スーパーの半額シールを待ってしまう自分について

この記事は約10分で読めます。

閉店2時間前の戦場

夜7時半。仕事帰りにスーパーに寄る。

目的は明確だ。半額シールを貼られた惣菜を買う。正確に言えば、半額シールが貼られる「瞬間」を待つ。

スーパーによって、シールが貼られるタイミングは異なる。閉店2時間前に20%引き、1時間前に半額、というパターンが多い。私が通うスーパーは、だいたい夜8時ごろに半額シールの第一波が来る。だから7時半に入店し、惣菜コーナーの近くをうろうろしながら待つ。

うろうろ、と書いたが、正確には「さりげなく待機する」だ。あからさまに惣菜コーナーの前に立って待っていると、みじめに見える。それは自覚している。だから、少し離れた場所で缶詰のラベルを読むふりをしたり、乾物コーナーでわかめの種類を確認するふりをしたりする。目は缶詰に向いているが、意識は惣菜コーナーに向いている。全方位レーダーのように、店員の動きを感知している。

店員がシール台紙を持って惣菜コーナーに近づくのが見えたら、自然な足取りで移動する。早すぎてはいけない。走ったら恥ずかしい。遅すぎてもいけない。良い商品は他の待機者に取られる。タイミングが命だ。速すぎず遅すぎず、ちょうどいいペースで惣菜コーナーに到着し、シールが貼られたばかりの商品を手に取る。

298円の鶏の唐揚げが、半額で149円。398円の刺身盛り合わせが199円。450円のとんかつ弁当が225円。これらの数字が、私の脳内ドーパミンを刺激する。安い。定価の半分だ。得をしている。この「得をしている」という感覚が、スーパーの閉店間際に足を運ばせる原動力だ。

半額ハンターの生態

半額シールを待つ人間は、私だけではない。

閉店1時間前のスーパーの惣菜コーナーには、同じ目的の人間が数人、滞留している。全員、何食わぬ顔をしているが、全員が全員、シールを待っている。目的は同じ。だが誰もそれを口には出さない。暗黙の了解で、同じ空間に同じ時間にいるだけの関係。連帯感はないが、敵対感もない。

半額ハンターにはいくつかのタイプがいる。

「ベテラン型」。毎日同じ時間に来ている常連。店員の動きのパターンを完全に把握しており、シールが貼られる30秒前に惣菜コーナーに移動する精度を持つ。余裕のある立ち居振る舞い。カゴには半額商品のみが整然と並ぶ。

「初心者型」。半額の存在に初めて気づいた風の人。少しおどおどしている。シールが貼られた商品を手に取るときに、周囲をちらちら見る。「これ取っていいんですよね」という不安が体から滲んでいる。大丈夫、誰も見ていない。見ていないフリをしている。

「ガチ勢型」。カートを押して、シール貼りの店員のすぐ後ろに張り付いている。店員がシールを一枚貼るたびに、すかさずカートに入れる。流れ作業。効率は最高だが、さすがに店員はやりにくそうだ。

「偶然装い型」。私はこのタイプだ。たまたま通りかかっただけですよ、という顔で惣菜コーナーの前を歩く。歩きながら、視界の端でシールの有無を確認する。シールを見つけたら、「あ、半額じゃん」と今気づいたかのように手を伸ばす。一人芝居だ。観客はいない。いないのに演じている。

149円の唐揚げの価値

半額の唐揚げ149円。定価298円の半分。

149円で手に入る唐揚げは、5個から6個入り。一人暮らしの夕食のおかずとしては十分な量だ。これに、事前に炊いておいたご飯と、インスタントの味噌汁を合わせれば、立派な夕食になる。唐揚げ149円、ご飯は米代で30円程度、味噌汁20円。合計約200円。

200円の夕食。外食なら最低でも500円。コンビニ弁当なら550円以上。それが200円。この差額、350円を確保するために、私は閉店間際のスーパーに通っている。

350円。これを月20日分とすると、7000円。年間84000円。84000円は、NISAの年間積立額を月7000円分増やせる金額だ。あるいは、健康診断のオプション検査を受けられる金額だ。あるいは、温泉旅行に行ける金額だ。

つまり、半額シールを追いかける行為は、年間84000円分の可能性を開く行為だ。そう考えると、閉店間際のスーパーをうろうろすることも、なんだか投資のように思えてくる。投資は時間を味方につけるものだが、半額シールも時間を味方につけている。閉店が近づくにつれて、食品の価格は下がる。時間が経てば経つほどお得になる。株式市場の暴落を待つ逆張り投資家と、本質は同じかもしれない。同じではないが、そう思うと少し気が楽になる。

