あの「間」を知っているか
「お仕事は何をされているんですか?」
大人の社交場において、これほど頻繁に交わされ、これほど多くの人間を静かに追い詰める質問はない。飲み会、同窓会、親戚の集まり、美容院、初対面の誰かとの会話。あらゆる場面でこの質問は飛んでくる。天気の話の次くらいの気軽さで。
正社員であれば、この質問は単なる会話の潤滑油だ。「○○で営業をやっています」「メーカーに勤めていまして」——そう答えれば、相手は「へえ」と言って次の話題に移る。何事もなかったように会話は流れていく。
だが非正規雇用の人間にとって、この質問は地雷だ。正確に言えば、質問そのものは地雷ではない。答えた瞬間に訪れる「間」が地雷なのだ。
「今はちょっと、派遣で……」
この一言のあとに訪れる、0.5秒の沈黙。相手の表情が微妙に変わるあの瞬間。目の奥の光が、ほんの少しだけ曇る。声のトーンが半音下がる。「あ、そうなんですね」という返事の温度が、正社員だった場合と明らかに違う。
この差は、測定不能なほど微細だ。相手に悪意はない。おそらく本人も気づいていない。しかし受け取る側は、それを正確に感知する。何百回もこの場面を経験していると、センサーが異常に発達するのだ。地震計のように、震度0.5の揺れも逃さない。
最初にそれを感じた日
最初にあの「態度の変化」を明確に意識したのは、大学の同窓会だった。
卒業して5年目。25人くらいが集まった居酒屋の一室で、近況報告が始まった。「俺は今○○銀行で」「私は△△商事に」「僕はIT系のベンチャーで」——みんな、社名を看板のように掲げて自己紹介していく。
私の番が来た。「今は派遣で、事務の仕事をしています」。
一瞬、テーブルの空気が変わった。正確には変わっていないのかもしれない。でも私にはそう感じた。隣に座っていた旧友が「へえ、そうなんだ」と言ったときの声色。その「へえ」には、他の人への「へえ」にはなかった微量の同情が含まれていた。あるいは、私がそう感じただけかもしれない。だが「そう感じた」という事実自体が、もう十分にダメージなのだ。
その後の会話で、私への質問が微妙に減った気がした。正社員組には「大変でしょ」「でもやりがいあるでしょ」と話題が広がるのに、私には「まあ、いろいろあるよね」と曖昧な言葉で会話が閉じられる。掘り下げてはいけない領域だと、無意識に判断されているのだ。
帰り道、駅のホームでひとり電車を待ちながら思った。私は今夜、何か悪いことをしたのだろうか。犯罪を告白したわけでもない。借金の話をしたわけでもない。ただ、自分の雇用形態を正直に答えただけだ。それだけで、空気が変わった。あの感じは何なのだろう。
あれから何年も経った今、答えがわかる。あの空気の変化は「同情」でも「蔑み」でもなく、「カテゴリの再分類」だった。相手の中で、私は「同じ側の人間」から「少し違う側の人間」へと、瞬時に移動させられたのだ。
カテゴリの壁
人間は、他者をカテゴリに分類する生き物だ。これは悪意ではなく、認知の効率化のためにやっている。初対面の相手の情報を処理するとき、脳は自動的にいくつかのカテゴリに振り分ける。年齢、性別、見た目、そして「何をしている人か」。
日本社会においては、「何をしている人か」の比重がとりわけ大きい。名刺交換の文化がその象徴だ。名刺には会社名と肩書きが書いてあり、それが事実上の「自分の値札」として機能する。名刺を持っていない人間——つまり非正規や無職の人間は、値札のない商品のようなものだ。品質がわからないから、棚の奥に押しやられる。
非正規だとわかった瞬間に態度が変わるのは、相手の中で「この人は自分と同じカテゴリだ」という前提が崩れるからだ。同窓会の例で言えば、同じ大学を出ているのだから、参加者は無意識に「同じくらいのキャリアを歩んでいるはず」と想定している。その想定が外れたとき、脳は高速で再計算を始める。「この人とはどういう距離感で接するべきか」を。
その再計算の結果が、あの0.5秒の「間」であり、半音下がった声のトーンなのだ。
態度が変わるパターン図鑑
長年の観察を経て、「非正規だと知った瞬間の態度変化」にはいくつかのパターンがあることがわかった。個人的なフィールドワークの成果として、ここに記録しておく。
パターン1「急に優しくなる型」。これが最も一般的だ。非正規だと知った瞬間、相手の声が急にやわらかくなる。「大変だよね」「でも自分のペースで働けるのはいいよね」と、頼んでもいない肯定を始める。善意なのはわかっている。わかっているからこそ、つらい。その優しさの奥に「かわいそう」という感情が透けて見えるからだ。やわらかい声で包まれた同情は、剥き出しの蔑みより、ときに堪える。
パターン2「急に話題を変える型」。「あ、そうなんだ。ところでさ、」と、異様なスピードで別の話題に転換する。まるで地雷を踏んだ足を、慌てて引っ込めるかのように。この人は、私の話を「聞いてはいけないもの」として処理したのだな、と思う。犯罪歴でも告白したかのような扱い。
