持ち家を諦めた瞬間と、諦めた後の意外な気楽さ

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持ち家を諦めた瞬間と、諦めた後の意外な気楽さ

「いつかはマイホーム」の賞味期限

20代の頃、漠然と「いつかはマイホーム」と思っていた。正確には、思っていたというより、社会がそう思わせていた。テレビCMの新築マンション、住宅展示場のチラシ、「夢のマイホーム」という定型句。社会のあらゆる場所に「持ち家=人生の到達点」というメッセージが散りばめられていた。

20代、30代前半までは、「いつかは」に時間的な猶予があった。「今は無理だけど、いずれ正社員になって、収入が安定したら」。この「いずれ」が、マイホームの夢を延命させていた。

35歳。「いずれ」に疑問が生じ始めた。正社員になれていない。収入は上がっていない。頭金が貯まる見通しがない。住宅ローンの審査に通る見込みがない。「いずれ」が「永遠に来ないかもしれない」に変わり始めた。

40歳。完全に諦めた。

諦めた瞬間は、劇的なものではなかった。ある日の帰り道、不動産屋のショーウィンドウに貼られたマンションの広告を見た。3LDK、4500万円。4500万円。脳内電卓が回る。頭金ゼロ、35年ローン、月の返済額——いくらだ? 計算する前に、思考が停止した。4500万円は、私の年収の15年分だ。15年分の年収をすべてローンに注ぎ込む。しかも利息がつく。返済総額は5000万円を超える。手取り16万円の人間に、月の返済は——無理だ。計算するまでもなく、無理だ。

その瞬間、「いつかはマイホーム」の賞味期限が切れた。切れた牛乳のように、もう飲めない。静かに廃棄する。

諦めた後の意外な気楽さ

諦めた直後は、少し落ち込んだ。「普通の人生のレール」から、また一つ外れた。就職、結婚、マイホーム。このうち三つとも外れた。外れっぱなしの人生。

だが数日後、意外な感覚が訪れた。気楽さだ。

マイホームを諦めたことで、「マイホームのために貯金しなければ」というプレッシャーから解放された。頭金を貯めなくていい。住宅ローンの審査を気にしなくていい。不動産市場の動向を追わなくていい。金利の変動を心配しなくていい。

これらの「しなくていい」が、予想以上に軽かった。マイホームの夢は、知らず知らずのうちに「負荷」になっていたのだ。「いつかは」と思い続けることが、慢性的なプレッシャーとして心の一角を占めていた。占めていた分の空き容量が、諦めたことで解放された。

さらに、賃貸のメリットを再発見した。住む場所を変えられる自由。修繕は大家の責任。固定資産税がかからない。近隣トラブルがあれば引っ越せる。地震で建物が壊れても、自分の資産は失わない。

これらのメリットは、マイホームの夢を追いかけている間は見えなかった。夢に目を奪われて、現実のメリットが見えなくなっていた。夢を手放したことで、現実が見えるようになった。

もちろん賃貸にはデメリットもある。老後の住居不安。家賃を払い続ける負担。自由にリフォームできない。「一生家賃を払い続ける」ことへの漠然とした恐怖。これらのデメリットは消えていない。消えていないが、「マイホームを買えなかった負い目」が消えたぶんだけ、心が軽い。

持ち家神話からの離脱

日本には「持ち家神話」がある。持ち家があれば安心。持ち家は資産。持ち家は一人前の証。この神話は、高度経済成長期に形成され、バブル期に最高潮に達し、バブル崩壊後も根強く残っている。

だがこの神話は、全員に当てはまるわけではない。持ち家が資産になるのは、不動産価格が上昇する場合だけだ。人口減少で空き家が増加する日本では、不動産の価値は地域によって大きく異なる。都心部は上がるかもしれないが、郊外や地方は下がる可能性が高い。「資産」のつもりで買った家が、「負債」になることもある。

持ち家のリスクも見えるようになった。ローンの返済が続く不安。金利変動のリスク。修繕費の負担。近隣トラブルからの逃げにくさ。災害リスク。これらのリスクを、安定した収入のある正社員なら受け入れられるかもしれない。だが非正規の私には、リスクが大きすぎる。リスクを取れないから買わない。買わないのは「買えない」からでもあるが、「リスクを取れない」からでもある。

持ち家神話から離脱した。離脱して、賃貸の世界にいる。賃貸の世界は、持ち家の世界ほどキラキラしていない。だが地に足がついている。足がついている場所で、堅実に生きる。キラキラしなくても、地面は揺るがない。

諦めと解放の境界線

「諦める」と「解放される」は、同じ行為の裏表だ。

マイホームを諦めた。見方を変えれば、マイホームの呪縛から解放された。諦めは敗北であり、同時に自由でもある。

就職氷河期世代の人生は、「諦め」の連続だ。正社員を諦めた。結婚を諦めた。マイホームを諦めた。これらの「諦め」を、全部「敗北」として受け取ったら、人生は敗北の山になる。

だが「解放」として受け取ることもできる。正社員の呪縛から解放された。結婚の呪縛から解放された。マイホームの呪縛から解放された。社会が「持つべき」と定めたものを手放すたびに、少しずつ自由になっていく。

この自由は、贅沢な自由ではない。何も持たない人間の、何もなくてもいい自由。手ぶらの自由。軽い。軽いが、寂しい。軽さと寂しさの混合物。それが、マイホームを諦めた後の感覚だ。

明日もこの賃貸の部屋で目覚める。この部屋は私のものではない。大家のものだ。大家から借りている。借りている限り、ここにいられる。借りることを続ける。それが私のマイホーム戦略だ。「持つ」のではなく「借り続ける」。持たない人生の、持たないなりの安定。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。持ち家を諦めた経験がある人は、きっと少なくないはずです。

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