「推し」がいない人間の疎外感——趣味文化についていけない中年の実態

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「推し」がいない人間の疎外感——趣味文化についていけない中年の実態

「推し、いますか?」

派遣先の休憩室で、20代の女性社員がこう聞いてきた。「○○さんって、推しいますか?」

推し。この言葉は知っている。好きなアイドル、俳優、キャラクター、YouTuber。「応援している対象」のことだ。SNSでも「推し活」「推しの誕生日」「推しが尊い」といったフレーズを頻繁に見かける。

「いや、特にいないですね」。正直に答えた。

相手は少し驚いた顔をした。「えー、マジですか。何も推してないんですか?」。何も推していない。アイドルに興味がない。俳優に詳しくない。アニメを追いかけていない。ゲームをしていない。スポーツチームを応援していない。何も、推していない。

「推し」がいないことが、この場では「異常」として受け取られた。推しがいるのが当たり前の世界で、推しがいない人間は「何を楽しみに生きているのか」と不思議がられる。

何を楽しみに生きているのか。良い質問だ。答えに窮する。半額の惣菜がおいしかったこと、発泡酒の最初の一口が幸せなこと、散歩中の風が気持ちいいこと。これらは確かに「楽しみ」だが、「推し」のような強烈な情熱とは質が違う。静かな満足。地味な幸福。誰かに語るほどの熱量はない。

「推し活」文化の拡大

「推し活」は、若い世代だけの文化ではなくなっている。40代50代でも推しがいる人は増えている。韓流ドラマのファン、ジャニーズ(現STARTO)のファン、宝塚のファン、プロ野球のファン。年齢を問わず、「推し」に情熱を注ぐ人は多い。

推し活は、現代のコミュニティの核になっている。同じ推しを持つファン同士がSNSでつながり、イベントで会い、グッズを交換し、情報を共有する。推しを通じて、友達ができる。居場所ができる。アイデンティティが形成される。「○○のファンです」が自己紹介の定番フレーズになっている。

推しがいない人間は、このコミュニティの外にいる。外にいると、話題についていけない。「昨日の配信見た?」「新曲やばくない?」「来月のライブ、チケット取れた?」。これらの会話に参加できない。参加できないと、疎外感を感じる。疎外感は、孤独を深める。

なぜ「推し」が持てないのか

推しが持てない理由を、自己分析してみる。

理由1は「お金がない」こと。推し活にはお金がかかる。ライブのチケット、グッズの購入、ファンクラブの会費、遠征の交通費。本気の推し活には月数万円〜数十万円かかることもある。月の自由に使えるお金が数千円の人間には、推し活は経済的に不可能だ。

理由2は「時間がない」こと。推し活には時間が必要。作品を追いかける、SNSをチェックする、イベントに参加する、ファン同士と交流する。仕事と生活で精一杯の人間に、推し活に割く時間はない。

理由3は「エネルギーがない」こと。何かに熱中するには、精神的なエネルギーが必要。日々の生存に消耗しきっている人間に、「熱中する」余裕はない。熱中するためのエネルギーのタンクが空だ。空のタンクからは、情熱は湧かない。

理由4は「情熱を持つことへの恐れ」。何かに熱中すると、それを失ったときのダメージが大きい。推しが引退したら。推しのグループが解散したら。推しが炎上したら。熱中した対象を失う痛みを、無意識に回避している。何にも熱中しなければ、失うものもない。失うものがなければ、傷つかない。防衛本能としての「無趣味」。

理由5は「自分には合わないという思い込み」。「推しを持つのは若い人のやること」「中年のおっさんがアイドルを推すのは痛い」。この思い込みが、推し活への参入を阻んでいる。思い込みは事実ではないが、心理的な壁として機能する。

「推し」の代わりにあるもの

推しがいない代わりに、私には何があるか。

半額シールの惣菜を探す楽しみ。もやし料理の新メニューを開発する喜び。NISAの積立額が少しずつ増えていく満足。散歩中に見つけた花の美しさ。図書館で借りた本が面白かったときの充実感。

これらは「推し」ではない。熱狂はない。SNSで共有しない。グッズを買わない。イベントに行かない。だが確かに、日常の中の小さな喜びだ。小さな喜びの集合体が、私の「趣味」と呼べるものかもしれない。呼べないかもしれない。

「推し」と「小さな喜び」の違いは、「熱量」と「共有性」だ。推しには強い熱量がある。他者と共有できる。小さな喜びは熱量が低い。他者と共有しにくい。「半額の刺身がおいしかった」とSNSに投稿しても、誰も「わかる!」とは言ってくれない(言ってくれる人もいるかもしれないが)。

共有できない喜びは、一人で完結する。一人で完結する喜びは、孤独と相性がいい。孤独な人間には、一人で完結する喜びのほうが向いている。共有を前提とした「推し」は、一人暮らしの孤独な人間には、入口のハードルが高い。

「推し」を見つける努力をすべきか

「推し」を見つけたほうがいいのだろうか。見つけるべきなのだろうか。

「見つけるべき」と言われそうだ。推しがいれば、生きる張り合いが生まれる。コミュニティに参加できる。会話のネタが増える。感情が豊かになる。良いことずくめだ。

だが「見つけるべき」と言われても、見つかるものではない。推しは「探すもの」ではなく「出会うもの」だ。出会いは偶然であり、意図的にコントロールできない。「推しを見つけなければ」と焦ると、逆に見つからない。焦りは出会いを遠ざける。

推しがいなくても生きていける。生きていけるから、無理に探す必要はない。ただし「推しが見つかるかもしれない」可能性には、心を開いておきたい。たまたま見たドラマにハマるかもしれない。たまたま聴いた音楽に心を打たれるかもしれない。たまたま出会ったスポーツ選手のプレーに感動するかもしれない。その「たまたま」のために、完全にシャットアウトはしない。

シャットアウトしないための具体的な行動。テレビをつけておく。ラジオを聴く。図書館で普段読まないジャンルの本を借りてみる。YouTubeのおすすめ動画を見てみる。これらの「受動的な出会いの場」を維持しておく。出会いは意図的にはコントロールできないが、出会いの「確率」は高められる。たくさんのものに触れれば、どれかに心が動く可能性がある。動かなくても構わない。動いたらラッキー、くらいの気持ちで。

「何も推していない」ことの尊厳

「何も推していない」ことを、恥じる必要はない。推しがいる人が偉いわけではない。推しがいない人がダメなわけではない。人それぞれの生き方があり、推し活はその一つにすぎない。

何も推していない代わりに、自分の日常を丁寧に生きている。半額シールを待ち、もやし料理を工夫し、NISAの積立を続け、散歩で季節を感じる。地味だが確実な、自分なりの「生きる楽しみ」がある。

推しがいる人に「それ楽しいの?」と聞かれたら、「楽しいよ」と答えたい。派手な楽しさではない。静かな楽しさだ。静かだが、確かにある。確かにあるものを、「つまらない」と決めつけられたくはない。

推しがいない人生は、空っぽではない。空っぽに見えるかもしれないが、中身はある。中身は、他者には見えないだけだ。見えないものを大切にする。見えないものに価値を見出す。これが「推しがいない人間」の生き方だ。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「推しがいない」ことに引け目を感じたことがある人は、きっと少なくないはずです。

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