「投票しても変わらない」と思いながら投票所に行く氷河期世代の政治との距離感

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「投票しても変わらない」と思いながら投票所に行く氷河期世代の政治との距離感

投票所の前で立ち止まる

選挙の日。投票所は近所の小学校。歩いて5分。投票所の前まで来て、毎回少し立ち止まる。「行くか、行くまいか」。この逡巡が、数秒間だけ発生する。数秒後、「まあ、来たんだから行くか」と体育館の入口をくぐる。

投票用紙に候補者の名前を書く。書きながら思う。「この一票に、意味はあるのだろうか」。自分の選挙区の候補者は5人。与党の候補者が圧倒的に強く、事実上の「当確」。私が誰に投票しても、結果は変わらないだろう。変わらない結果のために、日曜日の朝に小学校まで歩いてきた。

投票用紙を箱に入れる。入れた瞬間、達成感はない。虚しさもない。「やるべきことをやった」という淡白な感覚だけがある。義務を果たした。権利を行使した。それだけ。帰り道、コンビニでコーヒーを買う。130円。投票のあとのコーヒーが、選挙の日の唯一のご褒美だ。

氷河期世代と政治の距離

氷河期世代は政治に対して独特の距離感を持っている。その距離感の核にあるのは「無力感」だ。

就職氷河期の真っ只中にいた2000年代前半、政治は何をしてくれたか。企業のリストラを放置した。派遣法の規制を緩和して非正規を拡大した。「構造改革」の名の下に、セーフティネットを切り詰めた。これらの政策の結果、氷河期世代は「棄てられた世代」になった。棄てられた人間が、棄てた側の政治に期待を持てるだろうか。

2019年になって、ようやく「就職氷河期世代支援プログラム」が始まった。20年遅い。20年間放置した末の支援。遅すぎた支援は、ないよりはましだが、信頼を回復するには足りない。「あの20年間は何だったのか」という問いに対する回答は、まだ聞いていない。

この「棄てられた経験」が、政治への不信感と無力感の根源だ。「投票しても変わらない」「自分たちの声は届かない」「政治家は自分たちのことなど見ていない」。これらの思いが、投票率の低さに表れている。

それでも投票に行く理由

「投票しても変わらない」と思いながら、それでも投票に行く。行く理由を、自分なりに整理してみた。

理由1は「投票しないと文句を言えない」から。政治に不満がある。不満を表明する権利は、投票という行為で担保される。投票しない人間が「政治が悪い」と言っても、「じゃあ投票すればよかったのに」と返される。投票することで、文句を言う資格を維持する。消極的な動機だが、動機は動機だ。

理由2は「白票よりはマシ」だから。投票に行かないことは、現状を追認することに等しい。白票を入れることは、「どの候補者にも賛同しない」という意思表示だが、集計上は無効票として処理される。どんなに消極的でも、「この候補者がまだマシ」を選ぶことに意味がある。「ベスト」を選ぶのではなく「最悪を避ける」ための投票。消去法の投票。

理由3は「習慣」だから。20歳で選挙権を得てから、ほぼすべての選挙に行っている。行かなかった回もあるが、ほとんど行った。行くことが習慣になっている。習慣は、理由なく続く。歯磨きに理由がないように、投票にも理由はいらない。やるからやる。

理由4は「世代の声を数字に残したい」から。投票率のデータは、世代別に集計される。氷河期世代の投票率が低ければ、政治家は「この世代は票にならない」と判断し、氷河期世代向けの政策の優先度を下げる。逆に投票率が上がれば、「この世代を無視できない」という圧力になる。一票の効果は微小でも、世代全体の投票率に貢献する意味はある。

誰に投票するか——選択肢の貧しさ

投票に行く動機はあっても、「誰に投票するか」で困ることが多い。

候補者のポスターを見る。政見放送を見る。選挙公報を読む。だが氷河期世代の問題——非正規雇用、低年金、住居不安、孤独——を正面から取り上げている候補者は少ない。「子育て支援」「高齢者福祉」はよく見るが、「氷河期世代支援」を掲げる候補者は稀だ。

