棚の前で立ち止まる
コンビニに入る。自動ドアが開いて、空調の効いた空間に足を踏み入れる。飲み物を買うつもりで入った。飲み物だけのつもりだった。
だが弁当の棚の前を通りかかると、足が止まる。止まって、値札を見る。チキン南蛮弁当、598円。のり弁当、530円。幕の内弁当、648円。からあげ弁当、560円。
見ている。値札を、じっと見ている。弁当の中身ではなく、値札を。
おいしそうかどうかの前に、いくらなのかが気になる。チキン南蛮弁当598円。税込みだと645円。645円。この645円が高いか安いか、頭の中で電卓が回り始める。645円あったら、スーパーで鶏むね肉200gと米2合と味噌汁の具材が買える。自炊すれば3食分はいける。コンビニ弁当1個分で自炊3食分。コストパフォーマンスは、自炊の圧勝。
こんな計算を、自動的にやってしまう。止められない。弁当の棚の前を通るたびに、脳内電卓が起動する。これが「病」だ。正式な病名はない。だが私の中では、もう10年以上続いている慢性症状だ。
10年前のコンビニ弁当
10年前、コンビニ弁当はもっと安かった。
のり弁当が350円くらいの時代があった。おにぎりは100円。ペットボトルのお茶は130円くらい。「のり弁とおにぎりとお茶」で580円。ワンコインとちょっとで昼食が完成した。
今はどうか。のり弁が530円。おにぎりが170円。お茶が160円。合計860円。10年前と同じ組み合わせなのに、280円も高くなっている。年間の昼食代に換算すると、出勤日を月20日として、280円×20日×12ヶ月=67,200円の増額。約7万円。7万円あれば、NISAの年間積立額をかなり増やせる。7万円あれば、歯医者に行ける。7万円あれば、冬物のコートが買える。
7万円の増額が、コンビニ弁当の値上がりだけで発生している。しかも給料は変わっていない。社会保険料の増加を考えれば、手取りはむしろ減っている。入りが減って出が増えている。
この構造的な変化を、私はコンビニ弁当の棚の前で、肌感覚として受け取っている。経済ニュースで「消費者物価指数が前年比○%上昇」と報じられても、数字だけでは実感が湧かない。だがコンビニの値札を見ると、実感が湧く。のり弁が350円から530円になった。この180円の差は、統計ではなく現実だ。私の財布から消える現実だ。
おにぎりの変遷に見る物価史
コンビニおにぎりは、物価を観測するうえで、最も身近なセンサーだ。
私が覚えている限り、コンビニおにぎりの価格はこう推移した。
2000年代前半。100円おにぎりが定番だった。セブンイレブンの「おにぎり100円セール」が頻繁に開催されていた。あの頃は、100円がおにぎりの「標準価格」だった。100円で買えるものとして、おにぎりは揺るがない存在だった。
2010年代前半。100円おにぎりセールの頻度が減った。通常価格は110円、120円程度に上がった。だがまだ「おにぎり=100円ちょっと」の感覚が維持されていた。
2010年代後半。130円台が標準になった。具材の質が上がったぶん、値段も上がった。鮭フレークが「焼き鮭」になり、おかかが「だし香るおかか」になった。クオリティアップと値上がりがセットで進んだ。
2020年代前半。150円台に突入。そして2024年頃から170円、180円の商品も普通になった。コンビニの棚に100円のおにぎりは、ほぼ消滅した。100円おにぎりを知る世代にとって、170円のおにぎりは「高い」。だが、これが現在の標準だ。
20年で、おにぎりの値段は1.7倍になった。給料は1.7倍にはなっていない。つまり、おにぎり何個分の給料をもらっているか、で考えると、実質的な購買力は下がっている。
こういう計算を、コンビニの棚の前で自動的にやってしまう。「おにぎり、また上がったな」と思いながら、手に取るか取らないかを判断する。この判断プロセス自体が、すでに「病」だ。健全な買い物客は、こんな計算をしない。食べたいものを手に取る。値段は後から確認する。私は逆だ。値段を先に確認し、食べたいかどうかは後で考える。
「値段で選ぶ」と「安いものしか選べない」の違い
節約上手な人は、「値段で選ぶ」ことを推奨する。高いものを無意識に買うのではなく、価格を比較して賢く選ぶ。これは合理的な消費行動であり、賢い生き方だ。
だが「値段で選ぶ」ことと、「安いものしか選べない」ことは、本質的に異なる。
