最後に聞かれたのはいつだったか
「夢はなんですか?」
この質問を、最後にいつ聞かれたか。思い出そうとして、思い出せない。20代の頃は聞かれた記憶がある。就職面接で。合コンで。友人との飲み会で。「将来、何がしたい?」「夢とか、ある?」。答えに困りながらも、何かしら答えていた気がする。
30代になると、聞かれる頻度が激減した。35歳を過ぎたあたりから、ほぼゼロになった。40代の今、「夢は何ですか」と聞いてくる人は、誰もいない。
聞かれなくなったのは、なぜか。
答えは簡単だ。40代の人間に夢を聞くのは、「野暮」だからだ。40代で夢を語ったら、「いい歳して夢なんか見てるの」と思われる。夢は若者の特権であり、中年は「現実」を見るべきだ、という暗黙の規範がある。
「夢を聞く」行為は、相手に可能性があることを前提にしている。若者には可能性がある。可能性があるから、「何がしたい?」と聞く意味がある。中年には可能性がない。可能性がないから、聞いても仕方がない。聞かないほうが親切。そういう配慮が、暗黙に働いている。
親切の形をした、可能性の否定。これが「聞かれなくなった」の正体だ。
「夢がない」のか「夢を持つ余裕がない」のか
聞かれなくなったと同時に、自分自身でも「夢」を考えなくなった。
20代の頃は、漠然とだが夢があった。安定した仕事に就きたい。結婚したい。海外に行ってみたい。小説を書いてみたい。どれも大きな夢ではないが、ぼんやりと「いつか」を思い描く余裕があった。
30代になると、「いつか」が「もう難しいかもしれない」に変わった。安定した仕事は見つからない。結婚は経済的に無理。海外は費用が出せない。小説は書く時間がない。ひとつずつ、夢のリストから項目が消えていった。
40代。リストは白紙になった。白紙になったのは、夢を「持てない」からだ。夢を持つには、余裕がいる。経済的な余裕、時間的な余裕、精神的な余裕。どれも欠けている状態で、「夢」は贅沢品だ。
コンビニのデザートが贅沢品であるように、夢も贅沢品なのだ。余裕のある人だけが持てるもの。350円のプリンを買えないのと同じ構造で、「夢」も買えない。
「夢がない」のではなく、「夢を持つ余裕がない」。この二つは似ているが、意味が違う。前者は本人の志向の問題、後者は環境の問題だ。環境が許さないのに「夢を持て」と言われても、持てない。持てないことを恥じる必要もない。
夢の代わりにあるもの
夢がなくなった代わりに、何があるか。
「目標」はある。ただしそれは、「○○になりたい」という上向きの目標ではなく、「○○にならないようにしたい」という下向きの目標だ。
生活保護にならないようにしたい。健康を壊さないようにしたい。路上生活にならないようにしたい。孤独死しないようにしたい。
上を見て「ああなりたい」ではなく、下を見て「ああならないようにしたい」。夢が天に向かう矢印だとすれば、私の目標は地面に向かうのを食い止める矢印だ。方向が逆だ。
この下向きの目標は、夢のようなワクワク感はない。だが現実的ではある。達成可能な範囲にある。生活保護にならないためには、働き続ければいい。健康を壊さないためには、最低限のケアをすればいい。路上生活にならないためには、家賃を払い続ければいい。
地味だが、実行可能。実行可能な目標は、夢より心強い。夢は叶わないかもしれないが、目標は自分次第で達成できる。達成できるものを積み重ねるほうが、達成できないものを夢見続けるより、精神衛生上は良い。
だがたまに、「夢のある人生と、目標だけの人生は、何が違うのか」と考えることがある。違いは、キラキラしているかどうかだ。夢のある人生は、キラキラしている。目標だけの人生は、地味だ。地味だが、堅実だ。堅実な人生も、悪くはない。悪くはない、と自分に言い聞かせている。言い聞かせているということは、まだ完全には納得していないのかもしれない。
もしも今、「夢は?」と聞かれたら
もしも今、誰かに「夢は何ですか?」と聞かれたら、何と答えるだろう。
少し考えて、こう答えるかもしれない。
「半額シールを気にせずに買い物できるようになること」。
冗談のように聞こえるが、半分は本気だ。経済的な余裕を持つこと。それは、壮大な夢ではないが、私にとっては切実な夢だ。値札を見ずにコンビニで弁当を買える。定価のプリンを躊躇なくカゴに入れられる。歯医者に行く費用を気にしない。この程度のことが、私にとっての「夢」だ。
この夢を聞いた人は、笑うかもしれない。「そんなの夢って言わないでしょ」と。確かに、世間一般の「夢」のスケールからすれば小さい。起業したい、世界一周したい、社長になりたい——そういう夢と比べれば、豆粒みたいな夢だ。
だが夢のスケールは、持つ人の立ち位置によって変わる。山の頂上にいる人の「もっと高い山に登りたい」と、谷底にいる人の「谷から出たい」は、どちらも同じくらい切実な夢だ。スケールは違っても、切実さは同じ。
私の夢は、谷底から出ることだ。谷底から出て、平地に立つこと。平地に立てたら、そこから先のことは、そのとき考える。
聞かれなくなった夢を、聞かれてもいないのにここに書いた。書いたことで、少しだけ、夢が実体を持った気がする。言語化すると、漠然としたものが形を得る。形を得た夢は、漠然とした不安より、少しだけ対処しやすい。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「夢は?」と聞かれなくなったことに寂しさを感じた人は、きっと少なくないはずです。
