45歳独身が「友人の結婚式・子どもの話」にどう向き合うか——笑顔の裏で何を感じているか

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45歳独身が「友人の結婚式・子どもの話」にどう向き合うか——笑顔の裏で何を感じているか

はじめに——「おめでとう」と言った後の帰り道

友人の結婚式。「おめでとう」。心からそう思う——つもりだ。だが披露宴が終わり、一人で帰る電車の中で、言い知れない感情が湧いてくる。羨ましさ、寂しさ、焦り、自嘲、そしてほんの少しの怒り。怒りは誰に対してかわからない。社会に対してか。自分に対してか。「おめでとう」と言った自分に対してか。

45歳にもなると、友人の結婚式に招待されることはほとんどなくなった。周囲はとっくに結婚している。結婚式の代わりに増えたのは「子どもの話」だ。「子どもが小学校に入った」「中学受験が大変で」「息子が初めてヒット打った」。職場の雑談、LINE のグループ、SNSの投稿。子どもの話題があふれている。

自分には子どもがいない。結婚もしていない。子どもの話題に加われない。加わるどころか、話題が出るたびに「自分にはないもの」を突きつけられている気がする。気がするだけかもしれない。相手に悪意はない。だが悪意がないからこそ、余計に辛い。

「祝福できない自分」への嫌悪感

友人の幸せを心から祝福できない自分が嫌だ。「おめでとう」と言いながら、心の中で「いいなあ」と思っている。「いいなあ」の裏に「自分にはないのに」がくっついている。この「ないのに」が、祝福を純粋なものにしてくれない。

祝福できない自分を責める。「心が狭い」「器が小さい」「嫉妬深い」。自分を責めると、自己肯定感がさらに下がる。自己肯定感が下がると、次の「おめでとう」がさらに辛くなる。悪循環だ。

だが待ってほしい。祝福と嫉妬は共存しうる。「おめでとう」と「いいなあ」は矛盾しない。友人の幸せを喜ぶ気持ちと、自分にはないものへの羨望は、同時に感じていい。人間の感情は単純ではない。「100%の祝福」ができなくても、「60%の祝福+40%の羨望」でいい。60%でも祝福しているのだから、十分に「良い友人」だ。

自分を責めるのをやめる。「心が狭い」のではなく「人間として自然な感情を持っている」だけだ。聖人ではないのだから、100%の祝福ができなくて当然だ。60%の祝福ができている自分を、むしろ褒めていい。

「子どもの話」に加われないときの対処法

職場の雑談で子どもの話題が出たとき、独身者は「蚊帳の外」になる。入学式の話、運動会の話、受験の話、反抗期の話。どれも自分には関係がない。関係がないから、相槌を打つことしかできない。「へえ、大変ですね」「すごいですね」。中身のない相槌。相槌を打ちながら、「自分はこの輪の中にいるのだろうか」と感じる。

対処法1は「聞き役に徹する」ことだ。子どもの話を「聞く」のは、自分に子どもがいなくてもできる。「それで、お子さんはどうしたんですか?」と質問する。質問されると相手は嬉しくなって話し続ける。自分は聞いているだけでいい。聞き役として存在することで、輪の中にいることができる。

対処法2は「話題を変える」ことだ。子どもの話が一段落したら、「そういえば、○○のニュース見ました?」と別の話題を振る。自然に話題が切り替われば、子どもの話から離れられる。

対処法3は「席を外す」ことだ。子どもの話が始まったら、「すみません、ちょっとトイレに」と席を外す。戻ってきたら話題が変わっていればラッキー。変わっていなければ、スマートフォンを見るふりをして耐える。

対処法4は「気にしないスキルを磨く」ことだ。子どもの話題は「自分に向けられたものではない」と割り切る。天気の話と同じ。「今日は暑いですね」と言われて「暑いことを責められている」とは感じない。子どもの話も同じ。「子どもが可愛い」と言われて「子どもがいないお前は不幸だ」と言われているわけではない。言葉の裏を読みすぎない。表面だけ受け取る。表面だけなら、「へえ、かわいいですね」で十分だ。

「いつ結婚するの?」の質問が消えた後の虚しさ

20代後半から30代前半は「いつ結婚するの?」と頻繁に聞かれた。うるさかった。放っておいてくれ、と思った。

40代に入ると、聞かれなくなった。完全に聞かれなくなった。聞かれなくなると、別の感情が生まれた。虚しさ。「もう期待されていない」「もう話題にすらされない」「もう『結婚するかもしれない人』として見られていない」。聞かれるのはうるさかったが、聞かれなくなるのは虚しかった。

