同じ氷河期世代でも「正社員になれた人」との埋められない溝

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同じ氷河期世代でも「正社員になれた人」との埋められない溝

同期のA君の話

大学の同期にA君がいた。同じ学部、同じゼミ。就職活動も同じ時期にやった。2001年3月卒業。就職氷河期の真っ只中。

私は100社落ちた。A君は5社目で内定を取った。同じ大学、同じ学部、同じゼミ。だが結果は天と地ほど違った。A君は中堅メーカーの正社員になった。私はどこにも受からず、派遣社員になった。

あれから20年以上。A君と最後に会ったのは、10年前の同窓会だ。A君は課長に昇進していた。年収は600万円を超えていた。結婚して、子どもが二人いた。マンションを買ったと言っていた。ローンは35年。「大変だよ」と笑っていたが、その「大変」は余裕のある「大変」だった。

私は派遣社員のまま。年収300万円弱。独身。賃貸。貯金50万円。A君の前で自分の現状を語るのは辛かったが、聞かれたから答えた。答えたあとの、A君の微妙な表情。同情なのか、気まずさなのか、困惑なのか。何とも言えない表情だった。

あの同窓会以来、A君には会っていない。連絡先は知っているが、連絡していない。連絡する理由がない。連絡したら、近況を聞かれる。近況を答えたくない。答えれば、また「あの表情」を浮かべられる。あの表情を見たくない。

分岐点はどこにあったのか

A君と私の人生は、どこで分岐したのか。何が違ったのか。

能力の差? 大学の成績は私のほうがやや良かった。コミュニケーション能力? A君は社交的だったが、私も人見知りではなかった。容姿? どちらも平均的だった。

差があったとすれば、「就職活動のタイミングと運」だ。A君が内定を取った企業は、たまたまA君の出身地に工場があった。地元出身者を優先的に採用する方針があったらしい。私にはそのような「縁」がなかった。

100社落ちた私と、5社で決まったA君。この差は、能力の差ではなく、「運」の差だった可能性が高い。だが社会は「結果」で人を評価する。「正社員になれた人」は評価され、「なれなかった人」は評価されない。運が良かった人が評価され、運が悪かった人が切り捨てられる。これが氷河期の構造だ。

構造を嘆いても仕方がない。だが「運の差」が「人生の差」に拡大していく過程を、当事者として見てきた者にとって、この構造は理不尽としか言いようがない。

「溝」の内訳

A君と私の間にある「溝」を、具体的に数字で見てみる。

年収の溝。A君は年収600万円超。私は300万円弱。差額は年間300万円以上。20年間の累計差額は6000万円以上。6000万円。家が建つ。マンションが買える。老後の資金が十分に貯まる。この6000万円の差が、「正社員になれたかどうか」で決まった。

貯蓄の溝。A君は退職金制度がある。企業年金もある。個人の貯蓄も、年収600万円なら年間100万円以上の貯蓄が可能。20年で2000万円以上の貯蓄。私は貯金50万円。差額は少なくとも1950万円。

年金の溝。A君は厚生年金に20年以上加入。月の年金見込額は15万〜18万円程度(推定)。私は厚生年金の加入期間が短く(派遣の期間はあるが途切れている)、月の年金見込額は7万〜9万円程度。差額は月6万〜9万円。年間72万〜108万円。65歳から85歳までの20年間で、1440万〜2160万円の差。

住居の溝。A君はマンションを所有。ローンが終われば、住居費はほぼゼロ(管理費と固定資産税のみ)。私は賃貸。家賃を一生払い続ける。65歳から85歳まで家賃5万円×12ヶ月×20年=1200万円。

家族の溝。A君は妻と子ども二人。老後は家族に支えてもらえる可能性がある。私は独身。老後は一人。介護も一人。看取りも一人。

これらの溝を合計すると、「正社員になれたかどうか」の差は、生涯で1億円以上に達する可能性がある。1億円。同じ大学、同じ学部、同じゼミの二人に、1億円の差がつく。この差を「自己責任」で片づけるのは、あまりにも残酷だ。

