その評価は間違っている
「氷河期世代は、メンタルが弱い」。
この評価を、さまざまな場面で耳にする。評論家の発言、ネット記事の見出し、職場での会話、飲み会での一言。氷河期世代にうつ病や適応障害が多いこと、引きこもりが多いこと、生活困窮者が多いこと。これらの統計的事実を根拠に、「この世代はメンタルが弱い」と結論づける人がいる。
反論したい。全力で。
メンタルが弱いのではない。メンタルを破壊されたのだ。
この区別は、極めて重要だ。「弱い」のは元からの資質の話で、「破壊された」のは外的要因による損傷の話だ。前者は被害者に原因を帰す。後者は加害者や構造に原因を帰す。同じ状態を表現する言葉でも、責任の所在がまったく違う。
「メンタルが弱い世代」という評価は、被害者に原因を帰している。世代内部に弱さがあるという前提。これは間違っている。
破壊された経緯を確認する
何が、どうメンタルを破壊したのか。経緯を確認する。
大学卒業時、新卒一括採用の波に乗れなかった。100社、200社に応募して、全部不採用。連日の不採用通知、面接での値踏み、内定を取れない焦り。これだけで、20代前半のメンタルはかなり削られる。
卒業後、非正規雇用に流れた。契約は数ヶ月単位、いつ切られるかわからない。契約更新のたびに不安になる。更新されなかったら次を探す。探している間は収入が途絶える。この不安定さが、常時メンタルに負荷をかける。
職場では、正社員との待遇差を日々実感する。同じ仕事をしているのに、給料が違う。ボーナスがない。福利厚生が違う。この不公平感が、地味に心を削る。
社会からは「自己責任」と断じられる。就職できないのも、非正規なのも、貯金がないのも、全部あなたのせい。メディアも、政治家も、親戚も、同じことを言う。四方八方から「お前が悪い」と浴びせられる。
親からは「安定した仕事に就け」と言われ続ける。善意の言葉が、繰り返されるうちに呪文になる。親の期待に応えられない罪悪感が、心の内側を蝕む。
結婚できない。経済的な基盤がないから。パートナーがいても、踏み切れない。年齢を重ねるごとに、結婚の可能性が遠のく。孤独な老後が、現実味を帯びてくる。
老後の不安が増す。年金の見込額が少ない。貯金もない。病気になったらどうするか。介護が必要になったらどうするか。不安材料が積み重なる。
これらの要因が、20代から50代まで、30年間にわたって作用し続ける。30年間、心が削られ続ける。削られ続けて、うつ病にならないほうが不思議だ。引きこもりにならないほうが不思議だ。メンタルを壊さずにいられるほうが、奇跡に近い。
壊れていないほうが「強い」
この経緯を前提にすれば、評価は逆になる。
氷河期世代がメンタルを壊すのは、当然の反応だ。正常な反応と言ってもいい。30年間、心を削り続けられたら、誰でもどこかで壊れる。
むしろ、壊れずに持ちこたえている氷河期世代こそ、「強い」と言える。壊れる要因が揃っているのに、壊れていない。これは強さだ。
この観点から見ると、氷河期世代は「メンタルが弱い世代」ではなく、「メンタルが試された世代」あるいは「メンタルが鍛えられた世代」だ。不遇な環境で30年生き延びてきた人間は、平穏な環境で30年過ごしてきた人間より、ある意味で精神的にタフだ。
もちろん、壊れた人を責めているのではない。壊れた人は被害者だ。壊れる要因が強すぎたから壊れた。壊れなかった人と壊れた人の差は、個人の資質の差ではなく、運や細かい状況の差にすぎない。
ただ、「氷河期世代はメンタルが弱い」という一括りの評価は、的外れだ。壊れた人も、壊れそうで持ちこたえている人も、壊れずに元気でいる人も、全員ひっくるめて「弱い」と言うのは、乱暴すぎる。
因果の取り違え
「メンタルが弱い世代」という評価には、因果関係の取り違えがある。
正しい因果は、「不遇な環境 → メンタル損傷」だ。環境が原因で、メンタル損傷が結果。
だが「メンタルが弱い世代」という評価は、逆の因果を示唆する。「メンタルの弱さ → 不遇な結果」。メンタルが弱かったから、就職できなかった。メンタルが弱かったから、非正規になった。メンタルが弱かったから、貧困に陥った。
これは順序が逆だ。メンタルが弱かったから就職できなかったのではなく、就職できなかったことでメンタルが弱った。原因と結果が入れ替わっている。
