「氷河期世代への支援」という言葉を聞くたびに思うこと

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また言っている

テレビをつけると、政治家が言っている。「氷河期世代への支援を強化してまいります」。ネットニュースを開くと、見出しがある。「就職氷河期世代、正社員化を促進」。SNSのタイムラインに、識者のコメントが流れてくる。「氷河期世代の問題は、いまだ解決されていない」。

知っている。解決されていないことくらい、当事者が一番よく知っている。

「氷河期世代への支援」という言葉を聞くたびに、いくつかの感情が同時に動く。それはひとつの感情ではなく、複数の感情が混ざり合った複合体であり、ちょうど合金のようにそれぞれの成分を分離するのが難しい。だが試みてみる。

成分その一、かすかな期待

どんなに裏切られても、期待は完全にはゼロにならない。

「支援を強化します」と聞くと、頭の片隅で「今度こそ何か変わるかもしれない」という微かな光が灯る。非常に微かな光だ。100ワットの白熱電球ではなく、豆電球。それも電池が切れかけの豆電球。

この期待は、過去に何度も裏切られてきた。支援策が発表されるたびに内容を確認し、「これではダメだ」と落胆することを繰り返してきた。それでも期待がゼロにならないのは、人間の脳が「もしかしたら」を完全には消去できない仕組みになっているからだろう。生存のために必要な機能だ。希望を完全に失った生物は、行動を停止する。だから脳は、どんなに細くても希望の糸を維持しようとする。

だが、この期待はすぐに次の成分に上書きされる。

成分その二、既視感

「氷河期世代への支援」は、もう何度も聞いた。

2019年の「就職氷河期世代支援プログラム」。その前にも、似たような施策はあった。「若者自立・挑戦プラン」「ジョブカフェ」「わかものハローワーク」。名前を変え、予算を変え、看板を架け替えて、似たような施策が繰り返し登場する。

毎回、発表のときは大きく報じられる。「政府が本腰を入れる」「3年間で○万人の正社員化を目指す」。数字は勇ましい。だが数年後に結果を検証した記事は、ほとんど見かけない。目標が達成されたのかされなかったのか、うやむやになったまま次の施策に移行する。

この既視感は、テレビの再放送を見ている気分に似ている。ストーリーの展開を知っているから、新鮮味がない。政治家が深刻な顔で「支援を」と言い、有識者が「抜本的な対策が必要」と言い、当事者が「ありがたいが不十分」と言い、数年後に静かに立ち消えになる。このパターンを何周見ただろうか。

成分その三、言葉と実態の乖離

「支援」という言葉が指す実態が、言葉の響きと乖離している。

「支援」と聞くと、困っている人に手を差し伸べる温かいイメージが浮かぶ。実際に行われているのは、ハローワークの窓口を増やす、職業訓練のメニューを拡充する、企業に助成金を出す、といった施策だ。

これらは「支援」ではなく「環境整備」だ。窓口を作ったから助かるわけではない。窓口に行ける人と行けない人がいる。職業訓練を受けても、その先の就職が保証されるわけではない。企業への助成金は、企業が「採用してもいい」と思ったときにしか機能しない。

本当に必要な「支援」は、もっと個別的で、もっと手間がかかるものだ。一人ひとりの状況を聞き、一人ひとりに合った選択肢を一緒に考え、伴走する。ケースワーカー的な支援。それには膨大な人手とコストが必要であり、「3年間で○万人」という大風呂敷とは相性が悪い。

結果として、「支援」の名のもとに行われるのは、最もコストの低い施策——窓口の設置、パンフレットの配布、セミナーの開催——であり、それは「支援しているという実績作り」にはなるが、「支援を必要としている人の人生を変える」にはならない。

成分その四、当事者不在

「氷河期世代への支援」を議論しているのは、氷河期世代ではない。

政策を作るのは官僚であり、官僚のほとんどは新卒で省庁に入った正社員だ。予算を決めるのは政治家であり、政治家の多くは二世三世か、弁護士や医師など安定したキャリアを持つ人々だ。テレビでコメントする識者は、大学教授やシンクタンクの研究員であり、彼らもまた安定した立場にいる。

つまり、氷河期世代の支援について語っている人々の大半は、氷河期を経験していないか、経験していても「うまくいった側」だ。「うまくいかなかった側」の声は、政策決定の場に届きにくい。当事者が不在のまま、当事者のための政策が作られている。

これは医者が患者を診ずに処方箋を書くようなものだ。症状を聞かず、検査をせず、統計データだけを見て薬を出す。その薬が効くかどうかは、飲んでみなければわからない。飲んで効かなかったら、「では別の薬を」と処方が変わる。患者は実験台だ。

当事者の声を聞いてほしいと言うのは簡単だが、当事者が声を上げにくい構造が問題なのだ。自己責任論を内面化した人間は、「支援してほしい」と言うこと自体に抵抗がある。「自分で何とかすべきなのに」という内なる声が、外への発信を妨げる。声を上げない当事者を、「声がないから問題はない」と解釈するのは、聴診器を当てずに「心音が聞こえないから健康です」と言うのと同じだ。