これは構造的な問題だ。政治家は票になる層にアピールする。高齢者は人口が多く投票率が高い。だから「高齢者福祉」は票になる。子育て世代は投票率がそこそこあり、メディアの注目も集めやすい。だから「子育て支援」は票になる。氷河期世代は人口は多いが投票率が低い。だから「氷河期世代支援」は票にならない。票にならないから政策に反映されない。反映されないから投票する気が起きない。起きないから投票率が下がる。下がるから政治家は無視する。悪循環だ。

この悪循環を断ち切るには、氷河期世代が投票に行くしかない。「投票しても変わらない」と思いながらも行く。行って、数字を積み上げる。数字が積み上がれば、政治家は無視できなくなる。変化は一回の選挙では起きないが、投票率が継続的に上がれば、いずれ変化が起きる可能性がある。

政治と「自分ごと」の距離

政治が「自分ごと」として感じられない理由の一つは、政策の効果が「見えにくい」からだ。

消費税が上がれば、財布の中身がリアルに減るから「自分ごと」だ。だが「就職氷河期世代支援プログラム」が実施されても、自分の生活がどう変わったかは見えにくい。「支援プログラムのおかげで就職できた」という実感がある人は、支援対象の中でも一部だろう。大半の氷河期世代は、「支援があったらしいが、自分には関係なかった」という感想だろう。

政策の恩恵が「自分に届いている」実感がなければ、政治は「自分ごと」にはならない。自分ごとにならなければ、投票へのモチベーションは上がらない。

だが政治が「自分ごと」でないように見えても、実は自分ごとだ。年金の制度設計、健康保険の負担率、最低賃金の水準、住宅セーフティネットの充実度。これらはすべて政治で決まる。政治の結果は、じわじわと生活に影響する。影響が「じわじわ」だから気づきにくいだけで、確実に影響している。

半額の惣菜の値段が上がったのは、物価高のせいだ。物価高は金融政策の結果だ。金融政策は政治で決まる。つまり、惣菜の値段は政治で決まっている。惣菜の値段が「自分ごと」なら、政治も「自分ごと」だ。このつながりに気づけるかどうかが、政治との距離を縮めるカギだ。

「無力感」との付き合い方

政治に対する無力感は、消えない。一票で世界が変わるわけではない。自分が投票した候補者が当選しても、自分の生活がすぐに良くなるわけではない。この現実を受け入れた上で、それでも投票に行く。

無力感と付き合うコツは、「期待しすぎない」ことだ。政治に「自分の人生を変えてもらう」ことを期待しない。期待すると、裏切られたときのダメージが大きい。期待しない代わりに、「最悪の事態を防ぐ」ことを目標にする。「この候補者が当選したら最悪だ」という候補者を落とすために投票する。ベストを求めるのではなく、ワーストを回避する。消極的だが、現実的だ。

投票以外にも政治参加の方法はある。パブリックコメント(政策案に対する国民の意見募集)に参加する。地元の議員の報告会に行く。SNSで政策について発信する。署名活動に参加する。これらの「小さな政治参加」の積み重ねが、いつか大きな変化を生むかもしれない。生まないかもしれない。だが何もしないよりはましだ。

「次の選挙」のために

次の選挙がいつ来るかわからない。来たとき、また投票所の前で立ち止まるだろう。「行くか、行くまいか」。数秒迷って、行くだろう。

投票用紙に名前を書く。書きながら思うだろう。「この一票に意味はあるのか」。意味はある。あると信じる。信じなければ、投票所まで歩く意味がない。信じることのコストはゼロだ。ゼロのコストで、一票の意味を信じる。

氷河期世代が投票に行けば、世代の投票率が上がる。投票率が上がれば、政治家は氷河期世代を無視できなくなる。無視できなくなれば、政策が変わるかもしれない。変わらないかもしれない。だが「変わるかもしれない」の可能性は、「投票しない」ときのゼロよりは高い。

ゼロよりまし。投票もまた、「ゼロよりまし」の一つ。投票所までの5分の散歩と、投票用紙に名前を書く30秒。このわずかな行動が、ゼロをゼロでなくする。ゼロでなくする行動を、積み重ねる。積み重ねることが、無力感への唯一の抵抗だ。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。投票に対して複雑な感情を持っている人は、きっと少なくないはずです。

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