっています。「会社のために自分を犠牲にする」のではなく、「自分と社会のために働く」という発想。「会社の利益だけ」ではなく、「持続可能な社会への貢献」を重視する発想。
こうした新しい価値観が、これからの企業経営の主流になっていけば、分配の不均衡という問題も、自ずと解決の方向に向かうはずです。
私たちは、その変化の只中にいます。批判的な視点を持ちつつ、希望を失わずに、この変化に向き合っていきたいと思います。
おわりに
長い文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。
この記事を書きながら、私は何度も自問しました。「日本企業の経営者は、本当に従業員のことを軽視しているのか」「株主還元の拡大は、本当に問題なのか」「自分の主張は、感情的に偏っていないか」と。
正直に申し上げると、簡単な答えは出ません。
日本企業の経営者の多くは、誠実に経営に取り組んでいると、私は信じています。彼らも、従業員の生活を守りたいと考えているはずです。しかし、グローバル化、株主資本主義、ガバナンス改革、デフレ経済、そして長年の慣習──様々な構造要因の中で、結果として、従業員への分配が抑制されてきました。
これは、誰か特定の人物が悪意を持って作り出した状況ではありません。多くのプレイヤーの行動の結果として、現在の構造が出来上がっています。だからこそ、解決も難しいのです。
しかし、難しいからといって、放置していいわけではありません。日本企業の労働分配率は51年ぶりの低水準、内部留保は637兆円、自社株買いは過去最高──これらの数字は、明らかに「異常」です。何かを変える必要があります。
私が本記事で繰り返し強調してきたのは、「バランス」の重要性です。株主、従業員、取引先、地域社会──すべてのステークホルダーに対して、適切なバランスで価値を分配すること。これは、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、現実には実現が難しい課題です。
過去の日本企業は、株主の利益を軽視しすぎていました。それを是正しようとして、現在は逆に、株主の利益を最優先するようになっています。振り子が極端から極端へ振れている状態です。
これからの日本企業に必要なのは、振り子を「中央」に戻すことです。株主の利益も大切、従業員の利益も大切、社会の利益も大切。すべてのステークホルダーが、適切に報われる企業経営。
これを実現するには、企業、政策、社会、個人──すべてのレベルで、変化が必要です。一朝一夕にはいきませんが、できることから始めるしかありません。
私は、この記事が、読者の方々が「会社」と「働くこと」について考えるきっかけになれば、嬉しく思います。あなた自身が、どのような企業で働きたいか。どのような社会で生きたいか。どのような価値観を大切にしたいか。
これらの問いに、それぞれの答えを見つけていく中で、日本企業の分配構造も、徐々に変わっていくはずです。
最後に、私自身の願いを書き留めて、この記事を終えたいと思います。
私は、日本企業が、世界に誇れる経営モデルを持つ国であり続けてほしいと願っています。それは、株主だけのためでも、従業員だけのためでもなく、社会全体のためになる経営モデルです。
戦後の日本企業は、「会社一家」と呼ばれるような、温かみのある企業文化を持っていました。それは、行き過ぎた面もありましたが、人を大切にする経営の良き伝統でもありました。
その伝統を、グローバル化と株主資本主義の時代に合わせて、現代的に再生する。これが、私たちの世代の課題だと、私は考えています。
日本企業の未来に、希望を持って、この記事を締めくくります。
参考資料
本記事の執筆にあたっては、以下の一次資料、調査レポート、報道などを参照しました。
公的統計・調査
- 財務省「法人企業統計調査」(年次・四半期、各年度版)
- 厚生労働省「毎月勤労統計調査」(各年度版)
- 厚生労働省「賃金構造基本統計調査」(各年度版)
- 総務省「労働力調査」(各年度版)
- 内閣府「国民経済計算(SNA)」(各年度版)
- 国税庁「民間給与実態統計調査」(各年度版)
- OECD「Average Wages」統計(Average annual wages データセット)
- OECD「Labour Income Share Ratios」統計
取引所・業界団体資料
- 東京証券取引所「資本コストや株価を意識した経営の実現に向けた対応」(2023年3月)
- 東京証券取引所「コーポレートガバナンス・コード」(改訂版)
- 日本取引所グループ「株式分布状況調査」(2024年度版ほか)
- 金融庁「スチュワードシップ・コード」
- 日本経済団体連合会「経団連企業行動憲章」(2020年改訂)
- 日本経済団体連合会「役員・従業員へのインセンティブ報酬制度に関する提言」
- 連合(日本労働組合総連合会)「賃金レポート2023」
- 連合「春闘」関連資料(各年度)
民間調査機関・研究所
- 第一生命経済研究所(佐久間啓氏、河谷善夫氏ほかのレポート)
- 大和総研(中村昌宏氏ほかのレポート)
- リクルートワークス研究所「Works Index」「全国就業実態パネル調査」
- ピクテ・ジャパン「日米株主還元比較」分析
- 日本総合研究所「TOPIX500役員報酬調査」
- 三菱UFJリサーチ&コンサルティング 各種レポート
- ニッセイ基礎研究所 各種レポート
- 労働政策研究・研修機構(JILPT)「国際労働比較」「データブック国際労働比較」
- 東京商工リサーチ「上場企業の平均給与調査」
- 帝国データバンク「賃上げ動向アンケート」
- 経済産業省「企業の人的資本投資に関する調査」
報道資料
- 日本経済新聞「労働分配率53.9%、51年ぶり低水準」(2025年7月報道)
- 日本経済新聞 自社株買い関連報道(2024-2025年)
- 日本経済新聞 役員報酬関連報道(各年度)
- 日経ビジネス、東洋経済オンライン、ダイヤモンドオンライン 関連各記事
- ロイター、ブルームバーグ 日本企業の株主還元関連報道
- 各種ビジネス誌(『プレジデント』『日経マネー』『週刊ダイヤモンド』『週刊東洋経済』ほか)
企業開示資料
- トヨタ自動車、ソニーグループ、三菱UFJフィナンシャル・グループほか各社の有価証券報告書
- 各社の決算短信、決算説明資料、統合報告書(2020-2025年度版)
- 各社のコーポレートガバナンス報告書
- 各社の株主総会招集通知
書籍・学術論文
- 岩井克人『会社はこれからどうなるのか』(平凡社、2003年)
- 岩井克人『会社はだれのものか』(平凡社、2005年)
- 田中秀臣ほかの労働経済関連の著作
- 玄田有史ほかの労働市場研究
- 各種学術誌の関連論文
国際比較資料
- World Bank「Wages and salaries」統計
- IMF「World Economic Outlook」関連データ
- 各国統計局の労働分配率関連データ
※ 本記事中の統計データは、執筆時点(2026年5月)で入手可能な最新のものを使用しています。データの解釈や分析は筆者の独自の視点に基づくものであり、上記の参考資料の発行元の見解を必ずしも反映するものではありません。
※ 本記事中で紹介した個人の証言・インタビュー内容については、プライバシー保護の観点から、個人や企業を特定できる情報は変更・抽象化しています。
※ 本記事の内容は、いかなる投資判断や経営判断の根拠としても、その正確性や完全性を保証するものではありません。具体的な判断にあたっては、専門家にご相談いただくことを推奨します。

