- はじめに——「横になった中国」と「立ち続けた日本」
- 第1章 「寝そべり族」とは何か——中国の若者に何が起きたか
- 第2章 「就職氷河期世代」とは何か——日本の若者に何が起きたか
- 第3章 「7つの共通点」——東アジアの2つの現象を貫く構造
- 第4章 「5つの決定的な違い」——同じに見えて、まるで違うもの
- 第5章 「20年の時差」——日本の氷河期世代は中国の寝そべり族の「未来」か
- 第6章 「もやし炒め」vs「外卖(ワイマイ)」——食から見る二つの低消費生活
- 第7章 「声を上げた中国」と「黙った日本」——抵抗の形の違い
- 第8章 「996」と「手取り16万円」——搾取の形の違い
- 第9章 「東アジア型競争社会」の構造的欠陥——なぜ日中で同じ問題が起きるか
- 第10章 「寝そべり」は「もやし炒め」から何を学べるか——日本の氷河期世代の教訓
- 第11章 「氷河期世代」は「寝そべり族」から何を学べるか——中国の若者の教訓
- 第12章 「解決策」はあるか——日中共通の処方箋
- 第13章 「もやし炒めの哲学」と「寝そべりの哲学」——二つの生存戦略を統合する
- 第14章 「発泡酒」と「白酒」——1日の終わりに飲むもので見る文化の差
- 第15章 「寝そべったニラ」と「立ち続けたもやし」——二つのメタファー
- 第16章 「親の期待」という共通の重圧——儒教文化圏のプレッシャー
- 第17章 「政治体制の差」がもたらす「問題の見え方」の違い
- 第18章 「2050年の東アジア」——寝そべり族と氷河期世代の25年後
- 結論——「東アジアの2つの絶望」は「2つの希望」でもある
はじめに——「横になった中国」と「立ち続けた日本」
2021年4月、中国のSNSに一つの投稿が現れた。「寝そべりこそ正義だ(躺平即是正義)」。投稿者は「年に1〜2ヶ月だけ働き、1日に2回安い飯を食えれば十分だ」と宣言した。この投稿は瞬く間に拡散し、「躺平(タンピン)」——寝そべり——は中国の若者を象徴する言葉になった。具体的には「住宅を買わない、車を買わない、恋愛しない、結婚しない、子供を作らない、消費は低水準」というポリシーであり、「最低限の生活を維持することで、資本家の金儲けの対象となって搾取される奴隷となることを拒否する」という宣言だった。
一方、日本では2001年頃から「就職氷河期世代」という言葉が使われ始めた。1993年〜2005年頃に大学を卒業した世代。求人倍率が1倍を下回り、正社員になれず、非正規雇用のまま20年以上を過ごした人が数百万人いる。彼らは「寝そべった」のではなく「立ち続けた」。手取り16万円で、もやし炒めを食べ、発泡酒を飲み、13社の派遣先を転々とし、それでも毎朝起きて出勤した。「立ち続けた」が「報われなかった」世代。
「横になった中国の若者」と「立ち続けた日本の中年」。この2つの現象は「まるで違うもの」に見える。中国の寝そべり族は「意図的に社会の競争から降りた」。日本の氷河期世代は「競争に参加したが椅子がなかった」。前者は「選択」。後者は「強制」。前者は「若者の反乱」。後者は「中年の疲弊」。だが——本当に「まるで違う」のか。
このエッセイでは、中国の寝そべり族と日本の就職氷河期世代を多角的に比較し、「表面的な違い」の奥にある「構造的な共通点」と「決定的な差異」を浮かび上がらせる。東アジアの2つの大国で、ほぼ同じ時期に「若者(または元若者)が社会のメインストリームから外れる」現象が起きている。これは「偶然」ではなく「必然」であり、その背景には「東アジア型競争社会の構造的な欠陥」がある。
第1章 「寝そべり族」とは何か——中国の若者に何が起きたか
寝そべり族(躺平族)とは、中国の若者の一部に見られる、競争社会を忌避し、住宅購入などの高額消費、結婚・出産を諦めるライフスタイルだ。社会的なプレッシャーによる過労を強いる長時間労働——いわゆる「996工作制」(朝9時から夜9時まで週6日勤務)——を拒否し、代わりに低欲望を選び、立身出世や物質主義に対して無関心の態度を取ることを選択した。
中国の若者が「寝そべる」に至った背景を整理する。背景1は「過剰な競争社会(内巻)」。中国の大学入試「高考」を通じてトップレベルの「985大学」に合格できるのは、受験者全体のわずか1.65%にすぎない。高校までの受験競争を勝ち抜いても、大学に入ってからさらに競争が待っている。2023年の調査によれば、90.3%の大学生が「自分の環境は競争が激しい」と感じており、学業で遅れを取ることを恐れている学生は86.2%に上る。この「内巻(ネイジュエン)」と呼ばれる過剰な競争が若者を消耗させている。
背景2は「大卒者の急増と就職難」。中国では2000年代以降、高等教育が大幅に拡大した。大学卒業者は2000年の約100万人から2023年には約1160万人に急増。だが「大卒にふさわしい仕事」は同じペースでは増えなかった。若年失業率は上昇傾向をたどり、2023年6月に旧基準で21.3%と過去最高に達した。大学を出ても仕事がない。あっても「996」の過酷な労働。「こんなに勉強して、こんなに苦しい仕事をして、それでも家が買えない。なら寝そべったほうがマシだ」。
背景3は「住宅価格の高騰」。中国の都市部では住宅価格が年収の数十倍に達している。深圳では平均住宅価格が年収の40倍以上。「40年分の年収を全額住宅に投じても家が買えない」。住宅は中国では「結婚の前提条件」(男性側が住宅を用意する文化がある)であり、「家が買えない=結婚できない=人生の主要なマイルストーンが達成できない」。ならば——寝そべる。