「値段で選ぶ」人は、高いものも安いものも選択肢に入っている。その中から、コスパのいいものを選ぶ。選択の主体は自分。選んだ結果が、たまたま安いものであっただけ。
「安いものしか選べない」人は、高いものが最初から選択肢にない。598円の弁当は選択肢に入らない。350円の弁当か、おにぎり1個か、あるいは何も買わないか。選択の範囲が、経済力によって狭められている。選んでいるのではない。選ばされている。
この差は、外からは見えにくい。両者とも、レジに持っていくのは安い商品だ。外見上は同じ行動。だが内面は違う。前者は満足している。後者は妥協している。
私は後者だ。コンビニの棚の前で、妥協している。食べたいものを選ぶのではなく、買えるものを選ぶ。チキン南蛮弁当が食べたくても、のり弁にする。のり弁でいいのではなく、のり弁しかない。この「しかない」感覚が、物価意識の根底にある。
スーパーとコンビニの使い分け
物価意識の高い人間は、コンビニをできるだけ使わない。
スーパーのほうが安い。同じおにぎりでも、スーパーの手作りおにぎりのほうがコンビニより数十円安い。弁当もそうだ。惣菜もそうだ。飲み物もそうだ。あらゆるカテゴリで、スーパーのほうがコンビニより2割から3割は安い。
だからスーパーを使う。仕事帰りに、コンビニの前を通り過ぎて、少し遠いスーパーまで歩く。この「少し遠いスーパーまで歩く」という行為が、物価意識の象徴だ。コンビニのほうが近い。近いほうに入れば時間が節約できる。だが、数十円を節約するために、遠いスーパーまで歩く。
時間と金のトレードオフ。余裕のある人間は、時間を買うためにコンビニを使う。余裕のない人間は、金を節約するためにスーパーを使う。私は後者だ。10分余計に歩くことで、50円を節約する。10分の労働の対価が50円。時給換算300円。最低賃金を下回っている。
こう書くと馬鹿馬鹿しく思えるが、月の食費が3万円の人間にとって、毎日の50円は月に1500円、年に18000円だ。18000円は、半額の惣菜90個分だ。この計算を瞬時にやってしまうのが、物価意識病の症状のひとつだ。
コンビニで買える「贅沢品」
コンビニには、私にとっての「贅沢品」がたくさん並んでいる。
スイーツのコーナー。プリン350円。シュークリーム280円。チーズケーキ400円。これらは贅沢品だ。月に一度買うかどうか。買ったら、その日は少しだけ気分が上がる。だが買うたびに「350円あれば夕飯の主菜が買えた」と思ってしまう。
コーヒーのコーナー。カフェラテ200円。これを毎日買えば、月4000円。年48000円。約5万円。NISAの月額積立を増やせる金額だ。だからコンビニコーヒーは買わない。家でインスタントコーヒーを飲む。インスタントなら一杯20円。10分の1のコストだ。
ホットスナックのコーナー。からあげ棒180円。チーズハットグ220円。肉まん190円。どれもおいしそうだ。小腹が空いた午後に、つい手が伸びそうになる。伸ばしかけた手を引っ込める。180円は明日の昼の味噌汁の具になる。
こうやって、欲しいものの前で手を引っ込める動作を、何百回、何千回と繰り返してきた。引っ込める瞬間に、小さな我慢が発生する。一回一回の我慢は微細だが、積み重なると鬱屈になる。鬱屈は表面に出さない。出さないが、心の底に澱のように溜まっていく。
コンビニの棚は、「買えるもの」と「買えないもの」の境界線を可視化する。境界線の向こうにあるスイーツや弁当は、手の届かない贅沢だ。同じ棚を見ている別の客は、なんの逡巡もなくチーズケーキと弁当とコーヒーをまとめてカゴに入れている。合計1200円。私の二日分の食費。その人にとっては普通のランチ。この差を、毎日コンビニの棚の前で確認する。確認するたびに、世界が少しだけ薄暗くなる。
値上げニュースへの反応
テレビで「コンビニ各社が弁当の価格を改定」というニュースが流れる。改定、という言葉が使われるが、実態は値上げだ。下がることはない。改定とは、上がることの婉曲表現にすぎない。
ニュースキャスターが「消費者への影響が懸念されます」と結ぶ。懸念される。懸念ではない。影響はすでに出ている。私の食費に出ている。
「ステルス値上げ」という言葉が一時期話題になった。価格は据え置きだが、中身の量が減る。弁当のご飯の量が微妙に少なくなる。からあげの個数が5個から4個に減る。値札を見ても値上がりしていないように見えるが、実質的には値上がりしている。
