社会保険料が上がるたびに感じる理不尽

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給与明細の「控除」欄

毎月の給与明細を見るとき、最初に目が行くのは「総支給額」ではなく「控除合計」だ。

総支給額は知っている。契約書に書いてある金額だ。サプライズはない。問題は、そこから何が引かれるかだ。健康保険料、厚生年金保険料、雇用保険料、所得税、住民税。これらの控除が、容赦なく総支給額を削っていく。

そして年に一度か二度、この控除額がじわりと増える。社会保険料の改定だ。増額の通知は、給与明細の数字が前月と変わったことで気づく場合が多い。「あれ、手取りが減ってる」。減った理由を確認すると、社会保険料が上がっている。

数百円のこともあれば、数千円のこともある。一回の増額は小さい。だがこれが毎年のように積み重なる。10年前の社会保険料と今の社会保険料を比べると、明確に増えている。給料はほとんど変わっていないのに。

つまり、給料は横ばいで、天引きだけが増えている。蛇口から出る水の量は変わらないのに、排水口が大きくなっているような状態だ。たまる水はどんどん減る。

誰のための社会保険か

 

社会保険料が何に使われているかは、おおまかには知っている。

健康保険料は、医療費に。病院に行ったときに3割負担で済むのは、残りの7割を健康保険が賄っているからだ。これは助かっている。非正規時代、保険証がない期間があった。あのときの不安は二度と味わいたくない。だから健康保険料を払うこと自体には異論がない。

厚生年金保険料は、将来の自分の年金と、現在の高齢者の年金に。日本の年金制度は賦課方式であり、現役世代が払った保険料で高齢者の年金を賄っている。つまり、私が払った保険料は、私の将来のためではなく、今の高齢者のために使われている。将来の私の年金は、将来の現役世代が払ってくれる——という建前だが、少子化でその「将来の現役世代」が減り続けている。

ここに理不尽を感じる。

私たち氷河期世代は、就職で不遇を受けた。低賃金で働き、年金の加入期間も短く、将来もらえる年金は少ない。にもかかわらず、現在の高齢者の年金を支えるために保険料を払い続けている。その高齢者の中には、バブル期に恩恵を受け、十分な年金をもらっている人もいる。

不遇を受けた世代が、恩恵を受けた世代の老後を支えている。この構図に、「理不尽」以外の言葉が見つからない。

上がり続ける保険料率

社会保険料率の推移を見ると、右肩上がりだ。

厚生年金の保険料率は、2004年から段階的に引き上げられ、2017年に18.3%で固定された。2004年時点では13.58%だったから、約5ポイントの上昇だ。これは労使折半なので、本人負担は約9.15%。月収20万円の場合、月に約18300円。20年前なら約13600円だった。月に約5000円の増額。年間6万円。

健康保険料も上昇傾向にある。協会けんぽの平均保険料率は10%前後で推移しているが、これも年々じわじわと上がっている。介護保険料は40歳以上が対象で、これも別途徴収される。

加えて、雇用保険料率も変動する。コロナ禍以降、雇用調整助成金の財源確保のために引き上げられた。

これらを合計すると、給料の約30%近くが社会保険料と税金で消えている計算になる。手取り20万円だと思っていたら、額面は26万円以上必要。逆に言えば、額面20万円の場合、手取りは16万円程度まで減る。

16万円。この手取りから家賃、食費、光熱費を払い、貯金やNISAに回す余裕を確保する。社会保険料が上がるたびに、その余裕が数千円ずつ削られていく。数千円は小さな額に見えるかもしれないが、余裕のない家計にとっては致命的だ。

「負担と受益」のアンバランス

社会保険の原則は「負担と受益」だ。保険料を負担し、いずれ受益する。払った分だけ戻ってくるわけではないが、社会全体でリスクを分散する仕組みだ。

だがこの「負担と受益」のバランスが、世代によって著しく偏っている。

現在の高齢者は、現役時代に比較的低い保険料率で保険料を払い、引退後に手厚い年金を受け取っている。払った額に対するリターンが大きい。一方、現役世代、特に氷河期世代以降は、高い保険料率で保険料を払い、将来受け取る年金は減額される見込みだ。払った額に対するリターンが小さい。

つまり、世代が若くなるほど「負担は増え、受益は減る」という構図になっている。世代間の不公平。この不公平は、少子高齢化が進む限り拡大し続ける。

氷河期世代は、この不公平の中でも特に損な位置にいる。現役時代の収入が低いから、支払う保険料の「絶対額」はそこまで大きくない。だが収入に占める「割合」は大きい。月収15万円で社会保険料を3万円払うのと、月収40万円で8万円払うのでは、後者のほうが負担額は大きいが、前者のほうが生活への打撃は大きい。比率の問題だ。

値上げのたびに思うこと

社会保険料が上がるたびに、私は以下のことを思う。

まず、「また手取りが減る」。これが最初の反応。増額は数百円から数千円だが、もともとギリギリの家計にとっては、コンビニおにぎり何個分、発泡酒何本分に相当する。具体的な生活レベルの低下として認識される。