背景4は「政府の締め付けと表現の制限」。中国共産党政権は寝そべり族を「社会の発展を阻害する」として問題視しており、習近平総書記も「共同富裕」に反すると批判している。SNS上の寝そべり関連の投稿は検閲され、削除されることがある。「声を上げることもできない」状況が「声を上げない(寝そべる)」選択を加速させた。「寝そべったニラは刈り取りにくい」というキャッチフレーズが生まれた。ニラは何度でも収穫できる作物であり、「支配者に搾取される庶民」を隠喩する。寝そべれば搾取されにくい。これが寝そべりの「戦略的合理性」だ。
そして2025年現在、寝そべり族はさらに進化している。「低エネルギーネズミ人」と呼ばれる新たな現象が2024年末から2025年にかけて爆発的に広がった。TikTok(中国では抖音)では関連ハッシュタグの再生回数が億回超えだらけであり、ネット全体の閲覧数は20億回近くに達している。寝そべり族よりさらに「低エネルギー」で、自分を自虐的にからかいながら「こんな生き方でもいいじゃないか」と開き直る若者たち。寝そべりは「抵抗」だったが、ネズミ人は「受容」に近い。「もう抵抗する気力すらない。ネズミのように暗いところでひっそり暮らす」。
第2章 「就職氷河期世代」とは何か——日本の若者に何が起きたか
就職氷河期世代。1993年〜2005年頃に大学を卒業した世代。バブル崩壊後の長期不況で企業が新卒採用を大幅に絞り、「大学を出ても就職できない」状態が10年以上続いた。求人倍率は2000年に0.99倍を記録。100人の学生に対して99の椅子。1人は座れない。座れなかった人間が非正規雇用に流れ、20年以上が経過した今も「非正規のまま」の人が約371万人いるとされる。
氷河期世代の特徴を整理する。特徴1は「新卒一括採用の犠牲者」。日本独特の「22歳の1回のチャンスにすべてが賭けられる」システムの犠牲者。22歳で正社員になれなければ「やり直しが効かない」構造。中国の寝そべり族が「競争から降りた」のに対し、氷河期世代は「競争に参加したが椅子がなかった」。降りたのではなく「落とされた」。
特徴2は「非正規雇用の固定化」。派遣社員として働き始め、3ヶ月〜2年で契約が終了し、次の派遣先に移る。これを20年以上繰り返す。手取り14〜17万円。ボーナスなし。退職金なし。昇給はほぼなし。正社員との生涯賃金の差は約4000〜5000万円。
特徴3は「自己責任論の被害者」。「就職できないのは努力が足りない」「非正規なのは自分の選択」。この自己責任論が20年以上にわたって氷河期世代を苦しめてきた。政策的な支援が始まったのは2019年——氷河期世代が40代になってからだ。20年遅い。
特徴4は「声を上げなかった(上げられなかった)世代」。中国の寝そべり族はSNSで「寝そべりこそ正義だ」と宣言し、ミームを生み出し、社会運動に近い動きを見せた。日本の氷河期世代は——声を上げなかった。デモをしなかった。SNSで運動を起こさなかった。「自己責任」を内面化し、「自分が悪い」と思い込み、黙って耐えた。「黙って耐える」は日本の文化的な特性でもあるが、結果として「社会的な可視化」が遅れ、政策対応が20年遅れた一因になった。
第3章 「7つの共通点」——東アジアの2つの現象を貫く構造
寝そべり族と氷河期世代は「表面的には違う」が「構造的には驚くほど似ている」。7つの共通点を示す。
共通点1は「学歴と就職のミスマッチ」。中国の寝そべり族の多くは「大学卒業者」だ。激しい教育競争の「勝者」だったにもかかわらず、大学に入ってからの現実に幻滅し、寝そべりの一員になった。「大学を出ても良い仕事がない」。日本の氷河期世代もまったく同じだ。「大学を出れば就職できる」と信じて4年間勉強した。出口で待っていたのは「不採用」。「学歴が通用しない」絶望。学歴と就職のミスマッチは東アジアの教育熱心な社会に共通する構造的問題。
共通点2は「住宅の取得困難」。中国では住宅価格が年収の数十倍。日本でも都市部の住宅価格は上昇傾向にあり、手取り16万円の派遣社員が住宅ローンを組むことは不可能。「家が買えない」。中国では「家がなければ結婚できない」。日本では「住宅ローンの審査に通らない」。表現は違うが「住宅を持てない」結果は同じ。そして住宅が持てないことは「人生の次のステージ(結婚・家庭)に進めない」ことを意味する。
共通点3は「結婚・出産の断念」。中国の寝そべり族は「結婚しない、子供を作らない」を明言している。日本の氷河期世代は「結婚したかったができなかった」人が多い。「意図的に断念した」中国と「状況的に不可能だった」日本。動機は異なるが結果は同じ——未婚・少子化の加速。中国の出生率は2023年に約1.0に低下。日本の合計特殊出生率は2023年に1.20。東アジアの「少子化危機」の一因が「若者が結婚・出産できない(しない)構造」にある。
共通点4は「過剰な競争社会への疲弊」。中国の「内巻」。日本の「新卒一括採用+年功序列+成果主義の混在」。どちらも「過剰な競争」を強いる社会構造であり、「競争に勝てない者」を「敗者」として排除する。敗者は中国では「寝そべる」。日本では「非正規雇用に固定される」。「敗者の行き先」は異なるが「競争からの脱落」という点で共通。