これに気づいたのは、長年同じ弁当を買い続けているからだ。「あれ、前はもう少しご飯が多かった気がする」「からあげ、1個減ってないか」。気のせいかもしれない。だが食べ終わったあとの満腹感が、以前より薄い。気のせいではないことを、胃袋が教えてくれる。
物価を意識していると、こういう微細な変化にも敏感になる。普通の人が気にしないレベルの変化を、私は検知する。検知してしまう。検知してしまうことは、得ではなく損だ。検知しなければ気にならない。気にならなければ心穏やかでいられる。知らないほうが幸せだった変化を、知ってしまう。これも物価意識病の症状だ。
「安いものだけ食べる」ことの代償
物価を意識しすぎると、食事の質が下がる。
安いものばかり選ぶと、栄養バランスが偏る。炭水化物は安い。肉は相対的に高い。野菜は量の割に高い。結果、炭水化物過多、タンパク質不足、ビタミン不足の食生活になりやすい。
具体的に言えば、カップ麺128円、食パン6枚100円、もやし一袋30円。これらが節約食の三種の神器だ。カップ麺とパンともやし炒めのローテーション。栄養価は貧弱だが、空腹は満たせる。
この食生活を続けると、体にどういう変化が起きるか。40代を過ぎてからわかった。疲れやすくなる。風邪を引きやすくなる。肌が荒れる。体重が変に増える。筋肉量が落ちる。
健康を維持するには、ある程度のコストが必要だ。良質なタンパク質を摂るには、鶏むね肉でも100gで100円はかかる。野菜を毎日食べるには、月に数千円の出費になる。この数千円を食費に上乗せすると、別の出費を削らなければならない。
安い食事で健康を失い、健康を失って医療費がかかる。医療費がかかって生活が苦しくなり、さらに安い食事に頼る。負のスパイラルだ。このスパイラルの入口が、コンビニ弁当の棚の前で「598円は高い」と判断する瞬間にある。
物価感覚の世代差
物価感覚には世代差がある。
バブル期を経験した世代は、物の値段が「高い」と感じにくいかもしれない。なぜなら彼らが社会に出た頃は、給料が物価に追いついていたからだ。物価が上がっても、給料も上がった。だから「高くなった」と感じにくい。
氷河期世代は違う。社会に出た頃から給料が低く、その後も上がらなかった。物価だけが上がった。給料が据え置きの中での物価上昇は、実質的な生活水準の低下として、直接的に体感される。
若い世代、Z世代はまた違う。彼らが消費者として意識を持ち始めた頃から、物は今の値段だった。コンビニおにぎり170円が「普通」の世代。100円おにぎりを知らない。知らないから、170円を「高い」と感じない。
私は、100円おにぎりを知っている世代だ。知っているから、170円を「高い」と感じる。「高い」と感じるのは、過去の基準値が頭に残っているからだ。この基準値は、更新されない。100円がインプットされた脳は、いつまでも100円を基準に計算する。
基準値が更新されないから、値上がりのたびに「また高くなった」と感じる。10年後、おにぎりが250円になっても、私の脳内基準は100円のままだろう。250円のおにぎりを見て、「100円の時代があったのに」と嘆くだろう。嘆いても値段は下がらないが、嘆くことは止められない。
コンビニに行くたびに思い出す格差
コンビニは、格差を可視化する場所だ。
同じ棚の前に立っていても、人によって見えている景色が違う。ある人にとっては「今日のランチを選ぶ楽しい時間」だ。あれもいいな、これもいいな。別の人にとっては「今日の予算内で何が買えるかを計算する時間」だ。
レジに並ぶ。前の客がカゴに入れているものを、つい見てしまう。弁当2個、デザート、飲み物、菓子パン。合計2000円以上の買い物。これを一人分の食事として買っている。一人の一食分が、私の一日分の食費に近い。
見なければいいのだが、見えてしまう。物価意識病の副次症状として、他人の買い物を見てしまう病がある。他人のカゴの中身を見て、瞬時に合計金額を暗算する。暗算した金額を自分の食費と比較する。比較して、差を確認する。確認して、少しだけ沈む。
沈んでも浮かぶ。浮かんで、自分の順番が来て、おにぎり1個をレジに出す。170円。電子マネーで支払う。ピッ。「ありがとうございました」。自動ドアが開いて、コンビニを出る。
170円のおにぎりを片手に、駅に向かう。歩きながら食べる。味は悪くない。170円の価値はある。あるのだが、この170円をもう少し有効に使えたのではないか、という計算が頭を離れない。おにぎり170円。家で握れば、30円程度。差額140円。140円あれば。この思考が永久に回り続ける。
