大晦日の夜11時
大晦日の夜11時。テレビでは年末の特番が流れている。タレントたちが笑っている。カウントダウンの空気がじわじわと高まっている。
私は台所に立っている。鍋に湯を沸かしている。乾麺のそばを茹でる準備だ。
一人の大晦日。17年連続だ。17回目ともなると、さすがに慣れた。慣れたどころか、最近は妙に落ち着く。テレビの賑やかさと、台所の静けさのコントラストが、心地よいとすら感じ始めている。
そばを茹でる。3分。タイマーをセットする。その間にめんつゆを器に注ぐ。ネギを刻む。わかめを戻す。天かすをスタンバイさせる。
3分後、そばを湯切りして、器に盛る。ネギ、わかめ、天かす、かまぼこ。具は質素だが、一応の体裁は整っている。
テーブルに運ぶ。座る。「いただきます」と、誰にともなく言う。
すする。
うまい。
この「うまい」が、年々強くなっている気がする。
最初の年は、泣きそうだった
一人で年越しそばを食べた最初の年は、28歳だった。
大学を出て就職に失敗し、派遣で働き始めて数年。一人暮らしのアパートで迎える初めての大晦日。帰省する金がなくて、実家に帰れなかった。正確には、金はぎりぎりあったが、帰省すると1月の生活費が苦しくなるから、やめた。
あの夜のそばは、おいしくなかった。味の問題ではなく、心の問題だ。一人でそばをすすっている自分が惨めで、テレビの向こうの幸せそうな家族が羨ましくて、なぜ自分はここにいるのかと考えて、そばの味がわからなくなった。
泣きそうだった。泣かなかったが、目頭は熱くなった。鼻水が出たのは、そばの湯気のせいだと自分に言い聞かせた。
惨めさのピーク
30代前半が、一人の大晦日の惨めさのピークだった。
この年齢になると、周囲の友人や同僚は家族で年末年始を過ごしている。SNSには家族での旅行、おせちの写真、子どもの笑顔が並ぶ。それを見ながら、一人でそばを食べる。比較のダメージが最も大きかった時期だ。
「なぜ自分だけ一人なのか」という問いが、大晦日の夜に特に強くなる。普段は考えないようにしているが、大晦日の夜は逃げ場がない。テレビは家族や恋人の絆を描く番組ばかり。年越しの瞬間に「あけましておめでとう」を言う相手がいない。除夜の鐘が聞こえても、煩悩を払う以前に、孤独が重くのしかかる。
30歳、31歳、32歳。毎年、同じ寂しさが来る。同じそばを食べる。同じテレビを見る。同じ部屋で、一人で、年を越す。変わらないことが、変わらない寂しさを再確認させる。
転機は35歳
転機が来たのは35歳の大晦日だった。
何が変わったのか。外的な状況は変わっていない。相変わらず一人だし、相変わらず派遣だし、相変わらず金はない。変わったのは内面だ。
その年の大晦日、私はスーパーでそばの具材を選んでいた。いつもはネギと天かすだけだが、その日は気まぐれに海老天を買った。1本198円。贅沢品だ。だが大晦日くらいは、と思った。
海老天をのせたそばを食べたとき、「あ、うまい」と思った。純粋に「うまい」と思えた。寂しさが消えたわけではない。だが寂しさの上に、「うまい」がのっかった。寂しさと美味しさが共存した。
この共存が、転機だった。それまでの大晦日は、寂しさが味覚を支配していた。何を食べても寂しい味がした。だが35歳の大晦日は、寂しさの中にも美味しさが存在できることに気づいた。
寂しくても、うまいものはうまい。この単純な発見が、大晦日の一人のそばを変えた。
40代、そばに凝り始める
40代に入ると、大晦日のそばに凝り始めた。
凝るといっても、金がないから大したことはできない。だが限られた予算の中で、できる工夫はある。
めんつゆを手作りした年がある。昆布と鰹節でだしを取り、みりんと醤油で味を調えた。市販のめんつゆより、格段にうまかった。手間は30分ほど余計にかかるが、その30分が「大晦日の仕事」として充実感を与えてくれた。