共通点5は「自己責任論の蔓延」。中国でも「寝そべるのは怠惰だ」「努力が足りない」「共同富裕に貢献しろ」という批判がある。日本でも「就職できないのは努力が足りない」「非正規は自分の選択」。両国とも「構造の問題」を「個人の問題」にすり替える自己責任論が蔓延している。自己責任論は「政策の不作為を正当化するイデオロギー」として機能する点でも共通。
共通点6は「低消費のライフスタイル」。寝そべり族は「低水準の消費」を掲げている。氷河期世代は「低水準の消費を強いられている」。もやし炒め60円。発泡酒135円。100均。半額シール。中国の寝そべり族もまた「最低限の食事」「安い宿泊先」「消費を控える生活」を実践している。「低消費」は中国では「抵抗のスタイル」であり、日本では「サバイバルのスキル」。動機は違うが「生活コストを最小化する技術」は共通。
共通点7は「社会の「見えない存在」になる」こと。寝そべり族は「社会のメインストリームから消える」。氷河期世代は「政策の対象として見えなかった(2019年まで)」。両者とも「社会から不可視化された存在」だ。不可視であることは「助けが来ない」ことを意味する。見えなければ支援もない。「見えない存在」にさせた社会の構造が、問題の解決を遅らせている。
第4章 「5つの決定的な違い」——同じに見えて、まるで違うもの
共通点が多い一方で「決定的な違い」もある。この違いこそが「2つの現象の本質」を浮かび上がらせる。
違い1は「選択か強制か」。中国の寝そべり族は「意図的に競争から降りた」。「降りる」は能動的な選択だ。「働ける仕事はある。だがその仕事を拒否する」。「996で働くことはできる。だが996を拒否する」。日本の氷河期世代は「競争に参加したが椅子がなかった」。受動的な結果だ。「正社員になりたかった。100社受けた。すべて落ちた。派遣社員になるしかなかった」。「降りた」のではなく「落とされた」。選択と強制の差。この差は「自己認識」に影響する。寝そべり族は「自分で選んだ」という自負がある。氷河期世代は「選ばされた」という屈辱がある。
違い2は「年齢」。寝そべり族は主に「20代〜30代前半」の若者だ。「これからの人生」が長い。「寝そべりを辞めて立ち上がる」選択肢がまだある。氷河期世代は「40代半ば〜50代」の中年だ。「これからの人生」は短くなっている。「立ち上がる」には「もう遅い」場合がある。年齢の差は「希望の量」の差でもある。若者は「まだ間に合う」と思える。中年は「もう間に合わないかもしれない」と感じる。
違い3は「社会的な発信力」。寝そべり族はSNSで社会運動に近い動きを見せた。「寝そべりは正義だ」のミームが拡散し、カウンターカルチャーの一部と評された。日本の氷河期世代は——ミームを生まなかった。社会運動を起こさなかった。デモをしなかった。ハッシュタグすら作らなかった。「黙って耐える」文化が「社会的な可視化」を妨げた。結果、中国では「寝そべり族」が社会問題として瞬時に認知され、政府が対応に動いた(弾圧も含めて)。日本では氷河期世代の問題が「20年間放置された」。「声を上げること」の効果が、2つの国の対応速度の差に表れている。
違い4は「政府の反応」。中国政府は寝そべり族を即座に問題視し、検閲や批判を行った。政府の反応は「弾圧」だったが「認知は早かった」。日本政府の反応は「20年間の無視→2019年にようやく氷河期世代支援プログラムを開始」。弾圧は悪だが「無視」もまた悪だ。「弾圧される者」は少なくとも「存在を認められている」。「無視される者」は「存在すら認められていない」。どちらがマシかは難しい問いだが、「無視された20年間」のダメージは計り知れない。
違い5は「精神的スタンス」。寝そべりを支持する中国の若者は社会的に孤立しておらず、経済的物質主義よりも心の健康を優先させることを選択している。つまり寝そべりは「積極的な選択」であり「精神的な健全さの確保」の側面がある。「無理して働いて心を壊すくらいなら、寝そべって心を守る」。一方、日本の氷河期世代は「無理して働いて心を壊した」人が少なくない。「行きたくないけど行かないとクビになる」「辛いけど辞めたら次がない」。「心を守るために降りる」選択肢を持てなかった(または持たなかった)。この差は「自己防衛の戦略」の差であり、「精神的健康の維持」においては寝そべり族のほうが「合理的」だったとも言える。
第5章 「20年の時差」——日本の氷河期世代は中国の寝そべり族の「未来」か
中国の寝そべり族は2021年に「誕生」した。主に20〜30代前半の若者だ。日本の就職氷河期世代は2001年頃に「誕生」した(社会問題として認知され始めた)。当時20代前半だった。つまり「約20年の時差」がある。日本の氷河期世代は「20年前に中国の寝そべり族と同じ年齢だった」。そして「20年後の今、寝そべり族が将来なりうる姿」を体現している。
20年前の日本の氷河期世代(22〜25歳の頃)。正社員になれない。非正規雇用。手取り14万円。「いつか正社員になれる」と思っていた。「努力すれば報われる」と信じていた。寝そべらなかった。立ち続けた。
20年後の日本の氷河期世代(42〜45歳の今)。「正社員になれなかった」。手取り16万円。貯金220万円。独身。子どもなし。「努力しても報われなかった」。立ち続けた結果が「これ」。
中国の寝そべり族が「20年後」にどうなるか。もし中国の構造的問題(過剰競争、住宅高騰、就職難)が解決しなければ——日本の氷河期世代と同じ道を辿る可能性がある。「20代で寝そべった若者」が「40代で寝そべり続ける中年」になる。あるいは「寝そべりを辞めて立ち上がろうとしたが、もう手遅れ」の中年になる。日本の氷河期世代は「中国の寝そべり族の20年後のシミュレーション」であり、「こうなりたくなければ、今のうちに構造を変えろ」という警告だ。