次に、「上がるのは社会保険料だけか」。社会保険料だけでなく、消費税も上がった。食料品の値段も上がった。光熱費も上がった。あらゆるものが上がっている中で、給料だけが上がらない。出口が広がり続けるのに、入口は変わらない。いずれ破綻する。いつ破綻するかが読めないだけで、構造的には持続不可能だ。

そして、「自分が受け取る側になったとき、何が残っているのか」。今払っている保険料で支えている高齢者が受け取っている水準の年金を、私が受け取る側になったときに維持できるのか。少子化、財政赤字、経済停滞。どう考えても、今と同じ水準は維持できない。つまり、私は高い保険料を払って低いリターンを得る世代だ。

最後に、「でも払わないわけにはいかない」。社会保険料は任意ではない。天引きだ。拒否権がない。拒否権のないまま、増額だけが通知される。これは「合意なき増税」ではないか——と思うが、法的にはそうではないらしい。保険料は税金ではない。だが手取りが減るという結果は同じだ。名前が違うだけで、財布から出ていくお金が増えていることに変わりはない。

社会保障制度の持続可能性

社会保険料が上がり続ける背景にあるのは、社会保障制度の持続可能性の問題だ。

少子高齢化で、保険料を払う現役世代が減り、受給する高齢者が増えている。入りが減って出が増えるのだから、帳尻を合わせるには、保険料を上げるか、給付を下げるか、あるいはその両方をするしかない。

政治的には、「保険料を上げる」ほうが「給付を下げる」よりもやりやすい。なぜなら高齢者は投票率が高く、給付の削減は票を失うからだ。一方、現役世代の保険料増は、反発はあっても選挙への影響は限定的だ。現役世代は忙しく、投票に行かない人も多い。結果として、負担は現役世代に、受益は高齢者に偏る。

この構図を「世代間の助け合い」と呼ぶのは、助け合いの相互性が欠けている限り不正確だ。助け合いとは、双方向のものだ。現役世代が高齢者を支え、高齢者が現役世代を何かの形で支える。だが実態は一方通行だ。現役世代から高齢者へ。逆方向のフローは、ほとんどない。

氷河期世代はこの一方通行の中で、最も搾取されているように感じる。収入が低いのに保険料率は高い。将来の受給額は低い見込みなのに、現在の受給者を支え続けている。しかもこの構造に対して発言力がない。声を上げても「社会の仕組みだから」と片づけられる。仕組みを変える権限は、仕組みの恩恵を受けている側が握っている。

理不尽の正体

理不尽。この言葉を使ったが、もう少し正確に定義したい。

私が感じている理不尽は、「社会保険料が高い」ということ自体ではない。社会保険の仕組みが必要であること、保険料を負担することが社会の一員としての責務であることは理解している。

理不尽なのは、「負担能力に見合わない負担を求められている」ことだ。収入が低い人間にとって、社会保険料の負担率は実質的に高い。額面では同じ率でも、生活への影響は収入が低いほど大きい。消費税と同じ逆進性がある。

そして理不尽なのは、「負担だけして受益が薄い」ことだ。払った保険料に見合う年金がもらえる見込みがない。払い損。保険料を払う行為が、自分の将来のためではなく、他の世代のために搾り取られている感覚。

さらに理不尽なのは、「この構造を変える手段がない」ことだ。選挙で変えるにしても、氷河期世代だけでは票数が足りない。世論で変えるにしても、社会保険料の問題は地味すぎてメディアの注目を集めにくい。デモをする余裕もない。変える手段がないまま、毎年少しずつ手取りが削られていく。

理不尽とは、不当な状況に置かれていることではなく、不当な状況を変える手段がないことだ。不当でも変えられるなら、まだ希望がある。変えられないとき、それは理不尽になる。

それでも払い続ける

理不尽を感じながらも、社会保険料は払い続ける。天引きだから払わないという選択肢がそもそもないのだが、仮に選択肢があっても、払うほうを選ぶだろう。

健康保険がなければ、病院に行けない。年金がなければ、老後の収入がゼロになる。少ないとはいえ、ゼロよりはましだ。「ゼロよりまし」が私の行動原理であることは、前にも書いた。NISAもそうだった。年金もそうだ。完璧は望めない。望めない中で、最悪を回避する。それが、余裕のない人間にできる最善だ。

来月もまた、給与明細の控除欄を見るだろう。見て、少しため息をつくだろう。つきながらも、「まあ、仕方ないか」と呟くだろう。「仕方ない」は諦めの言葉であると同時に、理不尽の中で生きるための潤滑油でもある。

仕方ない。でも、仕方なくないとも思っている。思っているが、変える手段がない。手段がないから、仕方ないと言うしかない。この循環を、あと何年回り続けるのだろう。

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。給与明細の控除欄にため息をついている人は、きっと少なくないはずです。

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