恥ずかしさの変遷

半額シールを待つことに対する感情は、年月とともに変化してきた。

最初の頃は、恥ずかしかった。20代後半、初めて半額シールの存在に気づいたとき。惣菜コーナーで「半額」の文字が目に入り、手が伸びた。手が伸びた瞬間、「こんなことをしている自分」に気づいて、少し恥ずかしくなった。

その恥ずかしさには、いくつかの要素があった。ひとつは「貧乏くさい」という自意識。もうひとつは「同年代はこんなことしていないだろう」という比較。そして「大人なら定価で買うべき」という、なんとなくの規範意識。

30代前半。恥ずかしさは薄れ、代わりに「合理性」が前面に出てきた。半額で買えるなら半額で買うのが合理的だ。同じ商品なのに定価で買うのは非合理だ。合理的な消費行動だと、自分に言い聞かせた。

30代後半。合理性を超えて、「生活のスキル」として誇れるようになった。半額のタイミングを読む力、複数のスーパーの割引パターンを把握する力、限られた予算で最大限の栄養を確保する力。これらはサバイバルスキルであり、誇ってもいいはずだ、と。

40代。もはや何も感じない。半額シールを待つことは、歯を磨くのと同じくらいの日常動作だ。恥ずかしくもなく、誇らしくもなく、ただの習慣。コンビニでおにぎりの値段を見るのと同様、自動化された行動パターンのひとつ。

この変遷を振り返ると、「恥ずかしさ」が消えたのは、心が成長したからではなく、麻痺したからかもしれない。感情が鈍くなったのだ。鈍くなったことが良いことなのか悪いことなのかはわからない。ただ、日々の生活を回すためには、鈍感さが必要だった。毎回恥ずかしいと感じていたら、夕食を作るたびに傷つくことになる。それでは持たない。

半額と定価の間の心理的距離

同じ商品を定価で買う人と、半額で買う人がいる。この二人の間には、金額以上の心理的な距離がある。

定価で買う人は、「食べたいとき」に買う。腹が減ったとき、食べたいものがあるとき、思い立ったとき。時間の制約はない。スーパーが開いている時間ならいつでも行けるし、いつ行っても同じ商品が同じ値段で買える。

半額で買う人は、「半額になるとき」に買う。食べたいタイミングではなく、安くなるタイミングに合わせる。夕食のメニューは、その日の半額商品で決まる。唐揚げが半額なら唐揚げ。刺身が半額なら刺身。自分の欲求ではなく、値引きの都合がメニューを決める。

つまり、半額で買う人は、自分の食生活のコントロールを一部、スーパーの値引きスケジュールに委ねている。食の自己決定権が、経済的理由で制限されている。大げさに聞こえるかもしれないが、毎日のことだと実感として強い。今日の夕食を自分で決められない。半額シールに決めてもらっている。

食べたいものが半額にならない日もある。その日は、食べたくないものが半額になっている。食べたくなくても買う。半額だから。安さが、食の欲求を上書きする。

この「安さによる欲求の上書き」が長期化すると、やがて自分が何を食べたいのかわからなくなる。「食べたいもの」が「買えるもの」に置き換わり、欲求自体が萎縮する。メニューの想像力が減退する。「今日は何が食べたい?」と聞かれても、答えが出ない。出るのは「何が安いか」だけだ。

半額品のリスク管理

半額品には、リスクもある。

まず、消費期限のリスク。半額シールが貼られるのは、消費期限が近いからだ。当日中に食べなければならない。買いだめができない。今日の分だけを、今日買う。計画的な買い物ができない。

次に、品質のリスク。閉店間際の惣菜は、揚げ物はしなしなになっていることがある。刺身は乾き気味のことがある。作りたてと比べれば、明らかに味が落ちる。半額の代償として、鮮度を手放している。

そして、買いすぎのリスク。半額だからといって必要以上に買うと、結局無駄遣いになる。「安いから2つ買おう」で298円。定価で1つ買ったのと同じ金額だ。半額のマジックにかかると、「得をしている」感覚に酔って、不必要なものまで手を出してしまう。

これらのリスクを管理しながら、半額の恩恵を最大化する。これもまた、スキルだ。消費期限の迫った惣菜を買ってすぐ食べるか、冷凍できるものを選んで保存するか。品質の劣化を最小限にする方法を考える。買いすぎを防ぐために、事前に必要なものだけをリスト化する。