この入れ替わりは、被害者非難の典型パターンだ。「ああいう目に遭う人は、元からそういう弱さがあったのだろう」という論法。レイプ被害者に「隙があったからだ」と言うのと、同じ構造。結果から原因を逆算して、被害者側に問題があったことにする。
因果の正しい順序を、社会は認識したがらない。認識してしまうと、社会の側に責任があることを認めなければならないから。認めたくないから、「メンタルが弱い」という個人側の要因に押し付ける。
この押し付けに、私は抵抗する。原因は環境にある。結果としてメンタルが損なわれた人がいる。順序はこれだ。順序を逆にして語る人には、丁寧に、でもはっきりと、「違う」と言い続けたい。
「メンタルが強い」の幻想
そもそも、「メンタルが強い」とはどういう状態か。
何があっても動じない。どんな逆境でも笑顔。ストレスを感じない。この種の「強さ」は、実はあまり健全ではない。人間は生き物だから、逆境で動揺するのは自然だ。ストレスを感じるのは自然だ。感じないほうが、むしろ異常だ。
「メンタルが強い」と評価される人の中には、感情を押し殺しているだけの人がいる。押し殺し続けると、ある日突然、大きく崩れる。表面的な強さは、内部の抑圧で成り立っていることがある。
本当の「強さ」は、動じないことではなく、動じても回復できることだ。倒れても立ち上がれる。傷ついても治せる。この回復力こそ、真の強さだ。
この観点で見ると、氷河期世代は、回復を何度も経験している。100社落ちて、それでも次に応募する。契約を切られて、それでも次の仕事を探す。自己責任と言われて、それでも生きている。倒れては立ち上がる、の繰り返し。
「倒れて立ち上がる」を繰り返してきた世代を、「メンタルが弱い」と呼ぶのは、評価軸が間違っている。倒れた回数ではなく、立ち上がった回数を数えてほしい。そうすれば、違う結論が出る。
統計の読み方
氷河期世代のうつ病罹患率の高さや、引きこもりの多さは、統計的な事実だ。この事実をどう解釈するか。
解釈1、「この世代はメンタルが弱い」。原因を世代内部の資質に求める。
解釈2、「この世代が置かれた環境がメンタルを破壊した」。原因を外的環境に求める。
同じ統計事実から、正反対の解釈が導ける。どちらを選ぶかは、解釈する側の立場による。
社会の側に立つ人は、解釈1を選びやすい。社会の責任を問わなくて済むから。当事者の側に立つ人は、解釈2を選びやすい。自分の状態を、自分の弱さではなく環境の問題として捉えられるから。
どちらの解釈が正しいか。証拠を集めて検証する必要がある。
検証の一つ。氷河期世代の前後の世代と比較する。バブル世代のうつ病罹患率は?ゆとり世代のうつ病罹患率は?同じ個人でも、置かれた環境で結果が違うなら、原因は環境にある可能性が高い。
検証の二つ。国際比較する。他国の同年代のうつ病罹患率は?日本の氷河期世代だけが異常に高ければ、日本独自の環境要因がある可能性が高い。
検証の三つ。時系列で見る。氷河期世代が20代だった頃と、40代になった今で、メンタル疾患の罹患率はどう変化したか?時間とともに悪化しているなら、環境が悪化しているか、環境の影響が蓄積されている証拠だ。
これらの検証を経ずに「メンタルが弱い」と結論づけるのは、乱暴な統計の使い方だ。統計は解釈を伴ってこそ意味を持つ。解釈の段階で、「弱さ」という安易な結論に飛びついてはいけない。
「強くなれ」の限界
「メンタルが弱い」という評価に続いて、「強くなれ」という助言が来ることがある。
「もっとポジティブに考えろ」「気にしすぎるな」「考え方を変えれば楽になる」。こういう助言は、個人の努力でメンタルを強くできる、という前提に立っている。
確かに、考え方で変わる部分はある。認知行動療法は、考え方の歪みを修正することで、メンタルの回復を助ける手法だ。これは有効な治療法として認められている。
だが、考え方で変えられる範囲には限界がある。環境が悪ければ、どんなにポジティブに考えようとしても、限界がある。明日の家賃が払えるかわからない状態で、「前向きに考えよう」と言われても、前向きになれない。前向きさは、ある程度の基盤の上に成り立つ感情だ。
氷河期世代に「強くなれ」と言う人は、基盤のある人だ。基盤があるから、考え方次第で対処できる。基盤のない人間に「強くなれ」と言うのは、飢えている人に「気の持ちようで満腹になる」と言うようなもの。無理だ。