逆に言えば、中国の寝そべり族は「日本の氷河期世代の20年前のバージョン」であり、「日本が20年間失敗した対策を、中国が今から正しくやれるか」の試金石だ。日本は「20年間放置した」。中国は「即座に弾圧した」。どちらも「正しい対策」とは言えない。「放置」は問題を悪化させ、「弾圧」は問題を隠蔽する。必要なのは「構造的な改革」——雇用の多様化、住宅政策、セーフティネットの拡充——であり、日本も中国もこの「構造的改革」に本気で取り組んでいるとは言い難い。
第6章 「もやし炒め」vs「外卖(ワイマイ)」——食から見る二つの低消費生活
氷河期世代の食卓は「もやし炒め」が象徴する。1食60円。自炊。23年間で2808回。一方、中国の寝そべり族(特に進化形の「ネズミ人」)の食卓は「外卖(ワイマイ。デリバリー)」が象徴する。ある「ネズミ人女子」の日常は、朝11時過ぎに起床し、午後に宅配食を注文して食べ、それからもう一度寝るというものだ。
「もやし炒め」と「外卖」の差は「自炊するかしないか」であり、これは「低消費生活の質」に影響する。もやし炒めは「自分で作る」行為。作る過程に「創造性」がある。味付けを変える楽しみがある。「120通りのバリエーション」が生まれる。外卖は「誰かが作ったものを注文する」行為。便利だが「創造性」がない。「ボタンを押すだけ」。
さらに「コスト」が違う。もやし炒め1食60円。中国の外卖は1食15〜30元(約300〜600円相当)。もやし炒めのほうが「5〜10倍安い」。低消費を極めるなら「自炊」のほうが合理的。だが自炊には「キッチンがある住居」「調理器具」「食材を買いに行く行動力」が必要であり、「低エネルギー」状態の寝そべり族(ネズミ人)にはこのハードルが高い。「自炊する気力がないから外卖にする→外卖は高い→お金が減る→もっと低消費にしなければ→でも自炊する気力がない」。寝そべりの「低エネルギー」が食費を押し上げる皮肉。
氷河期世代は「低消費を強いられた結果、自炊スキルを身につけた」。寝そべり族は「低消費を選択したが、自炊スキルは身につけていない場合が多い」。「強制された低消費」が「スキル」を育て、「選択された低消費」が「スキル」を育てない。これは「損の中から得が生まれるメカニズム」(氷河期世代は損ばかりしているのか参照)の好例だ。「強制された困難」は「対処のスキル」を鍛える。「自分で選んだ困難」は「困難を避けるスキル」を鍛えるが「困難に対処するスキル」は鍛えない。
第7章 「声を上げた中国」と「黙った日本」——抵抗の形の違い
中国の寝そべり族は「声を上げた」。SNSで「寝そべりこそ正義だ」と宣言した。ミームを作った。カウンターカルチャーを形成した。政府がわざわざ「弾圧」するほどの影響力を持った。「寝そべり」は「社会に対するメッセージ」であり「政治的な行為」でもあった。
日本の氷河期世代は「黙った」。声を上げなかった。デモをしなかった。「寝そべりこそ正義だ」に相当するスローガンすら生まれなかった。なぜか。
理由1は「自己責任論の内面化」。「就職できないのは自分のせいだ」「非正規なのは自分が努力しなかったからだ」。この自己責任論を「社会に言われた」だけでなく「自分自身が信じてしまった」。「社会のせいにするのは甘えだ」と自分で思い込んだ。結果、「声を上げる=甘えている」と感じ、黙った。中国の若者は「内巻(過剰競争)のせいだ」「996のせいだ」と「構造の問題」を明確に認識している。自己責任論に「負けていない」。この差が「声を上げるか黙るか」の差を生んだ。
理由2は「集団行動の文化の差」。中国では(政治的に制限があるものの)「集団的な不満の表明」が歴史的に存在する。天安門事件。労働争議。ストライキ。「不満があれば声を上げる」文化的な土壌がある(政府がそれを弾圧するかどうかは別として)。日本では「和を以って貴しとなす」の文化が深く根付いている。「不満があっても我慢する」「周囲に迷惑をかけない」「目立つ行動は避ける」。この文化が「声を上げること」のハードルを極めて高くしている。
理由3は「孤立」。氷河期世代は「孤立している」。派遣先を転々とするため「仲間」ができにくい。「同じ境遇の人」と「出会う場」がない。「仲間がいない」状態で「声を上げる」のは心理的に極めて困難。中国の寝そべり族はSNSで「同じ考えの仲間」と瞬時につながった。「仲間がいる」安心感が「声を上げる勇気」を後押しした。日本の氷河期世代は「SNS時代以前に問題が固定化されてしまった」ため「仲間とつながるタイミングを逃した」。
「声を上げたこと」の効果はどうか。中国では——政府が弾圧した。だが同時に「社会的な認知」は得られた。「寝そべり族」は今や国際的に知られる概念であり、中国社会の問題を象徴する言葉になった。日本では——声を上げなかったので認知が遅れた。政策が20年遅れた。「黙っていた代償」は「20年間の放置」として返ってきた。「声を上げれば弾圧されるリスク」と「声を上げなければ放置されるリスク」。どちらが「マシ」かは状況次第だが、「認知されること」の重要性は明らかだ。
第8章 「996」と「手取り16万円」——搾取の形の違い
中国の若者が反発する「996」(朝9時〜夜9時、週6日勤務)と、日本の氷河期世代の「手取り16万円」。どちらも「労働者の搾取」だが、搾取の形が異なる。
