「自分の葬式に誰が来るか」を数えたら3人しか浮かばなかった話
深夜の思考実験
眠れない夜に、ふと考えた。「もし自分が死んだら、葬式に誰が来るだろう」。
不謹慎な思考実験だと思われるかもしれない。だが独身・一人暮らしの45歳にとって、これは「思考実験」ではなく「現実的な問題」だ。前のエッセイで終活の話を書いた。終活を考えるということは、自分の死後を具体的にイメージするということだ。イメージの一環として、「葬式の参列者」を数えてみた。
まず母。74歳。健在。来てくれるだろう。息子の葬式だ。来ないはずがない。ただし74歳の母が、遠方から葬儀に参列する体力があるかどうかは、そのときの健康状態による。
次に兄。既婚、子ども二人。疎遠だが、弟の葬式には来るだろう。義理でも。兄嫁も来るかもしれない。甥と姪は——微妙だ。あまり会ったことがない。来ないかもしれない。
友達。ゼロ。友達がいないのだから、友達の参列はない。
職場の人。派遣先の同僚が来てくれるかもしれないが、契約が切れた後なら「元同僚」であり、わざわざ葬式に来てくれるほどの関係ではないだろう。派遣会社の営業担当が来るかもしれないが、それは仕事上の義理だ。
親戚。叔父、叔母、いとこ。最後に会ったのは何年前だろう。年賀状のやり取りもない。遠方に住んでいる。来るかどうかは——たぶん来ない。少なくとも、私の葬式のためにわざわざ交通費をかけて来る間柄ではない。
数え終わった。確実に来てくれるのは、母と兄。2人。可能性があるのは兄嫁で、合わせて3人。
3人。
自分の葬式の参列者が3人。この数字を、布団の中で噛み締めた。
3人の葬式はどんな葬式か
参列者3人の葬式を具体的にイメージしてみる。
会場は小さな葬儀場の一室。椅子が20脚並んでいるが、座っているのは3人。残りの17脚は空だ。空の椅子が並ぶ光景は、寂しいというより異様だ。参列者より空席のほうが多い葬儀。
読経があるとして(仏教式の場合)、僧侶と参列者3人。合計4人。焼香は3回で終わる。弔辞は——誰が読むのか。母か兄か。母が泣きながら何か言ってくれるかもしれない。兄は淡々と「弟は不器用な人間でした」くらいのことを言うかもしれない。
通夜振る舞い。3人分の料理。「故人の思い出を語り合う」場だが、語る思い出があるかどうか。母は幼少期の思い出を語るだろう。兄は——何を語るだろう。「あいつはずっと派遣だったな」「結婚しなかったな」「貯金が少なかったな」。語られる思い出が、あまりポジティブではない気がする。
このイメージは辛い。辛いが、現実から目をそらすよりは、直視するほうがいい。直視した上で、どうするか考える。
参列者が少ない葬式は「悲しい」のか
世間一般のイメージでは、参列者が多い葬式は「故人が愛されていた証」であり、参列者が少ない葬式は「寂しい最期」だ。だが本当にそうだろうか。
参列者が100人いても、その中で故人を本当に悲しんでいるのは数人かもしれない。残りの90人以上は、義理で来ている。会社の付き合い、町内会の慣習、親戚の義務。本心では「面倒だな」と思いながら参列している人が大半だ。
参列者が3人でも、その3人が本当に悲しんでくれるなら、100人の義理の参列より「温かい」のではないか。母は本気で泣く。兄は不器用ながらも弟の死を悼む。3人の涙のほうが、100人の社交辞令より重い。
こう考えると、少し気が楽になる。3人でいい。3人が本気で悲しんでくれるなら、それは十分に「愛された人生」だ。数の問題ではない。質の問題だ。
だがこの「質の問題」論は、自分を慰めるための理屈にすぎないかもしれない。本音では、もう少し多くの人に見送られたい。10人でも20人でも。見送ってくれる人がいるということは、自分が「誰かの記憶に残っている」ということだ。記憶に残る人生を送りたかった。送れなかった。送れなかった結果が、参列者3人だ。
「参列者ゼロ」の可能性
3人の参列者がいる前提で書いてきたが、「参列者ゼロ」の可能性もある。
母が先に亡くなっていたら。74歳の母が、45歳の息子より先に亡くなることは統計的にありうる。母がいなければ、確実な参列者は兄のみ。兄が来てくれる保証もない。兄弟関係が完全に断絶していたら、兄も来ない。