これだけの思考と判断を、毎日、スーパーの閉店間際に行っている。この労力を別のことに使えたら、と思わないでもない。だが別のことに使えるだけの経済的余裕がないから、この労力を食費の削減に充てている。リソースの最適配分だ。限られたリソースを、最も効果の高い場所に集中投下する。経営学の教科書に書いてありそうな話を、スーパーの惣菜コーナーで実践している。

半額仲間の存在

面白いもので、半額シールを待つ人間同士には、なんとなくの仲間意識が芽生えることがある。

毎日同じ時間に同じスーパーに来ていると、顔見知りになる。言葉は交わさない。挨拶もしない。だがお互いの存在を認識している。「ああ、今日もいるな」という程度の認識。

シールが貼られた瞬間、何人かの手が同時に伸びる。手が重なりそうになったとき、「どうぞ」と譲り合う。この「どうぞ」が、半額仲間同士の唯一のコミュニケーションだ。譲ったほうは、別の商品を手に取る。譲られたほうは、軽く頭を下げる。無言の連帯。

この連帯は、友情とは呼べない。だが完全な他人でもない。同じ境遇にいる人間同士の、微かな共感がそこにある。「あなたも半額を待っているんですね」「はい、あなたもですか」。この会話は一度も交わしたことがないが、お互いの存在が、暗黙の「あなただけじゃない」というメッセージになっている。

一人暮らしで友達がいない私にとって、この半額仲間の存在は、意外と大きい。大きいと言うのは大げさかもしれないが、ゼロではない。ゼロではない人間関係が、スーパーの惣菜コーナーにある。

半額シールと自尊心

半額シールを貼られた商品をレジに出すとき、昔は少し恥ずかしかった。「この人、半額しか買えないんだ」と思われるのではないか。レジの店員は、半額シールの商品を見て何を思うだろうか。

今はもう気にならない。気にならないのは、自尊心が麻痺したからではなく、自尊心の置き場所が変わったからだ。

昔は、「何を買うか」に自尊心を置いていた。高いものを買える自分。定価で買える自分。それが自尊心の源泉だった。

今は、「どう生き延びるか」に自尊心を置いている。限られた予算で最大限の栄養を確保する。無駄な出費を避ける。計画的に買い物をする。これらの能力に、自尊心を感じている。

半額シールを待つことは、節約の技術であり、生存の知恵であり、限られたリソースを最適化するスキルだ。このスキルを持っていることに、卑下する必要はない。

もちろん、半額を待たなくていい経済力があれば、それに越したことはない。半額を待つ必要がないのは、恵まれている証拠だ。だが必要がある中で、最善を尽くしている自分を、責める気にはなれない。

半額の先にある、ささやかな幸福

半額の刺身を買って帰る。パックを開けて、醤油をかけて食べる。

うまい。

定価で買った刺身と、味は同じだ。鮮度は少し落ちているかもしれないが、スーパーの閉店間際でも、刺身は刺身だ。醤油の味と、魚の味が、口の中に広がる。

199円で手に入れたこの味を、幸福と呼んでいいのか。いいだろう。199円分の幸福。小さいが、確かに存在する幸福。この幸福を得るために、閉店間際のスーパーをうろうろした。うろうろした時間は、30分くらい。30分で199円の幸福。時給換算するのは野暮だ。

半額で買った惣菜を、発泡酒と一緒に食べる。テレビをつけて、特に面白くもない番組を眺めながら。一人の食卓。隣には誰もいない。だがテーブルの上には、半額の唐揚げと、半額の刺身と、100円の発泡酒がある。合計448円の晩餐。

448円で、腹が満たされる。腹が満たされると、少しだけ心も満たされる。少しだけだが、確かに。この「少しだけ」を積み重ねて、毎日を生きている。少しだけの幸福を、バカにしてはいけない。少しだけの幸福がなければ、人間は生きていけない。

明日も、閉店間際のスーパーに行くだろう。明日の半額商品は何だろうか。唐揚げか、コロッケか、サバの塩焼きか。わからない。わからないから、少しだけ楽しみだ。半額の不確実性が、ささやかなワクワクを生んでいる。明日の夕食が半額シールに委ねられている人生は、不自由だが、不幸ではない。少なくとも今日は、不幸ではなかった。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。スーパーの半額シールに心を躍らせたことがある人は、きっと少なくないはずです。

タイトルとURLをコピーしました