誰かと最後に電話で話したのがいつか思い出せない件

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誰かと最後に電話で話したのがいつか思い出せない件

着信履歴を見て気づいた

スマートフォンの着信履歴を開いた。何気なく、ふと。

並んでいるのは、派遣会社の営業担当からの着信、病院の予約確認、宅配業者の配達連絡、自治体の自動音声案内。すべて事務的な通話だ。

「個人的な電話」——友達からの電話、親しい人との雑談の電話——は、いつが最後だっただろう。着信履歴をスクロールする。1ヶ月前。2ヶ月前。3ヶ月前。ない。半年前。ない。1年前——あった。親からの電話。「元気?」「元気だよ」「そう、じゃあね」。3分の通話。これが最後だ。

親以外で、個人的な電話をしたのはいつか。思い出せない。思い出そうとして、脳が空転する。去年? 一昨年? 3年前? 記憶の中に、電話越しの誰かの声が見つからない。

通話という行為が、人生からほぼ消えている。LINEのメッセージも来ないが、電話はさらに来ない。電話はリアルタイムのコミュニケーションだ。相手の声を聞き、自分の声を届ける。この双方向のやり取りが、何年も発生していない。

電話が消えていった過程

電話が日常から消えていった過程を振り返る。

20代前半は、友達と電話をしていた。携帯電話(スマホ以前のガラケー)で、夜中に1時間も2時間も話した。愚痴を言い合い、バカ話で笑い、恋愛の相談をした。電話代が月に1万円を超えたこともある。

20代後半、電話の頻度が減り始めた。友達と会う機会が減り、電話する理由も減った。代わりにメールが増えた。メールなら、相手の都合を気にせず送れる。返事も好きなタイミングでできる。電話の即時性が、忙しさの中で負担に感じ始めた。

30代、LINEが普及した。メールよりさらに手軽だ。短いメッセージ、スタンプ、既読機能。電話の必要性がさらに減った。用件はLINEで済む。雑談すらLINEでできる。声を使わなくても、コミュニケーションが成立する。

30代後半、LINEのやり取りすら減った。友達が減ったからだ。やり取りする相手がいなければ、LINEも電話も同じだ。手段があっても、使う相手がいない。

40代。電話帳に番号は残っているが、どの番号にも電話をかけない。かける理由がない。かける相手がいない。着信もない。スマートフォンの通話機能は、ほぼ使われていない。カメラ、ブラウザ、LINE、電卓。通話以外の機能のほうが、はるかに使用頻度が高い。

電話は「する」ものから「される」ものに変わり、最終的に「されもしない」ものになった。能動から受動を経て、無に至った。

声を発しない日

電話をしないということは、声を使ったコミュニケーションが減るということだ。

考えてみると、一日の中で声を発する時間は、驚くほど少ない。

朝、コンビニで「袋いりません」。職場で「おはようございます」「お疲れさまです」「ここ確認お願いします」。昼食時に「これください」。帰りのスーパーで「袋お願いします」。帰宅後、「いただきます」と独り言。「ごちそうさま」と独り言。

合計しても、一日に声を発する時間は10分にも満たないのではないか。仕事中の業務連絡を含めても、30分程度。日本語を声に出して使っている時間が、1日24時間のうち30分。残りの23時間30分は、無言。

休日はさらに少ない。一日中一人で過ごす休日は、一言も声を発しないことがある。朝起きてから夜寝るまで、無言。声帯が一度も振動しない日。そんな日が、月に何日もある。

声を使わない生活が長く続くと、声の出し方を忘れそうになる。久しぶりに電話で話すと、声がかすれる。声帯が錆びている。最初の一言が、うまく出ない。「あ、もしもし」。この「もしもし」すら、スムーズに出てこない。使わない機能は退化する。声もまた然り。

電話という「贅沢品」

電話は、ある意味で贅沢品だ。

電話をするには、相手が必要だ。相手がいて、相手が電話に出てくれて、相手が話を聞いてくれる。この三条件が揃わないと、電話は成立しない。

相手がいない人間には、電話は使えない贅沢品だ。高級レストランのメニューのように、存在は知っているが利用する機会がない。

電話の代替としてテキストメッセージがあるが、テキストと電話は質が違う。テキストは情報を伝える。電話は感情を伝える。声のトーン、間、笑い声、ため息。これらは文字では表現できない。電話でしか伝わらないものがある。

誰かの声を聞きたい。この欲求が、たまに湧く。深夜の布団の中で、ふと。テレビの声ではなく、ラジオの声でもなく、自分に向けられた声。自分の名前を呼んでくれる声。この欲求は、電話一本で満たされるものだ。だが電話をかける相手がいない。欲求はあるが、満たす手段がない。

親に電話すればいい。親は出てくれる。出て、「元気?」と聞いてくれる。「元気だよ」と答える。3分で終わる。3分の通話で、声の欲求は一時的に満たされる。だが親も高齢だ。いつまで電話に出てくれるかわからない。親がいなくなったら、声を聞かせてくれる人は、本当にゼロになる。

「最近どう?」を待っている

電話が来ない日々の中で、実は待っているものがある。

「最近どう?」という一言だ。

誰かから電話が来て、「最近どう? 元気にしてる?」と聞いてくれる。それだけでいい。30秒の通話でいい。その30秒で、「自分のことを気にかけてくれている人がいる」と確認できる。確認できれば、あと数ヶ月は持つ。

だが「最近どう?」は来ない。来ないから、自分から言えばいい。誰かに電話して、「最近どう?」と聞けばいい。だが誰に? 電話帳を開いても、かけられる相手がいない。かけても「え、急にどうしたの?」と不審がられるかもしれない。何年も連絡していない相手に、突然「最近どう?」と電話するのは、不自然だ。不自然なことをする勇気が、ない。

こうして「最近どう?」は、言うことも言われることもないまま、時間が過ぎていく。スマートフォンの通話機能は、静かに眠っている。着信音が鳴らない日が、また一日増える。

いつか、誰かの声が聞きたくなって、親に電話するだろう。「最近どう?」ではなく「元気?」と聞くだろう。親は「元気よ、あなたは?」と返すだろう。「元気だよ」と答えるだろう。3分で終わるだろう。終わったあと、少しだけ、声の温もりが耳に残るだろう。その温もりで、また数ヶ月を過ごす。

このエッセイは、就職氷河期世代のひとりの個人的な記憶と感想に基づいています。最後に電話で話した日を思い出せない人は、きっと少なくないはずです。

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