助言する前に、相手の基盤を見てほしい。基盤のない人に必要なのは、助言ではなく、基盤の提供だ。経済的な安定、社会的なサポート、時間的な余裕。これらが整って初めて、「考え方を変える」という選択肢が実行可能になる。
メンタルヘルスの格差
メンタルヘルスにも、格差がある。
メンタルが健康でいられるためには、経済的な安定、時間的な余裕、サポートしてくれる人間関係、健康的な生活習慣、そしてアクセス可能な医療が必要だ。これらすべてを持っている人は、メンタルが健康でいやすい。
氷河期世代の多くは、これらをあまり持っていない。経済的に不安定、時間も体力もない、友達は減った、生活は荒れがち、医療費を惜しんで受診しない。メンタルヘルスを支える基盤が弱い。
この基盤の弱さが、メンタル疾患の罹患率に反映される。罹患率を見て「メンタルが弱い」と言うのは、基盤の弱さを個人の弱さと取り違えている。
格差社会では、メンタルヘルスも格差化する。恵まれた人はメンタルが健康を保ちやすく、不遇な人はメンタルが壊れやすい。これは個人の資質ではなく、構造の問題だ。
だから、「氷河期世代のメンタルヘルスをどうするか」という問いは、「個人の弱さをどう克服するか」ではなく、「構造的な格差をどう是正するか」という問いに変換されるべきだ。この変換を抜きに、個人に「強くなれ」と言っても、何も解決しない。
壊れなかったことを誇る
壊れた人は被害者だ。壊れなかった人は、幸運だった人だ。個人の資質の差ではない。運と条件の差だ。
壊れなかった人間として、壊れた人を軽んじる気はない。「自分は壊れなかった、お前も頑張れ」と言う気もない。壊れなかったのは自分の努力ではなく、たまたまだった。たまたまの自分が、頑張ったと誇るのは違う。
ただ、壊れなかったことを、ささやかに誇ってもいい。誇っていい、と思うようになった。
30年間、心を削られ続けながら、壊れずに生きてきた。毎朝起きて、仕事に行って、給料をもらって、生活を回してきた。この継続性は、誰にも讃えられないが、私自身は知っている。簡単なことではなかった。
「メンタルが弱い世代」と言われるたびに、私は内心で反論する。私は弱くない。不遇な環境で、まだここに立っている。立ち続けている。それを「弱い」と呼ぶなら、あなたの「強い」の定義を聞きたい。
この反論は、声に出さない。出しても理解されない。だから内心にとどめる。内心にとどめて、今日も生活を回す。回し続けることが、最大の反論だ。
壊れた人への敬意
最後に、壊れた氷河期世代の仲間たちへ、敬意を表しておきたい。
壊れたことは、恥ではない。壊れるほどに踏ん張った、ということだ。踏ん張ってきた時間が長かったから、壊れた。踏ん張りが短ければ、壊れもしなかった。壊れるまで踏ん張れたこと自体が、ある種の粘り強さの証明だ。
壊れたあと、治療を受けている人、休養を取っている人、働けなくなった人、引きこもっている人。それぞれに事情があり、それぞれのペースで回復しようとしている。あるいは、回復を諦めた人もいるかもしれない。
どの状態であっても、責める気はない。どの状態も、長い戦いの結果だ。戦いの結果として壊れたなら、その壊れ方を尊重したい。
「メンタルが弱い世代」という評価は、壊れた人への二次加害だ。壊れた人を、さらに「弱い」と裁く。裁かれた側は、自分を責めるようになる。「自分は弱いから壊れたのだ」と。この内面化した自責が、回復を遅らせる。
自責から解放されてほしい。あなたは弱くなかった。弱くなかったから、壊れるほどに踏ん張れた。踏ん張りの証拠として、今の状態がある。それは誇っていい。誇りづらいかもしれないが、誇っていい。
壊れなかった私も、壊れた仲間たちも、同じ戦場で戦ってきた。戦い方が違っただけだ。戦場を生き延びたか、戦場で傷ついたかの違いだけ。どちらも兵士だ。どちらも敬意に値する。
「メンタルが弱い世代」という言葉は、私たちの戦いの記憶を消そうとする。消させない。記録として、残す。壊れた人のために、壊れなかった人のために、私たちがどう戦ってきたかを、書き残す。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「メンタルが弱い」と評されて悔しい思いをしたことがある人は、きっと少なくないはずです。