996は「時間の搾取」。1日12時間×週6日=週72時間。「体と心の時間をすべて仕事に奪われる」。給料はそれなりに出る(中国のIT企業の若手は月1万〜3万元。約20万〜60万円相当)。だが「使う時間」がない。「お金はあるが時間がない」。
手取り16万円は「お金の搾取」。1日8時間×週5日=週40時間。時間は「普通」。だが給料が「足りない」。「時間はあるがお金がない」。
「時間がない中国の若者」と「お金がない日本の中年」。どちらも「搾取されている」が、搾取されているものが異なる。中国の若者は「時間を取り戻すために寝そべった」。日本の氷河期世代は「お金を少しでも増やすために立ち続けた」。
興味深いのは「寝そべった中国の若者」のほうが「精神的には健全」な場合があること。寝そべりを支持する若者は社会的に孤立しておらず、心の健康を優先させている。一方、「立ち続けた日本の氷河期世代」は精神的に消耗している。メンタルヘルスの問題を抱えている人が多い。「搾取に抵抗した者」のほうが「搾取に耐え続けた者」より精神的に健全。これは「抵抗すること」の心理的価値を示している。「No」と言えることは「精神の防衛線」であり、「No」と言えなかった(言わなかった)氷河期世代は「防衛線を持てなかった」。
第9章 「東アジア型競争社会」の構造的欠陥——なぜ日中で同じ問題が起きるか
日本と中国で「ほぼ同じ問題」が起きている理由は「東アジア型競争社会の構造的欠陥」にある。この欠陥を3つに整理する。
欠陥1は「教育と雇用のギャップ」。東アジア(日中韓)は「学歴社会」だ。「良い大学に入れば良い仕事に就ける」が信仰されている。だが「良い大学」の定員は限られ、「良い仕事」はさらに限られている。大学進学率が上がるほど「大卒の価値」が希薄化し、「大学を出ても良い仕事がない」状態が生まれる。中国では大卒者が年間1160万人。日本では大卒者が年間約57万人。「大卒者の洪水」が「良い仕事」の供給を上回っている。
欠陥2は「住宅がゲートキーパーになっている」。東アジアでは「住宅を持つこと」が「一人前の大人の証」とされる。中国では「結婚に住宅が必須」。日本では「住宅ローンが組める=社会的信用がある」。住宅が「社会的ステータスのゲートキーパー(門番)」になっているため、住宅を持てない者は「社会の主流から排除される」。住宅価格が上昇すればするほど「排除される者」が増える。
欠陥3は「セーフティネットの脆弱さ」。日本の生活保護は「申請のハードルが高い」「スティグマ(恥の意識)がある」。中国の社会保障は「都市戸籍と農村戸籍の格差」「非正規雇用者のカバー率の低さ」。東アジアの社会保障制度は「正規雇用の労働者」を前提に設計されており、「非正規」「失業者」「フリーランス」「寝そべり族」を十分にカバーしていない。セーフティネットの網の目が粗いため「落ちた者」は「底なしに落ちる」。
これらの欠陥は「東アジア共通」であり、韓国の「ヘル朝鮮」「N放世代」(恋愛、結婚、出産、就職、マイホーム等をN個諦めた世代)も同根の現象だ。中国の「寝そべり族」と韓国の「ただ休んでるだけ」現象は、努力が報われにくい社会構造に対するリアクションであり、単なる怠惰ではなく合理的な防衛策でもある。
第10章 「寝そべり」は「もやし炒め」から何を学べるか——日本の氷河期世代の教訓
中国の寝そべり族が「日本の氷河期世代の経験」から学べることがある。
教訓1は「寝そべり続けると、20年後に取り返しがつかなくなる」。日本の氷河期世代は「寝そべった」わけではないが「非正規雇用に固定された結果」を20年間体験した。45歳で貯金220万円。年金が少ない。退職金なし。「20年間の非正規雇用が老後に直結する」。寝そべり族が「年に1〜2ヶ月だけ働く」生活を20年続ければ——年金はゼロに近く、貯蓄もゼロに近く、45歳になったときに「立ち上がろうとしても体力も技能もない」。日本の氷河期世代が「立ち続けた」からこそ(不十分ながらも)220万円の資産がある。「寝そべり続けた場合の20年後」は氷河期世代の220万円すら持っていない可能性がある。
教訓2は「自炊スキルは一生の財産」。もやし炒めを覚えた氷河期世代は「月1万5000円の食費で栄養バランスの取れた食事を維持する能力」を持っている。この能力は「収入が低い限り永遠に使える」。寝そべり族が「外卖に頼り続ける」なら、この能力を身につける機会を逃す。「寝そべりながらでもいいから、もやし炒めの作り方を覚えろ」。これが日本の氷河期世代から寝そべり族への、最も実践的なアドバイスだ。
教訓3は「NISAのような資産形成を1日でも早く始めろ」。日本の氷河期世代がNISAを始めたのは38歳。「22歳から始めていれば——」の後悔がある。寝そべり族は今20代。「今から始めれば、20年後に大きな差になる」。中国にも「基金定投」(投資信託の定期積立)の仕組みがある。月100元(約2000円)でもいい。「寝そべりながらでもスマートフォンで積立設定はできる」。寝そべりと資産形成は「両立する」。
教訓4は「声を上げ続けろ」。日本の氷河期世代が「黙った」結果、政策が20年遅れた。中国の寝そべり族は「声を上げた」。弾圧されたが認知は得た。「声を上げ続けること」が「社会を変える唯一の方法」であり、「黙れば放置される」が日本の教訓。
第11章 「氷河期世代」は「寝そべり族」から何を学べるか——中国の若者の教訓