参列者ゼロの葬式。いや、参列者ゼロなら葬式自体が行われない可能性がある。誰も葬式を手配しないからだ。発見されて、警察に引き取られて、自治体が火葬して、無縁仏として共同墓地に埋葬される。これが「孤独死」のフルコースだ。
この「フルコース」を避けるために、前のエッセイで書いた「死後事務委任契約」がある。契約しておけば、たとえ参列者がゼロでも、委任先の法人が葬儀を手配し、火葬し、指定された方法で埋葬してくれる。自分の意思が反映された最期を迎えられる。
「参列者を増やす」ための行動
参列者3人を、5人に、10人に増やすことはできるか。できるとすれば、何をすればいいか。
答えはシンプルだ。「人間関係を作る」こと。友達を作る。コミュニティに参加する。趣味のサークルに入る。地域の活動に顔を出す。これらの行動によって、自分を知っている人が増えれば、葬式に来てくれる人も増える可能性がある。
だがこのシリーズで繰り返し書いてきた通り、45歳の独身男性が新しい友達を作るのは容易ではない。友達の作り方がわからない。作る場がない。作る気力がない。作ろうとしても、関係を維持するエネルギーがない。
「葬式の参列者を増やすために友達を作る」。この動機は、友情としては不純だ。友達は葬式の頭数を揃えるために作るものではない。だが逆に言えば、「葬式に来てくれるほどの関係」を築けるなら、それは本物の友情だ。表面的な知り合いは葬式には来ない。来てくれるのは、本当に自分を大切に思ってくれる人だけだ。
参列者の数は、人生の「人間関係の質」を反映している。3人は少ない。だが3人がいるだけでも、ゼロよりははるかにましだ。3人の存在に感謝しつつ、「4人目、5人目」をゆっくり探していく。探すというより、自然にできるのを待つ。焦って作る関係は、長続きしない。長続きする関係だけが、葬式まで届く。
葬式の「前」にできること
参列者の数にこだわるより、「葬式の前の人生」にこだわるほうが建設的だ。
葬式は人生の最後の1日だ。その1日のために、残りの何千日を費やすのはバランスが悪い。葬式の参列者が3人でも100人でも、死んだ後の自分には関係ない。死んだ後は何も感じない。葬式の規模は、残された人の問題であり、死んだ本人の問題ではない。
本人の問題は「葬式の前の人生」だ。どう生きるか。何を食べるか。誰と話すか。何を見るか。何を感じるか。これらの一日一日が、人生の中身だ。中身の充実度は、葬式の参列者数では測れない。
今日、半額の惣菜を買って、もやし炒めを作って、発泡酒を飲む。この「今日」が、人生の1日だ。この1日を、悔いなく過ごす。悔いなく過ごした日が積み重なれば、「葬式の参列者が3人でも、悪くない人生だった」と思えるかもしれない。思えなくても、生きた日々は消えない。
3人のために
自分の葬式に来てくれるかもしれない3人。母と兄と兄嫁。この3人のために、何ができるか。
まず「迷惑をかけない死に方」をする。エンディングノートを残す。預金口座のリストを整理する。部屋を片付けておく。デジタル遺品を整理する。これらの準備は、残された3人の負担を軽減する。
次に「感謝を伝える」。死んでからでは遅い。生きている間に、「ありがとう」を伝える。母に「育ててくれてありがとう」。兄に「兄貴がいてくれてよかった」。照れくさいが、伝えないまま死ぬよりはましだ。
そして「健康でいる」。3人のために死なないこと。生きていることが、3人への最大の贈り物かもしれない。母にとって、息子が生きているだけで安心だ。兄にとっても、弟が健在であることは(疎遠でも)心のどこかで安心材料だろう。
3人のために生きる。大げさだが、考えてみると「誰かのために生きる」理由が3つあるのは、ゼロよりはるかに恵まれている。ゼロの人もいる。3つある自分は、恵まれている。恵まれていることに気づけたことが、深夜の思考実験の成果かもしれない。
参列者は3人。少ない。だが3人がいる。3人が涙を流してくれる。それで十分だ。十分だと思えるまでに、長い時間がかかった。だが今は、十分だと思える。思えることが、45歳の自分の成長だ。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。自分の葬式の参列者を想像したことがある人は、きっと少なくないはずです。

