バブル世代とゆとり世代の間で損をしている感覚について

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挟まれた世代

世代論が好きなわけではない。人間を生まれた年で括って語ることの乱暴さは承知している。同じ世代でも経験はバラバラだし、個人差のほうが世代差より大きい。それはわかっている。

わかった上で、言いたい。

就職氷河期世代は、上と下に挟まれて、いいように使われてきた。上にはバブル世代がいて、下にはゆとり世代がいる。上は恩恵を受け、下は配慮を受けた。真ん中にいる私たちは、恩恵も配慮もないまま、ただ耐えてきた。サンドイッチの具だが、パンに比べて圧倒的に薄い。

バブル世代が残したもの

バブル世代。1960年代後半から1970年頃に生まれた人々。彼らが社会に出た1980年代後半から1990年代前半は、日本経済の絶頂期だった。

就職は引く手あまた。企業が学生を囲い込むために、高級レストランでの接待や海外旅行のプレゼントがあったという話は、都市伝説ではなく実話だと聞く。内定辞退を防ぐために拘束旅行に連れて行かれた、などという話は、氷河期世代からすると異世界の出来事だ。100社落ちた人間に、そんな話を聞かせないでほしい。

バブル世代が享受した恩恵は、個人の努力の結果ではなく、時代の恩恵だ。もちろん彼らの中にも優秀な人はたくさんいる。だが「就職できた」という事実そのものは、個人の能力よりも時代の力が大きい。バブル期に大学を卒業すれば、よほどのことがない限り正社員になれた。それは能力ではなく、タイミングだ。

問題は、バブル世代の一部が、自分の成功を「実力」だと信じていることだ。「俺は頑張ったから今がある」と。確かに頑張っただろう。だがその頑張りが報われたのは、報われる構造の中にいたからだ。同じ頑張りを氷河期の中でやっても、同じ結果にはならなかった。

そしてバブル世代は、企業の中で管理職となり、氷河期世代の上司になった。バブル期の成功体験をベースにした価値観で、氷河期世代を評価する。「俺の若い頃は」「気合いが足りない」「もっとがむしゃらにやれ」。バブル期の方法論は、不況下では通用しない。通用しないことを、バブル世代は理解しにくい。自分がうまくいった方法が、部下にも通用するはずだと思い込む。これは善意かもしれないが、的外れな善意だ。

ゆとり世代が受けた配慮

ゆとり世代。1987年頃から2004年頃に生まれた人々。彼らが社会に出始めた頃、企業は「若者の扱い方」を学び始めていた。

氷河期世代が大量に非正規化し、若手が育たない問題が顕在化した2000年代後半以降、企業は新卒採用に力を入れ直した。若手を大事に育てよう、離職率を下げよう、ワークライフバランスを重視しよう。働き方改革、残業規制、ハラスメント対策。これらの施策は、主にゆとり世代以降のために整備された。

氷河期世代にはなかった配慮が、ゆとり世代には用意されている。研修制度の充実、メンター制度、定期的な1on1ミーティング、心理的安全性への配慮。素晴らしいことだ。本当に素晴らしい。若い人が大切にされる社会は、良い社会だ。

ただ、ひとつだけ言わせてほしい。その配慮を受けるべきだったのは、私たちもだ。

氷河期世代が社会に出たとき、研修はおざなりだった。「見て覚えろ」「先輩の背中を見ろ」。メンターなんていなかった。ハラスメントは日常だった。パワハラという言葉すらまだ一般的ではなかった。「厳しく育てるのが愛情」という時代。愛情はいらないから、まともな研修がほしかった。

ゆとり世代への配慮は、氷河期世代の犠牲の上に成り立っている——とまでは言わないが、少なくとも氷河期世代が「こういう扱いではダメだ」という反面教師になったことで、後の世代への配慮が生まれた側面はある。踏み台にされた、とまでは言わない。だが踏み石にはなった。

「ちょうどいい不遇」の世代

バブル世代は恵まれすぎていた。だからこそ、バブル崩壊後の苦境が社会問題として認識された。「バブル世代のリストラ」はニュースになった。同情された。

ゆとり世代は「ゆとり」と揶揄されたが、それゆえに注目された。「ゆとり教育の弊害」は社会的な議論の対象になり、結果として若者支援の議論が活性化した。叩かれたが、叩かれたぶんだけ注目された。