成分その五、数字への違和感

支援策には必ず数字がつく。「3年間で正社員30万人増」「就職氷河期世代の正規雇用者数を○万人に」。

この数字を見るたびに思う。私たちは数字なのか。

30万人のうちの1人として正社員になることが、個人にとっては人生の大転換だ。しかし政策の世界では、30万人は「KPI」であり「目標値」であり「政策の成否を測る指標」だ。一人ひとりの人生が、Excelの表の中の数字として処理される。

数字で管理すること自体は、政策運営において必要なことだ。批判しているのではない。ただ、数字の裏に一人ひとりの人生があることを、数字を扱う人間が忘れていないかが気になる。「30万人中、15万人を達成」と報告されたとき、達成されなかった15万人は「未達分」として処理される。その15万人は、一人ひとりが固有の事情と感情を持つ人間だ。「未達分」とラベルを貼られることの暴力性を、政策立案者は想像できるだろうか。

成分その六、メディアの消費

「氷河期世代への支援」は、メディアにとっても便利なコンテンツだ。

わかりやすい「かわいそうな人たち」の物語。不遇の世代が、国に救いの手を差し伸べられる。ドキュメンタリーにすれば視聴率が取れるし、記事にすればクリック数が稼げる。「氷河期世代の悲哀」は、消費可能なコンテンツとして流通する。

取材を受けた当事者が、自分の人生をカメラの前で語る。それがテレビで放送され、視聴者は「大変だなあ」と思い、チャンネルを変える。翌日には忘れている。当事者の人生は、数分間のテレビ番組として消費され、視聴者の記憶から消える。

この消費の構造に、当事者は気づいている。気づいているから、取材を断る人も多い。自分の人生を「かわいそうコンテンツ」にされたくない。だが断れば、当事者の声はますます届かなくなる。語れば消費され、語らなければ無視される。どちらを選んでも、不本意な結果が待っている。

成分その七、世代内の分断

「氷河期世代への支援」という言葉は、世代内の分断を浮き彫りにする。

氷河期世代の中にも、正社員として安定した生活を送っている人はたくさんいる。彼らにとって「氷河期世代への支援」は他人事だ。「俺は自力で乗り越えた」「支援なんていらない、甘えだ」と思う人もいるだろう。同じ世代の中で、支援が必要な人と不要な人がいる。

この世代内の温度差は、支援の正当性を揺るがす材料になりうる。「同じ世代でも成功した人がいるのだから、失敗した人は自己責任だ」というロジック。成功事例の存在が、構造的な問題の隠蔽に使われる。「あの人はできたのに」の論法だ。

だが、成功した氷河期世代の存在は、構造的な問題を否定する根拠にはならない。地震で倒壊しなかった家があるからといって、地震がなかったことにはならない。倒壊しなかった家は、たまたま地盤が良かったか、たまたま構造が強かったか、たまたま揺れの方向と合わなかっただけだ。倒壊した家の住人に「隣は壊れなかったのに」と言うのは、酷というほかない。

成分その八、疲労

正直に書く。「氷河期世代への支援」という言葉を聞くと、疲れる。

期待して裏切られ、期待して裏切られを繰り返してきたから、新しい支援策のニュースを見るだけで疲労感がある。パブロフの犬の逆バージョンだ。ベルが鳴ると唾液が出るのではなく、「支援」という単語を聞くと溜息が出る。条件反射としての疲労。

この疲労は、支援する側には見えにくい。支援する側は「新しい施策です、期待してください」と前のめりだが、支援される側は「また同じパターンか」と後ろに引いている。このテンションの差が、支援の効果を削いでいる。

混ぜるとどうなるか

以上の成分を混ぜると、どんな感情になるか。

かすかな期待。既視感。乖離への違和感。当事者不在への不満。数字への疎外感。メディアの消費への不信。世代内の分断への苛立ち。疲労。

これらが全部混ざると、言語化しにくい、どんよりとした感情になる。喜びでも怒りでも悲しみでもない。強いて名前をつけるなら「倦怠」が一番近い。もう飽きた。同じ話を聞くのに飽きた。でも飽きたと言って無関心を装えるほど、自分の人生と切り離せる話でもない。

「氷河期世代への支援」。この言葉を聞くたびに、私は倦怠を感じ、そしてその倦怠を感じている自分に少し落胆する。期待できないことへの落胆ではなく、期待することに疲れてしまった自分への落胆。期待することは、エネルギーを要する行為だ。そのエネルギーが枯渇しかけている。

それでも、完全には枯渇しない。豆電球は消えかけているが、まだ灯っている。灯っている限り、次の「支援」のニュースも見るだろう。見て、溜息をつくだろう。つきながらも、「今度こそ」と思う自分がいるだろう。その繰り返しを、あと何年続けるのだろう。

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。「支援」の二文字に複雑な感情を抱いている人は、きっと少なくないはずです。

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