氷河期世代が「親」になれなかった問題——少子化の個人史として語る

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はじめに——「子どもが欲しかったか」と聞かれたら

45歳。独身。子どもはいない。「子どもが欲しかったですか?」。この質問に、どう答えるか。「欲しかった」と答えれば「なぜ作らなかったのか」と聞かれる。「欲しくなかった」と答えれば「少子化の原因はあなたみたいな人だ」と言われる。「わからない」と答えれば「無責任だ」と言われる。どう答えても「責められる」。

正直に答える。「欲しかったかもしれない。でも考える余裕がなかった」。22歳で100社不採用。25歳で消費者金融。29歳で派遣切り。手取り16万円。毎月の家計がギリギリ。「子どもを育てる余裕」は「経済的にも精神的にも時間的にも」なかった。「子どもが欲しかった」のではなく「子どもを持てる状況にならなかった」。これが正確な答えだ。

少子化は「国の問題」として議論される。出生率が下がった。人口が減った。社会保障が維持できない。これらは「マクロ」の話だ。だが少子化の背景には「ミクロ」の話がある。一人ひとりの「産めなかった」「産まなかった」「産む選択肢がなかった」。氷河期世代の45歳独身男性として、この「ミクロの話」を語る。

第1章 「結婚できなかった」構造——そもそも「親になる前提」がなかった

日本では「子どもを持つ=結婚する」がほぼ前提だ(婚外子の割合は約2.4%。先進国で最低レベル)。つまり「結婚できなければ子どもを持てない」。氷河期世代の未婚率を見る。2020年の国勢調査。45〜49歳の男性の未婚率は約29.9%。約3人に1人が「独身」。この29.9%のうち「結婚したかったがデきなかった」人と「結婚を望まなかった」人がいる。だが多くの調査で「結婚を望んでいるが未婚」の割合が「結婚を望んでいない」より高い。つまり「結婚したかったのにできなかった」人が相当数いる。

なぜ結婚できなかったか。理由1は「経済力の不足」。婚活市場で「手取り16万円の派遣社員」は極めて不利。婚活サイトの調査では「男性に求める年収」の最低ラインが「300万円以上」。手取り16万円(年収約240万円)は「最低ラインを下回る」。「年収で足切りされる」。経済力がなければ「選ばれない」。選ばれなければ結婚できない。結婚できなければ子どもを持てない。「手取り16万円→未婚→子なし」。この因果関係は明確。

理由2は「出会いの機会の欠如」。派遣社員は「職場の人間関係が短期間でリセットされる」。3ヶ月〜2年で契約が終了し、次の職場に移る。「職場の同僚と深い関係を築く時間」がない。合コンや飲み会に誘われることも少ない(派遣社員は「正社員のコミュニティ」に入りにくい)。マッチングアプリで「派遣社員・年収240万円」と書けば——マッチング率は極めて低い。「出会いがない」のは「自分が魅力的でないから」ではなく「出会いの構造が不利だから」。

理由3は「自己肯定感の低さ」。100社不採用。派遣切り。手取り16万円。これらの経験が「自己肯定感」を削る。「自分は結婚に値する人間なのか」「こんな自分を好きになってくれる人がいるのか」「子どもを育てる能力があるのか」。自己肯定感が低い人間は「恋愛に消極的」になる。消極的になれば「出会い」は来ない。来ない→さらに自己肯定感が下がる→さらに消極的になる。悪循環。

理由4は「時間とエネルギーの枯渇」。手取り16万円で生き延びるだけで「精一杯」。仕事→帰宅→もやし炒め→発泡酒→就寝。このルーティンの中に「恋愛に使う時間とエネルギー」が入る余地がない。「婚活をする余裕がない」のは「怠けているから」ではなく「生存に精一杯だから」。マズローの欲求段階説で言えば「安全の欲求」(生活の安定)が満たされていない人間に「愛の欲求」(恋愛・結婚)を求めるのは酷だ。

第2章 「子どもを持てない」経済的理由——手取り16万円で子育ては可能か

仮に結婚できたとして。手取り16万円で子どもを育てられるか。シミュレーションする。

夫婦2人の場合(配偶者もパート勤務で月8万円稼ぐと仮定)。世帯月収24万円。家賃7万円(ファミリータイプ。1LDK〜2DK)。食費4万円(2人分)。光熱費1万2000円。通信費2000円。日用品5000円。社会保険料・税金(配偶者分含む)3万円。合計16万4000円。残り7万6000円。