逆に、日本の氷河期世代が中国の寝そべり族から学べることもある。
教訓1は「Noと言う勇気」。寝そべり族は「996にNo」と言った。「過剰競争にNo」と言った。「割に合わない労働にNo」と言った。日本の氷河期世代は「No」と言えなかった(言わなかった)。「ブラックな派遣先でもNoと言えない」「理不尽な契約でもNoと言えない」「自己責任と言われてもNoと言えない」。「Noと言える力」は「精神的な防衛力」であり、氷河期世代に最も欠けている能力かもしれない。
教訓2は「心の健康を最優先にする」。寝そべり族は「心の健康を経済的物質主義より優先させる」ことを選択した。日本の氷河期世代は「心の健康を犠牲にして働き続けた」。結果、メンタルヘルスの問題を抱えている人が多い。「心が壊れたら、もやし炒めも作れない」「心が壊れたら、NISAの積立もできない」。「心を守ることが、すべてを守ること」。この優先順位の認識は寝そべり族から学ぶべきだ。
教訓3は「仲間とつながること」。寝そべり族はSNSで「同じ考えの仲間」と瞬時につながった。氷河期世代は「孤立した」。「孤立は孤独死のリスクを高め、メンタルヘルスを悪化させ、情報を遮断する」。SNSで「同じ境遇の人」とつながる。「#氷河期世代」のハッシュタグで発信する。「仲間がいる」と知るだけで精神的な負荷が軽減される。
教訓4は「ユーモアで語る」。寝そべり族はミームを作り、ユーモアで社会を風刺した。「低エネルギーネズミ人」は自分をからかいながらユーモアを交えて今の状況を受け入れている。日本の氷河期世代は「深刻に語りすぎた」(このエッセイも含めて)。「もやし炒め2808回」を「深刻な生存の記録」として語るのもいいが、「2808回もやし炒めを作った自分、ギネスに申請できるんじゃないか」とユーモアで語ったほうが「社会に届きやすい」。深刻さは「共感」を生むが、ユーモアは「拡散」を生む。拡散が「認知」を生み、認知が「政策」を動かす。
第12章 「解決策」はあるか——日中共通の処方箋
寝そべり族と氷河期世代の問題に「共通の処方箋」はあるか。
処方箋1は「雇用の多様化」。「新卒一括採用」(日本)「996」(中国)という「画一的な働き方」から「多様な働き方」への転換。通年採用。リモートワーク。フレックスタイム。副業の解禁。ジョブ型雇用。「一つの型に当てはまらない人」が「排除されない社会」を作る。
処方箋2は「住宅政策の抜本的改革」。住宅を「投資対象」ではなく「住む場所」として位置づける。公営住宅の拡充。家賃補助制度。住宅取得支援(低金利ローン、頭金補助)。「家が買えなくても、安心して住める社会」。
処方箋3は「セーフティネットの拡充」。非正規雇用者、フリーランス、寝そべり族を含む「すべての国民」をカバーする社会保障制度。失業保険の拡充。最低所得保障。職業訓練の無料化。「落ちても底がある社会」。底があれば「落ちることへの恐怖」が減り、「挑戦する勇気」が生まれる。
処方箋4は「教育と雇用のミスマッチ解消」。大学教育の内容を「社会が必要とするスキル」に合わせる。職業訓練校の拡充。大学の定員の適正化。「全員が大学に行く必要はない」「大学を出なくても就ける良い仕事がある」社会の構築。
処方箋5は「自己責任論の克服」。「就職できないのは個人の問題ではなく社会の構造の問題」「非正規雇用の拡大は政策の結果」。この認識を社会全体で共有する。自己責任論は「社会の怠慢を正当化するイデオロギー」であり、克服しなければ「構造改革への政治的意思」が生まれない。
これらの処方箋は「言うは易く行うは難し」だ。日本も中国も「実行」には至っていない。だが「処方箋がある」と知ることは「希望」であり、「処方箋を社会に求め続けること」が個人にできる行動だ。投票。SNSでの発信。パブリックコメント。「構造を変えろ」と言い続けること。言い続けなければ、20年後も同じ問題が存在する。日本が証明している。
第13章 「もやし炒めの哲学」と「寝そべりの哲学」——二つの生存戦略を統合する
もやし炒めの哲学。「安いもので満足する能力」「自分で作る喜び」「繰り返しの中に変化を見つける力」「感謝の能力」。これは「立ち続けた者の哲学」であり「サバイバルの知恵」だ。
寝そべりの哲学。「Noと言う勇気」「心の健康を優先する」「過剰な競争から降りる合理性」「ユーモアで語る力」。これは「降りた者の哲学」であり「抵抗の知恵」だ。
この2つの哲学を統合すれば「最強の生存戦略」が生まれるのではないか。
「もやし炒め×寝そべり」の統合哲学。「過剰な競争からは降りる(寝そべりの知恵)。だが完全には寝そべらない。月に数万円を稼ぎ、もやし炒めを作り、NISAに月5000円積み立てる(もやし炒めの知恵)」。「996は拒否する(寝そべりの知恵)。だが週20時間のパートで最低限の収入を得る(もやし炒めの知恵)」。「社会の主流から外れても心は守る(寝そべりの知恵)。外れた場所から社会に声を上げ続ける(寝そべりの知恵+もやし炒めの知恵)」。
完全な寝そべりは「20年後に取り返しがつかなくなるリスク」がある。完全な立ち続けは「心を壊すリスク」がある。両方のリスクを避けるのが「半分寝そべり、半分立つ」戦略。「寝そべりながらもやし炒めを作る」。この一見矛盾したスタイルが「東アジアの若者(および元若者)の最適な生存戦略」かもしれない。
第14章 「発泡酒」と「白酒」——1日の終わりに飲むもので見る文化の差