この虚しさは、「承認欲求」の問題だ。「結婚するの?」という質問は、「お前にはまだ可能性がある」という暗黙のメッセージを含んでいた。可能性があると認められていた。聞かれなくなったのは、「もう可能性がない」と判断されたということ。その判断が、自分の「社会的な存在価値」を削っているように感じる。

だが冷静に考えれば、結婚の有無は社会的な存在価値を決めない。結婚していてもダメな人間はダメだし、独身でも素晴らしい人間は素晴らしい。結婚は人生の選択肢の一つであり、「しなければならないもの」ではない。しなかった結果としての今の自分も、十分に「存在する価値がある」人間だ。

「比較」から「自分の人生」に視点を戻す

友人の結婚式、子どもの話。これらが辛いのは、「比較」しているからだ。友人と自分を比較し、「友人にはあるが自分にはないもの」にフォーカスしている。

だが比較は一方向だけではない。友人には「子育ての苦労」がある。自分にはない。友人には「配偶者との関係調整」がある。自分にはない。友人には「教育費の負担」がある。自分にはない。自分にないものを見るのと同じくらい、友人にないもの(独身の自由、一人の静けさ、自分だけの時間)を見ることができる。

比較をやめることが理想だが、人間には比較の本能がある。完全にやめるのは難しい。だが比較するなら「フェア」に比較する。一方向だけの比較は不公平だ。「ないもの」だけでなく「あるもの」も見る。「あるもの」に目を向ければ、自分の人生もそう悪くないかもしれない。

自分の人生に視点を戻す。「友人の人生」ではなく「自分の人生」を生きる。自分の人生の中に、小さな幸福を見つける。発泡酒の最初の一口。散歩中の風の気持ちよさ。図書館で面白い本に出会ったときの高揚感。これらの幸福は、結婚しているかどうかに関係なく、「自分だけの幸福」だ。

「独身でよかったこと」を棚卸しする

独身でよかったこと。あえて挙げてみる。

よかったこと1は「時間が完全に自分のもの」であること。仕事が終われば、残りの時間はすべて自分のもの。家族の世話も、子どもの送迎も、配偶者との会話も不要。好きなときに好きなことができる。この自由は、家庭を持つ人がうらやむ贅沢だ。

よかったこと2は「意思決定が即座にできる」こと。引っ越したければ引っ越す。転職したければ転職する。旅行に行きたければ行く。誰にも相談する必要がない。自分の判断だけで、すべてが決まる。このスピード感は、独身ならではだ。

よかったこと3は「人間関係のストレスが少ない」こと。配偶者との喧嘩がない。義理の家族との付き合いがない。子どもの学校の保護者付き合いがない。ママ友・パパ友のグループLINEがない。これらの人間関係のストレスがゼロ。ゼロは快適だ。

よかったこと4は「お金の使い道が自由」であること。前述の通り。自分の判断で、自分のために使える。教育費の心配がない。住宅ローンのプレッシャーがない。この経済的な身軽さは、独身の最大のメリットかもしれない。

よかったこと5は「静けさ」。一人暮らしの部屋の静けさ。好きな音楽をかけるも、無音を楽しむも自由。子どもの泣き声で起こされることがない。テレビのチャンネル争いがない。この静けさが、独身の「特権」だ。

これらの「よかったこと」を棚卸しすると、独身の人生もそう悪くないことに気づく。気づかなくてもいい。気づく日もあれば、気づかない日もある。気づかない日は、もやし炒めを食べながら「まあいいか」と思えればいい。

まとめ——「向き合う」とは「受け入れて、前を向く」こと

友人の結婚式。子どもの話。これらに「向き合う」とは、「平気なふりをする」ことではなく、「辛いと感じている自分を認めた上で、前を向く」ことだ。

辛いと感じていい。羨ましいと思っていい。虚しいと感じていい。これらの感情は、自然なものだ。否定する必要はない。ただ、感情に支配されすぎず、自分の人生に戻ってくる。戻ってきたら、自分の生活を整える。もやし炒めを作る。散歩に出かける。本を読む。NISAの積立額を確認する。日常の小さな行為の積み重ねが、自分の人生を「自分のもの」にしてくれる。

友人の人生は友人のもの。自分の人生は自分のもの。どちらも正しい。どちらも価値がある。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。

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