ここに子ども1人が生まれた場合。おむつ代月5000円。ミルク代月5000円。衣類代月3000円。医療費(子ども医療費助成で無料の場合もある)0〜3000円。保育料月2万〜5万円(認可保育園。世帯収入による)。合計3万3000〜6万3000円。

残り7万6000円−子ども費用3万3000〜6万3000円=残り1万3000〜4万3000円。「月1万3000〜4万3000円」で「その他すべて」を賄う。交通費。医療費(親の分)。被服費。交際費。冠婚葬祭。NISAの積立——不可能。貯金——不可能。「子どもを産んだ瞬間に、家計が破綻する」。これが「手取り16万円の子育てシミュレーション」の結論。

「児童手当があるじゃないか」。児童手当は子ども1人あたり月1万〜1万5000円(2024年度以降。所得制限なし)。月1万5000円を加えても残り2万8000〜5万8000円。やはり「ギリギリ」。「子育て支援制度を使えば何とかなる」かもしれないが「何とかなるレベル」は「もやし炒めで家族3人を養うレベル」だ。子どもに「もやし炒めしか食べさせられない」としたら、それは「子どもにとって幸せか」と自問する。自問の結果「産まない」が最も責任ある判断だと思えた。——これは「自己責任」ではなく「社会が強いた選択」だ。

第3章 「産まなかった罪悪感」と「産めなかった無力感」

「少子化対策」が叫ばれるたびに「罪悪感」が湧く。「子どもを産まなかった自分は、少子化の『加害者』なのか」。テレビのコメンテーターが「若い人がもっと子どもを産めば——」と言う。「若い人」に45歳は含まれないだろう。だが「産まなかった」ことへの漠然とした「社会への申し訳なさ」がある。

この罪悪感は「不当」だ。子どもを産むか産まないかは「個人の自由」であり「社会から義務づけられるもの」ではない。日本国憲法第13条は「個人の尊重」を保障しており、「出産を強制する法律」は存在しない。「産まなかった」ことに罪悪感を持つ必要はない。

一方で「産めなかった」ことへの「無力感」は残る。「もし手取りが30万円あったら」「もし正社員だったら」「もし出会いがあったら」。これらの「もし」が実現していれば「産んでいたかもしれない」。「産む意志がなかったのではなく、産む条件が整わなかった」。この「条件の不備」は「個人の責任」ではなく「社会の構造の問題」だ。

「産まなかった」は「選択」。「産めなかった」は「状況」。この2つは似ているが異なる。氷河期世代の多くは「産めなかった」側だ。「選択した」のではなく「選択肢がなかった」。選択肢を奪ったのは「手取り16万円の経済構造」であり「正社員になれなかった雇用構造」であり「出会いの機会が限られた社会構造」だ。構造が選択肢を奪った。奪われた側に「罪悪感」を持たせるのは、構造の問題を個人に転嫁する「二重の不正」だ。

第4章 「子どもがいない人生」のリアル——何が違って何が同じか

子どもがいない人生は「子どもがいる人生」と何が違うか。違いを冷静に整理する。

経済面の違い。子どもがいなければ「教育費」がかからない。子ども1人の教育費(幼稚園〜大学。すべて公立の場合)は約800〜1000万円。子どもがいないことで「800〜1000万円のコストを免れた」計算。だがこの「免れたコスト」は「別の形で支払っている」。孤独のコスト。老後の介護を子どもに頼れないコスト。「精神的な支え」がないコスト。金額に換算できないコスト。

時間面の違い。子育てに必要な時間は1日平均3〜5時間(食事・入浴・送迎・宿題・遊び等)。この3〜5時間を「自分のため」に使える。読書。散歩。勉強。趣味。「子どもがいない分、自分の時間が豊富」。だが「自分の時間が豊富すぎて、何に使えばいいかわからない」こともある。「暇」が「孤独」に変わる瞬間がある。

精神面の違い。子どもは「無条件の愛の対象」であり「生きる理由」の一つ。子どもがいる人は「この子のために頑張る」と思える。子どもがいない自分は「何のために頑張るのか」が曖昧だ。「自分のために頑張る」は正しいが「自分だけのために頑張る」のは「動機として弱い」場合がある。「もやし炒めを作るのは自分のため」。それでいい。だが「誰かのためにもやし炒めを作る」ほうが、もやし炒めが「少しだけ美味くなる」気がする。