そばの種類にこだわった年もある。いつもの乾麺ではなく、生そばを買ってみた。1食分300円。乾麺の3倍の値段だ。だが大晦日の一杯だ。年に一度の贅沢として許可した。生そばの食感は、乾麺とは明らかに違った。コシがある。喉越しがいい。「ああ、これが本当のそばか」と、45年生きてきて初めて思った。
具のバリエーションも増やした。ある年は鶏肉を煮て鶏南蛮そばにした。ある年は冷たいそばにおろし大根と刻み海苔をのせた。ある年は卵を落とした月見そばにした。
これらの工夫は、すべて「一人で食べるそばを、いかにおいしくするか」という挑戦だ。一人であることを嘆くのではなく、一人であることの中に楽しみを見つける。この姿勢の変化が、40代に入って明確になった。
美味しくなった理由
年越しそばが年々美味しくなっている理由を、いくつか考えてみた。
理由1。比較をやめたから。30代の頃は、家族で年末を過ごす人々と比較して、自分の惨めさを増幅させていた。40代になると、比較すること自体をやめた。やめたら、目の前のそばに集中できるようになった。集中すると、味がよくわかる。
理由2。「一人」に慣れたから。最初の数年は、「一人」が異常事態だった。異常事態の中で食べるそばは、うまくない。だが17年も続けると、「一人」が通常状態になる。通常状態の中で食べるそばは、普通にうまい。
理由3。料理のスキルが上がったから。20代の頃は、そばを茹でるだけで精一杯だった。今は、だしを取り、具材を工夫し、盛り付けにも多少気を遣う。スキルの向上が、味の向上につながっている。
理由4。期待値が下がったから。若い頃は、「大晦日はこうあるべき」というイメージがあった。家族で過ごす。恋人と過ごす。友人と騒ぐ。このイメージとの落差が、寂しさを生んでいた。今はこのイメージ自体を手放した。大晦日は、そばを食べて寝る日。それ以上でもそれ以下でもない。期待値を下げると、現実が輝いて見える。
理由5。自分の中に「観客」が生まれたから。一人で食べるそばを、もう一人の自分が見ている。「今年のそばは去年より工夫したな」「めんつゆの濃さがちょうどいいな」と、内なる観客が評価してくれる。この内なる観客の存在が、一人の食事を「孤食」から「鑑賞」に変えた。
大晦日の一人は特別な一人
大晦日の一人は、普段の一人とは少し違う。
普段の一人は、単に「一人で暮らしている」という状態だ。特に意識しない。だが大晦日の一人は、「年の区切りを一人で迎える」という、少し特別な一人だ。
年の終わりと始まりを一人で迎えることは、自分の人生を自分だけで引き受けることの象徴だ。誰にも分け合わず、誰にも寄りかからず、一人でこの瞬間を通過する。このことに、寂しさだけでなく、ある種の凛とした強さを感じるようになった。
年が明ける瞬間。テレビの画面が「あけましておめでとうございます」に変わる。私は一人で、画面に向かって小さく「おめでとう」とつぶやく。このつぶやきは、テレビに向かっているようで、実は自分に向かっている。「今年も一年、生き延びたな。おめでとう」と。
自分で自分を祝う。他に祝ってくれる人がいないから、自分で祝う。これは寂しいことなのか、それとも自立していることなのか。判断は保留する。保留しながら、発泡酒の缶を開ける。一人で乾杯する。「今年もよろしく」と、自分に言う。
一人で食べる年越しそばが美味くなってきた。これは、悲しい話なのだろうか。それとも、ちょっとだけ前向きな話なのだろうか。両方だと思う。悲しくて、前向き。この二つは矛盾しない。矛盾しないことを知ったのが、17回目の大晦日の発見だ。
来年の大晦日も、一人でそばを食べるだろう。来年は何そばにしようか。少しだけ楽しみだ。この「少しだけ楽しみ」が、年越しそばが美味くなっている証拠だと思う。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。一人の大晦日を過ごしたことがある人は、きっと少なくないはずです。