日本の氷河期世代の「1日の終わりの一杯」は「発泡酒」(135円)。中国の寝そべり族の「1日の終わりの一杯」は——何だろうか。白酒(バイジュウ。中国の蒸留酒)か。ビールか。奶茶(ナイチャ。タピオカミルクティー)か。
「ネズミ人女子」の日常では夕方にタピオカミルクティーを注文して飲んでいた。奶茶は中国の若者の「ソウルドリンク」であり、1杯15〜30元(約300〜600円)。発泡酒135円の2〜4倍の価格。「低消費」を掲げながらも「奶茶だけは譲れない」若者が多い。これは日本の氷河期世代が「発泡酒だけは定価で買う」のと同じ心理だ。「すべてを切り詰めても、1日の終わりの1杯だけは守る」。この「1杯」は「自分への最低限のご褒美」であり「精神の防衛ライン」だ。
発泡酒と奶茶。アルコールとノンアルコール。「疲れを忘れるために飲む」日本と「小さな幸福を味わうために飲む」中国。動機は微妙に違うが「1杯の持つ心理的機能」は共通。「135円(または300円)の液体が、1日の苦しさを和らげてくれる」。この「1杯の救い」を知っている人間同士は、国境を越えて「わかり合える」かもしれない。
第15章 「寝そべったニラ」と「立ち続けたもやし」——二つのメタファー
「寝そべったニラは刈り取りにくい」(躺平的韭菜不好割)。ニラは何度でも収穫できる作物であり、「支配者に搾取される庶民」を隠喩する。「寝そべれば搾取されにくくなる」。これが寝そべり族のメタファー。
日本の氷河期世代のメタファーは何か。「もやし」ではないか。もやしは「最も安い野菜」であり「最も地味な存在」だ。だが「どんな料理にも合う」「どんな環境でも育つ」「安くても栄養がある」。もやしは「目立たないが、なくてはならない存在」だ。氷河期世代も「目立たないが、社会を底辺から支えている存在」だ。派遣社員として事務処理を担い、コンビニで働き、介護現場で汗を流す。「なくてはならないのに、存在を認められない」。もやしと同じだ。
「寝そべったニラ」は「刈り取られまい」とする。「立ち続けたもやし」は「刈り取られ続けている」が「何度でも生えてくる」。ニラもまた「何度でも収穫できる」。もやしもまた「何度でも袋詰めされてスーパーに並ぶ」。どちらも「しぶとい」。しぶとさこそが「寝そべり族」と「氷河期世代」の共通の強さだ。
「しぶとさ」は「美学」にはなりにくい。「華やかな成功」は讃えられるが「地味なしぶとさ」は無視される。だが「しぶとく生き延びること」は「華やかに成功すること」と同等の偉業だ。いや、「環境が不利な中でしぶとく生き延びること」は「環境に恵まれた中で成功すること」よりも「困難度が高い偉業」だ。もやし炒め2808回。手取り16万円で23年間。これは「偉業」だ。寝そべり族が996を拒否し、最低限の生活で心を守り続けること。これもまた「偉業」だ。
第16章 「親の期待」という共通の重圧——儒教文化圏のプレッシャー
日中両国で「若者を苦しめるもの」の一つに「親の期待」がある。中国では「望子成龍(息子が龍になることを願う)」という成語があり、親が子どもに「出世」「成功」「豊かな生活」を強く期待する。日本でも「いい大学に入りなさい」「公務員になりなさい」「安定した仕事に就きなさい」という親の言葉が、氷河期世代を圧迫してきた。
中国の寝そべり族の「反乱」は「親の期待への反乱」でもある。「あなたたちの期待通りの人生は送れない。送る気もない」。寝そべりは「親孝行の拒否」であり、儒教的価値観への挑戦だ。中国では「不孝」は極めて重い罪とされてきた。寝そべり族は「不孝の汚名」を引き受ける覚悟で「自分の生き方」を選んだ。
日本の氷河期世代は「親の期待を裏切った罪悪感」を抱えている。「大学まで出してもらったのに正社員になれなかった」「親に孫の顔を見せられなかった」「実家に仕送りもできなかった」。この罪悪感が「自己否定」を加速させ、「自分は親不孝者だ」という自責が精神を蝕む。
だが冷静に考えれば「親の期待」は「親の問題」であり「子の義務」ではない。「龍になれ」と言われても、龍になれる環境がなければ龍にはなれない。「正社員になれ」と言われても、求人倍率0.99倍では正社員になれない。「期待に応えられなかった」のは「子の能力不足」ではなく「環境の不備」だ。
中国の寝そべり族は「親の期待を拒絶する」ことで精神の自由を得た。日本の氷河期世代は「親の期待を内面化し続ける」ことで精神を蝕まれた。「親の期待との距離の取り方」で精神的な健康度が変わる。氷河期世代が寝そべり族から学ぶべきは「親の期待を適切に手放す技術」だ。「親の期待に応えられなくても、自分の人生には価値がある」。この認識を持てるかどうかが、45歳以降の精神的な質を左右する。
第17章 「政治体制の差」がもたらす「問題の見え方」の違い
日本と中国の最大の違いは「政治体制」だ。日本は民主主義。中国は一党独裁の権威主義体制。この違いが「問題の見え方」と「解決のアプローチ」に根本的な差を生む。
日本の民主主義体制では「問題を自由に議論できる」。メディアが報道し、野党が批判し、市民が声を上げられる。だが「議論できる」と「解決できる」は別だ。氷河期世代の問題は「自由に議論された」が「20年間解決されなかった」。民主主義のもとでも「政策の不作為」は起こりうる。「投票で政治を変えられる」はずだが、氷河期世代は投票率が低い(「どうせ何も変わらない」の無力感)。民主主義の「自由」が「放置」に変わるリスク。