パターン3「急にアドバイスを始める型」。「正社員目指さないの?」「ハロワ行ってる?」「資格取ったほうがいいよ」——こちらの事情も状況も何も知らないのに、出会って5分でキャリアカウンセリングを始める人。善意の暴力。相手は「助けてあげたい」のだろうが、助けを求めていないときに差し伸べられる手は、手ではなく足だ。踏まれている。
パターン4「マウントを取り始める型」。これは少数派だが、いる。「俺も大変だけどさ、やっぱ正社員だと保険とかしっかりしてるからさ」と、聞いてもいない正社員のメリットを語り始める。非正規が何を失っているかを、わざわざ列挙してくれる親切な人。こちらは全部知っている。知っていて、それでもその状況にいるのだ。知らない情報を教えてくれているわけではない。傷口に塩を塗っているだけだ。
パターン5「何も変わらない型」。これは稀だが、存在する。非正規だと聞いても、声のトーンも表情も態度も一切変わらない人。「へえ、どんな仕事?」と、雇用形態ではなく仕事の中身に興味を持ってくれる人。こういう人に出会うと、なんだか泣きそうになる。普通に接してくれることが、これほどありがたいとは。「普通」が贅沢品になっている状況自体がおかしいのだが。
親戚の集まりという修羅場
態度の変化が最も露骨に表れるのは、親戚の集まりだ。
正月、盆、法事。年に数回しか会わない親戚たちは、前回会ったときの情報をアップデートしたがる。子どもの頃は「大きくなったねえ」で済んでいた会話が、大人になると「仕事はどうなの」に変わる。
叔父に「まだ派遣なの?」と聞かれたとき、「まだ」という副詞の破壊力に驚いた。「まだ」は、「いずれ卒業すべき段階にいる」という認識を前提としている。派遣は通過点であり、ゴールは正社員である、という暗黙の前提。叔父にとって非正規とは「まだ」の状態であって、「今」の状態ではないのだ。
母方の従姉妹が結婚式の打ち合わせの話をしている横で、「仕事のほうは?」と祖母に聞かれ、「うん、まあ、ぼちぼち」と答える。「ぼちぼち」は便利な言葉だ。何も言っていないのに、何か言った気にさせてくれる。祖母は「そう、体には気をつけてね」と言った。その言葉は温かかったが、「仕事」について深入りしないという判断も透けていた。祖母なりの優しさだとわかっている。わかっているから黙って頷いた。
一番つらかったのは、年の近い従兄弟が大手企業に転職したという報告を聞いたあと、「で、お前は?」と振られた瞬間だ。「お前は?」——この短い問いに含まれる比較の圧力。従兄弟に悪気はない。ただの会話の流れだ。しかし「大手に転職」の直後の「で、お前は?」は、ランウェイを歩いたモデルの直後にステージに上がらされるようなものだ。何を着ていても見劣りする。
正社員と非正規のあいだの見えない線
同じ職場で正社員と非正規が混在している場合、見えない線がある。
昼休み、正社員は社員食堂で一緒にランチを食べる。非正規も食堂は使えるが、なんとなくテーブルが分かれる。誰もそうしろと言っていないのに、自然とそうなる。これは意識的な差別ではなく、無意識の区分けだ。
会議に呼ばれない。これは制度上の問題でもあるが、心理的にはじわじわ効く。自分に関係する案件の会議なのに、「正社員のみ」で開催される。結果だけがメールで共有される。意思決定の場に存在しないということは、「意思がない」と見なされているのと同じだ。
飲み会の誘われ方も違う。正社員は「今日飲みに行こう」と声をかけられるが、非正規には「もしよかったら」が付く。「もしよかったら」は、来なくても構わないという含みであり、つまりは「あなたは必須メンバーではない」という通告だ。もちろん、経済的な配慮もあるだろう。非正規のほうが給料が低いことを知っているから、無理に誘わないようにしている。善意だ。善意が生む距離。
最も象徴的だったのは、ある日の出来事だ。職場に新しいコーヒーメーカーが導入された。部長が「みんなで使ってね」と言った。その「みんな」に私が含まれているのかどうか、一瞬判断できなかった。結局含まれていたのだが、それを確認しなければならなかった、というだけで十分にしんどい。「みんな」の輪郭が、雇用形態によって曖昧になる世界。コーヒー一杯で感じる疎外感。
「選んでそうしているんでしょ?」
非正規であることを伝えたときに、最も困る反応がこれだ。
「でも、自分で選んでそうしてるんでしょ?」
選んでいない。
いや、正確に言えば、選択肢がその中にしかなかった。正社員の椅子が100脚あるところに200人が座ろうとして、座れなかった100人に対して「立っていることを選んだんでしょ」と言うのは、論理的には正しいが、実態を反映していない。座りたかった。座れなかった。立っている以外の選択肢がなかっただけだ。
もちろん、非正規を積極的に選んでいる人もいる。育児や介護との両立、自分の時間の確保、特定のスキルを活かすため。そういう人にとっての非正規は「選択」だろう。だが就職氷河期に社会に出て、新卒で正社員になれず、その後もずっと非正規で転々としている人間にとって、それは「選択」ではなく「経緯」だ。