物価意識病の進行度チェック
長年この病を患ってきた経験をもとに、進行度のチェックリストを作ってみた。自己診断用だ。医学的な根拠は一切ない。
初期症状。コンビニで弁当を買うとき、値段を確認するようになる。以前は気にしなかった値札が、目に入るようになる。この段階では、まだ「気にしている」程度で、行動は変わらない。
中期症状。値段を比較するようになる。弁当A498円と弁当B530円を天秤にかける。中身とカロリーと値段を総合的に判断する。この段階で、コンビニ弁当の購入頻度が減り始める。
進行期。コンビニ弁当の値段を、スーパーの食材価格に換算し始める。「この598円で鶏もも肉300gとキャベツ半玉と米1kgが買える」という計算が、自動的に走る。コンビニ弁当がほぼ買えなくなる。
重症期。コンビニの棚を見ただけで胃がきゅっとなる。値上がりした商品を見つけると、怒りとも諦めともつかない感情が湧く。コンビニに入ること自体が精神的な負担になる。
末期。コンビニに行かなくなる。すべての食料をスーパーの閉店前半額で調達する。値段を見ずに物を買うことが、人生から完全に消える。「定価で買う」という行為が、贅沢として認識される。
私は今、進行期と重症期の間くらいにいる。コンビニには行くが、弁当はほぼ買わない。買うのは飲み物と、たまにおにぎり1個。飲み物もコンビニより自販機のほうが高いが、コンビニより自販機のほうが値段を見る時間が短い。短いぶん、精神的な消耗が少ない。ボタンを押して出てくるだけだから。棚の前で悩まなくていい。
物価を気にしない人生への憧れ
物価を気にしない人生がどういうものか、想像してみることがある。
コンビニに入って、食べたいものを手に取る。値札は見ない。チキン南蛮弁当、いいな。カフェラテも飲みたい。デザートにプリンをつけよう。合計1200円。何の迷いもなくレジに出す。財布へのダメージを計算しない。計算する必要がないほど、余裕がある。
この想像をするだけで、少し胸が温かくなる。温かくなって、すぐに冷める。想像は想像だ。現実は、おにぎり1個を値札とにらめっこしながら選んでいる自分だ。
物価を気にしない人生は、一定の年収を超えると訪れるのだろう。その年収がいくらかは知らないが、少なくとも今の私の年収ではない。物価を気にしなくなる日が来るかどうかは、わからない。来ないかもしれない。来なくても、生きていける。おにぎり170円で。
それでもコンビニは好きだ
ここまで物価意識病の症状を延々と書いてきたが、最後に白状しておく。
コンビニは、好きだ。
好きなのだ。あの空間が。24時間開いていて、明るくて、清潔で、品揃えが豊富で、季節ごとに新商品が出て、店員の対応が丁寧で。一人暮らしの人間にとって、コンビニは準家族みたいな存在だ。深夜に寂しくなったとき、コンビニの明かりを見ると安心する。人のいる場所がある、という安堵感。
好きだから、棚を見る。見るから、値段が気になる。気になるから、買えないことが悔しい。悔しいから、病が進行する。つまり、コンビニが好きだからこそ、物価意識病を患っている。嫌いなら、行かなければいい。行かなければ値札を見ずに済む。見ずに済めば病にはならない。
好きなのに手が届かない。片思いのような関係だ。コンビニの棚は、私に向かって「買ってください」と微笑んでいる。私はその微笑みに「ごめん、今日は無理」と返す。この微笑みと拒絶の繰り返しが、毎日のコンビニ詣での正体だ。
いつか、値札を見ずにチキン南蛮弁当をレジに出す日が来るだろうか。来ないかもしれない。来なくても、コンビニの自動ドアは私のために開いてくれる。170円のおにぎりで、明日も一日を始める。170円。その重さを知っている私は、170円分の幸せを、ちゃんと味わって食べる。味わって食べるぶん、値段を気にしない人より、おいしく感じているかもしれない。
それが物価意識病の、唯一の副次的な恩恵だ。安いものでも、ちゃんとおいしい。味がわかる。一口一口の価値がわかる。金持ちにはわからない種類のグルメだ。170円のグルメ。私だけのグルメだ。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。コンビニの値札をじっと見つめてしまう人は、きっと少なくないはずです。