中国の権威主義体制では「問題の議論が制限される」。寝そべり族の投稿は検閲され、削除される。「寝そべりこそ正義だ」は禁止ワードに指定された。「問題を語ること自体が弾圧される」。だが「弾圧される=政府が問題を認識している」証拠でもある。政府が「無視した」のではなく「危機と感じて対応した」。対応が「弾圧」であったことは問題だが「認知の速さ」は民主主義の日本より早かった。
「自由に語れるが放置される」日本と「語ることが弾圧されるが認知は早い」中国。どちらが「マシ」かは一概に言えない。理想は「自由に語れて、かつ迅速に対応される」社会だが、日本も中国もそこには到達していない。
興味深い皮肉がある。中国政府が寝そべり族を弾圧したこと自体が「寝そべり族の存在を国際的に知らしめた」。弾圧がなければ「寝そべり族」は中国の一部の若者のSNS上の流行にすぎなかった。弾圧されたことで「国際ニュース」になり、世界中で報じられた。「弾圧が認知を生んだ」皮肉。一方、日本の氷河期世代は「弾圧も認知もされなかった」。20年間「存在しない問題」として扱われた。「弾圧される者」は少なくとも「存在を認められている」。「無視される者」は「存在すら否定されている」。
第18章 「2050年の東アジア」——寝そべり族と氷河期世代の25年後
2050年。日本の氷河期世代は70歳前後。中国の(2021年時点の)寝そべり族は45〜55歳。それぞれの25年後を想像する。
日本の氷河期世代の2050年。70歳。年金月10万円。NISAの取り崩し月2万円。貯金はほぼゼロ。「月12万円の生活」。もやし炒めを50年間作り続けている(68歳で包丁を持つ手が震え始めたが、まだ作れる)。一人暮らし。独身。子どもなし。「安否確認アプリ」が毎朝通知を送り、「おはよう」ボタンを押す。ボタンを押せなかった日が——まだ来ていない。70歳の自分は「まだ生きている」。もやし炒めと発泡酒で。
中国の寝そべり族の2050年。50歳前後。20代で寝そべった若者が30年間でどう変化したか。シナリオ1は「寝そべり続けた場合」。年金なし(または極少額)。貯金なし。スキルなし。健康は——30年間の運動不足と栄養の偏りで悪化。「寝そべり続けた結果の50歳」は日本の氷河期世代の45歳よりも厳しい状況になりうる。日本の氷河期世代は「立ち続けた」からこそ「最低限の蓄積」がある。寝そべり続けた者には「蓄積がゼロ」の可能性。
シナリオ2は「途中で立ち上がった場合」。30歳頃に寝そべりを辞め、就職し、働き始めた。20年間の労働で「最低限の蓄積」を作った。この場合、50歳時点の状況は「日本の氷河期世代の45歳」と近い。「遅れたスタート」だが「蓄積はある」。「立ち上がるタイミング」が早いほど「蓄積」が大きくなる。
シナリオ3は「構造が変わった場合」。中国政府が雇用政策を抜本的に改革し、住宅政策を転換し、セーフティネットを拡充した場合。寝そべり族が「立ち上がれる環境」が整った場合。この場合、50歳前後の元寝そべり族は「遅いスタートだが安定した雇用と住居」を得ている可能性がある。日本の氷河期世代が「2019年にようやく支援が始まった」のと同様、中国でも「いつかは支援が始まる」可能性がある。問題は「いつ始まるか」だ。20年遅れた日本の轍を中国が踏むなら、支援は2041年頃。寝そべり族が40代になってから。「また20年遅い」。
結論——「東アジアの2つの絶望」は「2つの希望」でもある
中国の寝そべり族と日本の就職氷河期世代。東アジアの2つの大国で「若者(または元若者)が社会のメインストリームから外れる」現象が起きている。表面的には「まるで違う」2つの現象だが、構造的には「驚くほど似ている」。学歴と就職のミスマッチ。住宅の取得困難。結婚・出産の断念。過剰競争への疲弊。自己責任論の蔓延。低消費のライフスタイル。社会からの不可視化。7つの共通点が「東アジア型競争社会の構造的欠陥」を浮かび上がらせる。
同時に「決定的な違い」もある。選択か強制か。年齢。発信力。政府の反応。精神的スタンス。これらの違いが「2つの現象の個別の特徴」を際立たせる。
だが最も重要な「共通点」は——どちらも「絶望の中から生存戦略を編み出した」ことだ。寝そべり族は「Noと言う力」「心を守る戦略」「ユーモアで語る力」を編み出した。氷河期世代は「もやし炒めの技術」「節約スキル」「レジリエンス」「感謝の能力」を編み出した。これらは「絶望からしか生まれないもの」であり「恵まれた環境では手に入らないもの」だ。
「東アジアの2つの絶望」は同時に「2つの希望」でもある。絶望の中から「生き延びる力」を生み出した人々がいる。その力は「国境を越えて共有できる」。もやし炒めの哲学を寝そべり族に伝える。寝そべりの哲学を氷河期世代に伝える。2つの哲学が統合されたとき「半分寝そべり、半分立つ」——東アジアの新しい生存戦略が生まれる。
今夜、自分はもやし炒めを作る。中国のどこかで、誰かが外卖を注文する。自分は発泡酒を開ける。中国のどこかで、誰かが奶茶を飲む。自分は6畳のワンルームで「ふぅ」と息をつく。中国のどこかで、誰かがベッドに寝そべって「ふぅ」と息をつく。同じ「ふぅ」。同じ「疲れた」。同じ「でも生きている」。国境を越えた「ふぅ」の連帯。それは小さすぎて誰にも見えない。だが確かに存在する。東アジアの夜空の下で、もやしとニラが風に揺れている。
このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。中国の「寝そべり族」に関する記述は公開情報に基づく分析であり、中国社会の全体を代表するものではありません。