溝の心理的な側面

数字の溝だけでなく、心理的な溝もある。

正社員になれたA君は、社会的な「承認」を得ている。正社員として20年間勤務。昇進。マイホーム。家族。これらは社会が「まっとうな人生」と認める要素だ。A君は社会に認められている。

正社員になれなかった私は、社会的な承認が乏しい。非正規。独身。賃貸。これらは社会が「不安定な人生」と見なす要素だ。私は社会に認められていない——少なくとも、A君と同じレベルでは。

この承認の差が、二人の関係に影を落とす。A君は善意の人だ。私を見下しているわけではない。だが二人の間には、見えない力学が働く。「成功した側」と「そうでない側」の力学。A君が何を言っても、私は「成功者の言葉」として受け取ってしまう。「頑張れよ」と言われれば「お前は頑張らなくても大丈夫だろう」と思う。「大変だな」と言われれば「お前に何がわかる」と思う。

これは私の問題だ。A君の善意を素直に受け取れない。受け取れないのは、嫉妬と劣等感が邪魔をしているからだ。嫉妬していることを認めるのは辛い。だが嫉妬している。A君が羨ましい。A君の人生を、自分のものにしたい。この感情を抱えたまま、A君と友情を維持するのは難しい。だからA君に連絡しない。連絡しないことで、溝はさらに深くなる。

「正社員になれた人」も苦しんでいる?

公平を期すために書いておく。正社員になれた氷河期世代も、楽ではないかもしれない。

氷河期に就職できた正社員は、企業にとって「買い手市場で獲得した安い人材」だった。同じ能力の人間が、バブル期なら大手企業に入れたかもしれない。氷河期だったから、中堅・中小にしか入れなかった。入社後も「氷河期入社は使えない」というレッテルを貼られ、バブル世代の先輩との比較で不利な評価を受けてきた可能性がある。

さらに、企業のリストラや業績悪化で、正社員でありながらリストラの対象になった人もいるだろう。正社員の座を守るために、過剰な残業やパワハラに耐えてきた人もいるだろう。正社員だから幸せ、とは限らない。

だがそれでも、「正社員であったこと」の恩恵——安定した収入、ボーナス、退職金、厚生年金、社会的な信用——は、非正規にはないものだ。正社員の苦しみと非正規の苦しみは、質が異なる。どちらが辛いかを比較しても意味はないが、「恩恵の有無」は客観的な事実として存在する。

溝を受け入れる

A君との溝は、埋まらない。埋まらないことを受け入れる。

受け入れるとは、「諦める」ことではない。「現実を直視した上で、自分の人生を生きる」ことだ。A君の人生はA君のもの。私の人生は私のもの。二つの人生を比較しても、どちらも変わらない。比較は、自分を苦しめるだけだ。

比較をやめることは難しい。20年以上の習慣だ。ふとした瞬間に、「A君は今頃」と考えてしまう。考えてしまったら、すぐに自分の生活に意識を戻す。「今日の夕食は何にしよう」「明日の仕事の準備をしよう」「NISAの積立額を確認しよう」。目の前のことに集中する。集中すれば、比較のループから抜け出せる。

溝がある。溝は深い。だが溝のこちら側には、こちら側の生活がある。もやし料理の23種類も、半額シールの技術も、300円のカフェの居心地の良さも、A君は知らない。知らないものには、価値がない——A君にとっては。だが私にとっては、これらが人生の中身だ。A君の人生にはA君の中身がある。私の人生には私の中身がある。

溝を受け入れて、自分の中身を大切にする。大切にすることが、溝を乗り越える唯一の方法だ。乗り越えるといっても、溝が消えるわけではない。溝はそのまま。だが溝のこちら側で、しっかりと立っている。立っていることが、私の勝利だ。勝利と呼ぶのは大げさかもしれないが、少なくとも敗北ではない。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。同世代との格差に苦しんだ経験がある人は、きっと少なくないはずです。

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