「選んでいるんでしょ」と言われると、返す言葉がない。「違います、選んでいません」と反論すれば被害者ぶっているように聞こえるし、「まあ、そうですね」と肯定すれば本当に選んだことになってしまう。どちらに転んでも負ける質問。こういう質問を「修辞的暴力」と呼びたい。
数字で見る現実
感情的な話ばかりしていても説得力に欠けるかもしれないので、数字の話もしておこう。
非正規雇用の平均年収は、正社員のおよそ半分から3分の2程度だと言われている。同じ仕事をしていても、雇用形態が違うだけで報酬が違う。これは「同一労働同一賃金」が叫ばれるようになった今でも、完全には解消されていない。
ボーナスがない。退職金がない。昇給がほとんどない。住宅ローンの審査に通りにくい。クレジットカードの審査すら厳しいことがある。社会的信用というものが、雇用形態に紐づいている。
だが数字以上に効くのは、日常の中の小さな差異だ。正社員は有給を取れるが、非正規は取りにくい空気がある。正社員は研修に行けるが、非正規は対象外のことが多い。正社員は健康診断のオプションが充実しているが、非正規は最低限。こういう「少しずつ違う」が積み重なって、「だいぶ違う」になる。
そして最大の差異は、「将来の見通し」だ。正社員には、少なくとも「このまま働いていれば昇給する、退職金が出る、年金がそれなりにもらえる」という見通しがある。非正規にはそれがない。明日の契約更新すら不確実な状態で、5年後、10年後を計画しろと言われても、白紙の地図で航海するようなものだ。
態度を変えない人たちへ
ここまで、態度が変わるパターンについて書いてきた。だが最後に、態度を変えない人たちについても書いておきたい。
世の中には、雇用形態を聞いても一切態度を変えない人がいる。そういう人はたいてい、自分自身も何らかの「はみ出し」を経験している。あるいは、人を肩書きで判断することの馬鹿馬鹿しさを、実感として知っている人だ。
ある飲み会で隣になった初対面の男性に「派遣で事務をやっています」と答えたら、「事務って大変ですよね、俺パソコン苦手だから尊敬するわ」と返ってきた。非正規かどうかではなく、仕事の中身に反応してくれた。たったそれだけのことなのに、その日の帰り道は少しだけ足取りが軽かった。
もうひとつ。取引先の担当者が変わったとき、新しい担当者は挨拶もそこそこに「御社の体制を教えてください」と聞いてきた。私が「私は派遣なんですが」と言ったら、「あ、そうなんですね。じゃあ業務の範囲を教えてもらえますか」と、何事もなかったように話を続けた。雇用形態を聞いた上で、それを情報のひとつとして処理し、特別な意味を付与しなかった。プロフェッショナルな態度だと思った。
態度を変えない人の共通点は、「雇用形態」を人格や能力の指標として使わないことだ。当たり前のことのように聞こえるが、実践できている人は思ったより少ない。
結局、何が言いたいのか
非正規だとわかった瞬間に態度が変わること自体を、私は糾弾したいわけではない。人間は社会的な生き物であり、相手の属性によって対応を調整するのは、ある程度は自然なことだ。上司と部下で話し方が変わるように、子どもと大人で言葉遣いが変わるように。
ただ、知っておいてほしいのだ。その「態度の変化」は、受け取る側にはしっかり伝わっている、ということを。あなたが無意識にやっている0.5秒の間、半音下がった声、「もしよかったら」の一言——それらは全部、こちらに届いている。そしてそれが100回、200回と積み重なると、人間の自己認識を少しずつ削っていく。
自分は「少し違う側」の人間なのだ、と。
その認識が定着すると、態度を変えられる前に、自分から引いてしまうようになる。同窓会の案内が来ても行かなくなる。親戚の集まりを「仕事がある」と嘘をついて断るようになる。初対面の人との会話で「仕事の話」にならないように、先回りして別の話題を振るようになる。防衛だ。傷つく前に回避する。
それは社会からの緩やかな撤退であり、長い目で見れば孤立につながる。非正規の問題は、給料の安さや雇用の不安定さだけではない。人間関係の中に埋め込まれた、無数の小さな段差。つまずいて転んでも、誰も気づかないくらい小さな段差。でもその段差は確かにそこにあり、毎日少しずつ足腰を消耗させていく。
だから、もしこれを読んでいるあなたが、誰かから「派遣で」「契約で」「パートで」と聞いたとき、意識的に態度を変えないでほしい。変えないことに特別な努力はいらない。ただ、変えなければいいだけだ。声のトーンを保つ。間を空けない。同じ温度の「へえ」を返す。それだけで、相手の一日は少し違ったものになる。
大げさなことは言わない。世界は変わらない。制度も変わらない。でも、目の前の一人の人間の、その日の帰り道の足取りくらいは、変えられるかもしれない。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。すべての非正規雇用の人が同じ経験をしたわけではありません。でも、あの「間」を感じたことがある人は、きっと少なくないはずです。

