実家に帰省するたびに小さくなる自分について

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新幹線の切符を買う時点から始まっている

帰省する、と決めた瞬間から、心が重くなる。

まず新幹線の切符代。往復で3万円弱。この3万円は、月の食費とほぼ同額だ。帰省のたびに、一ヶ月分の食費が消える。それでも帰るのは、帰らないと親が心配するからだ。「今年も帰ってこないの」と電話で言われるのが、申し訳なくて。

新幹線に乗る。座席に座る。窓の外の景色が変わっていく。都会のビル群が、田園風景に変わる。景色が変わるにつれて、自分の中で何かが縮んでいくのを感じる。縮むのは、自己肯定感のようなものだ。都会では、なんとか保っている「自分はそれなりにやっている」という感覚が、実家に近づくにつれてしぼんでいく。

なぜか。実家に帰ると、「社会で成功した自分」を期待されるからだ。期待に応えられない自分を見せなければならないからだ。

玄関を開けた瞬間の空気

実家の玄関を開ける。「ただいま」。母が出てくる。「おかえり」。父が奥から顔を出す。「おう」。

ここまでは普通だ。だが靴を脱いで上がった瞬間から、微妙な空気が漂い始める。

母の目が、私の服装をさりげなくチェックしている。清潔感はあるか。ヨレていないか。太っていないか痩せていないか。これは母親として当然の関心だろう。だが、その視線の奥に「この子は、ちゃんとやれているのだろうか」という不安が透けている。

食卓に座る。お茶が出される。しばらくの沈黙。この沈黙が、やがて「で、仕事はどう?」という質問で破られる。

「仕事はどう」。この質問に、正直に答えると空気が悪くなる。「派遣で、まあ、ぼちぼち」。「ぼちぼち」は便利な言葉だ。何も言っていないのに何か言った気にさせてくれる。母はそれ以上聞かない。聞かないのは優しさだ。だが聞かない優しさの裏に、「聞いても良い答えは返ってこないだろう」という諦めがある。

父はもっとストレートだ。「正社員にはまだなれないのか」。この質問が来たら、もう逃げ場がない。「うん、まだ」。短く答える。父は「そうか」と言って黙る。この「そうか」には、失望と心配と諦めが混ざっている。

帰省のたびに、この会話をする。毎年同じ質問をされ、毎年同じ答えを返す。毎年同じ空気が流れる。変わらないことが、変わっていないという事実を突きつける。実家は変化の不在を確認する場所だ。

近所の話題という名の比較

食事中、母が何気なく言う。「隣の田中さんの息子さん、課長になったんだって」「向かいの鈴木さんの娘さん、二人目が生まれたんだって」「○○くん、家を建てたんだって」。

悪意はない。世間話だ。地方に住む母にとって、近所の話題は日常会話の大部分を占める。誰かが昇進した、結婚した、子どもが生まれた、家を建てた。これらは母にとっての「ニュース」であり、共有したい情報だ。

だが受け取る側には、これが比較として機能する。田中さんの息子は課長。私は派遣。鈴木さんの娘は子どもが二人。私は独身。○○くんは家を建てた。私は6畳一間の賃貸。

母はこの比較を意図していない。意図していないが、構造的に比較になっている。他者の成功を並べられると、自分の「不成功」が浮き彫りになる。浮き彫りにされるたびに、自分が小さくなっていく感覚がある。

帰省するたびに小さくなる、とはこういうことだ。実家には「比較の素材」が溢れている。自分で比較しなくても、母が無意識に比較の素材を提供してくれる。提供されるたびに、自分のサイズが一回り縮む。

自分の部屋の時間が止まっている

実家の自分の部屋に入ると、高校時代の本棚がそのまま残っている。教科書、受験参考書、マンガ。あの頃の自分が、この部屋にまだいるような錯覚を覚える。

この部屋から出て、大学に行って、社会に出て、20年以上が経った。20年分の人生の結果が、今の自分だ。その結果を引っ提げて、この部屋に戻ってくる。部屋は変わっていない。変わったのは自分だけ。変わった方向が、自分でも親でも想像していなかった方向だった。

高校生の自分には、将来への漠然とした期待があった。大学に行って、就職して、結婚して、家庭を持って。「普通」の人生のルートマップ。そのルートマップは、実家の部屋を出た瞬間から、少しずつ狂っていった。

帰省するたびに、高校時代の自分と今の自分を比較してしまう。あの頃の自分が想像していた「将来の自分」と、実際の「今の自分」のギャップ。このギャップの大きさが、帰省のたびに確認される。確認するのは辛い。辛いが、部屋に入ると自動的に確認が始まる。

帰りの新幹線で膨らむ

帰省を終えて、新幹線に乗る。実家が遠ざかっていく。田園風景がビル群に変わっていく。

すると、不思議なことに、縮んでいた自分が少しずつ膨らんでくる。実家の比較圧から解放されると、元のサイズに戻っていく。都会に戻れば、親の目も近所の目もない。自分のペースで、自分の生活を送れる。その生活が他者から見て「成功」かどうかは問われない。

帰りの新幹線は、行きより気が楽だ。帰省の義務を果たした安堵感と、日常に戻れるという解放感。この二つが、縮んだ自分を膨らませてくれる。

だが帰省の頻度は、年に1回か2回。その1回か2回で縮んだ分が、完全に元に戻るかというと、怪しい。毎年少しずつ、戻りきらない部分が蓄積されているような気がする。帰省のたびに微減する自己肯定感。10年分の微減が積もると、相当な量になる。

だから帰省の頻度は減らしたい。減らしたいが、減らすと親が心配する。心配させるのは申し訳ない。申し訳ないから帰る。帰ると小さくなる。小さくなるから帰りたくない。帰りたくないけど帰る。この循環を、毎年繰り返している。

実家を嫌いなわけではない。親を嫌いなわけでもない。ただ、実家に帰ると自分が小さくなる。この物理法則のような現象に、抗う術がない。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。帰省のたびに小さくなる感覚を持つ人は、きっと少なくないはずです。

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