社会面の違い。「45歳独身子なし」は社会の中で「マイノリティ」だ。会社の同僚が「子どもの運動会が——」と話している横で「自分には関係のない話」と感じる。「PTA」「学区」「受験」。これらの話題に「入れない」。入れないことで「社会から疎外されている」感覚がある。だがこの「疎外感」は「社会が『子どもがいて当然』を前提に設計されている」ことの裏返しであり、「社会の設計の問題」だ。

第5章 「子どもがいない老後」に備える——「家族の代わり」をどう構築するか

子どもがいない老後で最も不安なのは「誰が自分の世話をしてくれるのか」だ。体が動かなくなったとき。認知症になったとき。孤独死しそうなとき。子どもがいれば「子どもが何とかしてくれる」(かもしれない)。子どもがいなければ「自分で何とかする」しかない。

備え1は「制度を使い倒す」。介護保険。成年後見制度。地域包括支援センター。生活保護。これらの「公的制度」は「家族がいなくても使える」ように設計されている。制度を「知っている」ことが「家族の代わり」になる。

備え2は「死後事務委任契約」(孤独死マニュアル第13章参照)。自分が死んだ後の事務を第三者に委任する契約。「子どもがいれば子どもがやってくれる」ことを「弁護士やNPOに委任する」。

備え3は「ゆるいつながりを作る」。血縁ではない「つながり」を持つ。友人。近隣住民。オンラインコミュニティ。「家族の代わり」にはならないが「孤立を防ぐバッファー」にはなる。

備え4は「お金を貯める」。子どもがいない分「教育費800万円」が不要。この800万円に相当する金額をNISAで積み立てれば「老後の介護費用」や「施設入所費用」に充てられる。「子どもの代わりにNISAが自分の老後を守る」。NISAは「子どもの代替品」ではないが「経済的な安心の代替品」ではある。

第6章 「少子化の個人史」として語る意味——マクロの問題をミクロで理解する

少子化は「出生率が下がった」というマクロの問題だ。だがマクロの裏には「一人ひとりのミクロの物語」がある。「手取り16万円で子どもを持てなかった男性」の物語。「婚活で年収を理由に断られ続けた男性」の物語。「自己肯定感が低くて恋愛に踏み出せなかった男性」の物語。これらの物語が「統計上の出生率低下」に集約されている。

マクロの問題を「政策で解決する」のは政治家の仕事だ。児童手当の増額。保育料の無償化。育休制度の拡充。だがこれらの政策が「氷河期世代の45歳独身男性」を救うことはない。すでに「手遅れ」だ。45歳から結婚して子どもを持つことは「不可能ではないが極めて困難」。「政策が20年遅かった」。この「20年の遅れ」が「氷河期世代の個人史」に刻まれている。

だが「個人史を語る」ことには意味がある。「次の世代」に伝えるために。「こういう人間がいた」「こういう構造があった」「だから同じことを繰り返してはいけない」。氷河期世代の「親になれなかった物語」は「反面教師」ではなく「社会への警告」だ。「不安定な雇用と低い賃金を放置すれば、その世代は子どもを持てなくなる」。この警告を「次の政策」に活かしてもらうために、語る。語ることが「親になれなかった自分」の「社会への貢献」になる。子どもは残せなかったが、「物語」は残せる。

結論——「親になれなかった」ことは「人生の失敗」ではない

「親になれなかった」ことを「人生の失敗」と位置づける社会がある。だがそれは「成功の定義が狭い社会」だ。「結婚して子どもを持つこと」だけが「成功」なら、世界中の独身者と子どものいない人はすべて「失敗者」になる。そんな定義は間違っている。

「成功」の定義を自分で決める。「23年間、手取り16万円で生き延びた。もやし炒めで。発泡酒で。NISAで。一人で。これは成功だ」。子どもはいない。だが「自分がいる」。自分が生きている。それが成功。子どもを残せなかったが「自分の物語」を残せる。物語は「子ども」とは違う形の「遺産」だ。

もし今夜、もやし炒めを作りながら「子どもがいたら、この隣に座っていたのかな」と思ったら。思ってもいい。思った後に「でも、今のもやし炒めは美味いな」と付け加える。「いなかった子ども」を悲しむ時間もあっていい。だが「いる自分」を肯定する時間のほうが大切だ。自分がいる。もやし炒めがある。発泡酒がある。NISAがある。十分だ。十分ではないかもしれないが、「十分だと思うことにする」。これが45歳独身子なしの「受容」だ。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。

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