親の介護費用を親の年金から出している罪悪感について
年金通帳を見た日
父が倒れて要介護認定を受けたあと、母と一緒に介護費用の整理をした。
父の年金が月約15万円。母の年金が月約6万円。合計21万円。ここから、二人の生活費と父の介護費用を出す。
生活費。食費、光熱費、通信費、住居の維持費(持ち家だが固定資産税や修繕費がかかる)。月に約12万円。残り9万円。
介護費用。訪問介護、デイサービス、介護用品、通院費。月に約4万円から5万円。残り4万円から5万円。
ギリギリだが、なんとか回っている。父の年金と母の年金で、二人の生活と父の介護が成り立っている。
成り立っている。だがそれは、父のお金で父の介護をしているということだ。子どもである私と兄が、1円も出していない。出していないのは、出す余裕がないからだ。兄は住宅ローンと子どもの教育費で精一杯。私は自分の生活費で精一杯。どちらも「出せない」。
出せないことに対して、罪悪感がある。
罪悪感の構造
なぜ罪悪感を感じるのか。構造を分析してみる。
社会通念として、「親の面倒は子どもが看る」という価値観がある。親が年を取ったら、子どもが経済的にも物理的にも支える。親に育ててもらった恩を返す。この「恩返し」が、介護の倫理的な基盤になっている。
だが実際には、私は恩を返せていない。経済的な支援はゼロ。物理的な支援は月に一度の帰省と電話。恩を返すどころか、介護費用すら親自身の年金に頼っている。
これが罪悪感の源泉だ。「親のお金で親を介護している」という構図が、「子どもとしての務めを果たしていない」という自責につながる。
さらに、この罪悪感は二重構造になっている。一層目は「介護費用を出せない罪悪感」。二層目は「介護費用を出せないほど自分が経済的に弱い罪悪感」。つまり、介護費用を出せないことだけでなく、出せない状態の自分自身に対しても罪悪感がある。
この二重の罪悪感は、氷河期世代特有かもしれない。正社員として安定した収入がある子どもなら、親の介護費用の一部を負担することは可能だ。負担できれば、「子どもとしての務め」を形として果たせる。形を果たすことで、罪悪感は軽減される。
私には、その形が果たせない。形が果たせないことが、罪悪感をさらに重くする。
母の一言
ある帰省のとき、母にこの罪悪感を少しだけ漏らした。「介護のお金、何も出せなくてごめん」。
母は笑って言った。「何言ってるの。お父さんの年金で足りてるんだから、気にしないで。あなたは自分の生活をちゃんとしなさい」。
この言葉に、少し救われた。少し。だが完全には救われなかった。母の「気にしないで」は、本心かもしれないし、息子を気遣っての言葉かもしれない。本心で「気にしていない」のか、本心では「少しは助けてほしい」と思いながら言っているのか。母の内心は、母にしかわからない。
母の一言を額面通りに受け取れば楽になれる。だが額面通りに受け取ってしまうと、「親に甘えている」自分を許してしまうことになる。45歳にもなって、親のお金に頼っている。この事実を、「母が気にしないと言っているから」で済ませていいのか。
済ませてはいけない気がする。だが済ませないと、罪悪感に潰される。だから済ませる。済ませることを選ぶ。選んだうえで、罪悪感の残滓を引きずりながら生きる。
「親の金で親を介護する」のは非常識か
冷静に考えれば、「親の年金で親の介護費用を出す」のは、実は非常識ではない。
年金は、老後の生活と介護のためにある。長年保険料を払い続けた対価として、老後に給付を受ける。その給付を、自分の介護に使う。これは年金制度の本来の目的に沿っている。
子どもが介護費用を負担する義務は、法的には必ずしもない。民法上の扶養義務はあるが、「自分の生活を犠牲にしてまで」の扶養は求められていない。自分の生活が成り立たない場合は、扶養義務の範囲も限定される。
つまり、法的にも制度的にも、「親の年金で親の介護をする」のは問題ない。問題があるのは、私の内面——罪悪感——だけだ。法的に問題がないのに罪悪感を持つのは、社会通念の内面化だ。「子どもが親を養うべき」という規範が、内面に刻み込まれている。刻み込まれた規範に従えない自分を、責めている。
規範を手放せば楽になるか。手放せない。手放すことは、「子どもとしての責任を放棄する」ことのように感じられる。放棄はしたくない。放棄しないまま、でも実行もできない。このジレンマの中で、罪悪感を抱えながら過ごしている。
もし余裕があったなら
もし年収が500万円あったら。貯金が300万円あったら。月に3万円を親に仕送りできたら。
3万円の仕送りがあれば、親の介護費用の一部を自分で負担している、という実感が持てる。実感が持てれば、罪悪感は軽くなる。月3万円。年36万円。この金額で、自分の精神的な負担が大幅に軽減される。
だが月3万円の仕送りは、手取り16万円の生活では不可能だ。不可能なものは不可能。不可能を嘆いても、可能にはならない。
できることをする。金は出せないなら、手を動かす。帰省して家事を手伝う。介護の手続きを調べて母に伝える。ケアマネジャーとの連絡を代行する。電話で母の愚痴を聞く。これらは金がなくてもできることだ。
金の代わりに、時間と労力で返す。返している分だけ、罪悪感が少し減る。少しだけ。完全には消えないが、少しだけ。
介護費用の将来推計
今はギリギリ回っている。だが将来はどうか。
父の介護が長期化すれば、費用は増える。在宅介護から施設介護に移行すれば、費用は跳ね上がる。母自身が要介護になれば、二重の介護費用がかかる。
父の年金15万円+母の年金6万円=21万円。二人とも施設に入った場合、施設費用が一人月10万円としても、二人で20万円。残り1万円。生活費はゼロ。
足りない。足りない分は、誰が出すのか。兄か私か。あるいは生活保護に頼るのか。
この将来推計を、深夜のスマートフォンで何度も計算した。計算するたびに、数字が暗い。暗い数字を見つめるうちに、罪悪感が膨らむ。「自分がもっと稼いでいれば」「自分が正社員だったら」「自分が結婚していたら、配偶者の収入も合わせて」。タラレバが止まらない。
タラレバは無意味だ。過去は変えられない。変えられるのは、今からの行動だけだ。今からの行動として何ができるか。NISAの積立を続ける。できれば収入を増やす。介護保険制度について勉強する。使える制度をすべて使う。
これが、罪悪感への唯一の対処法だ。罪悪感を消すことはできない。だが行動することで、罪悪感と「行動している自分」のバランスを取る。行動していれば、「何もしていない自分」よりは、少しだけましだ。少しだけ。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。親の介護費用に対する罪悪感を抱えている人は、きっと少なくないはずです。