では氷河期世代は? 恵まれてもいないし、注目もされなかった。中途半端に不遇。大きな事件もなく、静かに沈んでいった。溺れている人間が大声で叫べば救助が来るが、静かに沈んでいく人間は気づかれない。氷河期世代は、静かに沈んでいった世代だ。

派手な不幸は同情を集める。地味な不幸は無視される。氷河期世代の不幸は、地味だった。失業者が街にあふれたわけではない。暴動が起きたわけでもない。リクルートスーツを着た若者が、静かに面接に落ち続け、静かに非正規になり、静かに貯金のない中年になっていった。静かだったから、社会は気づかなかった。あるいは、気づいていても見ないふりをした。

上にも下にも言えないこと

バブル世代に「あなたたちは恵まれていた」と言えるか。言えない。言えば「俺たちだって苦労した」と返ってくる。バブル崩壊後にリストラされた人もいるし、全員が順風満帆だったわけではない。それはわかっている。わかっているが、「就活で100社落ちた」経験がない世代に、氷河期の苦しさを理解してもらうのは難しい。

ゆとり世代に「あなたたちは配慮されている」と言えるか。言えない。言えば「老害」になる。上の世代が下の世代に「俺たちの若い頃は」と言うのは、あらゆる時代を通じて嫌われる行為だ。それはやりたくない。

だから氷河期世代は、上にも下にも何も言えないまま、挟まれた位置で黙っている。黙っているから気づかれない。気づかれないから支援が遅れる。支援が遅れるから状況が悪化する。悪化しても黙っている。この悪循環を、20年以上続けてきた。

挟まれた世代の悲哀は、誰にも伝わりにくい。上からは「甘えるな」と言われ、下からは「時代遅れ」と思われ、同世代は散り散りになっている。声を上げる相手がいない。声を上げる場所がない。声を上げる力が残っていない。

だからこうやって文章にする。文章なら、声を上げなくても済む。静かに書いて、静かに置いておく。読む人が読んでくれればいい。読んでくれなくても、書いたという事実が残ればいい。

世代間格差という名の連鎖

バブル世代が享受した恩恵のツケは、氷河期世代が払った。バブル崩壊後の不況のしわ寄せは、これから社会に出る世代に集中的にかかった。企業は新規採用を絞り、コストカットのために非正規雇用を増やした。そのコストカットの対象が、ちょうど社会に出るタイミングだった氷河期世代だ。

そして氷河期世代が受けた不遇は、次の世代に別の形で影響する。氷河期世代の低賃金は、消費の低迷につながり、経済全体の停滞に寄与する。氷河期世代の未婚率の高さは、少子化を加速させ、将来の社会保障の財源を細らせる。氷河期世代の老後の貧困リスクは、将来の生活保護費の増大として、次の世代の税負担になる。

つまり氷河期世代の問題は、世代内で完結しない。下の世代に波及する。バブルのツケを氷河期が払い、氷河期のツケをゆとり世代以降が払う。世代間の負の連鎖。この連鎖を断ち切るには、氷河期世代を「今」支援することが最もコスト効率が良いのだが、その判断が20年遅れた。遅れたツケは、さらに下の世代が負うことになる。

挟まれたまま歳を取る

バブル世代はそろそろ定年だ。退職金をもらい、年金をもらい、悠々自適とまではいかなくても、ある程度の安定した老後を迎える人が多いだろう。

ゆとり世代は働き盛りだ。キャリアを積み、家庭を持ち、住宅を購入し、将来の基盤を築いている最中だ。NISAやiDeCoも、彼らにとっては「当たり前のツール」として使いこなされている。

氷河期世代は、その間にいる。上の世代ほどの資産もなく、下の世代ほどの将来性もない。定年まで15年から20年。この15年で、どれだけの蓄えができるか。できたとしても、上や下との差は埋まらない。

挟まれたまま歳を取っている。上のパンはもう食べ終わり、下のパンはまだ焼き上がっていない。真ん中の具は、干からびかけている。

それでも、干からびた具にも味はある。独特の、苦い味だが。苦い味を知っている世代として、ここにいる。上にも下にも遠慮しながら、ここに。

 

 

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。挟まれた感覚を持っている人は、きっと少なくないはずです。

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